二章 第16話 『淫魔巡り』


 ──深い闇が支配した空間だ。


 天地の境界線はどこにもない、虚無の時間が永劫と続く、断絶された余韻が縹渺ひょうびょうと存ずる茫々ぼうぼうたる世界。


 そこに、⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎は居た。

 肉体の牢獄から解き放たれた筈だというのに纏わりつく重さがある。まるで、強大な圧力に押し潰されているようだ。

 しかし、不思議と恐怖はなかった。

 寧ろ、既視感ある安堵に包まれた。


 永続的な無と思われた世界に変化が生じた。

 不意に存在を主張した影が蠢く。広がり、狭まり、伸び、縮み、捻れ、やがてそれは人の形に収まった。


 陽炎の様に揺らめき、息でも吹きかければたちまちに消えてしまいそうな儚い人影はどことなく女に見えた。黒いベールに包まれた面貌はどんなに眼を凝らしても拝むことは叶わなかった。


 ──絶望を⬛︎⬛︎⬛︎変⬛︎⬛︎⬛︎ら、抗⬛︎。


 この声は以前どこかで聞いたことがある。

 心地良い、しかし、不安定で悍ましい。酔い痴れる。永遠と聞いていたくなる中毒性だ。


 人影がゆっくりと腕を伸ばした。

 魂だけの⬛︎⬛︎⬛︎を愛おしそうに、慈しむように、優しく、残酷に撫でた。


 ────。


 人影がベールの奥で笑みを浮かべているような気がした。再び靄となって消えていく、それを見ながら⬛︎⬛︎⬛︎は思う。


 ⬛︎⬛︎⬛︎は……俺は、この女性ひとを知っている。


 刹那、人影は淡く輝く蝶となって一斉に舞い上がった────。



×××



 魂が、意識が、自我が、肉体という現実に舞い戻ってきた。降りてきたという方が正しいかもしれない。

 その時、肉体と魂が馴染んでないような、微かな違和感を感じた。しばらくすると肉体的な違和感は治まったが、精神的な違和感は小さく燻っている。


 頭の中で激しい痛みが演奏会を開催していた。

 鉛を飲み込んだように全身が重たい。内臓の動きがちぐはぐのようで全てに不快感がある。

 自らの意志で時間遡行の権能を発動させた代償なのか、とヒガナは解釈する。


 前回と同様、それ以上の痛みに、立つのが困難になり膝を折ってしまう。

 手入れの行き届いた青い芝生に、突き刺さった剪定バサミが目に入って、ヒガナは無事に戻って来れたことに安堵した。


「……ヒガナ、大丈夫?」


 兎耳少女の心配そうな声を聞いて、ヒガナはどうしようもない嬉しさに湧き上がり、涙腺が緩んでしまう。


 アリスの細くもしなやかな脚はしっかりと地に着いている。服の上からでも分かるくびれた腰に、豊かな胸は実在している。


 ヒガナは痛みを無視して、ゆっくりと立ち上がり、アリスのほんのりと赤い頬をそっと撫でた。指にしっとりと張り付く瑞々しい肌の感触は永遠に触れていられる。


「……あっ」

「──アリス」


 困惑する瑠璃色の瞳を尻目に、亜麻色の髪を優しく撫でた。指通りの良い艶やかな髪にヒガナは改めて驚嘆する。

 ヒガナは不安を紛らわせるため、アリスをこれでもかというくらいに触り、実体として存在していることを納得する。


「ヒガナ、血! 血が出てる!」

「え? は、あっ!」


 白髪黒瞳の少女──ソフィアが慌てながら、鼻を指差す。

 ヒガナは指摘された部分を触ってみると、血が付着していた。二つしかない穴から同時に出血し、ポタポタと芝生の上に落ちていく。


 代償の二次災害、と言うべきか、ヒガナが鼻頭を押さえる最中に、アリスは半歩後ろに下がり警戒するように自分の身体を抱いた。兎耳がしおれている。


「……そこまで興奮されると引く」

「ち、違う誤解だ! 常時魅了状態でアリス触ったら、思った以上に刺激が強かっただけで……そんなに興奮はしていない!」


 無謀な能力行使の代償とは言いたくないので、淫魔の魅了をダシにこの場を乗り切ろうとするヒガナ。支離滅裂な言い訳だがアリスは納得したように頷いて、


「……やっぱり淫魔が悪い」

「はわっ!? なんでわたし睨まれているんですか!?」


 ちょうどこの場にいた、お下げ髪の使用人見習いのベティーにありもしない疑いをかけられた。

 まぁ、常時魅了状態なのは嘘ではないのだが。


「……ヒガナの頭をはっぱらぱーにした罪は重い……ヒガナのどこかしらの骨を折ってから、天誅」

「はっぱらぱーって何だ! つか、俺も天誅されるの前提なんだけど!?」


 本気としか聞こえないアリスの冗談にツッコミを入れる。それが随分と久しぶりな気がして、胸に込み上げてくるものがあった。


 ──この日常を守る。

 ──誰も悲しまない運命を掴み取る。


 そう、決意したヒガナは、屋敷──その中のどこかにいる白縹しろはなだの悪魔──を睨みつけた。



×××



 グウィディオン邸上階に存在する一室。

 来客をもてなすために設置されたソファーとテーブル。壁側に置いてある棚の上には厳選された調度品が品良く並べられてある。部屋の奥に構えてあるのは黒を基調とした机と椅子。


 屋敷の主人であるウェールズの執務室にて、中庭で繰り広げられている客人二人とソフィア、使用人見習いの戯れを眺める双眸があった。


「相変わらずココちゃんの淹れてくれた紅茶は美味しいね」


 革張りの椅子に背を預け、中庭を見ていた白縹しろはなだ髪の使用人に賞賛の言葉を贈るのは気弱そうな風貌をした男性──グウィディオン家当主ウェールズ・グウィディオンだ。


