二章 第10話 『果てしなく遠い』
「明日の朝、ここを出ようと思います」
中庭での時間を過ごした後、ヒガナは屋敷上階に位置する執務室を訪れた。
執務用の机を挟んで革張りの椅子に座っていた屋敷の当主は、客人の唐突な宣言を聞いて微かな驚きを見せてから手に持っていた羽根ペンを置いた。
「いや、急な話で驚いてしまったよ」
「申し訳ないです。少し事情が変わってしまって」
一周目で起こった数々の出来事は貴族殺しの件が発端となっている。その件に深く関与しているアリスこそ、全ての中心となっている。
アリスが王都に来たから騎士団は動き、屋敷襲撃が起こった。幾ら否定しようとしても覆ることのない事実だ。
なら、どうすれば悲劇は起こらないかと、ヒガナは考えた。
結論は至って単純なものだった。
──王都から出る。
王都という場所にアリスが居ることによって事が起こるなら、彼女を王都から離れさせればいい。
単純なうえに抜本的な問題を解決できない欠点があるが、ベティーやウェールズ、使用人たちを救える。──アリスを失わずに済む。
「事情、か。そういうことなら仕方ないね。それに、彼女にとっても早めに王都から離れるのが最良かもしれないから」
ウェールズの薄い唇から紡がれた言葉には哀れみがこもっていた。彼はアリスを取り巻く環境を知っているのだろう。その上でアリスを嫌な顔せずに屋敷に迎え入れてくれたことにヒガナは感謝してもしきれない。
ウェールズ・グウィディオンという貴族は本当に懐が深い。
「あ、あの」
ヒガナが恐る恐る口を開いた。貴族相手に聞いていいものなのかは分からないが、このタイミングを逃したら次の機会が来るかどうか分からなかった。
それ故に、ヒガナは意を決してウェールズに問うた。
「貴族殺しの事件について、よければ教えてくれませんか? 俺、何も知らなくて……」
ウェールズは小さく頷き、人差し指を立てた。
「一ついいかな? その件については私より詳しい人物がいる。そちらに聞いた方が有益だと思うんだよね」
「──っ。アリスに直接聞くなんてできませんよ」
「それはどうして? こういう言い方は私も好きではないけど、アリスちゃんはヒガナ君の奴隷だ。『命令権』を行使すれば、包み隠さず話してくれると思うけど」
呆然と立ち尽くすヒガナの思考は目まぐるしく回転していた。
会話を重ねた時間は多くないが、彼の性格や考え方の輪郭はぼんやりとだが掴めている。それを考慮すると、今の発言はウェールズらしくない。
この手の無遠慮な発言を裏表なしにするのは、この屋敷ではあの
そう考えると、この問いには何か別の目的がある。──と、ここまで考えてヒガナは思考を止めた。
ウェールズも貴族だ。貴族というのは話術による腹の探り合いなど日常茶飯事なイメージがある。
ヒガナにウェールズの思惑を汲んで回答をするなどという技量は持ち合わせていない。
なら、小手先の言葉は言わずに本心をそのままぶつけた方が誠意的だ。
「俺はアリスのことを仲間だと思っています。だから、『命令権』は使いたくありません。それを使ったらアリスを奴隷だと認めることになる。それだけは絶対に嫌だ」
「うん」
「それに当事者から事件のことを聞くのは気が引けます。……いや、違う」
言葉にして、口に出してみてヒガナは考えと本心のズレを認識した。
確かに当事者に事件の話を聞くということは、その人の辛い過去を掘り起こしてしまう。とても褒められた行為ではない。
だが、ヒガナがアリスに事情を聞けない理由は別にあった。
「俺は怖い……アリスの口から真実を聞くのが。もし、アリスが本当に貴族を殺していたとして、俺はアリスを守れるか分からない。……いや、無理だ。あんな強大な怪物相手に後ろ盾無しでなんてとてもじゃないけど戦えない」
「………………」
拳を強く握り締め、苦しい表情でヒガナは、スオウ・ヒガナという人間の力量を吐露した。
