今後について
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──今後について
その後、議論は営業終了時間の24時にまで及んだ。
「ふむ。いろいろと話せてよかった。貴様は面白い奴だ。是非とも手元に置いておきたい。そう言えば、人工筋肉の加工工場で働くと言っていたな?」
「ええ。家を飛び出してきましたので。今後はひとりで生きて行こうかと」
「それならば都合がいい。人工筋肉の加工工場で女工などしても大して儲からんし、食っていくのでやっとだ。俺がいい仕事を案内してやる」
「その、陸軍大佐殿は何かコネをお持ちで?」
「俺の同期にはトート・ライン社とコネのある人間もいるが」
トート・ライン社ということは
「安心しろ。人工筋肉の加工工場の女工より稼げることは約束してやる。それに女工などになってはせっかく学んだ史学が活かせんではないか」
「それはそうですが」
「万事俺に任せておけばいい。今日は……陸軍会館に泊っていけ。こうも遅くては普通のホテルではチェックインはできんだろう。明日、朝一番に迎えに行く。朝は7時だ。起きて、身支度しておけよ」
「はい」
それから眼帯の大佐にガブリエラは陸軍会館まで送られた。主に陸軍関係者やその家族が宿泊する目的の官営ホテルだが、自分の立場で利用していいものなのだろうかとガブリエラは考える。
「そうだ。言い忘れていた。俺はミヒャエル・フォン・ブロニコフスキー。明日はこの名前で呼びに行くから待っておけよ」
「私はガブリエラ・フォン・ゲーリケです」
「そうか。知らなかったからエリカ・ムスターマンで陸軍会館には通してある。それで対応してくれ。一発で分かる名前だろう?」
「でしょうね」
名無しの権兵衛とは酷いものだとガブリエラはちょっとばかり憤慨した。
「じゃあ、明日な。お休み」
「お休みなさい」
眼帯の大佐──ミヒャエル・フォン・ブロニコフスキー共和国陸軍大佐はガブリエラを送ったタクシーで去っていった。
「さて」
なんだかんだで今日の寝床は確保できた。それも費用は向こう持ちだ。ホテル代の心配をしていたが、その心配は必要なくなったようである。
「疲れた」
今日は婚約破棄されたり、実家を飛び出したり、延々と深夜まで機動戦について議論するなどいろいろありすぎて、もう頭が働かない。
陸軍会館の案内された部屋でドレスを脱ぎ、丁寧にハンガーにかけると、それから熱いぐらいのシャワーを浴びて体をほぐし心身ともにリラックスした状態でドライヤーで長い髪を乾かした。
この銀に近いプラチナブロンドも最初は綺麗だとアダムに言われていたが、あれも適当に言っていただけなのだろうかと思うとうんざりした気分になる。
あんな男に未練はないが、あんな男に馬鹿にされたという事実が頭にくる。
もう嫌なことは忘れて早く寝ようとバスローブのままベッドに潜り込んだ。
朝はすぐにやってきた。ホテルの目覚ましが鳴り、ガブリエラが寝ぼけ眼でそれを止め、昨日のドレスに袖を通す。
ミヒャエルは支度をしておけとは言ったものの、何の荷物も実家から持ち出さなかったガブリエラにあるのはこのドレスだけだ。
そうしてると部屋のチャイムが鳴らされた。
ドアスコープから外を覗くとミヒャエルと別の軍服姿の女性がいる。
「はい」
「起きてたな、結構。軍隊は時間厳守だ。これにサインしろ」
ミヒャエルはそう言って数枚の書類をガブリエラに押し付ける。
「陸軍婦人部隊入隊志願書……? 私、軍隊に入るなんて言ってないんですけど!」
「昨日の会話で貴様は共和国陸軍の内情について知った。機密情報もいくつか知ったかもしれない。正直、昨日は俺も興奮しておったからな。それに陸軍婦人部隊はいわば公務員だ。人工筋肉の加工工場の女工より安定した収入のある職だぞ」
