二章 第15話 『追憶に誓いを』


 ウォルトは、ヒガナとモニカとは別の建物の屋根上で広場を観察していた。


 現在、司教が処刑台に拘束されているアリスに向かって説教を説いている。

 説教の時間はそれなりに長い。その間、民衆や処刑台を守護する騎士団──広場に集まる人間の気が緩む。誰でも退屈な時間に延々と気を張るのは難しいものだ。


 気の緩んだところに、予想外の出来事が起これば反応は遅れて、初動が鈍くなる。

 ここで行動を起こすのが最適だ、とウォルトは判断した。


 ふと昨夜のことを自身の発言を思い出して、ウォルトの頬が緩んだ。愉快から程遠い自嘲に近いものだ。


「昨日は余計なことを随分と喋ったもんだ」


 ウォルトは奴隷霊装によって繋がるモニカに行動開始の意思を示した。

 ここからはヒガナの出方で後の行動が変化する。

 正直、ウォルトはヒガナが『命令権』を行使する可能性は五分五分だと考えていた。


「微笑んでくれ、女神様とやら」


 しかし、ウォルトの願いは女神には届かなかった。

 事態が急変したのを察することができたのは突如として流れ込んで来たモニカの感情だった。

 それと同時にウォルトの全身が総毛立つ。極限まで研がれた獣の如き直感で弾かれたように振り返ると、異常な剣気を纏う男が今まさに剣を振り下ろすところだった。


「────っ」


 懐にしまっていた銃を素早く取り出し、銀の一撃を寸前のところで防ぐ。あまりに重い斬撃はウォルトの肉体を軋ませ、足元の屋根に亀裂を刻み込む。


「チッ」


 仕留め損ねた男は距離を置いて改めてウォルトを睨みつけた。

 ウォルトに匹敵する長身。

 伸び放題で毛先が四方八方に向いている天然パーマがかった茶髪。

 無精髭を生やした端正な顔立ち。

 何よりも特徴的なのは、左右色違いの瞳だ。右眼は穏やかな紫紺色。対する左眼は苛烈さを宿す茶色をしている。

 ウォルトは軽口を交えながら臨戦態勢を整える。


「随分と面白い催し物だな」


 全く構える素振りを見せない男は別の方向──ヒガナとモニカが居る建物に顔を向けた。不愉快そうに舌打ちをし、ウォルトを血走った双眸で睨め付けた。


「あのガキはどういうことだ? なぜ奴隷にしている?」


 質問に対しての驚きはなかった。

 男がモニカを見た瞬間に、今のようなことを聞くのは眼に見えていたからだ。

 ウォルトはお返しとばかりに質問する。


「その眼、どうした? プレゼントか?」


 手にしている銃で自身の右眼を指す。

 男の表情が微かに歪んだ。彼にとって、右眼のことは触れて欲しくないようだ。

 お互い様だ、とウォルトは内心で苦く呟いた。


「お前には関係ない」

「そうかい。なら、俺も答える気はないぜ」


 歯軋りをしながら、男は誰かに向かって暴言を吐き捨てた。


「お前のせいで最悪の気分だ。クソ淫魔が」


 計画はご破算。アリスを救出する可能性はもはや皆無に等しい。そんな状況に陥ってもなおウォルトはシニカルに笑った。片方の手で煙草を取り出し、もう一方の手で銃口を男に向けた。