「──俺は女の子一人ろくに守れないくらい弱い」
ヒガナの本心を聞いたウェールズは瞑目し、しばらく考え込む。それから小さく息を吐き、優しくも厳しい口調でヒガナに語りかけた。
「残念だけど、貴族殺しについては教えてあげることはできない。今のヒガナ君にはこの事件に関わる覚悟が足りていないから」
「そう、ですか」
「落ち込むことはないよ。覚悟なんて簡単にできるものじゃない。今は問題から目を逸らしてもいいけど、いずれは真正面から立ち向かわないといけないよ。アリスちゃんのことを真剣に想うならね」
「…………はい」
反論の余地などなく、ヒガナは頷くことしかできなかった。
執務室から出たヒガナは重い足取りで廊下を歩く。
その心中は自分自身への不甲斐なさで溢れていた。口では守るだなんだと言ったところで、本心の部分では恐怖に屈している。
「所詮、お前はその程度の人間だよ。周防ひがな」
悲痛な呟きを聞いていたのは、ヒガナを除けば廊下に飾られてあった絵画のみだった。
×××
前回と同様、何事もなく夕食、湯浴みを済ませたヒガナは早々にあてがわれた客室に引きこもり、ベッドに横になった。
まぶたを閉じて、右腕を上に乗せて視界を遮断してから、脳内で明日のイメージトレーニングを行う。
──王都を出る。
ただ、それだけのこと。グウィディオン邸を出て、貴族街を進み、守護者の如き関所を潜り抜け、市民街を突っ切って、王都と外界を切り離している門を通り過ぎれば良いだけのことだ。
子供でも難なくできる手順だが、ヒガナは最大限の集中力を発揮して事に当たっていた。
この異世界は決して優しくはない。
例え微笑みに見えたとしても、よくよく見れば悪辣な笑みを垂れている。人間が……ヒガナが苦しみ、絶望する様を傍観し、ケタケタと笑っているのだ。
今回だって上手く行かない。
途中でイレギュラーが発生する気しかしない。
不測の事態に対応するために、ヒガナはあらゆる可能性を思い描き、どう対応するか思考を繰り返す。
「──モニカ」
僅かな思考の空白に浮かんだ、必死にヒガナを助けようとしてくれた桃髪紫紺瞳エルフの少女に対しての疑問が自然と口から出てしまう。
「なんでここに居たんだ? あの後、どうなって……無事だったら良いんだけど」
不思議なことを言っている。
既に終わった世界、ヒガナしか知り得ない世界、二度と観測することの叶わない世界でのモニカの安否を気にするなんて。
やはり、恩人だからだろうか。
「…………なん、だ?」
不意にモニカの発していた台詞に対して引っ掛かりを覚えた。自分が死にかけている状態で他者の言葉をハッキリと覚えていることはまずない。
現にモニカといくつか言葉を交わしたが、その殆どは記憶に残っていない。にもかかわらず、唯一あの台詞だけは鮮明に記憶している。
『──ヒガナさん、そんな』
どうしてこの台詞だけ。
その理由をヒガナは考える。
この違和感の正体を見つければ、モニカがなぜグウィディオン邸に居たのかが分かる──そんな気がしていた。
かなりの時間思考を巡らせてみたが、決定打になるモノはみつからず、ヒガナは上体を起こして頭を掻きむしった。
「クソッ! 答えは知ってるの筈なのに、どうしても見えねぇ……」
掴めそうで掴めない、霞を相手にしているようなもどかしさに苛立つヒガナは、しばらくしてから部屋に起こった変化に気がついた。それは間違い探しなら誰でも分かるような大きな変化だ。
「いつからそこに?」
「少なくともお客様が起き上がるより前には居ましたよ」
椅子に腰掛け、ティーカップを自身の顔に近付け、カップに注がれた紅茶の香りを楽しんでいた
「声かけてくれればよかったのに」
ヒガナはベッドから立ち上がり、テーブルを挟んでココの対面側に座った。
紅茶を飲む仕草だけで情欲を駆り立てかねない彼女の美貌はもはや凶器と言ってもいい。目の前に居るのがココではない他のメイドだったら、激情を抑えることができただろうか。
