第27話
住み慣れた部屋の古い畳は、所々、角っこがほつれている。
ぴょんぴょんとささくれたイグサの先は、摩耗によって擦り切れて、本来、それらが編みこまれて、畳としての役割を果たしていた場所からは、より、中心部に近い小麦色の層が見えていた。
水が流れる音と、皿がぶつかり合う音が聞こえる。
ここからちょうど見えない位置で誰かが皿を洗っているのだろう。
狭い部屋の両翼に伸びるの壁にそってびっしりと、筋骨隆々とした男達がそれぞれ3名ずつ正座していた。
とても深い奥目のせいか、目の周りは影に覆われて、表情はわからなかった。
彼等は全員が、硬く口を噤んでいる。
一体何があったのだろうか?
「ジャンチル。殿?」
功史朗は、恐る恐るそう声に出した。
蚊の鳴くような声だったが、ジャンチルは聞き逃さずに反応する。
「やっと起きたの?コーシロー?あんたが眠っている間にみんなお風呂入っちゃたわよ」
幸か不幸か、全ては夢ではなかったようだ。おでこに触れながら功史朗はゆっくりと立ち上がる。
「そうでござったか。いや、かたじけない。月光殿たちも問題なく入れたでござるか?我が家の風呂は少し小さいでござるからな」
『・・・』
なぜか、答えは無かった。彼等は、全員が石像の様に沈黙している。
「月光殿?雷電殿?なぜ黙っているでござるか?」
「いいから!とっとと入んなさい!」
張りのある声と共に、奥の台所からひょこっとジャンチルが現れた。
なんの前触れも無く視界に飛び込んできたその姿に、功史朗は胸の辺りを何かで貫かれた様な衝撃を受け。また失神しそうになった。
先の出来事で『失神耐性』のパッシブスキルを習得していなかったら彼は間違いなく失神していたであろうほどの衝撃だ!
(無論、この小説にそう言った類のものは存在しないッ!)
「ジャンチル・・・殿ッ!」
「なによ?」
ジャンチルは、功史朗の方へ体を向けて、周囲に王の風格を漂わせながら、片手を腰に当て、さらに、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
それに対する回答など無く、功史朗は、こそこそと下を向き、足早に風呂へと向かった。
ジャンチルは、唇を僅かに尖らせてその姿を見送った。
「へんなの」
『・・・』
功史朗は目が悪い。
彼は幼少期からずっと分厚いレンズの眼鏡をかけていた。
風呂に入る時は当然眼鏡をはずすので、視界は極限までぼやけてしまい、ほとんど何も見えなくなる。
にもかかわらず、この日、彼は、風呂場の鏡に背中を向けて座っていた。
足元で、水が落ちる音がすると、彼は桶からシャワーヘッドを取り出して、頭から被った。
思った通り、まるで効果はなかった。
抱きもしなかった願望が、ある瞬間を境に解き放たれて腹の中で『好き』勝手に暴れまわっていた。
目に焼き付いた光景を忘れてしまえば、それはたちまち落ち着くだろうが、人は、そううまくできてなどいない。
功史朗は途方に暮れていた。
「その格好(だぶだぶのTシャツに、ホットパンツ)は反則でござるよ・・・ッ!」
水滴の落『ちる』音だけが響いている狭い風呂場で功史朗はそう呟いて、しばらく動けずに項垂れていた。そして、何かのきっかけで彼は狂ったように石鹸で体中を洗い始めた。
良く泡立てた石鹸の泡が鏡や壁に飛び散りとろりと垂れた。中には、天井まで届いたものもあったのかも知れない。
1回では飽き足らず、2回も3回も、もっと、彼は、見る者が哀れに思えるくらいに一心不乱になって体を洗った。
僕は汚れているぅッ!
ふと気が付くと、功史朗は、自分が涙を流していたことに気が付いた。
彼は振り返り、鏡の中の自分に向かって微笑みかけた。
「・・・悲しいでござるな?」
『コーシロー!?』
「ぎゃーーーぅッ!!」
悲鳴と共に、功史朗は湯船に飛び込んだ。先に入浴した者たちはよほど気を使って入ったのだろう、湯船にはいつもとほとんど変わらないだけのお湯が残っていた。
「なななな!何でござるか!?ジャンチル殿!?」
「大丈夫なの?」
「なにも心配はないでござるよ!おかげさまで拙者健康そのものでござる」
「そう。ならいいけど。ちゃんと、おちんちんの皮もむきむきして洗うのよ?」
へ?
