閑話a 名前のない魔女
今から何百年も前のこと。長い白髪の少女がとある森の奥に行き着きました。少女は何者かに襲われたのか体のあちらこちらから赤い血を流し、それから守るように一冊の本を抱き抱えていました。
空は怪しげに曇り、深い濃霧が少女を拒む、あるいは怯えているのか森を覆いますが、少女は裸足のまま必死に走り続けました。
血は流れ疲労が溜まり、吐く息は深い霧よりも白く濁り、少女が突然顔を出した木の根に足を奪われ転倒すると、彼女は起き上がる力もなく、そのまま意識を失いました。
目が覚めると少女は柔らかな土の上に木の幹の皮を敷いた布団の上で目を覚ましました。あれほど濡れて冷えた身体も敷かれた葉の布団で震えは収まっていました。
辺りを見渡すと森中の動物たちが少女を囲っていました。警戒しているのか一定の距離を取り片時も少女から目を離さず見つめています。
「これをあなたたちが?ありがとう」
そうお礼を言って手を差し出そうとすると動物たちは一目散に逃げてしまいました。
少女は悲しげに本を抱きしめます。
怖い。
痛い。
苦しい。
悲しい。
寂しい。
脳裏に過るのは彼女の悲痛な叫びと、人々から蔑まれた罵声。
過剰に怯える彼らは、少女に向かって石を投げ、火を放ち、剣を持って襲いかかってきます。それはまるで悪の象徴、あるいは厄災に立ち向かう蛮勇のような。
少女は踞り、声を殺して涙を流し続けます。
朝が過ぎ、昼を迎え、夜に沈み、そしてまた朝がやってくる、そうやって何度季節が巡ったでしょうか。溢れ出す涙はやがて一つの川を生み出し、その川の水を飲んだ動物や木々はたちまち成長を遂げ、緑の生い茂る森はさらに深さを増します。ついにその涙が枯れたきった頃、少女の心は空白で埋め尽くされ、いつの間にか涙の川も最初からなかったかのように消えてしまいました。そして……
「あ、あ……」
怯えた女性の声が聞こえます。おもむろに顔を上げるとアールグレイのように濁った赤色の髪をした女性が一糸纏わぬ姿でそこにいました。誰かに声をかけられるなど初めての経験で少女は固まってしまいました。
「あなたは誰?」
少女は絞り出した声で問いかけます。しかし、彼女は何も答えません。
無視をした、というよりは答え方がわからないのでしょうか、彼女は困り顔で少女の言葉を待っています。会話が成立しない。けれど彼女感情が少女に伝わってきます。それは少し前まで彼女が感じていた孤独と同じものでした。
少女は気づきません。目の前にいる彼女が自分から生まれたこと。流した涙と溢れ出した孤独が集まり生まれてしまった存在であることに。
何者なのかわからない得体の知れない女性。自分と同じ孤独を抱えていることを心で理解すると、その言葉は自然と出てきました。
「ねえ、本は好き?」
そう問いかけると彼女は訳も分からず小さく頷きました。
二人の孤独はゆっくりと癒え始めたのです。
少女は森と交渉し、外敵から森の者たちを守り自身は危害を加えないことを約束し、森の恵みを分けてもらえました。少女は家を建てることにしました。
どんな不幸からも身を守れるように、誰の目にも耳にも見つけられないように、大きくて強固な、けれど自然を愛せるような、そんな家を想像し膨らませそして強く願います。すると森の恵みたちは煌びやかな光を放ち、色を形を変え少女の願いに応えました。
太い石柱にレンガ造りの壁、フロアは木材でしかれ、背の高い天井はガラス張りに、統一感のないチグハグな家ですが、建物そのものに意思があるような不思議な力強さを感じました。
次に少女は自身の美しい白銀の髪を切り彼女に服を縫いました。服は丈の長い簡素な
チュニックに一枚布を体に巻きつけた、宗教画で神様がきているような服です。
「ごめんね。私が作れる服はこれしかなくて」
彼女は言葉に詰まったままですが、どこか嬉しげに頬が緩んでいました。
家の前に立つと門は勝手に開き二人を歓迎します。少女は彼女の手を握り出来たばかりの家に入っていきます。
門は勝手に閉ざされしばらくすると姿を消してしまいました。
中はまだ家具のないだだっ広い空間。どこに何を置こうか、少女は心踊らせ空想を膨らませます。
「ねえ、何か欲しいものはある?」
少女の問いに彼女は何も答えません。
「じゃあ何か食べたいものは?」
この問いにも黙ったままです。
困った様子で部屋の隅に立ち尽くす姿を見て少女はあることに気がつきます。
「もしかして言葉がわからない?」
彼女は涙目でした。
自分が何者かもわからず、少女の言葉も理解できない。外見は成熟した女性でありながら純真無垢、無智蒙昧な存在。けれど、目の前にいる少女に不快な思いをさせたのではないかという不安が彼女の心に涙を流させたのです。
「大丈夫。泣かないで」
