第2話 かぐや姫の願い
昔々あるところに、竹から生まれた少女、かぐや姫がおりました。
彼女はおじいさんとおばあさんの元でたくさんの愛情を注がれ、すくすくと育っていきます。赤ん坊だったはずのかぐや姫はたちまち大きくなり数年後にはすっかり美しい大人の女性に成長します。
その美しさに惹かれた五人の男性がかぐや姫に結婚を申し込みますが……
「本当に私を愛してくれるならそれに見合うだけのものを持ってきて」
男たちはそれぞれ高価なものを持ち寄ってかぐや姫に見せますが、彼女のお眼鏡に叶うことはありませんでした。
五人の男たちが諦めると、次は帝がかぐや姫に求婚します。
しかし、月の民であるかぐや姫は地上に人間とは結ばれてはならないという掟がありました。どれほど偉い人でも、どれほど力を持っていてもかぐや姫が振り向くことはありません。それでも帝は諦めずにかぐや姫に想いを伝えます。
長い間、彼を見ているうちにかぐや姫は帝に惹かれてゆきます。
そんな中、月の都からかぐや姫に迎えの使者降り立ちます。かぐや姫は月に帰らなければならないのです。
どれだけ愛していてもかぐや姫と帝は結ばれない運命。
かぐや姫は涙を流しながら、帝に一通の手紙と不老不死の薬を渡しました。
彼女が去っていった後、帝は
「彼女のいない世界で長く生きる必要などない」
そういって薬を燃やしてしまいました。
彼女が薬を渡した本当の意味も考えずに……
◼️ ■ ■
「日本最古の昔話、竹取物語。なかなかに切なくて素敵よね。あの時代では日本だけでなく世界中の権力者が夢に描き、欲していた不老不死になる方法。今でこそ医学の進歩や食文化、技術の発達である程度の怪我や病気も簡単に治せて、百年生きることもそう珍しくない。そんな素晴らしい時代になったけれど、常に厄災を受け入れることが前提だったあの時代の人々は、今とは比較にならないほど生きることに執着していたはず。にも関わらず一人の女性を愛し、彼女を想うが故に時代が象徴する夢さえも手放した。そんな帝が抱いたかぐや姫への愛は計り知れないわね」
長い考察を一方的に嬉々として語るリテラ。
彼女の手元にはいつだって分厚い表紙に覆われた本とその日の気分にあった紅茶が用意されています。本日リテラが選んだのはマゼンダの色をしたハイビスカスティーです。爽やかな酸味とほのかな渋みが特徴的な紅茶で、少し眠たくなる春の日差しが差し込む昼下がりには丁度良い一杯です。
ミルクに砂糖、レモンに蜂蜜など来客用にトッピングも用意されていますが。リテラはそれらには一切手をつけません。彼女はどの紅茶もストレートで香りと味を嗜むのです。
久々の訪問者に少しはしゃぎ気味のリテラ。話が脱線する前に我に帰り、早速今回の訪問者の願い、その本質に迫ります。
「帝の深い愛。その愛の重さが本来賢い人間だった彼を盲目にし、愚かな決断を踏ませたのよね。かぐや姫への愛を証明するために永遠の命を燃やし、決別する。彼女は本当にそんなことを望んでいたのかしら。あなたはどう想う?」
「さあ、どうなんでしょう。愛する帝に長生きして欲しかったとか、そんな感じじゃないですかね」
リテラの問いに、少し白髪の目立つ40代ほどの女性が答えます。
黒いカットソーの上にスカーフを巻いた上品な装いに合間って、座る姿勢からティーカップを手に取る仕草まで、非常に優雅で彼女の品性が窺えます。どこかの会社の社長夫人といった雰囲気です。
「それで魔女様。どうしていきなりかぐや姫のお話など?」
非常にごもっともな疑問を中年の女性———赤坂由紀子は投げ返します。
リテラは二杯目のハイビスカスティーを由紀子の分もカップに注いで、
「私、童話が好きなのよ。誰も彼もみんなハッピーエンドで、それ以上何も考える必要のない、完成された物語なのよ。でも日本の昔話なんかはとても切ないお話が多いのよね。鶴の恩返しも泣いた赤鬼も、桃太郎なんかも鬼たちにとっては略奪されたまま終わるでしょ。時々ね、そういった悲しい結末を書き換えたくなるのよ。丁度あなたみたいに」
「つまり、私は不幸なかぐや姫と言いたいわけね」
「気に障ったかしら?」
「あながち否定できないのが悔しいわね。それで魔女さん、そんなことを伝えるためにわざわざ私を呼び出したわけではないわよね」
