第二章 『朧月夜の兎』

二章 第1話 『王都の空気』


 意識が睡眠という海から浮かび上がり、最初に感じたのは包み込むような柔らかさと微かな重みだった。

 黒髪の少年──スオウ・ヒガナがベッドの上で状況を把握したのは覚醒してから数秒後のことだ。

 そう、寝ていたのだ。

 至極普通のことだ。

 しかし、ヒガナは自身の上で起こっていることを把握するには些か時間が必要だった。


 ──脳髄を蕩けさせるような美少女が馬乗りになっている。


 その美少女に見覚えがあった。


「ノノちゃん……?」


 ノノとは白縹しろはなだ色の髪と特殊な造形のメイド服に身を包んだ淫魔の女の子だ。

 今、ヒガナに馬乗りになっている美少女は特徴に合致している。

 だが、よく眼を凝らしてみると違う箇所が何点かある。


 ノノはショートボブだったが、目の前の美少女は少し重みのあるボブ。メイド服も特殊な造形はしているが素材や装飾が所々異なる。

 世の男性、女性を舌で転がして遊びそうな小悪魔感、妖艶な美貌と艶かしい肢体はノノに比べて少しばかり幼い。


 ヒガナはそのことに気付き、呻き声に近いトーンで口を動かす。


「ノノちゃんの……妹……?」

「お客様の眼窩に入っているのはガラス玉か何かですか? それか、昨日のことすら忘れてしまう虫以下の脳味噌が悪いんですか? 今すぐ人間やめて虫になることをおすすめします」

「あぁ……朝から罵倒するのやめてくれないか……」


 ヒガナは露骨に嫌悪が浮かぶ顔を手で覆い隠す。

 少女は悪意剥き出しの笑顔で身体──というより腰を卑猥に動かし始めた。


「私をノノと間違えるお客様の責任では?」

「ちょっ! 動くなよ!」

「なぜ動いちゃいけないんですか? 口に出して言ってくださいよ。あ、今のはそういう意味じゃないですからね」

「どういう意味だよ!?」

「分かっているくせに私の口から言わせようとして……お客様も好きですね。さて、それでは楽しいことをしましょうか」


 意味深な発言の後、少女はスカートへと手を伸ばす。

 何をしようとしているのかを察したヒガナは慌てて上半身を起こして、スカートに伸びている細腕を掴む。


「それ以上は洒落にならないって」


 ヒガナが自分の一挙手一投足に本気で焦る顔を見れた少女は満足そうに笑う。ヒガナから離れ、ベッドを降りて乱れたメイド服を整える。


「冗談に決まっているじゃないですか。いい間抜け面でしたよ」

「………………」

「というか、あそこまで誘惑しても理性を保っているのは引きました。本当に付いているんですか? 竿はあるみたいですけど」


 満面の嘲笑をプレゼントした少女はご機嫌な様子で部屋から出て行った。

 ヒガナは平静を装う下で、破裂するんではないかというくらい高鳴っている胸に手を当てて、既に居ない少女に向けて悪態を吐く。


「性格悪……つか、最悪だろ」


 辿り着いた王都の貴族街に建ち並ぶ屋敷──その内の一つ、グウィディオン公爵邸の客室での出来事だった。



×××



 時は一日前に遡る。

 何度も何度も死を繰り返し、やっとの思いで辿り着いた王都。

 正直身体は悲鳴をあげている。満身創痍、疲労困憊状態だ。

 しかし、そんな疲労は目の前に広がった王都の情景を見た瞬間に一気に吹き飛んだ。


 赤煉瓦でできた建造物、綺麗に舗装された石畳みの道、陽の光が反射して輝く噴水──御伽噺の世界に迷い込んだような街並み。セルウスとは段違いの活気に満ち溢れている。


「これが王都……イメージ通りだ」

 

