第3話 眠り姫の夢のあと
昔々、ある王国にとても可愛らしいお姫様が生まれました。彼女の誕生を祝福するために十二人の魔女が王宮に招かれ、そして素敵な魔法を授けます。しかし、招待されなかった十三番目の魔女がこれに怒り、お姫様にしの呪いをかけてしまいました。
十二番目の魔女が力を尽くしますが呪いは解けません。そのため、死の呪いから『一五歳の誕生日に一〇〇年の眠りにつく』と呪いを上書きすることにしたのです。
それからお姫様はすくすくと育ち、そして呪いの通り深い深い眠りにつきました。それから一〇〇年後、お城はイバラに覆われ、お姫様は未だに眠りについたままです。そのため起こしに行こうにもイバラに引っかかって進むことができません。
国中の男たちが挑んでも誰もお姫様の元にたどり着くことができません。まるでお姫様自身が誰かが来ることを拒んでいるように……
◼️ ■ ■
とある雨の日の夜のこと。
リテラは珍しく図書館ではなく自室に籠っていました。
本来リテラはこの館から出ることができません。しかし特殊な方法を用いて館の外にある本の世界に飛ぶことができます。栞を使うのもその方法のうちの一つです。今回は閉ざされた状態で絵本の中に入るため栞を使うことはできません。
今宵は満月。魔女の魔力が増すので使える魔法の種類も増えます。しかし月が雲に隠れているため少し集中しなければなりません。
リテラは一冊の童話を部屋に持ち込み、複雑な紋章が描かれた机の上に置きます。そこに呪文を唱えると周りの空気が震え、煙を巻きます。すると絵本はパラパラと勢いよく開き、リテラは開かれたページの中へと吸い込まれていきました。
閉ざされた本の表紙には『眠り姫の夢』というタイトルが刻まれていました。
絵本の中に入るとそこは学校の中でした。広く開放的な中庭に沿ってアーチ状に作られた廊下。優しい木の色を基調としたフロアタイルはワックスでピカピカに磨かれ、吹き抜けの窓からテラス日差しが居心地の良い空間を演出しています。校舎の出入り口の上にはシンボルと言わんばかりの色鮮やかなステンドグラスが設置されており、いかにも私立のお嬢様学校といったデザインです。
中庭の中央に立つ設備時計を見ると一二時二十分を指しています。この時間はまだ授業中だと思いリテラは昼休みになるのを待つことにしました。
一階には中庭の他に職員室、食堂、音楽ホールといった設備があります。音楽ホールはどこかのクラスが授業で使っているのでしょうか、女の子たちの歌声が聞こえてきます。
食堂では職員の方が慌ただしそうに準備をしています。特にお腹が空いているわけではなかったのですが暇を持て余しているのでリテラは「今日の日替わりメニューは何かな〜」と鼻歌を歌いながらリテラは看板に目をやります。そこには大きく『和風ハンバーグ定食』と書かれていました。
前回来た時と変わっていないな、などと思っていると
「あら、もう来たのかい?まだチャイムなっていないと思ってたんだけど」
突然職員の方に声をかけられました。白い調理服に身を包んだ30代くらいの女性です。
「体育の授業が早く終わってしまったので。多分みんなももう直ぐ来ますよ」
「ふーん。そうかい。別にサボりでも私はとやかく言わないけどね」
「いやいや、サボりなんかじゃないですって」
そんな風に軽い受け答えをしていると終業のチャイムがなりました。
因みに、リテラの服装はいつも通り少し冷えた秋の日のような服に薄いピンク色のネリネの花飾りをつけた三角棒を被っています。ですが、魔法の影響なのか他の人にはこの学校の制服を着ているように見えるようです。
「年齢とかってどう見えてるのかしら」
決して年老いた外見をしているわけではないのですが、現役の高校生と比べてしまうとリテラも自分の外見が気になってしまいます。
ガラスに映る半透明な自分とにらめっこしていると
「あ!リテラだ!また来てくれたんだ」
今度は二階のフロアから声をかけられます。
