第5話 30センチは近いか否か

「秋吉さん!昨日はありがとうございました」


「おー、ええよ。あれからすぐ電車来た?」


「はい、大丈夫でしたぁ」



藤田が秋吉に話しかける声がする。


キーボードに向かう手はそのままに耳だけダンボになってしまうのはどうしようもない。


気になる人が出来ると、どうしてか彼の声だけは何処に居ても聞こえてくるのだ。


それが、どんな他愛無い世間話であっても。


まして、相手が可愛い後輩となると気になるのは当然の事。


「広瀬さん、これの見積もりだけど今日中にメールしといてくれる?」


横から河野に話しかけられて思わず大声を出してしまう。


「え!?あ、はい!」


「考え事してた?」


「すいません・・・」


「いいけど、画面面白い事になってるよ?」


見ると、Aの文字が大量に並んでいる。


うっかりキーを押してしまっていたらしい。


河野に笑われて、千朋は慌ててデリートキーを押して文字を消す。


ぼーっとしてたみたいで、と言い訳を口にしながら謝罪した。


「広瀬さんて面白いなあ」


「面白いって褒め言葉ですか?」


「うん、スゴイ褒め言葉だよ」


「絶対違うでしょー?褒め言葉ゆうんは、可愛いとか、綺麗とかじゃないですか」


「そーか、じゃあおまけで可愛いにしとくかな?」


「おまけって!もう失礼すぎですよ」


「ごめんごめん」


笑いながら席に戻る河野を軽く睨み付けておく。


会社の顔となる営業は、成績は勿論、人柄も重要視される。


支店に詰める営業は、みな一様に温厚で人当たりが良い。


特に河野は、容姿が抜群に整っていて女子社員からも人気がある。


それを鼻にかける事も無く、適度に気安く接するので、さらに人気に拍車がかかっていた。


そういう相手から、”おまけ”で可愛い。とか言われると物凄く複雑な気持ちになる。


自分で言うのもなんだが、恋愛対象にはならない安全圏の女なのだ。


さっきのふたりの会話を頭から追い出す。


何でもない・・・きっと、何でもない・・・はず・・・





夕方17時。


支店の電話が鳴った。


後30分で定時と言う時間帯なので、一瞬フロアに緊張が走る。


斉藤が出るなり、大慌てで千朋を呼んだ。


「千朋さん!河野さんからです!」


電話を代わるなり依頼された内容に、千朋はすぐさまキーボードを叩いた。


先方の決裁の都合でどうしても今日中に見積書類の提出が必要になったらしい。


ここからは時間との勝負になる。


河野からの指示は的確で、すぐに対応すれば間に合う案件だった。


電話を切るなり、千朋は書類を片手に立ち上がる。


「書類届けに駅まで行ってきます」


河野が抱えているものは競合案件なので、遅れるとその分不利になる。


待ち合わせの改札で、河野が待機している手筈になっていた。


アシスタント事務員をやっていると、時折こういうイレギュラー対応が発生する。


新人の頃はびくびくオロオロしていたが、今ではもう慣れっこだ。


エレベーターに乗り込むと、後から森が駆け込んできた。


「広瀬さん!僕も今から印刷所にパンフ取りに行くんで駅まで送りますよ!」


「ほんま?助かる!」


河野が指定した場所は、ビルから徒歩で10分ちょっとかかる私鉄の駅だった。


走っていく覚悟で出たが、車のほうが確実に早く届けられる。


帰宅ラッシュを避けて、上手く裏道を抜けるルートを森は選んでくれた。


「秋吉さんが行こうとしてたんですけど、ちょうど、取引先から電話が入ったんで僕に行けって」


ハンドルを握る森の言葉に思わず目を見張る。


「え・・・秋吉くんが?」


「広瀬さん急いでたから、車出した方がいいと思ったんじゃないですかね?」


「そっか・・・」


気にしてくれたんかな?


淡い期待が湧き上がって、浮き上がりそうになる心を、べしっとたたき折る。


勝手に浮かれるのは厳禁だ。


ただの同僚への気遣いに決まっているのだから。


「秋吉さんて、ほんとにみんなのこと良く見てますよね。こないだも、帰り道1人だった藤田さんを駅まで送ってあげたらしですよ?ほら、定期研修行ってたじゃないですか、彼女。あれが長引いたらしくて、支店戻ってきたの19時半回ってたんですって」