 感激も半ばにしてヒガナはハンナたちに頭を深く下げた。


「ここまで護衛してくれて、本当にありがとうございました」

「私たちこそ、ヒガナには感謝してもしきれない恩があるわ。ありがとう」

「本当にありがとうございます、ヒガナさん」

「真に感謝だ、ヒガナ」


 感謝の言葉を交換したヒガナとハンナたちは朗らかに笑い合った。


「これから三人はどうするんですか?」

「そうね、とりあえずのところは三人で冒険者を続けるわ」

「お金稼ぎながら、お互いに本当にやりたいことを見つけようって話をしたんです」


 和やかな空気をぶち壊すようにフレットが声を荒げる。

 彼を縛っていた縄は既に解いてある。残念ながらフレットがやっていたことは王国においては合法だ。裁く方法は存在しない。


「三人で冒険者を続けるだと? つくづく間抜けな奴らだな! 誰のおかげで今まで生きてこれたと思っている?」

「アンタまだ居たの? さっさと消えなさいよ」

「糞女が。いいさ、お前らは後悔するからな。フレット様の奴隷で居ればよかったとな」


 化けの皮が剥がれたせいか、小物感がとんでもないことになっているフレットをヒガナたちは呆れたように見つめる。

 全員の思いを代弁するかのようにアリスが言う。


「……うるさい、どっか行って」


 痛烈な一言にフレットは顔を引き攣らせてから舌打ちする。

 そして、忌々しそうにヒガナを睨みつける。


「こんな奴に関わったのが運の尽きだ。イカれ野郎が」


 と、捨て台詞を吐いて、フレットは喧騒の中に消えていった。

 二度と会わないことを願うヒガナである。


 ヒガナと三人は顔を合わせると同時に肩をすくめた。


「話の続きだが、ヒガナはこの後はどうするのだ?」


 話題を元に戻したダリルの問いにヒガナは答える。


「預かった物を届けてからは、瑞穂ノ国へ行く準備を整える準備をしようかなと」

「ヒガナさん、瑞穂ノ国へ行くつもりだったんですか?」

「そこが最終目的地なんだ」

「そうですか……それなら私たちも一緒に!」

「ありがとう、リノ。でも、気持ちだけ貰っておくよ。依頼は王都までの護衛だし、これ以上付き合わせるのは申し訳ないから」

「ヒガナさん……」

「心配無用さ。俺には心強い仲間が……っていない。アリスいないんだけど!? どこ行った!?」


 取り乱すヒガナに対してハンナがすぐ近くの路地を指差す。


「アリスなら猫追ってあの路地曲がって行ったわよ」

「何で言ってくれないんですか! 俺、ちょっと捕まえてきます!」


 ヒガナは物凄い勢いで路地を曲がって行った。

 その後ろ姿を眺めていたリノはクスリと笑った。


「ヒガナさんとアリスさん、良い相棒ですね。あの二人なら大丈夫な気がしてきました」

「見ていて危なっかしいがな! だが、見ていると不思議と惹かれていく二人だ!」


 ダリルは腰に手を当て、豪快に笑いながらヒガナたちを評価する。

 ハンナは呆れたように笑い、


「馬鹿なだけじゃない? でも……嫌いじゃないわ」


 それから少しして、アリスに抱きつかれながら帰って来たヒガナはやけに汚れており、顔には引っ掻かれたような傷がいくつもあった。



×××



 ヒガナたちはハンナたちと再会を約束して別れた後、王都の景観を堪能しながら歩いていた。

 すると、ヒガナの背中にいたルーチェがジタバタし出した。彼女はだいぶ前から目を覚ましていたようだ。


「お前様、降ろしてくれ。自らの足で王都という未知の領域を踏みしめたいのじゃ」

「はいよ」


 ヒガナはしゃがんでルーチェを降ろす。

 ルーチェは鼻歌混じりに王都の色彩豊かな街並みを眺める。

 黒を基調とした豪奢でゴスロリチックなドレスを着ているだけあって、町並みとの不一致感はない。強いていうならドレスの色が明るければ更に映えていただろう。


「良いの、良いの。陽気じゃが穏やかな雰囲気が肌を通して伝わるぞ。闊歩する人間どもの顔を見れば、どれだけ豊かで活気に溢れた生活をしているか手を取るように分かるわ」


 上機嫌な幼女を見て、アリスは微かに頬を緩めた。


「……ルーチェ、楽しそう」

「そうだな」


 アリスは空いたヒガナの腕に抱きつく。もはや定番となっている行為だが相変わらず恥ずかしさは拭えなかった。


「アリスって本当に抱きつくの好きだな」

「……ぬくぬくしたい」

「天気も良いし、ローブに着ているのにまだ寒いのか? マフラーでも買うか?」

「……むぅ」


 フードで殆ど潰れている兎耳が余計に垂れる。


「まぁ、俺の腕なんかで良いなら好きなだけ使ってくれていいから」

「……ヒガナだからくっついている」


 嬉しさと恥ずかしさでヒガナは赤くなった顔を背けて別の話題に切り替えた。


「ま、まずは、ノノちゃんのお姉さんに会いに行こうぜ。確か地図……うん、全然読めない」


 ノノから貰った地図はそれはそれは丁寧に書かれてあり、詳しい説明が文字で書かれていたがヒガナにはさっぱり読めない。

 ここで頼りになるのが我らがアリスだ。


「……貴族街の方」

「お姉さんもどっかに仕えていたりするのか?」

「……行ってみれば分かる」

「それもそうだな。おーい、ルーチェ行くぞ」


 噴水を興味津々に見ていたルーチェを呼び戻し、ヒガナたちは貴族街の方へと向かった。


「……ここを右」

「へぇ、そんなこと書いてあるのか」


 アリスが地図に書かれている文字に指を添えながらヒガナにも分かるように音読する。