「当然。だって私はあなたに望まれてきたのだから」
「私が?魔女の噂なんて信じたことないのだけど」
魔女の噂。それは誰もが知っている都市伝説の一つ。
どんな願いでも一つ叶えてくれる代わりにその者の魂を奪う。
ネットでは魔女について様々な情報が飛び交うがどれ一つあてになるものはなく、実際に魔女に願いを叶えてもらったという者もいません。
好奇心に狩られたもの者たちは面白半分に魔女の居場所を探しますがどれも失敗に終わっています。最近では気に入らない者は問答無用で魂を奪われるという噂が横行し始めました。
しかし所詮噂は噂、真相は、
「魔女は気まぐれなのよ。書き換えたい物語を持った人の前にこの館は姿を現す、それだけよ」
「ふーん。実物とイメージは違うのかと思っていたのだけど、本質はあまり変わらないようね」
初めてこの部屋に訪れた時、目の前いっぱいに広がる書架の海に高い天井から差し込む陽光が照明のようにこの図書館の司書を照らしていました。まるで壮大な舞台美術を施した劇場のように神秘的で、けれどどこか懐かしさを覚える空間でした。
「それで、あなたは私の魂を奪うのかしら」
「奪うなんて人聞きが悪いわね。全く、噂に尾ひれがついて私も困っているのだから。この前なんて私を殺せば魔法を手に入れられる、なんて勘違いした人たちに襲われかけるし」
「あなたも色々大変ね」
由紀子はフルーツタルトをフォークで器用に細かくして口に運びます。
「いいのよ。いつも一人で退屈だから、そういった刺激的なことも嫌いではないわ」
「ずっと一人でここに?どれくらい?」
「そうね。1年満たないと思えば100年以上も過ごしている気もするわね」
「魔女というのは孤独なものね」
由紀子は最後の一口を飲み込むと立ち上がり、
「それじゃあそろそろお暇させてもらうわね。とても楽しかったわ」
そう言うと出口へと向かいます。
「あら、本当にいいの?」
リテラは不敵に笑い彼女を呼び止めます。
「このまま戻って、あなたに居場所はあるのかしら。地上の色恋に染まったはぐれ者を月の民が快く受け入れるはずもなく、愛した人を思いながらただ時間が過ぎていく。そんな空虚な日常の中で幸せに過ごせるのかしら。ねえ、かぐや姫さん」
由紀子の足が止まり、一瞬リテラを睨みつけるように振り返り、そしてまた上品な笑顔を浮かべます。
「ねえ魔女さん、どうしてあなたは私にちょっかいを出すのかしら」
「もちろん貴女の望みを叶えるためよ」
「私の欲しいものをくれるの?」
「ええ、なんだって叶えられるわ」
リテラはネリネの花が飾られた真っ黒い三角帽子を被り、それはもう魔女らしく笑って扇動します。
彼女は由紀子の詳しい事情など知りません。ですがこの館に、今手元にある絵本に導かれたのならば、その答えは決まっているようなものなのです。
「さて、かぐや姫さん。まずは貴女の本当の望みを知るところから始めましょうか」
パチンと指がなると館内の白紙の本が竜巻の如く宙を舞います。
その光景に目を奪われた由紀子は逃げ出すことも声を上げることもなく、吸い込まれていきます。
高い天井に輝くステンドグラスは夜に移り変わり、バサバサと廻る紙の束はやがて渦を巻いて一冊の本へとして集束しそこで二人の景色は暗転します。
宙に舞っていた一冊の本はそのまま落下して、ドサっと、誰もいない図書館に反響しました。
◼️ ■ ■
目を開くとそこは何もないまっさらな空間でした。気の遠くなる程、地平線の先まで空白で埋め尽くされ、微かに伸びる影だけが辛うじて自身の存在を自覚させてくれます。
「何よ、ここ」
「ようこそ、絵本の世界へ」
どこからかリテラの声がしますが辺りを見渡しても彼女の姿はありません。
「こっちよ。上よ、上」
言われた通り見上げると、リテラは真上で手を振っています。しかし、髪も服も乱れることのない、重力に逆らっている状態でした。
「どうしてそんなところにいるのよ」
「ここは魂だけが存在する場所よ。実体がないから心と想像力のありようでどんなことでもできるのよ」
リテラが指を軽く鳴らすとポンっと軽快な音と共に由紀子の手元に一輪の花が咲くと、たちまち辺り一面鮮やかな花畑になりました。