営業事務は、覚える仕事が多いので、慣れるまで定期的に全国の事務員を集めて研修を行っているのだ。


千朋も三年目までは参加していた。


さっきの秋吉と藤田の会話を思い出す。


そういう事だったのだと合点が言った。


ホッとすると同時に、小さすぎる自分の度量に泣きそうになる。


「うん・・・ほんまに・・秋吉くんってみんなに優しいんよね・・・」


きっと、今回の事だって、相手が千朋じゃなくても同じコトをしたはずだ。


これはもう絶対、間違いなく。


森に送ってくれたお礼を言って、駅に駆け込む。


河野の携帯を鳴らすと、すぐに改札前にいる彼を見つけた。


「河野さん!!!」


「ごめんなー!助かったよ!えらく早かったけど、もしかして走ってきた?」


「いえ、森君が送ってくれたんで」


「そっか・・・営業戻ってて良かったよ。じゃあ俺、これ渡しに行って、そのまま帰るから」


「了解です。伝達残しておきます」


「今度お礼にお茶でも奢るよ」


「ほんまですかー?楽しみにしときます」


「うん、美味しいお店リサーチしとくよ。じゃあ行ってきます」


「はーい、気を付けて、いってらっしゃい!」


ホームに向かう河野を見送って、ほっと一息ついてから会社に向かって歩き出す。


車に乗っていたので気づかなかったが、一気に空気が冷え込んできていた。


ぶるっと肩を竦めて、足早に駅の階段を降りる。


上着持って来たらよかったな・・・


急いでいたので、カーディガン1枚羽織ったままで出てきてしまった。


何か買って帰ろうかと思ったが財布も携帯も会社の机の上。


緊急事態にありがちなミスだ。


帰宅の為に駅に向かう人の流れに逆らって、ビルのある大通りを進む。


帰ったらあったかい飲み物でも飲もう。





支店のドアを開けると、マキと秋吉と、松村課長しか残っていなかった。


みんなは?と尋ねる前にマキが答えてくれる。


「二人はさっき帰ったわよー」


「りょうかーい」


「千朋、そんな薄着で出てたの?」


「行きしな車やったし、ばたばたしとってんもんーついでに財布も携帯も忘れて行きました」


「もー・・急いでてもカバンと上着位持っていきなさいよ。風邪引くわよ?」


そう言って、立ち上がるマキ。


「何飲むの?課長と秋吉さんもいります?」


千朋を気遣って飲み物を用意してくれるらしい。


ここは厚意に全力で甘えておくことにする。


「緑茶で」


「俺もー」


「マキ優しいー、うちは抹茶オレ」


「はーい」



18時半を回った頃、課長が珍しく先に帰った。


いつもは19時頃まで残務処理に追われているのだが、見ると机の上は綺麗に片付いていた。


「広瀬、中野さん、後どれくらいかかる?」


商品伝票を片手に秋吉が訊いてきた。


千朋は入力中の受注伝票の枚数を数える。


打ち込み数は多いが、難しい特別処理は必要ない案件ばかりだ。


ざっと時間を見積もる。


「15分くらい」


「うーん、私は10分くらいかな」


「俺ももう終るから、送るわ」


え・・・


突然の提案に、千朋が伝票を繰る手を止めた。


無言の千朋を放置して、マキがすかさず答える。


「ありがとう。ぜひ、ってお願いしたんだけど・・でも、私この後待ち合わせなのよ」


そう言ってさくさく机を片づけ始めるマキ。


絶対嘘やん!!


デートなら、もっと女っぽい格好をするはずだし、事前に千朋に伝えているはずだ。


明らかに千朋と秋吉を二人きりにさせようとしている。


不満たっぷりの視線をマキに向ける。


彼女は、満面の笑みを浮かべて口だけ動かして、ガンバレなんて言ってきた。


ちょっと待ってよ、何を頑張るんよ?彼女おらんねんてー、へー、うちの時代やな?ってならへんわ!


「そうなん?」


「うん。彼氏と夕飯の約束なの。だから、秋吉さん、千朋をお願いしますね」


念を押すマキに秋吉は


「おー任せとけ」


なんて気安く返事を返す。


千朋は呑気な二人のやり取りを横目に、キーを叩く気力も無くなってげっそりと肩を落とした。


マキの押せ押せで付き合い始めた小学校教諭をしている年上の彼氏とはかなり上手く行っているようで何よりだが、妙なお節介は本当に困る。


じゃあ、お先に。と笑顔で帰っていくマキを見送ってから、二人で手分けして支店の戸締りをした。


普段通りのやり取りをすればいいと分かっているのに、二人きりというだけで身構えてしまう。



「うちだけ送って貰うん悪いし・・やっぱり森君待っといたほうがえんちゃうの?」


二人で並んで駐車場に向かいながら、今更な提案をしてみた。


誰もいない地下駐車場は声が響くからいつもより小声になる。


「アイツも荷物持って出とるから社用車でそのまま帰るやろうし。ええよ。メールも送ったから、今更戻って仕事しようとは思わんやろ」


「うん・・・あ、そうや、今日はほんまに、ほんまに、駅まででええからね?」


これ以上の問答は諦めて、先手を打って、目的地を明確にしておく。


うやむやなまま今日も自宅まで送ってもらう事は避けたかった。


「どないしたん?遠慮して」


きょとんとした顔で秋吉が尋ねた。


いつも通りすぎる彼の態度に、一人であわあわしている自分が情けなくなってくる。


「遠慮もするよ!」


「ついでやーゆーてるやろ?」


「ついで・・って距離ちゃうし」


「車運転するん好きやから、気にせんでええよ。短いドライブやと思って付き合って」


そう言われては言い返せない。


自分の都合だと言い切られてしまえば、駅前で降ろして、というのは千朋の我儘になる。


えっと、ひとまず仕事の話をして、出来るだけ昔話はなしで!絶対なし中のなし!