「それは……そうかもしれませんが……」
しかし、自分が陸軍? 墓の中の祖父は笑い転げているか、あるいは怒り狂っているかだろう。ただ、陸軍婦人部隊が前線に派遣されたということは聞いたことがないし、確かに安定した職ではある。人工筋肉の加工工場の女工よりもずっと。
「分かりました。サインします」
「宣誓書だからな。これから貴様は共和国と全ての人民のために尽くすことになる」
やれやれその共和国人民を脅迫まがいの方法で軍に入れたのは誰だかと思いつつ、ガブリエラは宣誓書にサインしていった。
「結構。伍長、軍服を着せてやり、着方を教えてやってくれ」
「畏まりました、大佐殿」
ミヒャエルに同行していた女性軍人──これが陸軍婦人部隊というものだろう──が、ガブリエラに服を脱ぐように言う。既にミヒャエルは部屋の外に出ている。
「今から採寸ですか?」
「採寸はしません。軍服は軍服があなたに合わせるのではなく、あなたが軍服に合わせるのです。まあ、きちんと着こなすにはコツがありますのでそれをお教えしますよ」
伍長はそう言ってだぼだぼの軍服をぴたりとガブリエラに合わせて見せた。
「これは……ちゃんと覚えないとダメですね」
「ええ。これから大佐殿の副官として働かれるならば、大佐殿の顔になるわけですからね。きちんと着こなしてください」
「副官?」
「そう聞いていますが?」
ガブリエラは士官学校を出たわけでもないし、大学で単位不足の人間が泣きつく予備役将校訓練課程を受けたわけでもない。、全くの軍事の素人だ。ということは二等兵からキャリアは始まるはずである。
だが、大佐の副官ならば尉官クラスの人間のはずだ。
「制服は夏・冬と2種類。それぞれ2着ずつの計4着が支給されます。軍靴は常に磨いておいてください。それから支給したての軍靴が固く、靴擦れが起きやすいので柔らかくなるように──」
「大佐殿!」
伍長の話を最後まで聞かずにガブリエラは飛び出した。
「副官って冗談ですか?」
「至って真面目に言っている。まさか俺がタイピストを雇うためにわざわざここまで赴いたと思っていたのか? 安心しろ。軍隊には裏技がある」
ミヒャエルはにやりと笑った。
「一気に少尉にしてやるから、気合を入れていけ。昨日の気迫があれば十分だ。それから軍靴の話は真面目に聞いておいた方がいいぞ。俺は死ぬような目に遭った」
ミヒャエルはそう言って手を振る。
「本当に軍靴で足と痛める人は後を絶ちません。ちゃんと聞いてください」
「しかし……」
「あなたは少尉になられるでしょうが、今は私が伍長であり、上官です。命令に従いなさい、ゲーリケ二等兵!」
「は、はい!」
それからなんやかんやで軍靴を上手く扱うコツを教わった。確かに今履いている軍靴は固く、歩きにくい。これで走れとまで言われたら地獄だろう。
こういうことは宣誓書にサインする前に言ってほしかったと思うが、知っていたらサインしないことをミヒャエルは分かっていたのかもしれない。
「陸軍婦人隊員らしくなったな。結構だ。ご苦労だった、伍長」
「はっ、大佐殿」
女性軍人はしゃんと背を伸ばして敬礼を送ると、颯爽と立ち去っていった。
「私たちは?」
「共和国陸軍の裏技を使う。まずは予備役将校訓練課程を“受けたこと”にする」
「それは国家に対する詐欺では?」
「その国家のためだ。それに別に違法ではない」
機動戦という名の机上の空論ではガブリエラが優位だったが、軍隊生活という名の世界ではミヒャエルの方が上手らしい。
ここは一先ず彼に任せてみるかとガブリエラは思った。
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