「絶体絶命、か。上等だ」


 ウォルトのやる気のなさそうな瞳に獣の如き獰猛さが浮かび上がる。

 警戒心を一気に高めた男は緩やかに構える。これが彼にとって最も戦いやすいスタイルなのだ。

 睨み合う二人。

 時の停滞が終わりを告げた瞬間、二度目の衝突が起こる──。



×××



 扇情的な肢体をこれまた扇情的な給仕服で包み込む白縹しろはなだ髪の美少女、ココはこめかみを押しながら困ったように肩をすくめる。


「神を説く言葉は頭が痛くなります。聖書なんて読まれた日には一日中吐き気と頭痛に悩まされそうです。この辛さ分かりますか?」


 モニカの首筋に刃を向ける給仕長はココの発言に対して淡々と意見を述べた。その間も相変わらず瞑目している。


「貴女は我らが母に近しい存在ですから仕方のないことですわ。そうですわ、今度からお仕置きの際は聖書を朗読しましょう」


「そんなことしたら、給仕長のこと嫌いになりますよ?」


「それで貴女が大人しくなるなら、いくらでも嫌ってくれても構いませんわ」


「敵いませんね」


 呑気に談笑しているメイド二人を目の前で眺めていた、黒髪の少年は唖然としていた。我に返ると同時に黒の双眸で睨みつけ、怒りを孕んだ声色で問う。


「どういうことなんだ?」


 無数に湧き上がる疑問を上手く言語化することができない。やっと絞り出した言葉も酷く抽象的になってしまった。

 にもかかわらず、ココは白縹色の瞳でヒガナの内心を見透かすように眺め、質問の意図を理解する。


「『なぜ、アリスを助けようとするのを邪魔するんだ?』と言いたいんでしょう。別に大した理由なんてありません。お客様、もとい元お客様は私の計画を大幅に狂わせた、それだけです」

「は?」


 このメイドは何を言っているんだ、とヒガナは瞠目した。白熱する思考に口元が追いつかない。


「まさか……その計画を狂わせた腹いせに、こんなことを……アリスを殺そうとしているのか?」


 困惑しながら問いかけるヒガナを滑稽と言わんばかりに、ココはくつくつと笑う。


「殺そうとしている? 誰のことを言っているんです? 私ですか? それともこの広場に集まる人々の無意識とでも?」


 ヒガナは無言の肯定をした。

 その通りだ。

 アリスを殺すのは民意。救出を阻むココたち。そして、悪辣な運命。

 誰も彼もがアリスを殺そうと躍起になっている。

 怒りを通り越して、憎悪がヒガナを身体の中から燃やしていく。

 しかし、それはココの次の言葉で一気に凍りついた。


「違いますよ。アリス・フォルフォードを殺すのは元お客様──貴方です」


 まるで、見られたくない物を押し込んで頑丈に封鎖した扉をこじ開けられているような感覚に襲われた。

 頭の奥が軋むように痛む。


「貴方はアリス・フォルフォードのことを何も知ろうとはしませんでした。真実を突きつけられるのが怖かったから」


「やめろ」


「目を閉じて、耳を塞いで、自分の中にいるアリス・フォルフォードだけを見つめているだけ。それでも飽き足らない……いいえ、恐怖心が拭えない貴方は逃げることを決意しました」


「やめろ」


「なんて愚かなことでしょう。いくら逃げても、恐怖は永遠に纏わりついてくるというのに」


「やめろ」


「真実と向き合う覚悟ができなかった。逃げるという選択肢を選んでしまった。その選択が今の結果を作り出したんです」


「やめろ」


「最悪なのは間違った選択の結果を受け止められないからといって、こんな幼気なハーフエルフと過去に吊るされた哀れな男を巻きこんで、アリス・フォルフォードを救おうとしたことです。そんなの虫がいいにも程がありますよ」


「やめろ、やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ──!!」


 精神の針が完全に負へと傾いたヒガナは腰に差していた銃を取り出し、ココへと向けた。鈍く光る凶器は思ったよりも重く、震える手も相まって銃口はブレていた。


「それ以上言うな! ああ、そうだよ。俺はアリスの真実を知る勇気なんてない。……でも、だからってこんな仕打ち受けなくてもいいじゃないか!」


「………………」


「俺はアリスを、屋敷のみんなを──ソフィアを、ベティーを、ウェールズさんを、ココを守りたかったんだ! でも、俺に力なんて無い。状況を打開する知恵もない。何にもできない奴なんだ」