この後の会話のシミュレーションをしながら千朋はふと足を止めた。


車はもう目の前だ。


このまま行くと、普通に助手席に乗る事になる。



助手席はマスいだろうと思ったのだ。


マキいわく今付き合っている人はいないらしいが、社内に知られていないだけで実は彼女がいる可能性だってまだ残っている。


万が一、を思うとそれ以上動けなかった。


「う、うち、後ろ乗ったほうがよくない?」


「なんで?」


「だ・・だって、助手席乗せる人・・他におるんちゃうん?」


口にしてから激しく後悔したがもう遅い。


あ・・・すっごい嫌な聞き方してもた・・・


今更、あとの祭り。


秋吉は、助手席のドアを開けてこちらを見てくる。


一瞬の沈黙の後、秋吉が答えた。


「そんな人おらへんから。ええから乗り、帰んぞ」



足が震えた。


しゃがみ込みそうになる。


本人の口から”恋人がいない”という言葉を聞くだけで、無罪放免を言い渡されたような気分になった。


良かったぁ・・・・


いつの間にか握りしめていた掌にはじっとり汗が滲んでいた。


たったこれだけで、この有様だ。


「彼女おったら森でも助手席に乗せたりせえへんわ」


ハンドルを握る秋吉が、冗談交じりに言って黙り込む。


千朋は何と返そうか視線を揺らした。


そこで黙られると困るって・・・だから、こういうやり取り慣れてないねんってば・・


とりあえず、不愉快な思いをさせた事に間違いない。


「変な気ぃ回してごめん・・」


チラリと浮かんだ藤田の顔。


彼女は、以前歩いて送ってもらったのだろうか?


秋吉が何も言わないので話題を振るつもりで訊いてみる。


「あ、藤のこと送ってあげたんやって?森君からこないだ聞いたん。あれって・・・車やったから?」


同じ場所にあの子が座ったりしたんだろうか?


考えただけで、チクリと痛む胸。


「ああ、ちゃうよ。歩き。取引先の飲み会に顔出すついでに、駅まで送ったんや。外、暗かったしなぁ」


歩き・・つまり、この助手席には乗って無い・・・


ただそれだけのことなのに、どっと溜息を吐きたくなる。


吐き出しそうな息は飲み込んで、上手に話を変える。


気づかれませんように。


「あ、そうなんや・・定期研修、いっつも長引くんよ。講師役が東海地区のベテラン事務員さんやねんけど、すっごい話好きの人やから」


「ああ、聞いた事あるわ。育休取って戻ってきた人やろ?人事にも顔が利くっていう」


「そうやねん。結構有名な人なんよ」


「藤田さん、戻って来た時めっちゃ疲れた顔しとったし」


「そうやろね・・・ほんまに、秋吉くんは優しいわ」


彼の優しさはいつも公平で、真っ直ぐだ。


それでも、この場所で数分間だけでも二人が一緒だったらと思うとドスンと重たい気持ちが胸に広がる。


歩いて送った、という話にそっと胸を撫で下ろす自分がいた。


自然と顔が笑ってしまう。


「優しないで」


謙遜するかのような秋吉のセリフに、千朋は反射的に首を振った。


「今日も森君に、うちのこと頼んでくれたんやろ?」


「急いどったしな」


「すごい助かってん。ほんまにありがとう」


「・・なあ、広瀬。俺は、謝られるより、ありがとうって言われる方がずっとええわ」


改まった口調で指摘されて、思わず背筋を伸ばして座り直す。


確かに、謝罪されるより感謝されたい。


「うん・・・そーやんねぇ」


誰だってそうだ。


これからは、まず、ありがとうを言おう。


謝るのはそれから。



話が途切れて、千朋は視線を外に向ける。


見慣れた景色に、ここがもう家のすぐそばである事に気づいた。


また今日も送ってもらってしまった。



「駅まででええってゆったのに・・」


「家知ってんのに、送らん方が可笑しいやろ」


「ご・・・ありがとう」


「どういたしまして」



鷹揚に答えた彼が、この間のように公園の側で車を止める。


車に乗る時に感じていた妙な緊張は、どこかへ行ってしまった。


藤田との話を聞いたせいかもしれない。


あれほど会話をどうしようか迷っていたのに、彼の隣に収まる事が、全然苦痛じゃなくなっていた。



二人の距離は僅か30センチ足らず。


今までで一番近づいたのに。


今までで一番居心地が良かった。

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