第3話 思い出と自覚症状
移転の後片付けが完全に終ったのは引越しから1週間が経過してからだった。
営業は外回りに出てしまうので、日中の支店には事務員のみ。
力仕事も女の仕事。
重いファイル運びも、テーブル移動も。
連日の荷物運びでみんな相当疲れてきている。
「千朋さーん!このファイルってこの上ですかぁ?」
藤田がA4ファイルの束を抱えて必死に背伸びをしている。
「あー、やるやる!」
千朋は慌てて彼女の手からファイルを取ると、爪先立ちになってファイルを棚に乗せた。
身長150センチのミニーちゃんな藤田にこういう仕事は無理だ。
「すいません」
「えーねんで。高いトコのんはうちか、男の人に頼みー?」
「はーい」
「ほんなら、藤は、うちの代わりにあっちの棚にファイル色別で並べてくれる?」
「分かりましたー」
部長の机の後ろにある背の低い棚、あれなら彼女でも大丈夫の筈だ。
昨今データ化が叫ばれてはいるものの、まだまだ紙資料と紙伝票は無くならない。
保管期限が過ぎるまでは大切に残しておく必要がある。
キャビネットの最上段に上げるために空のファイルをダンボールに詰めていると、マキが声を掛けてきた。
「ごめーん!千朋!ちょっと来て!」
「はいはーい!」
給湯室を片付けていたマキも棚の上に手が届かないらしい。
コーヒー豆を手に途方にくれるマキからそれを受け取る。
「右の棚?」
「うん、助かるー、今日はヒールじゃないから」
「珍しいやん」
いつも8センチヒールで千朋より数センチ高いところにある顔が今日は僅かに下にある。
「定時ダッシュするから」
「えーよー」
「私の仕事は終ってるから、よろしくね」
化粧直しを終えた、綺麗なピンクの唇を持ち上げて、マキが綺麗な笑顔を作った。
恋する女は艶っぽいというがまさにその通りだ。
先日までのくたびれモードはどこへやら。
すっかり綺麗なお姉さんに変身している。
デートやろなぁ・・・
ただでさえ美人のマキが、花開く様にキラキラしている様は見ていて楽しい。
女性として憧れるもの全てを持っている彼女に惹かれない男性はいない筈だ。
ファイルを詰めたダンボールは結構な重さになった。
膝に乗せたダンボールを肩に上げて腕を何とか伸ばそうとするが、腕力の限界だ。
ぷるぷる震える腕は、これ以上無理!と訴えかけてくる。
踏み台が必要だ。
その昔、回転椅子で荷物を上げて派手に転んだ苦い記憶が甦る。
いや、こういう時は、やっぱ脚立やわ・・・
堅実な方法を選ぶようになった自分を誉めつつ、ひとまず荷物を下ろそうと視線を動かす。
次の瞬間、千朋の肩から重みが消えた。
「どこに上げるん?」
後ろからダンボールを持ち上げたまま秋吉が訊いて来る。
咄嗟の出来事に反応が遅れた。
答えるより先に息を飲んでしまう。
助かったと思うより先に心臓が跳ねた。
「あ、隣の棚の上」
「了解」
軽々とダンボールを押し上げて、千朋が指示した場所に片づけてしまう。
脚立も椅子も必要なかった。
ものの数秒でミッションクリア。
さっきまで腕を震わせていた時間は何だったのかと思ってしまう。
こういうタイミングで男性社員が居てくれると非常に助かるのだ。
「あ!ありがと!」
「重いもんは置いとけよー?」
「うん、そないする。あ、お帰り、おつかれ」
「おー、ただいま」
いつの間に戻って来たのだろう。
最近同行営業が多い後輩、森の姿は見えない。
「お茶入れるわ」
「頼むー、森の分も入れたって。あいつもすぐ戻るし」
「はいはーい」
給湯室に入って、ほうじ茶を用意する。
彼は昔から優しかった。
いつだってみんなに公平に優しかったのだ。
それでも、優しくされたらやっぱり嬉しかった。
「はい、どーぞ」