 ヒガナは滂沱の涙を流す。

 不甲斐ない。情けない。どうしようもない。自分の無力さを痛切に感じる。


「…………逃げたくて逃げたんじゃない。けど、それしか方法が無かったんだ」


「ヒガナさん」


 モニカが紫紺の瞳を潤ませているのが分かった。恐怖からではない。ヒガナの吐露を聞いて、何か思うことがあったのだろう。


「言い訳、ですね」


「────っ」


「貴方の言ってることは、『私たちを守りたいけどできないから仕方なく逃げることを選んだ』、ということを長ったらしく話しているだけです」


 ばっさりと切り捨てるココに、怒りを露わにしたのはモニカだった。給仕長に押さえつけられながら桃色の髪を振り乱す。


「今のを聞いて、ヒガナさんがどれほど悩んでいたのか分からないんですか!? 必死に悩んだ末に出した苦肉の決断をあなたがあれこれ言うのは間違っています!」


「彼の決断を糾弾するつもりはありません。しかし、選択の結末を受け止めるのは選択した者の義務です」


 ココはヒガナを睨みつけ、断罪するよう言う。


「アリス・フォルフォードが灰になるのをしかと目に焼き付けて下さい。それが貴方の犯した罪の重さです」

「────っ」


 喉が引き攣り、呼吸が上手くできない。

 この少女はヒガナの心、精神を徹底的に潰すつもりだ。いや、壊すと言った方が適切だ。


 アリスの死をもって、ヒガナを断罪する。

 過ちを犯した者ではなく、仲間に罰を与える。


 自分が傷つかない分、後悔や罪悪感は重くのしかかってくる。ヒガナのような性格の持ち主なら特にだ。自身の犯した罪にいずれ耐えきれなくなり、ヒガナは発狂し、最期には廃人になるだろう。


 罪悪感という名の縄に首を絞められ、その長く続く苦痛に顔を歪めるヒガナの姿を、少女は舌なめずりし、嗤いながら堪能するのだろう。


 悪辣過ぎる。


 可愛いメイドと思ったら大間違いだ。淫魔なんて優しい存在でもない。──この少女は紛れもない悪魔だ。


「……が、…………よ」


 涙混じりにヒガナは叫んだ。


「俺が! 逃げたのがそんなにいけないのかよ! アリスが死ぬのは全部逃げ出した俺のせいなのか!? じゃあ、アリスが王都にいることを騎士団に密告した奴はどうなんだ! ソイツさえいなければ、アリスは処刑されずに済んだ! みんな死なずに済んだ! ソイツが元凶じゃないか!」


 ヒガナは事の発端である人物──密告者の存在を主張した。屋敷の使用人たちが殺されたのも、ヒガナが逃げ出したのも、アリスが処刑されそうになっているのも、密告さえなければ起こり得ないことだったのだ。

 密告者に対する底知れぬ怒りは、次の瞬間に無と化した。

 その理由は──、


「──彼女は起爆剤として十分な働きを見せてくれましたよ」


 密告者の存在を周知していたことをココが告白したからだ。


 足元がぐらつく感覚にヒガナは襲われた。ただでさえ不安定だった足場が、いよいよ崩壊を始めたようで、全身の震えが止まらない。

 ココの告白はそれほどヒガナを動揺させる代物だった。


「ま、まさか……まさか、お前は密告者と繋がっていたのか?」


「いいえ。ただ、私が彼女の正体と目的を把握していただけです」


「じゃあ、密告を止めることも……」


「もちろん、できました」


 頭に一気に血が上り、こめかみに走る血管が何度も脈打つ。ココに向けていた銃を掴む力が強くなる。


「なんで、ソイツが密告するのを見逃したんだ! お前が阻止してくれたら、こんなことにはならなかったんだぞ! なのに、どうしてだ!?」


「今度は私に責任転嫁ですか。哀れすぎて、逆に愛おしく見えてきましたよ。まるでかごの中で必死にさえずる小鳥のようですね」


「いいから答えろ!」


「彼女の密告も私の計画に組み込まれていた。だから、見逃したんです」


 本当に意味が分からない。

 密告者と繋がっていないというのに、なぜ彼女の計画に密告の件が組み込まれているのか。


「計画ってなんなんだよ……お前は一体何が目的なんだ?」


「目的ですか。それは、王国に巣食う病巣を取り除くことです。そのためには密告者の存在とアリス・フォルフォードが処刑されるという事実が必要なんです」


 冗談とは思えない真剣な表情でココは言ってのけた。真なる答えを聞いてヒガナの脳内はますます混乱に陥った。


「何一つ繋がらない。どう考えても点と点じゃないか。何をどうすれば線になるんだ……」


「いくら考えても無駄ですよ。お客様の知能では到底辿り着けません。それより、そろそろ頭痛の原因が終わってくれそうです」


 広場に目を落とすと、司教がちょうど説教を終えて下がるところだった。

 それは、アリスの処刑が始まる合図でもあった。


 ヒガナはココではなく給仕長に視線を向けた。だが、銃口はココに合わせたままだ。


「モニカを放せ。さもないと、ココを撃つぞ」

「どうぞお構いなく」

「なっ!?」


 あっさりとココを切り捨てる給仕長。だが、見捨てた訳ではないことは彼女の次に発した言葉は理解できた。


「失礼ですが、ヒガナ様に引き金を引く覚悟は、他者を殺す覚悟はあるのでしょうか? 私にはあるようには見えませんわ。覚悟のない脅しなど、子供の戯言となんら変わりませんことよ」