「綺麗な花でしょ?あなたの住む地域では咲かない花らしいわ」
由紀子から見て天井に居座っていたリテラはふわりと宙に浮き、ゆっくりと由紀子の前に着地します。
「ええ、とても綺麗ね。あなたは花が好きなのね」
「魔女が花を愛でるのはおかしい?」
「いいえ全く。素敵だと思うわ」
「ありがとう。今度はあなたの番よ」
リテラはもう一度指を鳴らすと溢れんばかりに咲いていた花々は煙を上げて消えてしまい、また殺風景な空間に戻りました。
「ほら、あなたもやってご覧なさい。目を閉じて、何か好きなものをイメージするのよ」
怪訝そうに表情を歪めながら由紀子は言われた通り目を閉じます。そして数十秒。好きなものと急に言われてもすぐには思いつきません。
「あら、何も思いつかなかったのかしら」
「突然何が好きかと言われてもね」
「お手伝いしましょうか?」
「……いえ、結構よ」
そう言って由紀子が出したものは、先ほどリテラと一緒にお茶していた時のティーセットとクッキーでした。
「あら、そんなに気に入ってくれたの?」
「……ええ、まあね」
由紀子は一瞬、苦虫を潰したような笑みを浮かべます。
リテラはその一瞬の変化を見逃しません。
「ねえ、次は?」
「次って……」
「言ったでしょ。ここでは心と想像力のままに何でもできるわ。空を飛ぶことも、深海の底を歩くことも。何だってできる。何だって手に入る。もっと、もっと欲望の限り自由に振舞って良いのよ。さあ」
不敵に笑って一歩、また一歩と由紀子の元に近づきます。そのトパーズのような色をした瞳の奥には心の奥底を見透かされそうな不気味な迫力がありました。
「自由……ね。好きにして良いって言うならここから出してほしいわね」
「それもできるわ。あなたが本当に望むならね」
由紀子の首元に嫌な汗が伝います。
———あなたに帰る場所はあるかしら?
魔女は言葉以上にわかりやすく語り掛けてきます。親しげな口調なのになぜか不気味。後退りしようにも思うように足が動いてくれません。
「そんなに怖がらなくて良いわ。今すぐにとって食おうってわけじゃないんだから」
怯えた子供をあやすように手を握られ、そして優しく微笑みかけてきました。そして彼女と目が合った瞬間、由紀子の頭にこれまでの走馬灯のようなものが流れ出しました。意識は気の遠く鳴りそうなほど深淵へ行くような錯覚、しかし肉体のない魂だけの世界で気絶など起こることなどあるはずもなく、意識が残ったまま、まるで映画でも見ているかのようにこれまで過ごしてきた街の記憶が視界を過ぎていきます。
リテラの握った手からは魔力が注がれ、彼女を通して殺風景だった景色は一変します。視界に流れた映像の後を追って現実が組み立てられているような感覚です。
数秒後、濃縮された映像が流れ終わると由紀子はふらりと立ちくらんでしまいました。
「ごめんなさい。ビックリさせちゃったかしら」
リテラは慌てて右手を差し出します。ですが、先ほどと似たようなことを体験したため、由紀子の表情に警戒の色が窺えます。
手はとらず、自力でゆっくりと立ち上がると、そこから見える景色は彼女にとって馴染みのありすぎるものになっていました。
小さい頃から過ごしていた小さな下町。ある一定のラインを超えるといかにも都会といったような派手な装飾が施された街。その中央に背の高いタワーマンションがあります。由紀子は恐る恐るリテラの顔を振り返ります。
「上手くいってよかったわ。これはあなたの記憶を反映して作った街よ。急造でもよくできているでしょ?」
それは由紀子にとって忘れようとしていた景色でした。
きっと自分の頭の中を魔法か何かで覗き見たのでしょう。何のためにこんなことをするのかわかりませんが、彼女にとってあまり気分のいいものではありません。しかし、
「街づくりも済んだことだし、さあ行きましょう」
無邪気に笑いながらリテラは手を引きます。本当なら振りほどきたい、しかし彼女はここから外に出る意味を見出せずにいました。ただ、魔女に逆らうこと恐れている、それを理由に挙げて、リテラに手を引かれるまま記憶の中の街へと足を踏み入れました。
際限なく白かった天井は鮮やかな青空に染まり、その上を降り始めた太陽が橙色に焼きます。無人だった大通りにはいつの間にか慌ただしそうに人が入り乱れます。