「サンキュ」
「ありがとうございます、広瀬さん」
マグカップをそれぞれの前に置いていく。
森は、貰った名刺の整理中、秋吉は、パソコンでメールチェック中。
営業が支店に戻ると、伝票作成やら売上処理で忙しくなるのだが、まだ月半ばという事もあって。慌ただしさはない。
比較的穏やかな月半ばに、飲み会や合コンを入れるのが事務員の鉄則だった。
用事を終えたトレーを給湯室に戻そうと踵を返す。
と、秋吉が言った。
「広瀬はさぁ、高校んときも今みたいに、重い荷物持っとったよなぁ」
パソコンに向かう視線はそのままで。
千朋は踏み出した足を引き戻した。
一気に心臓が騒ぎ始める。
「そ、そんなことないわ・・」
「球技大会の打ち上げの買出しの時もコンビニ袋1人で持ってたやん」
急に昔の話を持ち出されて、否応なく過去の記憶が蘇る。
どうしてか、2人でいると、あの頃の教室の空気を思い出してしまうのだ。
とくに会話らしい会話なんて、しなかったのに。
「あ、あれはたしかじゃんけんで・・」
負けた子が荷物持ちねー、とノリで決まったはずだった。
そんな昔の事を、当事者でもない秋吉が覚えている事に驚く。
クラスメイトをよく気遣う生徒だった。
「側に手ぶらの人間おったら持たせたらええねん。俺らも昼間はおらんけど、ちょくちょく戻ってくるしな?」
「うん・・ありがと・・」
千朋は小さく頷く。
名刺を綴じた森が、不思議そうな顔で千朋を見てきた。
二人のやり取りに疑問を抱いたらしい。
「広瀬さんと秋吉さんて同級生なんですか?」
「そーやで」
秋吉が、高校の同級生と説明する。
千朋も、ここに来るまで気づかんかってん、と付け加えた。
「へー・・・知らなかったです。秋吉さんて高校の時から面倒見良かったんですかぁ?」
興味津々で尋ねてくる森は優しい先輩の学生時代が気になるらしい。
「うん。優しかったよ。そやから、体育祭や文化祭は引っ張り出されて大変やったよね?」
「体育祭3種目はキツかったわ」
「秋吉くんと、サッカー部の・・・副キャプテンやってた・・・えっと、森田くんやっけ?二人の頑張りのおかげで、ウチのクラスは学年1位やってんよ」
「担任がお祝いってジュース買ってくれたなぁ」
「そうそう、お祝いやのに、なんでか青汁!」
教卓にドンと置かれた緑色のパッケージに、一気に教室が騒がしくなった。
普通はベタなジュースを選ぶところだろうに。
「あれはウケたよな!」
「一位取ったのに罰ゲームみたいって言いながら飲んだわ」
お祭りの後特有の教室のざわめき。
夕陽の差す窓際の席で、配られた青汁ドリンク片手に、何人かの男子がふざけて一気飲みを始めた。
秋吉くんも混ざってたんよね・・・
それを女子は呆れ顔で眺めたり、笑ったり。
そのうち誰かが、青汁を一気飲みし終えた子に、新しい青汁を渡した。
おかわり、どうぞ。なんて言って。
それを皮切りに、今度は青汁の押し付け合いが始まった。
5人並んだ男子生徒の前に青汁がどんどん置かれていく。
「どーする?」
渡したいな、なんて気持ちはおくびにも出さずに友達に尋ねた。
「どーせ飲まないよねぇ。さすがに青汁は」
青汁なんて、それこそ罰ゲームの時位しか、飲んだ事がなかった。
疲れ果てた体で、さらに苦いジュースを飲むなんて苦行以外のなにものでもない。
そう言って、千朋の分も手に持って友達が席を立った。
「あ!!」
「え?いる?」
「あ、ううん、いらんよ」
そして二人分の青汁は彼女の手によって秋吉の前へ置かれた。
これも飲んでいいよ、なんて笑顔を向ける友人に、もおこれ以上は無理やって!と言い返す彼。
そのやり取りに加わる勇気も無くて、ただ羨ましかった。
自分で持って行けばよかった・・・
結局千朋はそのまま自分の席から一歩も動かず、教卓前で騒ぐ彼らを少し離れたところからただ、眺めているだけだった。
「どないした?」
目の前で手をヒラヒラと振られて我に返る。
高校生じゃない、26歳の秋吉が怪訝な顔でこちらを見ている。
「あーううん・・・」
ちょっと昔を思い出して浸ってしまいました、なんて言えるわけない。
首を振って誤魔化す。
「俺はアレで青汁嫌いになったわ」
「そやろね、スゴイ量やったもんね。7.8本あったんちゃう?」
「そーやで、もう気持ち悪なってさぁ」
ちょっとの間、TVCM見るのも嫌やったもん、と笑う秋吉。
こんな近くで、普通に笑い合って、友達のように話せる日が来るなんて夢にも思っていなかった。
トレーを手に給湯室に戻ると終業のチャイムが鳴った。
気を使って居残りさせては可哀想なので、フロアに顔を覗かせる。
まだ机で作業をしているマキに声をかけた。
「マキー、はよ帰りー」
「うん、ごめん!パソコン落としといて!後よろしくね。お先!お疲れ様です!!」
予告席を立って、フロアを通り飛び出した彼女を見送って、開きっぱなしのマキのパソコンを落とす。
「えらい急いで帰ったな中野さん」
「予定あるみたい。あ、藤、斉ちゃんもう上がれそう?」
二人も自分の机で片付けをしている。
棚の整理は終ったようだ。
「あたしは大丈夫です」
「あたしも上がれまーす」
今日は久しぶりに早く帰れそうだ。
定時で逃げれる日は、とっとと支店を出るに限る。
ずるずる残っていると、面倒な電話に捕まったり不要な事務処理を部長あたりから押し付けられかねない。
「斉ちゃん、マーケも今日は早く終るみたいやったよ?」
「本当ですか?」
「係長が、企画の人と飲むってゆーてたし」
千朋の言葉に、すぐさま携帯を取り出した斉藤が手早く荷物を纏める。
「じゃあ・・・すみません・・お先です!」
笑顔で支店を後にする彼女の足取りはいつになく軽やかだ。
続いて藤田も同期の飲み会があると言って先に帰った。
千朋も自分の机周りを片付けて、給湯室の後片付けを終えて、元栓やポットの電源を確認する。
事務員が最後に帰る時に、片づけをしておくことになっていた。
時計は18時少しを回ったところだった。
「ほんなら、うちもお先に上がるね」
カバンを持って立ち上がる。
「俺、今日車で来たから、送ったるわ」
突然の提案に千朋が固まる。
送るって・・送るって・・・えええ・・
会社ならともかく、まだ二人きりで平常運転になれる自信がない。
「え・・・でも・・」
気持ちだけ貰いますと丁重に断ろうとするも。
「僕も駅まで乗せてもらうんで、一緒に帰りましょうよ」
可愛い笑顔にごり押しされて、有難く相乗りさせて貰うことにする。
当然のように森と一緒に駅前で降りようとしたけれど、どうせ同じ方向に帰るんやし、と、寸での所で止められてしまった。
本来なら、有難いです、お願いします。とかいうところだろう。
けれど、千朋に限ってそれはない。
というか、相手が秋吉である以上、絶対にそれはあり得ない。
申し訳ないし、と必死に言い訳したが、ついで、ついで、と押し切られてしまう。
あっという間に車は駅前を離れて走り出した。
未だ実家暮らしだと初日に漏らしたことを今更ながら後悔する。
今日行った取引先とのやり取りや、懐かしい同級生の事を穏やかに話す秋吉の態度はいつも通りだ。
勝手に胸が苦しくなって、酸素不足に陥っているのは千朋だけ。
一気に空気が薄くなった感じがするのは気のせいだろうか。
男の人とドライブ行くのも久しくなかったし・・って、待って!それ以前に、元彼と別れて以来・・仕事以外で男の人と二人きりになるなんてことがここ最近なかったやん!?