「う、ぁ……」


 ダメだ。

 虚勢如きで、彼女たちに立ち向かうことなんてどう足掻いても不可能だ。

 それを悟った瞬間、ヒガナは抗う気力を失った。

 銃が手から滑り落ちる。重力に従って落下した銃は、屋根を滑っていき、摩擦によって途中で動きを止めた。


「ヒガナさん」


 ヒガナの変化に気付き、涙ぐむモニカは作戦が完全に失敗したことを悟った。

 もう、終わりだ。



×××



 処刑が始まった。

 普通ならば焼き殺す前に絞殺など別の手法を用いて温情という形をとる場合もある。流石に生きた人間を火炙りにするのは残酷極まりないからだ。


 しかし、ことアリスに対しては温情はなかった。

 処刑台の下に敷き詰められた薪に火がつけられた。

 弾ける音を立ててる薪は灯った小さな火に我が身を捧げる。多くの薪を贄とした火は巨大に膨れ上がり、黒煙を吹き上げ、アリスを喰らい始めた。


 アリスが業火に蹂躙されていく。

 あんなに美しかった白い肌が赤く爛れていく。

 艶のあった亜麻色の髪が黒く燃えていく。

 意思を持っているんじゃないかと疑うほど動いていた兎耳が焼かれていく。

 弱々しく一人では生きていけないのではと不安になる可愛らしい容姿が燃える──。


 同時に広場に歓声が沸き起こった。

 しかし、一人だけ絶望に塗り潰された絶叫を上げる者がいた。

 騎士団に、民意に、悪魔に、運命に完膚なきまでに叩きのめされた、何一つ守れなかった愚者の絶望の咆哮だ。


「あ゛、あ゛あ゛……あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛────!!!!」


 絶叫が耳に届いたのかもしれない。はたまた偶然かもしれない。

 アリスと眼が合った。

 絶望に跪き、崩れ落ちるヒガナに、業火に焼かれるアリスはどこか嬉しそうに微笑んで僅かに口を動かした。


「──────」


 突如として何かが流れ込んで来た。



×××



 満月のみが照らす、縹渺ひょうびょうたる雪原。

 かじかむ小さな手に息を吐く。

 墓標があった。


 ──寒い。


 火の手が上がる城。

 同族の断末魔がこだまし、血の臭いが鼻を蹂躙する。

 同い年くらいの少年が頬を涙で濡らし、何かを言っている途中で鮮血を撒き散らして倒れた。


 ──寒い。


 誰かに首輪を付けられた。

 周りには同じ物を付けられた人が何人もいた。


 ──寒い。


 どこかの飲食店。

 掃除をしていたら、店主らしき男に横腹を蹴られた。

 胃の中の物を吐き出した後、男を見ると『なんだその目は!』と余計に蹴られた。


 ──寒い。


 どこかの屋敷。

 貴族らしき女に『うちの子に怪我をさせた罰よ! これだから使えない奴隷は嫌なのよ!』と地下牢に閉じ込められた。

 地下牢の床は冷たく、身体の芯まで凍えてしまう。


 ──寒い。


 別のどこかの屋敷。

 目を落とすと、血塗れで倒れている男性がいた。

 見える手は赤く染まっていた。

 すると、悲鳴が聞こえた。


 ──寒い。


 何もない空間。

 ⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎に、殴る蹴るの⬛︎⬛︎を受けていた。

 奇⬛︎⬛︎のは……暴力⬛︎終⬛︎⬛︎……と⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎は泣きながら⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎。