エプロンを締めて買い物袋をぶら下げた女性、寄れたスーツに身を包んだ男性、ランドセルを背負って無邪気に走り回る小学生たち。皆、それぞれの帰り道をそれぞれの速度で進んでいます。その様子をリテラはどこか羨ましそうに眺めながら歩いていました。
しばらくすると香ばしくも甘い香りが漂ってきました。その匂いにつられて進むと雰囲気のある商店街まで出ました。香りの正体はパン屋からでした。どうやら出来立てのものが店頭に並んでいるらしく、行列ができています。
「ねえ、私も並んできていいかしら」
「構わないけど、それくらい魔法で出せるんじゃないの?」
「わかってないわね。並んで待つ時間も楽しまなきゃ」
そう言ってリテラは列の最後尾に並び、10分ほどで目当てのパンは変えました。出来立てでまだ熱いので二重にナプキンを巻いてフーフーと冷ました後、大胆にかぶりつきます。
「んー!甘―い」
「そう、よかったわね」
「ええ、とっても美味しいわ。並んだ甲斐があるわね」
夢中になって食べ歩いていると先ほどまであったパンはすぐに食べ終わってしまいました。リテラは新しいナプキンで口元を拭くと、次は精肉店に目をつけました。
店の店主が店頭で大きな声で目玉の商品を宣伝していますが、彼女の耳には店の奥からジュワジュワと奏でる油の音しか届いていません。
リテラが由紀子の方へと視線を送ると
「いいわよ。私の許可なんていらないでしょ」
パァーとわかりやすく表情を変え、リテラは駆け足で精肉店へ向かいます。そして揚げたてのコロッケとメンチカツを二つずつ両手に抱えて戻ってきました。
「はい。一緒に食べましょう」
「いや、私は別に」
「いいからいいから」
ぐいっと押し付けられ、由紀子は渋々受け取ります。片手の空いたリテラは持ち手を変えてかぶりつきました。ザクザクっと気持ちのいい音と共に、ほくほくのジャガイモと野菜の甘みが口いっぱいに広がります。
「美味しい!どうしてお肉屋さんのコロッケってこんなに惹かれるのかしら」
満面の笑みで頬張るリテラを見て、由紀子も続いて口にします。
「確かに美味しいわね」
「素敵な街ね」
「ええ」
しばらくの間二人で食べ歩いていると、突然由紀子の足が止まりました。
「どうかしたの?」
返事はありません。リテラは視線の先を追うと、そこにいたのは小学生くらいの女の子でした。大きな買い物かごを右手に小さい弟と妹を連れています。
女の子はリテラたちの前を通り過ぎるとさびれた豆腐屋の奥へ消え、数分後にはエプロンを巻いて戻ってきました。それからずっと、女の子は必死に働いていました。同年代の子たちがはしゃぎながら店の前を通り過ぎても、自分より大きな子が親に駄々をこねても、羨ましいと思う暇もなく、ずっと作った笑顔を貼って声を上げていました。
「私の家、見ての通り裕福ってわけじゃなかったのよね。下の子も多いし、物心ついた時にはずっと家の手伝いばっかしてたわ」
「えらいのね」
「そうね。今こうしてみると本当によく頑張ってたんだなって。あのくらいの子ならもっとわがままとか言っていいはずなのにね」
目の前にいる昔の自分に向かって話しているはずなのに、どこか遠くを見つめているようなそんな目をしていました。
「やること全部家族のため家族のため。放課後遊ぶこともないから友達も少なかったわ」
「そう?でもあの子とは仲よさそうに話しているけど」
リテラの見ている先には犬を引き連れた背の低い男の子と、彼と楽しそうに話す小さな由紀子の姿がありました。営業用の貼り付けた笑顔でなく、年相応に無邪気な笑顔です。
「好かれているみたいね」
「そうね」
「いいわね、幼い頃から特別な仲って」
「そんな羨むようなものじゃないわよ」
どこか寂しげな視線を送ると由紀子は再び足を進めました。
夕日は水平線の先へと顔を隠し、やがて夜が訪れます。月の暦は10月を示し、冷えて澄んだ空には淡い光が街頭にも負けないくらい夜道を照らしてくれます。
肌を撫でる風はとても冷たいのになぜか寒さや不快感は感じません。これも魔法の効果なのでしょうか。
二人は商店街を抜け閑散とした住宅街に出ます。年季の入った家々、しかし色が抜けていたり形が曖昧なものも混じっています。
そんな中、ここが目的地と言わんばかりにくっきりと月明かりに照らされた空き地があります。そこで中学生くらいまでに大きくなった由紀子と先ほど楽しげに話していた少年がいます。この時にはもう少年は由紀子よりも背が高いです。
少年は泣きじゃくる由紀子を必死になだめている様子でした。
「あら、可愛らしいわね」
「恥ずかしいからやめて」
「これはどういうシーンなの?」
「都心部にある高校へ行くことになって、これは引越しの前夜だったかしら」
「ベタだけどいいわね。青春じゃない」
「携帯も既にあるんだから一生の別れっていうわけじゃないのに大げさよね」
「それがいいんじゃない」
少年は小さな由紀子に小包を渡しました。中身は健康祈願のお守りです。
「健気でいい人ね」
「ええ、優しくていい人よ」
小さな由紀子はお守りを大事そうに抱え、少年は困りながらはにかみハンカチを差し出します。
「彼とはいつまで?」
「長い付き合いよ。友達としてね」
「そう」
その後小さな由紀子と少年は消えて行き、リテラと由紀子は再び足を進めました。
まっすぐ道が続いていたかと思いきや気がつくと行き止まりです。
「あれ?この通りってこんな構造だったかしら」
由紀子は首を傾げてきた道を戻ります。しかし振り返った道も亀裂や空白部分だらけで自分がどこにいるのかわかりません。まるで風化して絵の具が崩れた絵画の中にいる気分です。
「大丈夫よ。落ち着いて」
戸惑う由紀子の肩にリテラは優しく手を置きます。
「ここはあなたの記憶を再現した場所。あなたがここに何もないと思えば何もない場所になる。道があれと信じれば道ができるわ」
その時小さな由紀子が二人の前を通り過ぎ、ここからでは見えない空白の先へと駆けて行きます。
「ついて行ってみましょ」
彼女の後を追い、雲がかった記憶の中を歩きます。あたり一面、濃霧に包まれたようで菅、姿は見えませんが足音が道しるべとなってくれます。
霧の中を抜けると再び陽は昇り、慌ただしい朝を迎えます。二人はいつの間にか下町を抜け都心部の方へと出ました。
中学生だった由紀子は既にスーツに身を包んでいました。ピカピカの黒いバッグには健康祈願のお守りをぶら下げ、駅の改札から勤めている背の高いビルまでヒールで慌ただしく走っています。ビルの中で駆け込むとまた別のビルへと入り、俯きながら表情を曇らせ、頬を軽く叩くとまた顔を上げ次のビルへ。彼女はそれをずっと繰り返しています。
次のページへ、また一ページ先へと捲るように日は過ぎていきます。早送り、というよりは一歩、また一歩進むたびに1日分の時間が流れているような感覚です。それでも彼女の行動は変わりません。
泣くことも笑うこともなく、ただ仕事に励み、働いた分のお金もギリギリまで家族に送っています。
「あなたは本当に強いのね」
「強くないわよ。必死にごまかしてただけ」
「いいえ、あなたはよく頑張ったわ」
一〇年が過ぎた頃でしょうか。一人の青年が由紀子に声をかけます。由紀子は何度か断わる素振りを見せますが、押しに負けて、いつもはまっすぐ帰るところをその青年と綺麗なレストランへ入りました。
「彼がもしかして今の旦那さん?」
「そうよ。当時の社長の跡継ぎ」
「あら。玉の輿なのね。どうしてあなたに?」
「さあ。なんて口説かれたかなんて覚えてないわよ」
「残念」
レストランから出てきた由紀子は家に帰り、そして翌日また会社へと出社します。その日にはもう健康祈願のお守りは外されていました。そしてその日から彼女は小さなアパートから町の中央にあるタワーマンションへ帰るようになりました。
最初はわかりやすい笑顔で過ごしていました。会社で俯くことも減り、家族へ仕送りwpする回数も増えています。次第に会社へ行く回数も減り、由紀子は一人広い部屋で過ごす時間が増えていきました。
生活は見違えるとほど裕福になり、自分以外の誰かを気にかける必要はありません。しかし彼女の表情はどこか曇ったままです。
「ねえ、どうして今更だけど、どうしてこんなものを見せようと思ったの」
「言ったでしょ。あなたが何が望みなのかそれを知らないといけないからよ」
「随分と回りくどいことをするのね」
