第4話 してはいけない高望み

朝方まで寝付けなかったのは元彼と喧嘩をした時以来だ。


ちなみに別れた時には全く問題なく眠れた。


喧嘩をきっかけにすれ違いが始まって、別れ話が出る頃にはそうなる予感がすでにあったので。


寝がえりを打っては時間を確かめて、眠ろうと目を瞑るたびに、さっきの秋吉の顔が頭に浮かぶ。


そして、一緒に、18歳の自分の記憶も鮮明に甦る。


ほんの些細なことから、大きなことまで。


例えば、持ったばかりのPHSで授業中ワン切りをして、遊んだこと。


先生の目を盗んで回した手紙や、スカートの長さを短くする為にウエストを2重折りにしていたこと。


マスカラは駄目だから、透明マスカラとビューラーを駆使していたこと。


大流行したプリクラを貼る為だけに分厚い手帳を持ち歩いていたこと。


そして、教室彼と話すたびに、些細な事で一喜一憂していた自分のこと。


思い出したくない過去まで甦って、頭で暴れまくる18歳の自分に振り回される。


教室が、制服が全てだったあの頃。


元彼と交際中の頃はどうやってこの異様なテンションを抑えこんでいたのか。


車で送って貰って、昔の記憶が一気に甦って来てもう一度好きになっちゃいました?