「思考は知性ある者のみが行える愉悦。その至高の時間を邪魔するのは
不機嫌な色を帯びた瞳に睨まれたヒガナは、そんなに怒らないでくれ、という旨のジェスチャーをしながら謝罪をする。
「悪かった。次こんな機会があればちゃんと気付くようにするよ」
「機会は二度とありません。今日が最初で最後。それを一番理解しているのはお客様では?」
ヒガナは目の前に置かれたティーカップ──そこにたっぷりと注がれた紅茶に視線を下ろした。良い色の水面に映る瞳に力はない。
「ウェールズさんから聞いたのか」
「そうです。まぁ、聞かずとも予想はしていましたけど。お客様は尻尾巻いて惨めに王都から逃げると」
「その通りだよ」
素っ気ない返事をする。
ココは面白くなさそうな表情をしながら、紅茶に砂糖を入れて、ティースプーンでゆっくりとかき混ぜる。
ヒガナは一つ質問をした。
「なぁ、ココはアリスのことをどう見ている?」
「興味の対象ですかね。魔族と天兎族の混血、『血染め兎』、貴族殺しの重要参考人──これだけ揃っているんです、気にするなって方が無理な話です」
「重要参考人……ココはアリスを犯人とは思ってないのか?」
誰もがアリスを犯人と決めつけていたが故に、ココの曖昧な表現にヒガナは顔を上げた。
「状況証拠、目撃者からの証言、資料に目を通した限りでは犯人確定ですが、どうにも腑に落ちないんですよね」
「腑に落ちない?」
「違和感と言ってもいいです。私はこれまでにいくつかの殺人事件に携わってきましたが、そのどれにも犯人の感情──憎悪、嫉妬、悦楽、焦燥などの強烈な想いが事件の根底には存在していました。しかし、この事件においてアリス・フォルフォードの感情が見えません」
紅茶を一口飲み、湿った唇を艶やかに舐め、一息ついてからココは付け加えた。
「まぁ、感覚的な話なので確証はありませんが」
戯言の範疇だ、と言わんばかりの口調だったが、ヒガナにとっては大きな慰めになった。が、なぜか後ろめたさも感じてしまう。
でも、止まってはいられない。
屋敷の人々を、何よりアリスを救うには王都から逃げるしかないのだから。
閉じられた世界で仄かに揺れる紅い色の水面──そこに映るヒガナの顔はやはり力無く
×××
天空より快活な光が降り注ぐ王都。そこにある小さな一画──洗練された建物が連なる貴族街。数ある屋敷の一つでは、新たな別れが始まろうとしていた。
見送る側は二人。
朝日に照らされてもなお、病的な青白さと線の細さをしている屋敷の主人──ウェールズ・グウィディオン。
早朝なので眠いのか、大きな欠伸をする
彼らの目線の先にいるのは黒髪の少年、亜麻髪の兎耳少女、漆黒髪の眠り姫。側から見たら奇妙な組み合わせの三人だ。
「ごめんね、大したもてなしもできなくて」
「そんなこと……あんなによくしてもらって、それに準備の手伝いも。ウェールズさんたちには感謝しかないです」
「……お世話になりました」
アリスはぺこりと頭を下げて、ヒガナの背中で寝ているルーチェをぼんやりと見つめる。
「じゃあ、行きます。本当にありがとうございました」
表面上は普通に取り繕うヒガナだが、その内心は焦りと不安で溢れかえっていた。
今日という日は、一時間一分一秒が命取りになる。
ヒガナはアリスの手を引き、王都脱出への一歩を踏み出す──と、その時。
「お客様」
ヒガナは呼び止めた少女の方へ、逸る気持ちを抑えながら振り向く。
「──お気をつけて」
「あぁ、ありがとう」
欠伸を噛み殺しながらかけられた言葉に、ヒガナは今出来る限りの笑みで応えた。
それからヒガナは一心不乱に駆け抜けた。
貴族街を早々と抜け、関所では挙動不審なヒガナの態度に眉を顰められたが問題なく潜り抜けることに成功。
人通りの多い場所から人通りの少ない場所へ。
走る。走る。走る。走る──。