 でも……⬛︎力は⬛︎……頭が⬛︎れた……が⬛︎膜⬛︎⬛︎いた。

 ──寒い。


 寒い。

 寒い。寒い。

 寒い。寒い。寒い。寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い────。


 ──寒いのは嫌。


 ──誰か温めて。


 ──誰か助けて。





 これはアリスの記憶、アリスが抱えている闇だ。

 どんなに目を凝らしても底が見えない深淵。少しでも触れれば、誰であろうと奥底へと引きずり込むだろう。際限のなく膨張し続ける闇が少女を犯し続ける。

 たった一人の少女が抱え込むにはあまりにも残酷で冷たい。





 ずっと彷徨い続ける手は異常に冷たい。

 しかし、唐突に温かさに包まれた。

 少女の手は誰かに優しく握られていた。

 その手の持ち主は悪意のあの字もなく、穏やかに微笑んでいた。


 ──温かい。


 彼は仲間と言った。主従関係があるのに仲間というのはよく分からなかった。

 でも、少しだけ嬉しかった。


 ──温かい。


 誰かと一緒に食べる食事がこんなにも美味しいとは思わなかった。

 もしかしたら、彼と食べているからかもしれない。

 分からない。


 ──温かい。


 人の温もりに包まれながら寝るのがこんなにも温かくて、気持ち良くて、安心出来るなんて知らなかった。


 ──温かい。


 彼は血塗れになりながら、必死に助けてくれようとした。その気持ちが奴隷霊装からずっと伝わって来て、嬉しかったけど少し恥ずかしかった。

 それで胸がいっぱいになって、気付いたら泣いていた。

 嬉しいのに何で涙が出るのか分からなかった。

 彼は優しく頭を撫でてくれた。

 撫でられるくすぐったい感覚と彼の穏やかな顔を見たら胸がキュッと締め付けられた。

 これが、あの人が言っていた『幸福』なのかと思った。





 ──ありがとう。


 ──私と一緒にいてくれて、ありがとう。


 ──私を助けてくれて、ありがとう。


 前に彼は『好き』ってことがどういうことか教えてくれた。

 正直、未だによく分からない。

 でも、いずれ分かった時が来たら、一番最初に彼に伝えたい。

 私、貴方のことが──────



×××



 追憶の回廊から目覚めたヒガナが最初に聞いたのは、叩きつけるような雨粒の音だった。

 処刑台の方に目をやった。

 もう、アリスと呼べる存在は居なかった。


「給仕長、彼女を放してあげて下さい」

「承知しましたわ」


 給仕長から解放されたモニカは跪くヒガナの元に駆け寄った。


「ヒガナさん、ごめんなさい。本当にごめんなさい……」


 泣き崩れながら謝罪するモニカの手の上にヒガナは優しく手を添えた。


「大丈夫。モニカは何も悪くないよ」


 優しく呟いてヒガナは立ち上がり、ココを睥睨する。

 その威圧感にココは息を呑む。

 威圧感だけではない。先程までは一切感じなかった、狂気にも似た確固たる意志がヒガナの瞳に宿っていたのだ。


「俺は絶対にアリスを救う」


「随分と面白いことを言いますね。蘇生術式でも使うつもりですか?」


「そんなのは俺にはできない。俺は、俺に出来る方法でアリスを救う」


 ヒガナは右手を額に添えて限界まで集中する。

 彼の狙いは『時間遡行』の発動。これも『高速治癒』と同じく自発的に発動させたことはない。


 だが、ヒガナは追憶に誓った。

 あんな辛くて寂しい思いはさせない。

 君が寒いと言うなら、その頭を撫でて温めてあげよう。その手を握って温めてあげよう。その身体を抱きしめて温めてあげよう。

 その時が来たら君の想いを伝えて欲しい。


 絶対に救ってみせる。

 俺が側にいる。

 もう、君を離したりはしない────。


「戻れぇぇぇぇぇぇぇぇぇ──!!!」


 全身の細胞という細胞を焼き切るような激痛が走る。心臓の鼓動が異常に加速する。血管が激しく脈打つ。その流動に耐えきれず、いくつかが破裂し、鮮血が噴き出す。

 これ以上踏み込んだら、危険だと身体が全身全霊で訴えている。


 だが、ヒガナは無視した。

 そんなもの知るか。好きなだけ地獄を見せろ。

 内側から大切な何かが抜け落ちていく。魂そのものを削られているようだ。

 スオウ・ヒガナという存在の一部が世界から欠落した気がした。


 刹那、のたうちまわってしまいそうな地獄の激痛は霧散した。否、痛みを受ける肉体からヒガナの意識は弾かれたのだ。

 幾千万の淡く輝く蝶が乱舞し、輪廻の螺旋がヒガナを過去へと誘う。





 ヒガナの常軌を逸脱した祈りに権能は応えた。

 絶望に染まった世界を虚構として捻じ曲げ、白紙になった世界に救いを紡げと──。

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