ありえんへん・・恥ずかしすぎる・・・


勝手に早くなる鼓動、赤くなる顔、気を抜けば緩む頬。


認めるしかない恋の自覚症状にのた打ち回っているうちに夜は明けて目覚ましアラームがいつもの時間に鳴った。


未練があるわけじゃないけれど、何となく手放せずに置いてある制服のせいで、こんなリアルに恋心が甦ってきたのだろうか。


バッチリ出来たクマをコンシーラで隠しつつどうにか会社用の顔を作る。


仕事だと言い聞かせてはみるものの、会社に行けば確実に秋吉に会えるわけで。


その事がどうしようもなくらいに嬉しい。


18歳の自分と違って、大人になった今の自分は誰に気兼ねすることなく、彼と話すことが出来る。


仕事のことや、高校の頃のこと。


時にはくだらない笑い話。


昔じゃ考えられなかったくらい進歩、いや、進化している。


飛び跳ねたくなっているのは18歳の自分かそれとも26歳の自分なのかは分からない。


けれどどちらにしても、恋していることに違いはない。


二年ぶりの恋だ。





「おはよ」


エレベーターを待つ背中に声を掛けるのももう慣れたものだ。


”おはよう”を言うのに、勇気を振り絞っていた高校時代の自分に、今の勇姿を見せつけてやりたい。


挨拶は基本中の基本なので、別に胸を張れることではないのだが、まともに会話すら出来なかったあの頃があるだけに、こみ上げる想いはひとしおだ。


「おー、おはよ」


「眠そうやね?夜更かししたん?」


「河野と今井さんと飲みに行ってな」


「何時まで?」


「2時・・・さすがに家着いたら爆睡してもた・・・それでもまだ眠い」


欠伸をしながら首を回す秋吉をちらりと見上げる。


学生時代も、こんな風に教室に入ってきた彼を見ていた。


もう少し、離れた場所から。


千朋はカバンからスーパーミントのガムを取り出した。


寝不足の朝の必需品だ。


涙目になる位のミント味なのだが、それは黙っておく。


「めちゃ効くから、コレ」


「お、ありがと」


「今日は早よ帰りぃよ?」


「そーする・・」


河野も、今井係長も、秋吉と同じように欠伸をしながら席についている。


眠たそうな三人を横目に、昨日残して帰った書類を整理する。


営業にとっては飲み会も仕事のうちだ、とその昔部長が豪語していた。


河野は結構な酒豪と聞くので、秋吉と今井係長は付き合って飲み過ぎたのかもしれない。


今井係長は先日婚約したばかりだ。


結婚前の自由なうちに、と至る所から飲みの誘いが来ていた。


ここ最近連日飲み会だと話していたので、婚約者はお怒りなのではないかと元アシスタント事務員としては気になってしまう。


当番の千朋がみんなに朝の飲み物のリクエストを取ると、三人は迷わずブラックコーヒーを上げた。


少しでも眠気を追い出そうという姿勢が伺えて、申し訳ないと思いつつ笑ってしまった。


給湯室のストックは、先日貰い物の紅茶を差し入れてくれた課長のおかげで潤っている。


千朋、藤田、斉藤のアップルティー、マキはココアだ。


部長達にはそれぞれの好みのコーヒーを入れて持っていく。


コーヒーをカップに入れていると秋吉が給湯室に入ってきた。


「広瀬、コーヒー濃い目にして」


「わかった」


「今日は1日ガム噛まなあかんなぁ」


「あれ結構効くやろ?」


「目ぇしぱしぱしたわ」


秋吉の表現があまりにも可笑しくて、思わず笑ってしまう。


涙目の千朋が突っ込んだ。


「しぱしぱってなんー?」


「なるやん、パリゆーかさぁ」


「分からんよ、そんなん」


「絶対伝わると思ったのに」


「だって擬音がおもしろすぎて・・」


先に秋吉のカップにお湯を注ぐ。


要望通り粉末のコーヒーを少し多めにした。


ブラックを飲まない千朋には微妙な判断が難しい。


お湯を少し少な目に注いで、カップを差し出す。


「こんなもん?飲んでみて」


「・・・ん、いける」


OKサインが出て、ホッとする。


ミルクと砂糖が無いとコーヒーが飲めない千朋には、ブラックコーヒーの美味しさが理解不能だ。


マグカップ片手に戻っていく秋吉の後ろ姿を見送る。


今日の午前中はマーケティング企画部と営業部の合同会議が入っていた。


ブラックコーヒーでどうにか眠気をやり過ごしながら会議に向かう秋吉達が居なくなると支店には事務員4人だけが残った。


男性陣がいなくなったフロアは、どことなく開放感がある。


千朋たちはいつも以上に雑談しながらいつもよりのんびりと、マイペースに仕事をこなしていく。


やっぱり、上司がいないとのびのび出来る。


机の上に堂々とお菓子を広げたり、今のうちにネットを覗いてみたり。


本社はネット規制が厳しくなっていたが、支店は、個々で必要備品の購入が必須なので、規制が緩いのだ。


「ねえ、千朋」


マキが森の椅子に座って千朋の横にくっついてきた。


ネットで、お取り寄せのお菓子を見ていた千朋は、画面を見たまま声だけで返事をする。


「んー?」


「最近秋吉さんとえらく仲いいわねぇ?」


意味深な笑みを浮かべるマキの顔には興味がありますと書いてある。


千朋は瞬時に視線を残り二人の事務員に向ける。


案の定興味津々の顔で斉藤と藤田がこちらを見ていた。


急いで立ち上がると、マキの腕を引っ張る。


とてもじゃないがここで出来る話ではない。


「きゅ、給湯室行こ!」


さすがに事の詳細を話すわけにはいかないので、彼が高校時代の同級生である事、事務所移転で初めて同じ会社に就職していた事を知った事をざっと説明する。


一部始終の説明を聞いたマキはニヤリと笑って頷いた。


「千朋もとうとう恋をしたのねー」


「ちょ・・・恋とかっ・・」


「千朋が秋吉さんと喋ってる時の顔見たらすぐ分かったわ」


「・・・・」


千朋は賢明にも無言を通した。


これまでの経験で、不用意に言い返しても、徹底的にやり返されるのは目に見えている。


「それで、告白すんの?」


「何言うてんの!」


思わず大声を出してしまう。


告白とか・・・やめてー・・ムリ、むり。


一気に悪夢が甦る。


「せ・・・せえへんよ!」


「なんでよ!」


「・・・・見込みないん分かってるねん」


8年も前に。


飲み込んだ言葉がずしりと胸に響いた。


ぎゅっと眉間に皺を寄せる親友を見つめて、マキは怪訝な顔をして千朋の手を握った。


「何を根拠に言ってるのか知らないけど・・あ、もしかして秋吉さん、彼女いんの?」


そんなこと訊けるわけない。


だって、今の自分は過去の自分と向き合うのに精一杯なのだ。


「知らんねん・・」


「なら、見込みあるかもしれないじゃない?そんなしょっぱなから諦めてどーすんの」


「・・うん・・」


諦める、諦めない以前に、手放した片思いだ。


最初から負け越しスタートなのは仕方ない、と自分に言い訳しておく。


「まあ、こればっかりは、自分で決めることだから、私は応援しかできないけど・・」


「それで十分やわ」


二年ぶりの恋は、ひとりで抱えるには大きすぎてしかも、昔の記憶も引きずっているので手に余ってしょうがなかった。


こうやって話を聞いてくれるマキがいるだけで、千朋にとっては随分と頼もしかった。


付き合うとか、告白とかそういう現実的なことは全く考えていなかった。


昔の嫌な思い出もある。


答えが分かっていて、二回も傷つくことはない。


秋吉を好きになって、毎日が楽しくて。多少の浮き沈みはあるけれど、それすらも新鮮に思える。


片思いでも、恋をしているという事実は、間違いなく今の千朋の原動力になっていた。


それで、十分だった。


これ以上、近づいて、高校時代に憧れた彼の粗が見えるのも自分の粗を見せるのも嫌だった。


漸く絆創膏が貼れたばかりの青春は、青春のままで。


そう思っていたのに。



14時過ぎに、パソコンあてにメッセージが届いた。


マキからだ。


部長たちが在席中はあまり喋りすぎていると注意されるので、やり取りはアプリで行うことが多い。


開くと”いないって”の文字が見えた。


訊かなくても分かる。


彼女のことだ。


別部署の同期にでも探りを入れてくれたのだろう。



ちょっとの安堵感と、高望みをしそうになる気持ちの間で千朋はグラグラ揺れていた。

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