見上げると手すりに前のめりになりながら大きく手を振る少女がいます。昼休みになったことで各フロアから女子生徒たちがゾロゾロと廊下に出てきましたが、そんな中でも目に付くくらい彼女はリテラに自分の存在をアピールしていました。
「久しぶり。また来たわ」
ふふっと口に手を当てて笑うとリテラも小さく手を振り返します。
「今日はどうするー?中庭でお昼にする?それとも屋上のテラスまで行っちゃう〜?」
少女は大声でリテラに話しかけます。ですが周りの女子生徒たちが彼女に振り向くことはありません。
「そうね。せっかくだしまだ行ったことない場所で食べましょうか。今からそっちに行くから待ってなさい」
中庭を出ると手すりに手をかけてシースルー階段を登り終えると、少女はリテラに勢いよく抱きつきました。
「あらあら。危ないでしょ。ほら離れなさい。鈴菜」
リテラが少女の名前を口にすると全く悪びれなさそうに白い歯を見せて笑います。
刑部鈴菜。彼女は以前リテラが自分の名前を使って強盗を働く者たちを粛清した際、巻き込まれてしまった少女です。三つ編みにメガネと大人しそうな外見だったのが、ふんわりとしたカールがかかったセミロングの茶髪にナチュラルなメイクに変わり、すっかり垢抜けしています。
「メガネもコンタクトに変えたのね」
「うん。最初全然入らなくて苦戦したけど、今では鏡なしでも余裕」
自慢げに語る鈴菜。命の恩人であるリテラとの一ヶ月ぶりの再会で話したい話題が山積みなのでしょう。
屋上へ向かうために二人は専用のエレベーターに乗りますが、その間も鈴菜はずっとリテラに語り続けています。
後者の六階は一帯がテラスになっており、キャンパス周辺を一望できるスポットになっています。柵の内側は芝生が生い茂り、幾つもの椅子にも机にもなりそうなカラフルなオブジェが点在しています。
天井はガラス張りですが強い日差しを弱める素材を使っているおかげで昼下がりの陽光と共に心地良いそよ風が肌を撫でます。
生徒たちにとっては間違いなく憩いの場として人気スポットになりそうなのに不自然にもリテラと鈴菜以外その場には誰もいません。
「こっちこっち。一緒にお弁当食べよ」
振り向くといつの間にか鈴菜は一番陽のあたりがいい場所に座ってランチクロスを広げていました。
「ご一緒するのはいいけど、私は特にご飯を用意していないのよね」
「大丈夫大丈夫。私リテラの分まで作ってきたから」
鈴菜は自分が敷いているランチクロスと同じ柄の布で包まれたお弁当箱をリテラに差し出しました。
「……気を遣わせてしまったみたいでごめんなさいね」
「いいっていいて。一人分も二人分もそんな変わんないから」
「いつも自分で作ってるの?」
「うん。一人暮らしし始めたらなんか急にハマっちゃってさ。あ、嫌いな食べ物とかない?」
「ないわよ。アレルギーもないからなんでも食べちゃうわ」
「良かったー。今日はハンバーグがうまくいったんだよね」
「それは楽しみね」
リテラも鈴菜も愉快そうにお弁当箱を開きます。
お弁当箱は二段組になっており、一段段目は三種類のおにぎりが敷き詰められています。そして二段目はハンバーグ、豚肉の生姜焼き、だし巻き卵、人参のグラッセ、組み合わせなど考えず好きなものを詰め込んだものたち。そこに申し訳程度の生野菜としてプチトマト。
一見めちゃくちゃに見えて盛り付けは非常に綺麗です。
一口目はお勧めされたハンバーグを半分に切り口に運びます。時間が経って冷めているにも関わらず旨味が凝縮された肉汁が口いっぱいに広がり、リテラは不覚にも驚きの表情を浮かべます。
「美味しい」
「でしょでしょ!」
「お弁当のハンバーグってパサパサしているイメージだったのに」
「それはね椎茸を細かく入れているからなんだ。椎茸が肉汁を吸って内包してくれるから時間が経ってもパサつかないの」
「へー、物知りね。他のおかずも手が込んでいるわね。こんなに品数作るのは大変だったでしょ」
「えへへ。リテラにも食べて欲しくて」
「わざわざありがとうね。でもどうして私が今日来るってわかったのかしら?」
「え?なんでだろう。直感かな?」
「そう。直感ね」
リテラの管理が行き届いていないとはいえここは絵本の世界です。欲しいものがあれば想像力次第でいくらでも出せます。そのためお弁当の一つくらい簡単に増やせます。先ほども鈴音は一つしかないお弁当箱をリテラがよそ見している間にどこからか取り出していました。
誤魔化す必要がないのにとぼけているということは何か隠したいことがあるのかそれとも……
「それにしてもこんな素敵な場所なのに私達二人しかいないというのも味気ないものね」
「そうかな?貸切なんてそうそうないし、静かでいいんじゃない?」
「独占するのはいいけど、でも分け合える人がいないのは寂しいものよ」
おにぎりを口にしながらリテラは諭すように言います。しかし鈴菜は首を傾げ、気にしなていない様子で、
「ねえ、お昼休みの後はどうするの?一緒に授業受けてく?」
「五限目はなんの授業なの?」
「あーなんだったっけ。リテラはどの科目が好き?」
「うーん、学校というのにいったことがないからきっとどの授業も新鮮で楽しめそうね」
「え、学校行ったことないの?小学校も?なんで?」
「だって私は魔女よ。魔女が学校に行く姿なんで想像できる?」
「あーできないかも。じゃあお父さんやお母さんに勉強を習ってたの?」
「さあ、どうだったかしら。昔のことすぎて思い出せないわ」
「なんかリテラって自分のこと話したがらないよね」
「話したくないわけじゃないわよ。本当に覚えていないだけ」
「そっか」
「それで、5限目は思い出せたの?」
「……あ、うん。次はね美術だよ。六限目も美術だから二時間連続だよ」
「とても楽しそうね」
丁度二人がお弁当を食べ終わった頃に予鈴が鳴り響きました。
「じゃあ行こっかリテラ」
「ええ。教室まで案内よろしくね」
鈴菜はエレベーターでそのまま美術室へと向かいました。リテラから受け取っていたはずのからのお弁当箱はいつの間にか消え、鈴菜の両手には二人分の教科書と筆記用具が抱えられていました。
美術室は三階の隅にあります。スライド式のドアを開けると既に三十人ほどの女子生徒が雑談をしながら席についていました。
「自由席だから空いてるところ座ろっか」
「でも、二人で座れる場所はなさそうね」
「うーん……あ、あそこ二人分空いてるよ」
鈴菜は嬉しそうに窓際お席を指さします。
「お友達と一緒にいなくていいの?」
「ううんいいの。だってリテラあんまりこっちにきてくれないじゃん」
「本当に?ちゃんと仲良くやってるの?」
「……なんで?」
その時明るげだった鈴菜の表情に一瞬だけ歪みが生まれました。おそらく本人には無自覚のものです。
リテラは記憶をさかのぼります。前回この学校に来た時は鈴菜は大勢の友達に囲まれており、リテラを相手にしようとしても上級生下級生関係なく声をかけられててこんなにゆっくりと話す時間はありませんでした。
「いいえ。なんでもないわ。さあ席につきましょう」
本鈴が鳴ると背の高い男性教師が教室に入ってきました。しかし男性教師は二人一組で似顔絵を描くように指示するとすぐに教室を出て行ってしまいました。
「ねえリテラ。絵を描くのは得意?」
「いいえ。昔自分で絵本を描こうとしたのだけど全然上手く描けなかったわ。でも好きよ」
「そっか。じゃあ私と一緒だね」
二人は向かい合うように座り直すと画用紙に黙々と鉛筆を滑らせます。他の生徒たちはおしゃべりしながらそれぞれのペースで似顔絵に取り組んでいますが、その会話の内容はうまく聞き取れません。ちゃんと日本語で、音として耳には入っているのですが頭で理解しようとすると音が霧散していく感覚になります。
描き始めて十分経った頃でしょうか。リテラが一度見せ合うように提案すると、
「えーまだあたりをつけたところだからなー。完成してからでいいでしょ」
「いいじゃない。ちょっとだけでいいから」
「えー。しょうがないな。笑わないでね」
そう言うと鈴菜は恥ずかしそうにはにかみながら画用紙を見せてくれました。画用紙に映るリテラは、まだあたりの段階とはいえ一つ一つのパーツが精巧に描かれていました。
「とても上手よ。ここからさらに手を加えるなんて完成が楽しみね」
「えへへ。ここから表情とか影を入れてくから。リテラの優しい笑い方をうまく表現できたらいいな」
「鈴菜から見て私はそんな風に見えてるのね」
リテラは再び画用紙に目を落とします。そこに描かれたリテラは大きな三角帽子をかぶっていました。服装も制服ではなく今来ている私服です。
「あ、これ以上はダメ!」
まじまじと絵似顔絵を見つめられ恥ずかしさがピークに達したのか慌てて奪い返します。
「リテラもどんな感じなのか見せてよ」
「そうねえ……」
自分の絵に目を見落として少しの間考え込むと
「ちょっと失敗しちゃって、描き直したいからちょっと待っててくれるかしら」
鈴菜ほど上手いわけではありませんが、決して失敗したとは思えないクオリティですがリテラはその絵をくしゃくしゃにして新しい画用紙を取りに行きました。
「あー勿体無い。捨てることないじゃん」
「いいのいいの。もっといい絵になるから。そういえば今日の授業は鉛筆しか使っちゃいけないのかしら」
「大丈夫だと思うよ。先生結構適当だし」
「じゃあちょっと借りるとしましょう」
筆と水、それからカラーパレットに赤青黄色、それから白の絵の具を乗せて元の席に戻ってきました。
リテラはサッと鉛筆であたりをつけると絵の具すぐに絵の具を乗せました。
「取ってくる絵の具、それだけでいいの?」
「いいのよ。他に必要な色があったら混ぜて作ればいいから」
「めんどくさくない?」
「そんなことないわ。自分で作る絵の具はどれも世界に一つだけのものよ。だからこういう作業も私は楽しいと思うわ」
迷いなくリテラは一本の筆で様々な色を作り、緑、青、灰色、おおよそ人の似顔絵を描く時に使わないような色から画用紙に乗せていきました。
「ねえ鈴菜。学校は楽しい?」
「どうしたのいきなり」
「だって気になるじゃない。こうなったのは私が原因でもあるんだから」
「原因?なんの?」
鈴菜は不思議そうに首を傾げます。その声色は何かを拒んでいるようでした。
「いえ、この話は今することじゃないわね。それでお友達とは仲良くしてる?」
「なんかお父さんみたいだよ。まあ前よりはずっとうまくやってるよ。もういじめられることもないし、おしゃれも料理も絵も、全部楽しいよ」
「熱中できるものが増えてよかったわ」
「うん。前は親がうるさくて何もできなかったし」
「本当に見違えるほど変わったわよね」
「うん。私頑張ったんだよ」
リテラは柔らかく笑って絵に集中し始めました。鈴菜もそれに応えるように無言で筆を走らせます。お互い沈黙のまま見つめ合いそして筆に起こす。いつの間にか周りの雑音は聞こえてこなくなりました。
夏の気配を感じ始める五月の昼下がり。先月もその前の月も、この青葉の芽吹く季節が巡り続けています。まるで世界が切り離されたように静寂が広がる中で、窓辺から吹き抜ける若葉の香りだけが確かに記憶に刻まれていきます。
いつの間にか手からにじむ汗が画用紙を微かに湿らそうとする頃、五限目の終礼のチャイムが鳴ります。
「あら、あっという間ね」
「え?あーうん。そうだね」
他の生徒がぞろぞろと美術室から退室していきますが、鈴菜は今もまだ集中して画用紙とにらめっこしています。
「いいの?みんな行ったけど」
「いいの」
「そう」
人懐っこく緩んでいた顔つきは少し険しくなり、けれど鈴菜のことがより近くに感じられて、リテラはその喜びを小さく頬に浮かべました。
「良いものね。学校という場所は」
「そう?」
「ええ、何気無い一秒でもそれが特別に感じるわ。もう戻ってこない掛け替えのない瞬間が、ここにに詰まっているもの全てが愛おしくて輝いて見えるわ」
「そんないいところじゃないよ。学校なんて」
「どうして?今は楽しいんじゃないの?」
「うん。でもそれは……それは?」
鈴菜が言葉に詰まったところで六限目の本鈴が鳴り響きます。いつの間にか女子生徒たちは席についており、黙々と似顔絵に取り掛かっています。美術の先生はほったらかしたまま授業は暗黙の中で始まりました。
「きっと上手くいかないこともあるでしょうし、勉強も人付き合いも面倒くさいなって思うときもあるのよね。でも損得抜きで親しい関係性を育めるのも、感情のままに衝突できるのも学校でしかできないのよね。だから、私たちからしたらあなたたちが眩しく見えるのよ」
「よくわかんないよ」
「わからなくて良いのよ。今は。ゆっくり大人になって振り返ってこそその眩しさに気づくのよ」
「でもリテラは学校に行ったことないんでしょ」
「ええ、ないわ。だからこそそうやって素直に悩んだり笑ったりできる貴女が少しだけ羨ましいわ」
「ねえ、私とリテラが同級生だったら、私たち親友になれたのかな」
「どうかしら……でも、こうしてずっと一緒に絵を描いていたら、それだけで幸せなのでしょうね」
「じゃあさ、ずっと一緒にここにいようよ」
「どうして?」
不安そうに、無自覚なまま救いの手を求める様に鈴菜は提案します。しかし、リテラは答えのわかりきった質問でその手を振り払います。
「あなたはちゃんとここでの生活を謳歌しているじゃない。友達がいて好きなことを好きな時にできて。そこに私がいる意味って何かしら?」
「だって……だってわかんないんだもん」
鈴菜は初めて声を荒げます。他の生徒たちが全員こちらにぐいっと首を向け、能面のような感情のない表情に剥き出した刃のような視線が集中します。反射的に鈴菜は「ひっ」と小さく悲鳴を上げうずくまります。
「やめて見ないで」
ほんの少し潤みを帯びた声で鈴菜は叫びます。その声に呼応するように周りの生徒たちは首を無理やり捻じ曲げる勢いで目を逸らします。
乱れた呼吸をゆっくり整え、そして鈴菜は続けます。
「最初は適当に相槌打つだけでなんかちやほやされて、でも私の好きなこと話そうとすると急に黙って。どうでもいい付き合いはできるのに、踏み込もうとした瞬間わからなくなるの。だからリテラ、あなただけでいい。あなたがずっといてくれたらこのわけのわからない不安も忘れられると思うの。だから……」
「ダメよ」
「どうして?私そんなにダメな子かな。そんなに一緒にいて不快になるかな。どうすれば私のことを好きになってくれる?ねえ」
暖かな日差しは錆びたように鈍い色へとくすみ、新築のように磨かれた教室に亀裂が入ります。しかし、そんなことなど御構い無しにリテラは筆を走らせて言います。
「鈴菜。あなたは悪くないわ。ただ勇気がないだけよ。勇気がないから本当の自分が出せない。相手がどんな反応をするのか想像することもできない。でも世界はあなた一人を嫌うほど優しくはないわ」
そしてリテラの絵は完成します。じゃぶじゃぶと筆を水で洗い、ほんの少し湿った画用紙を指を鳴らし一瞬で乾かします。そしてその似顔絵を鈴菜に手渡します。
「え、これって」
そこに描かれていたのは以前までの鈴菜の姿。黒く長い髪を三つ編みに結び、メガネをかけた少女が瞳を閉じイバラに包まれています。それはさながら夢に閉じこもるら眠り姫のようです。
「それが私から見た今のあなたよ」
「え、やだなぁ。こんな芋くさい見た目はもう卒業したよ」
苦虫を潰したように表情を歪め、それを覆い隠すように無理やり作った笑みを浮かべます。亀裂はピキピキと刺々しい音を立てて、やがてくすんだ青をした空まで広がります。
「そんなにこの姿が嫌?」
「嫌っていうか、だってこんな私じゃ誰もちゃんと相手してくれないもん」
「そんなことないわ。この姿の時のあなたもとても魅力的よ」
教室も、生徒も、崩れた天井から見える空も、やがては亀裂から破片がボロボロと溢れていきます。そして
「じゃあ、どうして私をここから連れ出してくれないのよ」
ガラスが砕けるような音を立てて、罅だらけの世界は一瞬で崩れ去りまそして二人は水晶でできた世界に取り残されてしまいました。その景色はまるで光のある水底のように青く揺らめいています。
「ねえ、もう気がついているんでしょ。ここが夢の中だって」
「どうして……どうして壊しちゃうの?どうして最後まで夢のまま終わらせてくれないの。あなたがくれたものなのに」
鈴菜の瞳から流れる涙は頬を伝い滴ると新たな水晶となり世界の一部となります。
「ううん、本当はわかってる。ちゃんとわかってるよ。私はまだ、生きているんだよね」
「ええ。あなたは今も病院のベッドで生きているわ」
リテラが屋敷に戻った直後誰かが銃に撃たれ倒れている鈴菜を見つけ、病院へ搬送したのでしょう。そのため命拾いはしたものの彼女は寝たきり状態になってしまったのです。本人も無意識の中で違和感を感じていたはずです。けれどそれに気づいてしまえば、誰も自分をこの世界から連れ出そうとしてくれない現実を、誰も自分を必要としてくれない事実を認めることになってしまうから、彼女はずっとこの世界に閉じこもろうとしたのです。
「あれからどれくらい経ったの」
「一年と三ヶ月よ」
「そっか、そんなに私は寝たままなんだ」
リテラの与えた魔法は与えられた者の心のままに姿形を変えます。彼女はずっと自分の過ごしたかった学校生活を描き、そして無意識の中で自分の都合の良いように書き換えてきました。
「もう時間がないんだよね」
「ええ。貴女が起きなくてもこの魔法は解けるわ。貴女の肉体は生きているから、この世界は不完全なままできてしまった」
「もし目が覚めなかっったら?」
「貴女の魂は拠り所をなくし消滅してしまうわ。残った肉体も永遠に植物状態よ」
「そっか」
無機質な声で返事をし、鈴菜はそのまま俯きます。
もし彼女がこのまま自分にとって都合の良い世界で過ごしていたいのならそのままでもよかったのでしょう。しかし、彼女はきっと求めてしまったのです。自分にとって都合よくなんでも受け入れてくれる妄想ではなく、自分の思い通りにいかなくても、真っ当に喧嘩して、それでも共にいたいと思える本当の友達を。
だからいつの間にかこの絵本の世界で誰とも話すことができなくなったのでしょう。
「容態は順調に回復しているわ。目覚めるかどうかはあなた次第らしいわよ」
「でも、今さら目覚めても私の居場所なんて……いや、元々私の居場所なんて学校にはなかったよ」
夢から抜け出したい気持ちも怖さ故の閉じこもりたい気持ち、どれも溢れ出しそうなくらい抱えてしまい、その矛盾がいつまでも現実を拒み続けるのです。
青く揺らめく光はより淡く薄らぎ、けれどそこから見上げる天井はまるで水底から見上げる空のように眩しく揺らめいていました。
「きっと眠り姫はこんな夢を一〇〇年間見続けていたのでしょうね」
美しい空がそこに広がって、けどその光に手を伸ばせば伸ばすほど遠のいて、まるで暗い海の底へ孤独に溺れて行くような気分です。
きっと眠り姫がイバラでお城を覆ったのは、現実を拒んだからなのでしょう。理不尽に呪いをかけられた現実を疎み、置いていかれて行く孤独感から目を逸らす。それでもどこでいつか描いていた日常に恋い焦がれてしまうからいつまで経っても踏み出せないまま。
拒み疎み、逃げ続けても、王子様という絶対的な強者には逆らえなかった。だから妥協し、結ばれることを幸せと信じ、受け入れた。受け入れるしかなかったのです。
「でもあなたは違うわ。ちゃんと変わろうとしている。都合の良い夢から抜け出そうと足掻いている。だからきっともう大丈夫よ」
「本当に?私今度はちゃんと生きられるかな。友達もできるかな」
「ええ。だってあなたの作ってきてくれたお弁当とても美味しかったし、こんな素敵な似顔絵だって描けるんだもの」
「でもまた怖いよ。どんな風に笑って、どんな風に接したら喜んでくれるの」
「取り繕う必要なんてないわ。貴女が大切にしたいと思えばその子もきっと応えてくれる。だから怖くても不安でも、貴女から一歩踏み出すのよ」
「もしもまた虐められたりしたら。もう踏み出せなくなったら?」
「そうね。辛くて苦しくてどうしようもなくなったら、その時は私と一緒にお茶会を開きましょう。そこでまた他愛もない会話をして、そうやって元気になったらまた学校に行くの」
「いいの?私なんかが行っていいの?」
「当然よ。だってもう私達は友達でしょ」
「友達……そっか。友達かぁ」
照れ臭そうに、けれどその言葉の意味を噛みしめるように反復します。
「ねえ鈴菜、貴女の好きな紅茶は何かしら」
「え、どうしたの?いきなり」
「貴女がいつきてもいいように用意しておくわ」
「えー詳しくないからな。普通のアイスティーとかでもいい?」
「いいわよ。クッキーも焼いておくわ」
「やったー。約束だよ」
「ええ、約束よ」
そう言うと二人は自然に小指と小指を結び、約束を交わしました。その瞬間、二人を覆っていた水晶の砦が割れ、広大に広がる青い空と、その青さに負けないくらい色鮮やかに咲き誇るネモフィラの花畑が顔を出します。そして梅雨晴のような清々しい陽光が今ここに生まれた約束を祝福するように二人の晴れやかな笑顔を照らすのです。
「私頑張るよ。頑張って生きて、最後までやり切ったら、また私からリテラのことを呼ぶよ。だから待ってね」
「ほんの少し寂しくなるわね。でも……その日を楽しみに待ってるわ」
砕け宙を舞う水晶の破片が眩い陽光が乱反射して幻想的な景色を作り出し、そして二人は光に包まれ消えて行きました。
◼️ ■ ■
白い天井、カーテン越しに差し込む青白い光、ほんの少し湿り気を帯びた薬品の匂いに点滴モニターから流れる機械音。長い時間眠りについていたはずなのに、音も光も匂いも、前より鮮明に感じ取れました。
なんとなく起き上がろうとすると、これまで寝たきり状態だったせいか体が思うように言うことを聞きません。
なんとか体を起こして首を窓の方へと傾けると水平線から日が昇り、雨上がりの世界に朝を告げます。鈴菜は再び天井を仰いで、回らない頭で夢の中のことを思い出そうとしますが、ぼんやりと浮かんでは薄明に浮かぶ月のように滲んで消えてしまいました。
何か大事な言葉を交わしたはずなのに、誰かと約束を交わしたはずなのに、その記憶はぼやけ、薄れ、遠のいてします。なのに不思議と悲しくはないのです。
いつまでも浸っていたかった大切な夢は抱きしめた感傷を残して現実へと染まっていく、その感覚がどこか心地いと感じるから。
不意に机の上に目をやるとそこには最近変えたばかりの綺麗な花が花瓶に挿してありました。それはどこかで見たことあるような透明感のある薄いピンク色の花。その花を眺めていると記憶の奥底に不自然に大きな三角帽子をかぶった女性の姿がよぎります。
「あ……あっ」
鈴菜の喉元で何かがでかかったところで通りがかった看護師が、早朝に似合わない大きな歓声をあげました。慌てて医師の方に連絡を取ると鈴菜の元に駆け寄り「良かった、良かった」と泣きながら鈴菜の手を握ります。
鈴菜は彼女の姿を見てようやく夢から覚めたんだという実感が湧いてきました。
一体どれだけ眠っていたのだろう。そもそもどうして自分は病院のベッドにいるのだろう。ぽつぽつと湧き上がる疑問と微かな不安。これから自分はどうなるのかわからないけれど、でも不思議と怖くはありません。
医師の男性が到着すると看護師の女性が状況を説明し、その後鈴菜の容態をチェックします。いくつか質問を投げかけられそれも全部正直に答えました。一時間ほどして二人は一度病室から退室しました。
再び記憶の片鱗を求めて花壇に目をやると、一冊の絵本が置いてあります。表紙にはイバラに包まれた自分の似顔絵が、そして裏表紙には大きな三角帽子を被った女性の横顔が描かれていました。
パラパラとページを捲ると、そこに描かれた物語は、一人の少女が夢の中で旅をする話。全く身に覚えのないのに、その物語がなぜか懐かしく感じて、気がつくと鈴菜の頬には涙が伝っていました。
拭っても拭っても涙は溢れ出し、けど心はどこまでも晴れやかでした。
木々の葉の甘さと深い深緑の香りが混ざり合い、太陽は猛々しく現実を照らす中で、鈴菜は涙に濡れた暖かい夢(思い出)を抱きしめて、そして彼女は夏を迎えました。
巡り続けた春を超えて、彼女は約束を果たしに行きます。
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