 名を呼ばれた使用人。少し重みのある白縹色のボブカット、究極に整った愛らしい顔立ち、扇情的な肢体は背中が大きく開いたメイド服に包まれている。

 彼女はウェールズを横目で見てから鼻を鳴らした。


「当たり前です。分かりきったことをいちいち言わないで下さい」


「ハハッ、分かっていても伝えたいことはあるんだよ。それにしても、やけに彼を気にしているみたいだね」


「ご冗談を。私は取り巻きに注目しているだけです」


 なるほどね、とウェールズは納得したようにティーカップを口に持っていく。一口をゆっくり、じっくり味わい、十分に余韻に浸ってから言葉を紡いだ。


「──今回はどうかな?」


 脈絡のない問い。だが、ウェールズとココの間においてはそれだけで全てが通じる。それは、二人の崩れることのない信頼関係と共に過ごした時間の長さ故のなせる技だ。


「ウェールズ様は毎度毎度、目眩めまいがするほど下らないことを聞きますね」


 ココは窓際から離れ、ウェールズ専用の執務机の上に置いてあった黒い装丁が施された厚い本に指を這わせ、


「──神の意思によって決定した運命さだめを踏み躙り、弄び、狂わせるのが私の役目ですから」


 不敵な笑みを零した。



×××



 ソフィアによるグウィディオン邸案内が何事もなく終わった後、ヒガナは単独で行動を開始した。


 当初の予定では、アリスに貴族殺しについて話を聞こうと思っていたのだが、彼女はソフィアと遊戯室に行ってしまった。

 流石にソフィアが側に居る状態では話は聞けない。


「にしても、アリスは随分とソフィアに懐いているな」


 初対面の相手には警戒して近付こうとはしないアリスだが、ソフィアに対してはそれが無かった。寧ろ積極的にくっついているのだから驚きだ。


「てっきり俺だけにかと思ってたけど……なんか、嬉しいようか、悲しいような、寂しいような」


 もしかしたら、アリスに対して悪意が無い者には無条件に懐くのではないか、とヒガナは思った。


 現にソフィアはアリスのことを良く思っているらしく、付いて来られることが嬉しそうでもあった。


 だが、一見悪意が無さそうなウェールズやベティーには警戒の色を露わにしていたところを見ると、ヒガナの推測は違うようだ。


 アリスに話を聞くのを後回しにしたヒガナは、夕食までの時間を二つの事柄に費やすことにした。


 一つ目はココの目的、その全容を暴くこと。


 曰く、王国に巣食う病巣を取り除くこと、と彼女は言っていたが、それとアリスがどう絡んで来るのかは不明だ。


「一体何をしようとしているんだ、ココ」


 直接、本人に聞いたところで答えてくれる保証は無い。それは最終手段として置いておき、ヒガナは使用人たちからココの目的をそれとなく聞き出そうと考えた。

 そして、使用人たちへの接触は二つ目の事柄に繋がる。


 二つ目は、密告者の特定。


 全ての元凶である密告者を見つければ、極論を言えば今回の件は収まる筈だ。

 前周のココの発言に沿って考えると、密告者は女性でグウィディオン邸に居るということになる。


 ココを除外すると、容疑者は使用人約三十人とソフィアだ。

 名探偵でもないヒガナが推理で容疑者を絞り込むのは難しい。でも、諦める訳にはいかない。ヒガナは使用人に片っ端から話しかけて、相手の反応を伺うことを選択。

 とはいえ使用人は一人残らず淫魔──美女、美少女に話しかけると思うと、ヒガナの緊張は著しく増大した。


「これもみんなを救うためだ。勇気を振り絞れ、俺」


 頬を軽く叩いて、気合いを入れたヒガナは早速使用人探しを始めた。

 最初の四、五人はしどろもどろになり、次の数人からは多少慣れが出てきて、十人を過ぎる頃には僅かだが平常心を保てるまで進歩した。


 だが、やはり淫魔の魅了は強力。完璧なる平常心を持って接することは女性経験ゼロのヒガナには少々ハードルが高かったようだ。