「だってあなた、自分が何が好きで何が嫌いか。それすらわからないでしょ?」
「……」
「この結婚はあなたが望んでいたこと?それとも家のためにしたこと?」
由紀子は不意にまた自分を見つめなおします。慣れない生活に戸惑い、青年の親族が家に来れば肩身の狭い思いをし、それ以外はただずっと一人。外を眺めてただ時間が過ぎていくのを待つ日々。
「あなたは誰かを待っていたんじゃない?」
「……なるほどね。この生活を月の都とするなら私は本当は帝を選ぶべきだった。そう言いたいのね?」
お守りを下町にいた少年に返してどれくらい経ったでしょうか。彼から由紀子への頼りは一通のみ。その中身は一言『おめでとう』だけでした。きっとこれ以上来ることはないのでしょう。
由紀子は夕日を眺めながら知らず知らずのうちに涙を流し、そしてそこから動かなくなりました。次のページから空白が続くため捲ることができないのでしょう。
「かぐや姫はなぜ帝に不老不死の薬を渡したのか。それはとても単純なこと。自分を追いかけて欲しかったそれだけなんじゃないのかしら?」
リテラは答え合わせをするように尋ねます。由紀子は無言で頷き、そして呆れたように続けます。
「帝もかぐや姫もバカよね。ただ、迎えにきて欲しいと、そう言えばいいだけなのに。押し釣るだけ押し付けて勝手に期待して」
「ええ、これで終わってしまうなんてあんまりね」
「ねえ魔女さん。貴方に頼めば彼と結ばれることができるのかしら?」
由紀子は今もまだ悲しげな様子でリテラに尋ねます。それは気づかないように必死に誤魔化していたものが崩れてしまったが故なのか、初めてリテラに本心を打ち上げ、救いを求めているようでした。しかし、
「ダメよ。不正解」
「え?」
リテラはため息交じりにスパッと切り捨てました。
「ねえ、かぐや姫は最初から最後までずっと不自由よね。一見わがままに見えてずっと周りに振り回されたのは彼女の方だったわ。自分の美貌だけに惹かれ、でも本当に必要な時には誰も彼女を追おうともしない。なら彼女の本当の望みって何かしら。ねえ由紀子、貴方の本当の望みは何?」
由紀子は固まります。自分が何を望んでいるのか。何がしたかったのか、本当にわからないからです。ただ、空白だらけの人生に対しての後悔だけが積もって、けれど具体的に何を求めているのかわからない。そんな自分にもショックを受けているのです。
そして今ようやく理解しました。自分がなぜリテラの手を振りほどけなかったのか。どうしてあの家に帰りたくなかったのかを。
「……して……」
何も思いつかない。けどここで何も言えなかったら自分の人生は死ぬまで空白だらけになってしまう。だから、由紀子は声を振り絞りました。
「わからないから……私は何を望んでいるのかわからないから。魔女リテラ。私はそれを
ちゃんと見つけたい。こんな願いじゃダメかしら」
生まれた初めて由紀子はわがままを口にしました。手も足も声も震えながら、けれど確かな意志を持って口にしました。リテラはそれを受けて、
「とても素敵な願いよ」
由紀子を抱きしめ、そして優しく微笑みかけました。由紀子もそれにつられて朗らかな笑みを浮かべます。
「これで契約成立ね。では、魔女・リテラの名の下に、貴方に『絵本の魔法』を授けましょう。どうか次は貴方の願う幸福が訪れますように」
リテラは由紀子の手を握り魔力を注ぐと、絵本の世界は優しい光に包まれました。
図書館に残された分厚い絵本はパラパラとページが捲れると、ふわりと再びリテラが姿を現しました。そして出てきたばかりの絵本のページを確認するとリテラはクスリと小さく笑いました。
そこに描かれていたのは、おしゃれなカフェでクリームたっぷりのパンケーキを堪能している由紀子の姿でした。
「良かった。とても楽しそうね」
ついつい次のページを見ようとしてしまいましたが、慌てて目を逸らします。
「いけないいけない。この先は絵本が完成してからじゃないとね」
そうしてリテラは名残惜しそうに本を閉じます。
「またね」
こうしてまた一冊、彼女の図書館に新たな物語がやってきました。
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