 ヒガナの背中にしがみついていたルーチェが肩からひょっこりと顔を出した。


「なんじゃ、お前様は字が読めんのか?」

「これが読むことも書くことができないんだな」

「良き家の出かと思ったが意外じゃな。うむ、それなら余が読み書きを教えてやろう」


 ヒガナは想像してみた。

 椅子に座り、机に向かって文字の読み書きの勉強。教鞭を執ってくれるのは背丈より長い漆黒のツインテールにしたゴスロリ幼女。


「いやいや、ルーチェじゃ教えられないだろう。それならまだアリスの方ができそうだし」

「今、見た目で判断したじゃろ! 人間の使う文字の読み書き程度教えるなど造作もないわ!」

「いやー、画的にもシュールだろ」

「しゅーる、の意味は分からぬが莫迦にされているのは分かったぞ! これ以上余を愚弄するのは断じて……」

「……落ちた」


 頬をりんごのように赤らめてバタバタ騒いでいたのが嘘のように、突然なんの前兆もなしにルーチェは沈黙した。

 活動限界が来てしまったようだ。それは、これ以上のルーチェとの交流はできないということになる。


「一日、一時間……限られた時間の中で仲を深めるのは難しいな」


 それでも一時間だけでも彼女と話せることは大きな変化だった。

 異世界で二人目の仲間。この短期間で二人も仲間に恵まれたのは幸運と言えるだろう。

 ルーチェに至ってはアリスと異なり己の意見を率直に伝えてくれるから分かりやすい。わがままといえばそうかもしれないが、それすらもヒガナにとっては嬉しい。

 まるで、妹ができたような感じだ。


「これからも一緒だからゆっくり行けばいいさ」


 ヒガナは背中に感じる重みに幸せを感じながら進む。

 生活感と活気に満ちた商業区画を抜けると、人の気配は少なくなっていき、やがて閑静で厳かかつ華やかな雰囲気が漂う、一つ一つの建物がより洗練された高貴な街並みが広がっていた。


 しかし、ここで一つの障害が生まれた。


 上流階級である貴族の住まう区画と中流階級である庶民の住まう区画を明確に区別するかのように設置されている巨大な建物。

 まるで、貴族街を守護する門番のようだ。


「関所みたいなもんか?」


 小市民のヒガナは役所的な場所に足を運ぶのを躊躇っていたが、アリスは全く気にする様子を見せずにフラフラと関所へと足を踏み入れようとする。


「ちょっ、待って。心の準備的なモノができてない」

「……大丈夫、怪しくない」


 一旦冷静になり、自分たちの姿を客観的に見てみる。

 パーカーにジャージという奇妙奇天烈な格好をした少年。

 外套を着込み、フードを深く被って顔を隠す少女。

 少女の背中で死んだように眠っているゴスロリドレスの幼女(護身霊装である漆黒の外套を羽織らせている)。


「いや、めちゃくちゃ怪しんだけど。俺が関所勤めだったらこんな連中絶対に尋問するわ」

「……いちゃもんつけられたら実力行使」

「大問題に発展するからやめてね?」


 関所の前でまごついていると、ヒガナは見覚えのある人物を視界の端に捉えた。


「あれ?」


 白縹しろはなだ色の髪を揺らして歩くメイドさん。

 そんな特徴的な子はノノしかいない。

 ヒガナは不思議に思って、ノノらしき人物に近寄り声をかけた。


「ノノちゃんだよな? エマちゃんと帝国に戻ったんじゃないのか?」


 ヒガナの問いに、ノノが決して見せないであろう不快そうな表情を浮かべる少女。

 ここで目の前の少女とノノが別人だと気がついた。容姿は非常に似ているが少女の方が幼く見える。


「ノノは私の妹ですが……誰ですか?」


 少女の発言にヒガナは驚いた。

 それと同時に納得もする。


「もしかしてノノちゃんのお姉さん?」

「そう言っているじゃないですか。わざわざ聞き直さないと理解できないくらいに理解力が足りないんですか? それより私の質問への回答を早急に提示してください。強姦魔だったらすぐに騎士団の詰所に逃げ込まないといけませんから」


 すでに逃げる体勢を整えている少女に、ヒガナは慌てて行き過ぎた疑いを晴らすために口を回す。


「誤解だ、誤解! 俺たちはノノちゃんに頼まれて君に会いに来たんだ! ほら、これ見てくれ!」


 ヒガナはノノが姉宛に書いた手紙と託された本を少女に見せた。少女は手紙と本を受け取ってパラパラとページをめくってから、手紙の宛名の文字を注意深く観察する。


「この筆跡、確かにノノの字ですね」

「信じてくれたか?」

「小指の爪先くらいは」

「殆ど信じてねぇ」


 少女は閉じた本をヒガナに押し付けてから急に歩き始める。


「詳しい話は屋敷で聞きます」

「え? 屋敷に連れて行ってくれるのか?」


 慌てて少女の背中を追うヒガナたち。

 ちゃんとついて来ているかを一度たりとも確認しない。素振りすら見せない。


「屋敷なら私の方が優位に立てますから。仮に貴方たちがノノからこれを奪い取って近付いて来た賊だとしたら、即刻首を刎ねるのでそのつもりで」

「めちゃくちゃ疑うな。そういえば君の名前は?」


 ヒガナの問いに立ち止まり、振り向いた少女。

 白縹しろはなだ色の髪をなびかせながら、小悪魔的な笑みを浮かべて、


「淫魔五姉妹が次女、ココ・オリアン・クヴェスト。性格の悪さは自負しています」


 そう、名乗ったのだ。

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