 因みにヒガナを最もあたふたさせたのは、ナノという緊張しやすい性格をしたメイドさんだった。彼女はヒガナの支離滅裂な言葉に終始緊張し、同じく支離滅裂な言葉で対応した結果、収集のつかない事態になった話は割愛させていただく。


 半分近くの使用人と話し終えたヒガナは次の対象を探しながら廊下を歩いていた。

 実家の数倍広く、先が見えない、絨毯を敷き詰めた廊下を踏みしめるたびに、やはりここは豪邸なんだ、と改めて思うヒガナは真ん中を堂々と歩けず端の方を歩く。

 ヒガナはどこまでも小市民的である。


「これだけ広ければ使用人も大勢必要か」


 しかし、執事は存在せず、挙げ句には使用人一人残らず淫魔と来ている。一人ひとりと話してみてはっきりと分かったが冗談抜きで淫魔しかいない。


「でも、魔族って数が少ないってノノちゃんが言ってたよな。しかも、淫魔だけ……普通に使用人雇うより労力使っている気がする」


 まぁ、当主の趣味と言ってしまえばそれまでだが。

 淫魔だらけの謎は置いといて、ヒガナはこれまでに聞いた使用人たちの話を頭の中で整理する。

 と言っても、ココの目的に関する情報は一切なく、そのほとんどが世間話だ。

 そして、誰もが密告者とは思えない態度だった。


「残るのはココ、ベティー、ソフィア、それと給仕長か。ココは除くとして、仮に給仕長が密告者だったら、あんな言い方を本人の前でしないよな」


 それに前周の様子から見て、ココと給仕長は繋がっている印象を受けた。

 となると、


「ベティー、ソフィアのどちらか。いや、そんなことはないだろ」


 ヒガナは首を横に振った。

 可能性は十分にあるが、最初の周回で行方不明になったアリスを一緒に探してくれた二人を疑うのは忍びない。

 他の使用人たちが完全にシロと言えるまでは、とりあえず容疑者から除外しておくことにした。

 容疑者を贔屓目ひいきめに見るのは良くないことだが、非情になりきれないのがヒガナの短所であり、長所でもある。


 しばらく歩いて、角を曲がったところで使用人の背中を見つけた。

 手入れの行き届いた髪をシニヨンにし、寸分の無駄すら省いた佇まいは後ろ姿でも気品溢れる。メイド服を完璧に着こなした妖艶な美女。


 給仕長を視界に捉えたヒガナに緊張が走る。

 ココの目的を知るにあたって、彼女は有力な情報を持っていると考えてもいい筈だ。だが、優しく親切に教えてくれる、なんて都合のいいことは期待できない。

 それでも、前に進むしかない。立ち止まっている暇などヒガナにはあるはずもないのだから。


「きゅ、給仕長っ」


 給仕長は立ち止まり、上ずった声が聞こえた方向に身体を向けた。瞼によって固く封じられている瞳が特徴的な過剰に整った顔立ちは見る者の思考を蕩かしてしまいそうだ。

 両手はバスタオルに塞がれていた。脱衣場に置きに行こうとしていたのだろう。

 ヒガナが次の言葉を探してまごついていると、給仕長が微笑みを含みながら口を開いた。


「次はわたくしの番という訳ですか?」


「えっ!?」


「先程から屋敷内を歩き回って、色んな使用人と話しているのは知っていますわ。話した子たちが嬉しそうに報告しに来ますもの。ここだけの話、使用人の中でお客様の評判はかなり高いですわよ」


「そうなんですか」


 正規の時間では一日しか滞在していないのに、なぜ使用人たちから人気があるのか不思議でしょうがない。天使のような死神が言ったように、魔族をたぶらかすフェロモンが出ているのだろうか。


「それで、どんな話を御所望ですか?」


 促され、ヒガナは覚悟を決める。

 唇を舌で湿らせてから単刀直入に切り込んだ。──核心に触れる質問を。


「貴女とココは何を企んでいるんですか?」

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