今、確かにおちんちんと言ったな・・・?確かに今。言ったな?おちんちんと。
今までの葛藤など、どこか遠くへ消え去って。すぐさま、魂が抗議する。
「何とことを言うでござるか!ジャンチル殿!」
すると、浴室扉のすりガラスにシルエットが現れた。ゆったりと伸びた白いTシャツに、腹巻きよりも短いホットパンツのシルエット。
あれは、見間違いなどではなかった!
どきりとして、功史朗はさらに深く湯船に浸かった。
「あんたこそ何言ってんのよ?一番バイ菌が溜まる場所でしょうが」
そうとだけ、言い残し、すりガラスの向こうからジャンチルが去った。
「そうだ。コーシロー!」
「何でござるか?」
「歯ブラシの替えは無いの?」
「押し入れにしまってあるでござるよ」
「使ってもい?」
「もちろんでござる」
「ありがと!」
浴室に完全な静寂が訪れる。
お湯から上がった功史朗は、もう一度体を洗い、続けて普段通りに風呂を綺麗に掃除した。
部屋に戻ると、外の干場に、ジャンチルのスーツが夜風に揺られていた。
月光たちの視線が功史朗へと注がれて、やがて両者はひきつった満面の笑みを浮かべる。
(にこぉ~・・・・ッ)
「・・・どこかしら」(ゴソゴソ)
『・・・』
月光が、一人分の居場所を開けて、功史朗も同じように座った。
全員が痛みを分け合う惨めな敗者だった。
沈黙だけが彼等の合言葉だった。
年下の少女に、あろうことか亡き母の面影を見てしまった哀れな男達だった。
功史朗はすっかり荒んだ心の中で咲いた一輪の花に見せつけるように、自らに鞭を打ち続けた。何度も何度も、打ち続けた。きっと、ジャンチルが心配するから、表情には決して出せない。他の者もそうだった。
――――――――—————
功史朗。月光。雷電。魹鷲。
雲龍。飛影。 羅虎ッ!!!
――――――――—————
羅虎?
羅虎の様子がおかしい。
他の全員が、同じように苦悶の表情を浮かべる中、羅虎の視線だけがある一点に向けられていた。彼のこめかみをひと筋の汗が伝う。目も口も大きく開かれていた。
飛影がまずそれに気が付いて、雲龍も気が付いた。二人もすぐに全く同じリアクションをする。
他の兄弟たちも段々と気が付いて、同様の反応を示した。
ただならぬ様子に、ついに功史朗もそちらを見た。
「うーん、ないわねぇ」
視線の先では、押し入れのなかの生活用品などが補充してある衣装ケースの隙間に頭を突っ込んで、ジャンチルがゴソゴソとやっていた。
ぶかぶかのTシャツが重力の影響で垂れ下がり、ぽっかりと口を開けていた。
そこから覗く、風呂上がりのぷるんとした桜色の肌、適度にくびれたウエスト。
どうやら、ジャンチルは着痩せするタイプだった。
捜す場所をほんの少しだけ変える度に、ゆったりと弧を描くように移動する点P。いや!B!!
「あったッ!」
『・・・・・・・』
「どうしたのあんた達?」
『・・・・・・・』
「へんなの」
その夜。
「くかー。くかー」
『・・・・・・・』
ジャンチルは部屋の真ん中で眠っていた。
王に足を向けて寝る家臣がどこにいるであろうか?
彼等は、薄明かりの中で同心円状に頭を揃え、部屋の中心に吊るされた裸電球をただただ見つめていた。
白く、美しいシルエットを持ったそれは、今ではゆらゆらと、怪しげに揺れているように見え始めていた。
「くかー。くかー・・・ぅんッ・・・むにゃむにゃ・・・」
ジャンチルが寝返りをうった。月光に続き、次は、雷電が『犠牲』となり、真の忠誠心を試される事となる。
彼は、次の寝返りまで、残酷とまで呼べるほどの柔らい『何か』に耐えなければならなかった。
『・・・・・・・』
「功史朗」
月光だ。
「何でござろう?」
ほとほと困り果てて、全ての感情が削り落とされた後の様に、月光は呟いた。
「我らは、いったいどうなってしまうのだ?」
功史朗も、裸電球を見上げていた。
ぼやけた視界の中で、やはりそれは、ゆらゆらと怪しげに揺れている。
「わからないでござるよ」
功史朗は、半年という時間の長さを今までの人生から逆算し短いと感じる事にした。
彼はそっと目を閉じた。
「・・・むにゃ」
「・・・ッ!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます