第4話 浦島太郎の玉手箱


 昔々あるところに浦島太郎という漁師がいました。ある日彼が浜辺を歩いていると子供たちに虐められている亀と出会いました。浦島太郎はその亀を助け海に放してあげると、亀は助けてもらった恩を返したいと浦島太郎を背中に乗せて海に潜りだしました。

 浦島太郎は海の底にある竜宮城という立派なお城に招待されたのです。そこには乙姫様という大層美しいお姫様に歓迎され、綺麗な海の景色に囲まれながら魚たちの踊りやご馳走を食べ満喫していました。

 楽しい日々が続き、浦島太郎は変える意思を乙姫に伝えると、乙姫から「絶対にこの箱を開けないように」と言い玉手箱を手渡しました。

 そして浦島太郎が陸の上へと変えると、なんと何百年もの年月が過ぎていたのです。浦島太郎を知るものは誰一人いません。浦島太郎は我を忘れ、乙姫の忠告を無視して玉手箱を開けてしまいました。すると中から白い煙が立ちこみ、浦島太郎は皺だらけの老人になってしまったのです。

 悲しみにくれた浦島太郎はただそこに呆然と変わり果てた景色の中で立ち尽くしていました。


◾️ ■ ■


 その男は意識もないまま、世界中を旅していました。

 靴は穴が空くほど擦り減ってしまい、髪も長年放置していたのか帽子の上からボサボサのまま伸びっぱなし。ツルの折れたメガネはその歩を進めるたびカタカタと揺れ、今にも落ちてしまいそうです。

その男はゴツゴツとしたレンズをいくつもバッグに詰め、カメラを片手に当てもなく歩き続けます。

 ある時はイタリアの有名な塔の頂上、ある時はアフリカの自然公園で珍しい野生動物の群れを、ある時は氷でできた大陸の空を覆うオーロラを。

 危険を省みることなく、大自然の中から生み出された幻想的な芸術も、人々が積み重ねてきた尊き歴史と文化の象徴も、『美しい』と思われる景色を目にしたら、その男はカメラを構えるのです。

 そして写真を撮るとまたふらふらと歩き始めるのです。夜の山でも、荒れた海の上でも関係なく夢遊病患者のようにその男はカメラに収めるにふさわしい風景を探して進みます。しかしその男は景色に感動するようなそぶりはなく、機械のように義務的にその動作を繰り返すだけです。どれほどの絶景もその男の虚ろな目にはただの色の集合体しか写っていませんでした。

 ある日男が訪れたのは大きな教会を中心にレンガ造りの住宅街がノスタルジックな雰囲気を出すレトロな街でした。その日の夜、派手な街灯が並ぶ街の中で大人も子供も歌や演奏に酔いしれて踊っています。どうやらその晩は国の収穫祭だったようで朝方まで賑やかでした。

しかしそんな中で彼が街の真ん中を歩いても誰も声をかけるどころか振り返ることさえはありません。男もまた、無機質なその目には他者のことなど捉えていません。

 ただ、満月の夜空を背景に暖かな橙色の街灯に照らされた教会をカメラに収めることに取り憑かれたように集中していました。

 ヒラヒラと頭を覆う帽子と長袖に長い前開きのガウンのような形状をした民族衣装のようなドレスに身を包む女性も長帽子に華やかな刺繍が施されたベストとジャケットを羽織った男性にも目を向けることはありません。収穫祭で楽しげにしている人々も彼にとってはただの背景でしかありません。

 一通りカメラに収めると男は突然興味をなくしたように海へと向かって歩き出しました。

 夜の海は光さえも飲み込んでしまいそうなほど暗く、荒々しい波を立てています。しかし男は石田畳の道路を進むのと変わらぬ歩調でまっすぐ海の中を歩きます。カメラだけは濡れないようにとレンズの入ったバッグは両手で掲げていました。

 数日後、男は海岸にたどり着きました。

 長時間海水に浸かっていたにも関わらず服もバッグも濡れた形跡はありません。海岸から舗装された道路に出るとレンズの入ったバッグをまた肩にかけます。そして再び歩き出そうとしたところ、小さな女の子が向かい側の歩道で男のことをじっとみていました。

「ねえ、どこから来たの?」

 これまで他人のことなど気にも留めなかったはずが、男はその声を聞いて慌てて振り向きました。誰かに声をかけられるなど一体何年ぶりのことだったのか、意識が曖昧な男は何かエラーを起こしたように沈黙したまま立ち尽くしていました。

小さな女の子は不思議そうな顔をして首を傾げていましたが、何の返答もない男に飽きてしまったのかしばらくするとどこかへ消えて行きました。男は踵を返して目的地のないまま進みます。 

 ただ真っ直ぐ、目のついたものがカメラに収めるに値するのならば撮影する。その繰り返しの旅でした。しかし、この国についてからというもの、無意識的に足がどこかへ向かっています。

 ギラギラと鋭い熱気を纏った初夏の陽射しが誰もいないアスファルトの道路をフライパンの底のように熱し、視界に映る景色の先を陽炎がゆらゆらと揺れています。

 ほとんど裸足の状態で足を踏み入れても何も感じない。そのことに男は初めて違和感を覚えました。

 分厚い雲で覆われていた意識が、頭に風が吹き込むような感触を覚え、男は初めて自分が今いる場所を、閑散としたその光景を目に焼きつくしていました。

 これまで訪れた場所と比べ、何かが特別素晴らしいわけではないのに、その景色に懐かしさを覚え、咄嗟にカメラを構えました。

 カメラ越しにみた海と過疎化した町の色はセピア色に褪せていて、どこか心地よさのある哀愁に男は自覚もなく涙を流したのです。

 そして男は我に帰る暇もなく走り出しました。

 自分がどこを目指しているのかもわからないまま、体が求める方向だけを頼りに。

 延々と続く緩やかなカーブを描いた道路。

 打たれっぱなしのテトラポット。

 深い緑と海の潮が混ざり合った匂い。

 どこにでもあるはずなのに、バラバラに散っていた記憶の片鱗と重なり、彼の知覚は半眠の状態から覚醒へと近づけました。

 どれ程走り続けたのか、正気に戻るに連れ彼は自分がうまく息が吸えていないことに気がつきました。けれどそんなことさえ気にしている余裕もありません。

 微かに重なる面影は彼の行くべきところを悪戯に示してくれました。それは彼が過ごしてきた人生の足跡を辿るような。

 かつて踏みしめた足跡を通過するたびにパズルの外枠を埋めるように彼は失っていた記憶を取り戻して行きました。

 どうして自分が旅をしていたのか。

 何を撮りたくて、誰にその写真を見せたくて旅をしていたのか。

 そして、自分が何者なのか。

 全貌はわかりません。

ただ、彼の中ではっきりと芽生えた意識かこう叫び続けました。


———帰りたい

———家族に会いたい

———一体、どれ程待たせてしまっただろうか。

 ———なんて謝るべきだろうか。

 ———あの娘は元気に過ごせているだろうか。

 

 息も吸えないまま彼は叫び声を噛み殺し、向かい風をかき分けて走りました。

 肥大化していく衝動に狩られ、それさえも侵食してしまうような不安を振り払おうと彼は家族の待つ我が家へと向かいます。

 細い階段道を駆け上り疎らになった住宅街の奥へと抜けると、そこで彼を待っていたのは、背の高い雑草のだらけの空き地でした。

「は?」

 男は一度目を閉じます。

 そんなはずがない、確かにここにあったはずなんだ、と。

 家族思い出優しい、自分には勿体ないくらいの妻と、体が弱い娘と三人で暮らしていた思い出を掻き集め、この記憶が夢でも幻想でもないのだと言い聞かせ、確かにあったはずの光景を呼びを越します。

 しかし目を開けばさっきと変わらない、長い間放置された空き地です。

 男は膝をつき、声も出ないままそこで呆然としています。

置き去りにしてきたはずの不安が欠けていたパズルを隙間なく埋め尽くしました。そして出来上がったのは先の見えないほど深い絶望でした。

男は思い出します。

外の世界を知らない娘のために、美しい旅の記録を届けようとしていたこと。

 自分が旅をしている間に何十年もの時が過ぎてしまったこと。

 そして……

「うわああああああああああああ!」

男は野太い悲鳴を上げ、行き場のない後悔と悲しみを込めて拳を地面に叩きつけます。手には何の感触もありませんしどれほど泣き叫んでも涙は流れてきません。けれど彼は止まりません。懸命にのたうち回っています。それは幼い子供の駄々のようにみっともなく惨めなものでした。

 少しでも否定できる何かを求めて男は通りかかる人間に必死に声をかけます。

 ここに自分の妻と娘が住んでいたはずだ、と。

 もし何か知っていることがあれば教えて欲しい、と。

 しかし、誰も彼の質問に答えようとしません。それどころか気に止める様子もなく通り過ぎていきます。

 男は「待ってくれ」と叫び手を伸ばします。しかし、触れようとした手はすり抜けてしまい、宙を払うことしかできません。

 その瞬間、男の中で否定する気力さえも折れてしまいました。

 ようやく男は自分が既に死んでいること認めました。

 よろよろと男は空き地へと透けた足を踏み入れます。少しでも自分を慰めんと、そこに我が家があった名残を探しますが、そんなものあるはずがなく、ただ言葉で言い表せない虚しさだけが感情を支配していました。

 そして意味もなく胸の前で両手を握りしめ、祈りを捧げるような体勢で固まります。神という存在など本気で信じたことなど一度もありません。今も神に願いを叶えてもらおうなどという浅はかな考えさえ微塵も浮かばないでしょう。ただ、そうしていないと、何かに祈らないと途方もない喪失感に押しつぶされそうになるからです。

そこからまた長い時間、男はその場を離れませんでした。陽は少しずつ短くなり、綺麗な円を描いた月は日に日に欠けていきます。やがて月明かりが消え、星明かりだけが薄く天覆った夜のこと。

 埋め尽くされた後悔の中でとこはようやく絞り出したように一縷の悲願を言葉にしました。

 ———写真を、これまでの旅の記録を妻と娘に……

 その願いが天に届いたかは定かではありません。しかし、お節介な魔女はその声を聞き逃さなかったようです。

耳を澄ますとどこからかクスクスと悪戯にせせらぐ嗤い声が。

顔を上げて目を凝らせば、蠱惑的に手招く煉瓦色の扉が目の前に。

男は天井から糸で釣り上げらたようにゆったり立ち上がると、何の迷いもなくドアノブに手を伸ばしました。

 煉瓦色の扉を開けるとそこは、ステンドグラスを透過した星明かりによって幻想的な空間へと包まれた広大な図書館でした。

 男は導かれるように敷居を跨ぐと扉はバタリと勝手に閉まり、消えてしまいました。

 足元には蔵書の森でも迷わないようにと点々とまかれた光の道しるべが、そして先には分厚い表に挟まれた本を読み耽る一人の魔女がいました。

魔女はこちらに気がつくと本をパタリと閉じ、わかりやすく大きな三角帽を被って、妖しげに光るレモン色の瞳が興味深そうに見つめてきます。

「幽霊のお客さんとは珍しいわね。ようこそ魔女の館へ。歓迎するわ」



■ ■ ■


初めてこの噂を耳にしたのはいつだっただろうか。なんでも望みを一つ叶えてくれる魔女の話。物心つく前から既に刻まれていた御伽噺の類。たまに忘れてしまうが、気がつけばその噂は耳元で流れてきます。それは世界中のどこにいても例外ではありません。

 先ほどまで散々取り乱していたのに今ではすっかり落ち着いています。むしろ本物の魔女を前にして何をすればいいのか緊張で強張っているようでした。

 しかしそんな彼のことなど御構い無しに、

「お茶入れたけれど、あなたも飲む?」

「あ、いえ。というか多分飲めないと思うので」

「ああ、それもそうね。幽霊だものね」

 怪奇現象を目の当たりにしてもリテラはのほほんと紅茶とお茶菓子の準備をしていました。怖がるそぶりは一切見せず、むしろこの現状と楽しんでいるようでした。

「椅子には座れる?あまりオカルトには詳しくないのだけれど塩とか撒いた方がいいのかしら?」

「それは……お祓いの時にやるやつだと思います」

初めて噂話を聞いた時と実物との印象の違いに戸惑いつつ、男はリテラの用意した席に着きました。といっても物体に触れることができないので若干浮いています。

 リテラも続いて席に着くとポットの蓋に手を抑え、お気に入りのティーカップに紅茶を注ぎます。

 今日彼女が選んだお茶は『キャンディ』という名前で、水色(すいしょく)は比較的赤に近いオレンジです。香りはほんのりと甘く、クセのない渋みと優しい風味が特徴的でストレートティーを好むリテラにとってお気に入りの紅茶の一つです。

 リテラは念の為ともう一つ、来客用のティーカップにキャンディを注ぎ男が座る席の前へ差し出しました。

「一応、お供え?みたいな感じになるのだけれど」

「あ、ありがとうございます」

「お菓子もよかったら自由にとっていいわ」

「お構いなく……」

 よほど幽霊に興味があるのか、リテラもどこか落ち着かない様子です。彼女にとって魂だけの存在とは絵本の中でしか出会うことがなく、魔法の力無しで現実世界にとどまれることが不思議で仕方ないのでしょう。

「あのー、そんなにジロジロ見られても」

「あっごめんなさい。失礼したわ」

 抑えられない興奮を咳払いで誤魔化し仕切り直します。

「では改めて。私の名前はリテラ。さっきも言った通りここへ訪れた人へ魔法を授ける魔女よ。よろしく」

「はぁ……どうも」

「確認するけど、貴方は魔女の噂は聞いたことはあるかしら?」

「一応子供の頃から」

「そう、なら話は早いわね」

「本当になんでも願いを叶えてくれるんですか」

「ええ。でも正確には貴方の願いが叶った世界、貴方が望んだ世界を渡すってだけよ。実際に現実世界で願いが叶うわけではないわ」

「つまりそれはできのいい夢ってだけか?」

「そう捉えてもらっても構わないわ」

「そうか。ははっ、なんだただの夢か」

拍子抜けしたのか男は苦さを孕んだ乾いた笑い声をあげました。

「もちろんただってわけではないんだろ」

「ええもちろん。それ相応の対価を、わかりやすく言えば魂をもらうわ。ただ貴方の場合既に魂だけだからうまくいくかはわからないけれど」

「そうか。そうだよな。そう都合よく物事が進むわけないよな」

 男はティーカップに手を伸ばし飲もうとしますが、やはりその手は取手を通り抜けて宙を払うだけです。

「すまない。どうやら俺の願いは叶え用がないみたいだ。邪魔をしたな」

 そう言って立ち上がると元来た道を戻ろうとします。しかしリテラは呼び止めます。

「待って。貴方これからどうするつもり?」

「わかんないけど、妻と娘を探すつもりだ。逢ってどうにかなるわけでもないけど。元気に過ごしている姿を見れば少しは気が晴れて成仏できるんじゃないのか」

「無理よ。それほど強い後悔はその程度じゃ晴らすことはできないわ。そのまま外の世界に戻ったらいずれ取り返しのつかないことになる」

「そうは言ってもお前さんじゃどうしようもないんだろ」

「ねえ、貴方の願いは家族に逢う、それだけじゃないわよね?先ずは詳しく教えてもらえないかしら?」

「そんな人に話すようなことじゃないからな」

「お願い。あまり乱暴なことはしたくないの」

「乱暴って、幽霊の俺に何を……は?」

 男は驚いてスットンキョンな声をあげました。それもそのはず誰も触れられないはずの霊体が思うように動かせないのです。それどころか巨大な掃除機に吸い上げられているような気もします。

 思わずリテラの方へ視線を送ると自慢げに頬を緩めていました。

「だいたいわかったわ。普通ならむき出しになっている魂の核を強い感情や怨念で固めて崩壊を防いでいるのね。要領さえつかめばあとは扱い方は変わらないわ」

 リテラが指を指揮棒のように振るうと周囲の本棚がガタガタと小刻みに不穏な音を奏でます。

「おい、何をしているんだ?」

「私はね本の中に魂を閉じ込める魔法を使えるのよ。もし貴方がこのまま外へ出るというなら強制的にその怨念が風化するまで監禁させてもらうわ。今の貴方はそれほど危険なのよ」

 本棚から一冊の本が勢いよく宙を舞い、ページを開くと吸い込む勢いは増し、男の霊体はズルズルと引き寄せられていきます。

「待て。わかった。わかったから。そんな危険だなんて知らなかったんだ。頼むからやめてくれないか」

 必死に懇願する様子を見てリテラはクスクスと笑います。

「別に最初から乱暴するつもりなんてないからそんな怯えなくていいわ」

 そう言って指を鳴らすと宙を待っていた本は元の場所へと静かに戻っていきました。

「さ、席について。もう少しお話をしましょう」

 ただの悪戯か、それとも脅しなのか、心理は理解できませんが敵意がないことだけは感じ取り男は苦虫を潰したような表情で再び席に着きます。

「あ、そうそう。メカニズムはなんとなくわかったから紅茶もクッキーも味わうだけならできるわよ」

「……ありがとう。頂きます。……これどうすればいいんだ」

「意識を集中させればいいだけよ」

 言われた通りに紅茶に意識を集中させると、しっかりと香りも味も温度も感じ取ることができました。クッキーの方もしっかりとサクサクとした心地いい食感にジンワリとしみ込んだバターの香りもです。

 思えば何十年も食べ物を口にしていなかったため少しの感動を覚えていました。

「さて、それじゃあ食べながらでいいから教えてくれないかしら。なぜ貴方がそんな風に成り果ててしまったのか」

 男は口の中に残ったクッキーの風味を紅茶で流し終えるとゆっくり口を開きました。

 自分は世界中を旅するカメラマンであることを。

 体の弱い娘と面倒見る妻、どこにも出かけることのできない二人のためにありったけの美しい名所をカメラに収め、三人で自分の撮った写真集を眺めるのが何よりも幸せだったこと。

 しかし、ある日旅先で娘と同い年ぐらいの小さな女の子が港町の海で溺れているところを助けようとした際、波に飲まれて死んでしまったこと。

 そしてカメラも一緒に流され、その旅先で撮った写真は届けることができないこと。

 そして、かつて家族で住んでいた家は既に取り壊され、二人が今どこにいるのかもわからないことも。

 淡々と言葉を紡ぐ男にリテラは一定のテンポで相槌をついていました。

 何時間語り続けたでしょうか、男はティーカップに視線を落とし、これ以上話すことはないと合図をするように口を閉ざしました。

 しばらくの間リテラは考え事をしているのか何も言葉を発しません。

 キャンディーの紅茶をティーカップに注ぎ足し、一口飲み終えるとリテラは新しいおもちゃをもらった子供のように無邪気な笑みを浮かべました。

「ねえ、貴方が撮った写真、見せてくれない?」

「は?」

 男は呆然としています。つい先ほどカメラがもう既に海に流されてしまったと伝えたばかりなので仕方のないことでしょう。今手元にあるのも強い思念から作り出された見せかけのものです。

 しかしリテラは詰め寄ります。

「私、実は訳あってここから出れないのよ。ここには写真集も少ないから、もし貴方さえ良ければ見せて欲しいわ」

「いや、だからカメラが」

「カメラがあれば解決するのね」

「いや、そうだけど」

「じゃあ簡単ね」

 リテラがスッと手を挙げると一冊の本が本棚から勢いよく顔を出しパラパラとおエージが捲られていきます。

「なあ、おい待て。さっき乱暴はしないって」

「心配しないで監禁なんかしないわ。ただ一緒に鑑賞会がしたいだけよ」

「いや、だからわけわかんないって」

「行ってみればわかるわよ」

 開かれた本は眩い閃光を放ち、視界はそこでホワイトアウトします。二人は本の中へと吸い込まれていきました。

 その後本は机の上に自由落下し、パタンと表紙を閉じてしまいました。


■ ■ ■


 閃光に目がやられ視界がまだぼやける中、少しずつ目を慣らしていくと巨大な美術館の広い中庭のような場所に出ました。

 中庭は人工芝が敷かれ、その上に前衛的なものから写実的なものまで彫刻の作品が不規則に並んでいます。

 空は雲と太陽、雷に雪とクレヨンでごちゃ混ぜにしたような色をしています。

「なんだここは?」

「こっちよこっち」

 急に一変した景色に困惑していると、上の方からリテラの声が聞こえてきました。

建物の二階を見上げるとリテラがこちらに手を振っています。

「ようこそ絵本の世界へ」

そう言って飛び降りるとふわりと空中に浮き、静かに着地します。

「あの……ここは?」

「これが私の魔法よ。どう理解してくれた?」

「これ全部あんたが作った世界」

「ええ、まあ所詮はただの夢だけれどね」

 少し皮肉を込めて嫌味っぽく言うと男は小さく「すまない」と頭を下げます。

「いいのよ。気にしていなわ」

「それで、中には俺の写真があるのか」

「ええ、早速入りたいところなのだけど……先ずは着替えましょう」

 そう言われ男は自分の格好を改めて見ました。穴だらけほつれだらけのボロボロの服装です。靴も足裏の露出面積のほうが多いくらいでした。

「確かにこれはひどいな」

「ええ、こう言う場所ではしっかりフォーマルに決めないとね」

 リテラが人差し指を振るとボロボロだった靴はたちまちピカピカに磨かれた革靴に。パンツもサイズにあった黒のスラックス、上は大人っぽさ溢れる紺色のベストとジャケットに変身。伸びきった髪も髭もさっぱり清潔感あるスタイルへと早変わりです。

 ツルの折れたメガネもその風貌にあったシャープなデザインのものになりました。

「とっても似合ってるわ」

「あ、ありがとう」

 突然のことで、自分がどう変化したのかわかっていませんが心なしかその表情にも明るさが取り戻されたように見えます。

 リテラもその様子に満悦そうに微笑みます。

「それじゃあ案内してくれるかしら」

「案内って、この世界のことよくわかっていないんだけど」

「何言ってんの。ここは貴方の世界よ。貴方が思うようにこの世界は姿形を変えるわ。だから、ここは世界で貴方一人の写真展よ。私はお客さんなんだから案内してちょうだい」

「はは、ほんと強引だな」

 そう悪態つきながらも男はリテラのことを丁寧にエスコートしました。

 中に入るとそこは中身が空っぽの額縁がコーナーごとにズラッと並んでいます。

 一番近くのコーナーに入りますが、タイトルが無名なままです。

「あー、どうしようかな。なんか見たいものとかってあったりするのかな?」

「そうねえ、私は写真初心者だから先ずは定番のものから収めておきたいわ」

「そうか。あーじゃあこれにしよう」

 一枚の額縁に意識を集中させるとそこに一枚の写真が浮かび上がりました。

「これ知っているわ。確かオーストラリアのブルーマウンテンでしょ」

「そうだな。正確にはブルーマウンテンズ、なんだ。ブルーマウンテンはその地帯一帯の山々を総称しているからな。本やネットではこの角度からの写真が最も有名だが少し角度を変えるだけでまた別の印象を与える景色になるんだ」

解説しながら別の額縁に意識を向けるとまた一枚の写真が浮かび上がりました。

 リテラは彼の解説に深い興味を示し、目をキラキラ輝かせながら聞いていました。

 そのコーナーは『エアーズロック』に『ホワイトヘブンビーチ』、『ウェーブロック』などオーストラリアの自然が作り出した芸術を集めたものになりました。

 次はニュージーランド、インドネシア、カナダ、と世界中の自然遺産を中心に彼の解説と写真展は続いていきます。

 最初は強引にやらされたものの、意欲的に耳を傾け、自分の撮った写真を穴が空くほど食いいって眺めるリテラに、いつか自分が抱いた喜びを思い出し始めました。

 美術館は奥へと進んでいくと、飾られる写真の規模はどんどん増していきます。終いには壁一面に貼られたオーロラや、流星群、神秘的に彩られた鍾乳洞など、大迫力の写真にリテラはすっかり心を奪われていました。

 三〇分やそこらで終えるつもりだった鑑賞会はいつの間にか五時間は経過したでしょうか。それでも長い時間をかけて旅してきた彼の人生は収まるはずもありません。

 最後のコーナーに差し掛かると、そこには意識を向けるまでもなく既に現像されていた写真が飾られていました。

 それはこれまでの一流の機材と技術によって投影された芸術的な作品などではなく、アルバムの片隅に貼ってあるような、そんな写真でした。

 幼い女の子とまだ若かりし頃の彼、そしていつでもエクボを作って朗らかに笑う女性が、ご飯を食べたり、お風呂に入ったり、一緒に眠ったり。ほんの少し痛んだ木材の壁を背景にありったけの幸せを詰め込んだような、そんな写真です。

「これはあんたが用意したのか?」

「いいえ、していないわ」

「そうか」

「素敵な写真ね」

「そうか?こんな素人が撮ったものがか?」

「ええ、とっても」

「……そうか」

 そう言うと黙って出口へと向かっていってしまいました。リテラもほんの少し名残惜しそうに追いかけて出口を潜ります。

「あー!とっても楽しかったわ」

「それは良かった」

「ねえ、ここにいっぱい写真展を作りましょう。貴方がこれまで旅してみてきた景色全部が詰まったそんな世界にしましょう」

リテラは興奮冷め止まない様子で迫ります。

「……ありがとう」

「どうしたの?」

「いや、ちょっと。……なあここは絵本の世界なんだったか」

「ええ」

「じゃあ、この美術館は一冊の絵本にまとまるのか」

「ええ」

「もしあんたが気に入ってくれたんなら、この世界丸ごとあんたに渡す。だから、どうにかして家族に逢わせて欲しい」

 必死に涙を気取らせまいとしていますが、彼の声は潤み、そして震えていました。

 霊体であった時、あれほど悲しみに包まれても涙一滴流れなかったのが、あの時溜め込んでしまったもの全てを溢れさすように、彼は大粒の涙を流しました。

「それがあなたの願いなのね?」

「ああ、頼む。魂でもなんでも渡すよ。だから……最後に一度でいいから」

「わかった。でも一つ条件があるわ」

「なんだ」

「この世界、この絵本は貴方が、貴方の手で家族に渡しなさい」

「いいのか。あんなに欲しがってたのに」

「いいのよ。これを手にするに相応しいのは貴方の家族よ」

「ありがとう……ありがとう」

 奥歯を力一杯噛み締めて彼はお礼を繰り返しました。メガネは水浸しに、袖は涙でビショビショに濡れても、彼は頭を下げていました。

「それではこれで契約成立ね。魔女・リテラの名の下に、貴方に『絵本の魔法』を授けましょう。これから貴方に三日与えるわ。その間にこの絵本の世界を完成させなさい。そしたらちゃんと奥さんと娘さんに合わせてあげるわ」

 リテラが魔力を与えると世界は鮮明な海の色に輝き、リテラはページの外側へと放り出されました。

 残された彼は、ハンカチでぐしょぐしょになった顔を拭き、次の写真展を立てる作業に入りました。

 

■ ■ ■


 絵本の外へと戻ってきたリテラは早速契約行使のための準備に取り掛かりました。

 なにせあと三日以内に彼の家族を探し出さなければなりません。この短期間で日本国内で特定の人物を探すなど不可能に近いですが、リテラには秘策がありました。

 家族同士の魂は波長が類似し、また血縁関係の場合はほんの微かに魂同士が細い繋がりを持っています。

 今手元にある絵本とその魂の主。そして全国に散らばった、リテラの魔力の籠った栞。この二つがあれば探し出すことも不可能ではありません。

 しかし膨大な魔力と途方も無い手間がかかるのもまた事実です。

「ハイリスクな上見返りは魂一つ……でも仕方ないわよね。約束してしまったんだから」

 リテラは深く息を吸い、そして覚悟を決め魔法を行使します。

 ここから三日間、二人は寝る間も惜しんで、一人は自身にかっした約束のため。一人は愛する家族に向けた最後の贈り物のため。

 その様子を遠くから、小さな少女が眺めている、そんな気がしました。


■ ■ ■


 契約の日は思いの外あっけなく訪れました。

 リテラは魔力を使い果たしてしまったため、再会の時間は五分が限界であることを伝えられました。

「それだけあれば十分だ」

 一度は諦めてしまったこと。気持ちは全部この世界に詰め込んだ。

 彼は指定の場所で待ちます。

 リテラに選んでもらったフォーマルな服装ではなく、ゆったりとしたジーンズと手編みのセーターを着ていました。いつも二人の前でしていたお気に入りの格好です。ただ、ほんの少し見栄えを気にしてメガネだけはそのままにしてあります。

 指定の場所で待つこと五分、その時間は緊張で頭が真っ白になりそうでした。

 背の高い時計塔からなだらかなベルが鳴り響きます。


 すっかり明るくなった東の空の天井が、幾つもの朝露をのろまな雨のようにゆったりと垂らします。

 そして目の前で弾けた二滴の雫。中から姿を現したのはすっかり大きくなった娘と、ほんの少しやせ細った妻でした。

「あら?ここはどこ?」

「ねえ、ママ。あれってもしかして」

「え?……嘘」

 いつの間にかわけのわからない空間に連れられてきて困惑しているにも関わらず、二人は目を合わせた途端彼の正体に気がつきました。

 彼は言葉を交わすことなく、ただ力一杯二人を抱きしめました。

 そして、大きくなった娘の頭を撫でました。背も伸び髪も長くして、高校の制服もバッチリ着こなしています。体の弱かった彼女はすっかり克服して、もう心配する必要がないくらい立派になっています。

 妻は女で一人で支えているのものだから、その顔つきには苦労の跡が見受けられます。

 彼はずっと「ごめん」とその三倍ほど「ありがとう」を繰り返していました。

「パパ、本当に死んじゃったの?」

 涙ぐみながら問いかけます。

「ああ、本当だ」

「でも、こうして逢えたんだよ。ねえ、また逢えるよね」

「……」

「私頑張って大きくなったよ。ママにもパパにも心配かけないようにって。もう走ることもできるし、一緒に旅行にだっていけるんだよ」

「そうか……そうか」

「だから、もうどこにも行かなくていいんだよ」

「ありがとう……ありがとう」

抱きしめた腕にさらに力がこもります。旅から帰ってきたときはいつだってこうして抱きしめて、子供の成長を実感していました。まさかこんな日が来るなんて想像もしていなかったでしょう。

妻の方へ視線を向けると、ただ黙って頷くばかりです。

「本当に迷惑をかけたな」

「……ほんとよ。私一人で、どれだけ大変だったと思ってるのよ」

 力なく彼の胸を叩きます。

「今度は絶対に一人にしないから」

「ああ」

「パパ、絶対に一緒に旅行だよ」

「わかってる。ゆっくりでいいからな」

 再会の五分。奇跡と偶然と魔女の悪戯が紡いだ五分はあっという間に過ぎてしまいます。

 三人の体から光の粒子が溢れ、やがては形は崩れていきます。

「二人に渡すものがあるんだ」

「何よ」

「この十数年間旅して、俺が見てきた景色全部を詰め込んだんだ。これを見てどこにいきたいか決めてくれないかな」

「本当に、最後まで写真ばっかりなんだから」

「ごめん。でも受け取ってほしい」

「わかってるわよ」

「全部!全部行こう。みんなで」

「そうだな。全部行こう」

「うん!」

「……じゃあな、二人とも。幸せになってくれ」

こうして一つの家族が光の粒子となって本の外へと飛び出していきました。

彼の妻と娘は目を覚ますとリビングのソファにもたれかかっていました。

 目には微かに涙が溜まっていますが、二人ともその理由はよく覚えていません。

 彼女たちの生活はこれから何か特別変わることもありません。

 ただ、本棚の隅に彼が旅してきた証がありったけの美しい夢と希望を詰めた一冊の絵本(玉手箱)がさしこまれているだけです。


■ ■ ■


 溢れ出した彼の魂、欠片一つこぼすことなくリテラは掻き集め、そして大事に口の中へと運びました。

 枯れきった魔力がほんの僅かに回復し、身体がほのかな光に包まれました。

「ふわああああ〜!疲れたあー!」

 契約を終えたリテラはグデーと机の上に突っ伏して、そのままダレています。

「本当に疲れたわ。本物の幽霊に出会えたのはいい体験だったけど、もう魔力がすっからかんね。しばらくは節制して生活しないと」

 ブツブツよ独り言を喋りながら出しっ放しにしていた食器を片付け始めました。いつもならめんどくさいことは大体魔法を使って一瞬で終わらせるのですが今回は魔力が枯渇気味なので全部自分でやります。

 食器を洗い終え、キレに水を拭き取り元の場所にしまいます。

 その後読み途中だった本の続きを読もうと手を伸ばした瞬間、妙な気配を感じ取りました。不穏で危うい、けれどどこか懐かしい気配です。

「ねえ、あの本は渡してよかったの?」

気配の正体が問いかけてきます。

「いいのよ。私には勿体無いわ」

「でも欲しかったんじゃない?」

「それはまあ、この広い図書館にもあんなに美しい写真集はそうないわ。でも……」

「でも?」

「私はやっぱり物語が好きなのよ。幸せで満ち足りたラストが、それでいて登場人物たちのその後の人生が豊かになるような結末が好き。だから、私なんかが独占するよりもあの絵本はあるべく場所で読まれる方がいいわ」

「貴女らしいね。でも、本当にまた逢えるかな」

「逢えるわよ。きっと」

「こっちのこと何も知らないのに?大変なんだよ、魂の世界での再会っていうのは」

「ええ、でもきっとあの子達は三人で旅をする。どんなに長い時間をかけても。そのための役でしょ?」

「……リテラは本当に、無邪気で純粋で、残酷だね」

「魔女はそういうものよ」

 返事はありません。

 リテラはいなくなってしまったことを確信して、振り返るとやはりそこには誰もいません。ただ広い図書館の中で虚しく自分の声だけが帰ってきます。 

 煙のように現れては姿を見せないままいつの間にか消えてしまいます。もしかしたらただの妄想なのかもしれない。でも……

 そうやってリテラは少女がいつもいた場所、今では誰も座ることのない古びた椅子に手を置き、あの日確かに感じた温もりを思い出します。どれだけの年月が経ったのか、あれほど鮮明だった記憶も、水を垂らした水彩絵の具のようにぼやけてはこの虚しさだけが滲んでいくのです。

「私も貴女に逢いたいわ」

 リテラは一人ぼっちの部屋でポツリと涙を流しました。最後に彼女がくれた三角帽をクシャリと握りながら顔を隠して。

帽子に飾られていたネリネの花はいつの間にか枯れていました。



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