頭を抱えたくなるのを必死に我慢する。
いつも通りの秋吉に対して、一人だけテンパって混乱しているなんて、絶対に知られたくない。
過去は過去!と呪文のように繰り返す。
とりあえず、助手席に森が乗ってくれたのが救いだった。
森が駅前で降りた時に、前来たら?と気軽に尋ねられた。
秋吉としては、何の気なしに尋ねたのだろう。
が、千朋は頑として断った。
今のこの状況で助手席とか、ハードルが高すぎる。
絶対無理やから!!挙動不審なるし!!
丁重にお断りしすると、秋吉もそれ以上は言わなかった。
そのまま車は千朋の家へ向けて走り出す。
「卒業前に、クラス全員で真冬の肝試ししたやん?」
「うん、雪降って寒かったー」
「あの時な、遅くなったからゆーて、女子送って帰ったやん?」
「あ・・そんなこともあった気がする・・・でも、うちあの時初めてお酒飲んで、めちゃ眠くってさぁ・・・帰り道のコトあんま覚えてないんよね」
仲の良い友達と、一緒に帰ったことは覚えているけれど。
送ってくれた男子のことは記憶になかった。
赤信号で止まった秋吉が、後部座席に座る千朋を振り向いて意地悪な顔になった。
「加藤と二人で、広瀬と、川内を送って行ってんで?お前は川内に凭れて殆ど寝てたけど」
突然の告白に、思わず飛び上がりそうになった。
はい!?
どういうこと!?
「嘘やん!!」
「ほんまやって。やから家の場所、大体覚えてるし。意外と近かってんな、って思ってん」
千朋は開いた口が塞がらない。
なんで・・・肝心の時に寝てるとかどーなってんのうち!
過去の自分が情けなくて、複雑な表情になる千朋を面白そうに眺めて、秋吉はハンドルを切った。
車は迷うことなく住宅街へ入って行く。
「えっと・・・この公園の裏あたりちゃうっけ?」
「・・・そう・・・あ、でも、家の前道狭いし、ここでええよ。もう十分です、ありがとう」
さすがに家の前に横付けさせるわけにはいかない。
ほんまに助かりました、と改めて言って車を降りる。
見送ろうとして振り返って、ふと気づいた。
「あ・・・秋吉くん」
「うん?」
「今も実家に住んでんの?」
東区の営業所は此処からだと通勤が不便だったはずだ。
電車を2本乗り継がないといけない。
車ならその手間は無いが、いつも渋滞する道があるので朝は時間が読めない。
時には直行直帰もあるし、時間も不規則な営業ならば恐らく。
「駅前に部屋借りてるねん」
やっぱり!!
予想通りの答えに千朋が目を瞠った。
ついで、なんて嘘だ。
「全然遠回りやん!」
「車やったらすぐやし」
「すぐって・・・ほんまに駅前で降りたのに!どーしよ・・ごめんね!!」
営業は事務員よりも断然残業が多い。
珍しく早く帰れたのに、自分のせいで時間を取らせてしまった。
申し訳なさでいっぱいになる。
こういう気遣いをする人だって、ちゃんと知っていたのに。
「謝ってばっかりやなぁ」
呆れたように彼が言った。
千朋は返答に困って俯くしかない。
だってそれ以外の言葉が浮かばないのだ。
秋吉は千朋の為に遠回りをしてくれたのだから。
えー・・どないしよ・・何て言えば・・・
迷った挙句、一番最初に浮かんだ言葉を紡ぐ。
「えっと・・・ありがとう?」
「うん・・・じゃあ、お疲れ」
満足げに微笑んだ秋吉の顔が、どうしようもなく優しくて、思わず見惚れてしまった。
こんな風に笑う人だったのだ、彼は。
きっと昔から。
走り去る車を見送りながら、千朋は無意識に胸を押さえていた。
切なくて、嬉しくて、苦しい。
いつのまにか、制服を着た18歳の自分がいた。
あの時と同じように・・恋に落ちていた。
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