第7話
やはり、来るべきものは、必ずやって来る。
この若い二人の、互いの心のずれは、何時からか?
二人には、その元となる出来事が思い当たらない。
郷田貞之助は、
「いずれ東北に帰るつもり」
こう言っていた。
「赤ちゃんができたらしいの」
この一言が、貞之助の気持ちを、ここ京都から秋田に帰るという・・・さらに増大させたのかもしれない。
「帰る・・・?帰って、どうするの?」
つやは問い詰めた。この頃には、つや貞之助に対する心は、完全ではないにしろ覚めていた。
「まだ・・・」
という気持ちは、つやにはあった。
「この人が自慢する秋田の自然の風景、爽やかな空気の香り、眼に飛び込んで来る緑の眩しさ・・・」
つやは、初めどんなに憧れ、そこでの生活を夢見たことか。
だが、そこには二人だけの生活だけではなく、いろいろな制約が伴っているに違いない。つやは、そう思うようになった。
子供が出来たことを、つやは母女将に打ち明けた。
女将のみつえは、驚かなかった。京都の老舗の料亭に育ったこともあって、ちょっとしたことで驚かない。つやに赤ちゃん・・・当たり前のように想像出来たことだった。こんなこと・・・これまで何度も目にし、また聞いたこともあった。
「そう・・・」
みつえは、つやの次なる言葉を期待した。だが、つやは黙ったままだ。みつえは、
「どうするの?」
と、問うた。あくまでも、つやに判断させるつもりのようだった。
貞之助は町田屋の離れから出勤している。高橋香美シェフの店が京都駅前のビルの中にあり、貞之助はリーダー的な存在になっている。しかも、今は菓子博覧会が行われている最中なのだ。
この頃、貞之助は愚痴を言うようになっていた。
「高橋香美シェフの考えについて行けなくなっている」
この言葉を聞いた時、つやは、
「この人・・・何を言おうとしているの?」
と、疑問を持った。
確かに、貞之助の創るチョコレートの菓子は美味しく、形も整っていた。中には、宝石のような輝きを呈しているものも、あった。彼の創ったチョコレート菓子の前には若い女性の人だかり多い。しかし、
「・・・」
つやは首を素直に傾げてしまう。
「何かが・・・!」
だが、つやは・・・何かが分からない。
「この人は、意外と・・・私が思っている以上に、今の自分を通そうとしている」
ような気がした。
だが、つやの見る所、この人のチョコレート職人としての腕は、
「未熟・・・」
なのだ。もう、
「俺は、立派な職人だ。一人で充分にやっていける」
と、思っているのではないか。
この思いが、つやの決心をさせる。
「分かったわ。私、産むわ」
と、自分の決意を女将に告げた。
「そう。そうしなさい。応援するわ」
どうやら、つやの思うとおりにやらすようだ。女将みつえは二人の子供を自分の思うように育てた。みんな、自分たちの望むようにやらせ、長女のさよは町田屋を継ぐといい、長男のまさるは銀行員になった。資金面で、町田屋を手助けする気らしい。 次女のつやについては、みつえは判断し兼ねていた。
つやの小さい頃を観察していると、みつえは観察という言葉を使ったが、まさに彼女は冷静に子供たちを見ていた。
「ふふっ」
つやを見ていると、つい笑みを浮かべてしまうみつえであった。
そうそう・・・こんなことがあったのを、みつえは思い出した。
つやが十歳の時だったか、猫を持って、帰って来たことがあった。
「どうしたの?」
と、聞くと、
「高校生にいじめられていたから、助けたの」
と、いい、腕に抱いていた。
この時、冬であり寒かったから、子猫はつやの腕の中で震えていた。
野良猫がいじめられていたのを、この子は高校生相手に、もちろん口喧嘩だろうが、派手にやったようだ。
「さあ、中にお入り。温めておやり」
みつえは、こんなつやを見て微笑まずにはいられなかった。自分にこんな優しさがあるとは思わないが、何よりも自慢の子である。
女将みつえは、どうしても貞之助との関係を認める訳にはいかなかった。それは、この子の幸せのために反対した。
(気持ちの面で・・・)
お富と女が同じに住めば、子供が出来るのは当然であった。
貞之助は女将のそんな表情を見て・・・そして、
「私は認めません」
と、今、はっきりと言われた。
それでも、貞之助はつやの気持ちを信じ、自分だけの店の出店のために働く。
「秋田に、帰る」
という気持ちも変わりはなかった。きっと、つやは自分を信じ、ついて来てくれると思った。
そんな中、貞之助はやってはいけないミスをしてしまう。それは・・・ミスではなく、シェフへの反感なのか?いや、十数年前のつぐないをするつもりだった。
菓子博覧会の最終日に、展示のチョコレート菓子の形状をすっかり変えてしまう。初め、誰も気付かなかったのだが、そこの展示スペースだけ多くの人だかりが集まっていて、騒めいていた。
もともと高橋香美シェフの指示で、その日のチョコレートの作風を決め、貞之助が創っていたのだが、半ば強引に自分の作品を創り、展示をしたのである。
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