息が切れ、脚が攣りかけても、ヒガナは止まろうとはしなかった。
否、止まれなかった。
止まってしまえば、後ろを振り向いてしまえば、民意の
しかし、そんな不安も終わりを迎える。
来る者去る者を拒まない王門──それを目の当たりにしたヒガナの瞳にようやく希望の光が灯った。
「これで……これで……」
アリスを殺すことはない、ウェールズは死なない、ベティーは死なない。
もう、誰も苦しまなくて済む、誰も悲しまなくて済む──。
あと一歩……あと一歩さえ届かばというところで問題が起きた。
「────え」
アリスがヒガナの手を振り払って、立ち止まったのだ。
急の出来事でヒガナは目を丸くすることしかできなかった。
「ア、アリス……?」
「……痛い」
よほど強く握っていたのだろう、アリスはフードの奥から覗く瑠璃色の瞳に困惑の色を帯びながら腕をさすった。
「ごめん……でも、今は急いでいるんだ」
しかし、アリスは頑として動こうとしなかった。
もう少しだというのに、ここに来てアリスが反発するとは思っていなかった。昨日のシュミレーションではこの場合の対処はしていない。
ヒガナは動揺を隠し切れない口調で諭す。
「アリス頼むよ。王都を出たらちゃんと話すから」
「……違う」
「違うって、何が?」
「……昨日からいつものヒガナじゃない……なんか変」
アリスにはヒガナの感情がはっきりではないが、ぼんやりと伝わっている。主従関係を結んでいるが故に、互いの感情や過去の記憶などが流れ込んでしまうことがある。
異変は昨日の激しい頭痛で倒れたあとだ。その瞬間に大量の負の感情がアリスに流れ込んできてヒガナの様子が豹変。そのことについて彼女は不思議に思っていた。
「そんなことはないって」
流れ込んできた感情。それは一体何なのか、アリスにははっきりとは理解できない。それでも一欠片を知っている言葉で表す。
「……ヒガナは何を怖がっているの?」
必死に隠そうとしていた感情を言い当てられて、ヒガナは心臓を握られたような苦しみに襲われた。
喉に衝撃という名の栓がされ、上手く声が出ない。
それでも何とか絞り出す。
「──っ。今は話している余裕がないんだ」
「……言って……ご主人様の怖いものを排除するのも奴隷の仕……」
「そういうの止めろよ! 俺はアリスの主人じゃない、アリスは俺の奴隷じゃない! 対等な立場、仲間だって何度も言ってるだろ! どうして壁を作るんだよ!」
「……っ! ……ヒガナ……?」
本気の怒号を浴びせられたアリスは、驚いた拍子に肩を跳ねらせて、困惑の表情で己の主人の名を恐る恐る呟いた。
ヒガナは自身が感情的になったことを反省し、申し訳ない気持ちが湧き、アリスから目を逸らす。
「ごめん。でも、今はとにかく王都から出ないと…………あぁ、そんな……」
ヒガナは出しかけた言葉を途中で中断。視界に入り込んだあるモノに驚愕し、悲痛の声を漏らした。
ヒガナたちの後ろからやって来たのは、機動性のある制服に身を包み、剣を携える二十人余りの騎士。彼らは無駄のない動きで包囲する。
騎士たちを束ねる者が一歩前に出た。
長身、筋骨隆々とした体格。彫りが深く顔立ち、
ヒガナはこの男を知っている。
この岩のような重圧感を忘れるはずがない。
「お初にお目にかかる。私は王国騎士団副団長、ヴァーチェス・ウィンディンバンクだ」
副団長の名乗りにアリスは警戒心を跳ね上げ、異常な殺意を身に纏い臨戦態勢を整えた。
深淵の底を覗くが如き冷たい殺意を浴びてもなお、ヴァーチェスは一切怯まずに堂々と言葉を放つ。
「アリス・フォルフォード、貴様にはハウエルズ卿殺害の容疑がかかっている。大人しく我々と来てもらおう」
救いへと続く門はすぐそこにあるのに果てしなく遠い────。
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