少女は小さな手でその涙を拭きます。そして彼女を抱きしめて、
「ゆっくりでいいわ。私と一緒に暮らしてあなたが何者なのか探していきましょう」
言葉は理解できていなくとも、少女の抱きしめた暖かさは彼女を安心させるのには十分でした。
それから二人の生活が始まりました。
少女は彼女に言葉と生き方を教えました。自分たちが生きる上で何が必要か。人ではない自分たちはどう生きるべきか。さらに自分が持つ術を与えます。想像し祈り、自身の願いを相手に届ける方法。その様子はまるで魔法のようでした。
彼女は空いてる時間はずっと少女が抱いていた本を読んでいました。少女から言葉を学んでいますがその本に書かれている文字はなぜか読めません。けれど、何度も読み返しました。挿絵のあるページもないページも。
それをみかねた少女は街へと降り、絵本を買いに出かけました。厚手の布を頭から被り誰にもその顔を見られないように細心の注意を払って。
見つかってしまわないだろうか。人間に怖がられないだろうか。
少女の胸は今にも破裂しそうなほど心臓が高鳴っています。冷たい石レンガの道路を素足で何時間歩いたでしょうか。やっとの思いで見つけた本屋ですが、買うにはとても手が出せるような金額ではありませんでした。
なんとかして買えないかと店主の人にお金を差し出すも、それでは店にある本は買えないと言い渡されます。
今にも泣きそうな顔を必死に布で覆ってトボトボと帰路へ向かおうとしたところ、店主の人が少女に声をかけます。
どうやら少女のみすぼらしい格好に同情したのか、売り物にならないボロボロの絵本を差し出してくれたのです。
少女は何度も頭を下げお礼をします。
家に帰って彼女と一緒に本を開くと、どのページも汚れていてうまく読めません。それでも彼女は目をキラキラと輝かせてページをめくります。それを見た少女は絵本を手に取り、そして両手を合わせて願いを込めます。
———どうか直って欲しい
すると絵本は眩い光を放ち綺麗に修復されていきます。それはまるでその絵本の時間が巻き戻ったようでした。
新品さながら紙の上に乗った絵の具が色鮮やかに映る絵本を手に取り、彼女は顔一面に子供のような笑顔を見せました。
寂しい本棚の隅に最初の一冊が並びます。
少女はその後も彼女のために世界中から本を探して集めました。その絵本から彼女は人という存在を深く知りました。
寝ることに食べること。友達や家族といった大切な存在と一緒に何かをして過ごすこと。愛すること……
———愛とはなんだろう。食事も睡眠も何かを作ることも自分にはやったことがないからわからない。
未知ゆえに膨らませる想像。彼女は何度も絵本を読み返せばキラキラと輝く登場人物たちに慈しむように触れます。
絵本に触れるたび、心温まり、踊らされ、そして強い憧れを抱き、それは日に日に大きくなっていくのです。
やがて彼女は人の真似をするようになりました。
夜に眠りにつき朝日とともに起きたり、ある日は森に出て木の実を口にしてみました。しかし、悪夢を見て一人怯えてしまったり、食べてしまった木の実はあまりにも酸っぱくて吐き出してしまったりとなかなかうまくいきません。
それを見ていた少女は興味を持ったのか少女の真似をするようになりました。
その日から二人の生活は一変します。
夜は悪夢を見ても怖くないように二人で一緒に寝るようになりました。
今まで取る必要もなかった食事もするようになりました。絵本に描かれていたように料理にも挑戦したり、絵を描いたり、工作をしてみたり、けれど何度も失敗を繰り返します。
何でも願うだけで叶ってしまっていた少女にはどれも初めてのことでした。でも、失敗を繰り返すたびに少女も彼女も笑っていました。
何をやっても最初は上手くいかず、自分は何もできないことに気づかされる。なんと不自由なのだろう、けれどその自由さがどうしようもなく楽しいと感じてしまうのです。
二人はのちにこの過ごしていた日常こそが愛なのだと気づきます。
彼女は少女から世界を教えてもらったお返しに少女の世界に色を与えたのです。
かつて少女が抱いていた孤独はもうすっかり癒えていました。
絵本を愛し、世界に触れ、この世界が美しいのだと教えてくれた存在。少女は彼女に一つ質問をします。
「ねえ、あなた名前はなんていうの」
「私に名前はありません」
「そっか。じゃあ私がつけてもいい?」
「はい。是非お願いします」
「じゃあ……」
本当は最初から決めていたのに少し気恥ずかしいのか少女はわざとらしく首に手を置き考え込むポーズをとりました。そしてパッと目を輝かせて
「リテラ……うん。あなたの名前はリテラチュア(世界に彩を与えるもの)よ」
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