第1話 絵本の魔法
木漏れ日が降り注ぐ森の中、一人の青年が重い足取りで歩いていました。
青年は短い黒髪で二十代前半、人当たりよさそうな顔つきをしています。行動を歩くには重そうな、しかし登山にしてはやや軽装に思える格好でした。
青年は春の暖かい日差しを避けて、山道から外れた足場の悪い道を歩きます。途中、ちょうど良い高さの木の切り株を見つけると腰を下ろして休憩を挟みました。
青年はすぐさま裸足になり足を風に晒します。土が湿っているため靴が水分を吸うからです。その後、乾いた喉に水を流し込み、バックパックから地図を開きます。目印のない道を慎重に確かめ赤いペンで来た道を記しました。
「よし、間違いない」
方角と風向きを地図と照らし合わせると青年は再びバックパックを背負い歩き出しました。
進んでいくと水分を含んだ柔らかな土は徐々に硬さを増し、踏みしめていた坂道も平へと変わり始めます。
生い茂る木々が徐々に空を阻み、道明かりとなっていた木漏れ日を断つと景色は青白い影に覆われました。
山道はやがて樹海へとなり、硬い木の根を踏み越えて青年はさらに奥へと進んでいくと、
先ほどまで心地よかった樹々の息吹も今ではすっかり肌寒くなり、青年は薄着であることを少し後悔します。
しかし彼は依然として真剣な表情でまっすぐ足を前へ出します。
彼の目的は魔女に会うことです。
今ではすっかり常識となった魔女の都市伝説。
様々な本やネットなどで魔女の正体や居場所などの憶測が飛び交っており、そのどれもが全く信憑性のないデマです。
魔女の噂が流れるのは不定期。一度忘れたように魔女の噂が途絶えたかと思えば、なんの脈絡も熱がぶり返すこともあります。
出所不明の情報、明らかに作り話と思われる内容が匿名の掲示板に書かれると、それが合図のように魔女のデマ情報で溢れ返りました。
青年は何度もかき集めた情報を頼りに足を運び騙されたことか。
しかし彼はこの先に魔女の住処があると確信していました。
一ヶ月前、SNS上に投稿された一文。
『魔女は深い森の中にいる』
この一文をきっかけに様々な考察が飛び交います。
しかしそんなものなんのアテにもなりません。
青年は何度もそのような情報に踊らされ、再び同じは目にあうつもりはありませんでした。しかし一通の手紙が彼を動かしました。
それは差出人不明の封筒、開けてみると中には一枚の細い紙切れ。小さくおしゃれな書体で『招待状』と書かれていました。
誰かの悪戯だろうと思って捨てようとしたところ、その日ネット上では手紙の話題で溢れかえっていました。そして誰もが確信します。これは魔女の仕業だと。
それから青年が着目したのは一ヶ月間に増えた行方不明者数でした。
『魔女は魂と引き換えに魔法で願いを叶える』
魂を取られた人間の末路。魂という存在をうまく理解できませんが、つまりは命を奪われるということなのでしょう。
青年はその目撃情報をかき集め魔女の住処を絞り込んだのです。
立ち並ぶ針葉樹たちの背は高さを増し、どんどんと高密度へなっていきます。
今にも熊やイノシシが出そうな景色の中で辺り一帯は不気味なほど静かでした。
さらに奥へと進んでいくと人影が見えます。
重い荷物を降ろして仰向けに塞がれた空を仰ぐ少女が一人。地元では有名なお嬢様学校の制服を身に纏った三つ編みの少女です。
彼女はこちらに気づくと軽快に飛び上がり、
「こんにちは。あなたは魔女ですか」
にっこりと微笑んで質問を投げかけます。
かっこうにそぐわず活発な子のようです。
「いや、僕は魔女に会いに行くんだよ」
「そうですか。私もです。でもちょっと迷っちゃって途方に暮れていたところです」
「じゃあ一緒に探すかい?といっても僕の予想ではもうすぐそこだよ」
「本当ですか!ありがとうございます」
そう言うと少女はバックパックを背負い青年の後についていきます。
「お兄さんはどうして魔女に会いたいんですか」
「もちろん魔女じゃないと叶えられない願いがあるからだよ」
「不治の病とか不老不死とかですか?」
「そうだね。僕の場合どんな医者にも治せない不眠症にかかってね」
「それは大変ですね」
冗談めいて発した言葉に少女は本気かそうじゃないかわからないテンションで頷きます。
「でも、魂を抜き取られちゃうんですよね。病気が治っても意味ないのでは?」
「魂っていうのがよくわからないからね。もしかしたら死ぬわけではないのかもしれない」
「確かに。魔女の噂ってその辺曖昧ですよねー」
「君は何をお願いするんだい?」
「私はですね……別にお願いとかないんですよね」
どこか遠くを眺めながら明るく、けれど酷く無機質な声で答えます。
「……なるほど。つまり君は」
「あれ、お兄さん」
少女は数十メートル先を指さします。
折れた枝、土埃のついた落ち葉、微かに残る人が通った跡も先には不自然に伸びた樹々の枝葉が行く手を塞いでいました。
「道、間違えました?」
「いや、合っているはず」
青年は不安そうに顔しかめます。
ここにくるまでの道のりは困難を極めますが人為的に妨害するようなものは一切なかったからです。
何かの罠ではと疑いながら青年は枝葉をかき分けます。
すると昼下がりの鋭い陽光が青年の瞳に降り注ぎます。
「う……眩しい」
思わず手で瞼を覆いチカチカとぼやける目を慣らして、もう一度瞼を開きます。
そこは、先の見えなかった樹海の終点地、際限なく広がる青い空と黄緑色に生い茂る丘がありました。そしてその丘の頂上にポツンと一軒のレンガの家が建っています。
まるで古いアニメーション映画のような景色に青年は息を飲みました。
「お兄さん、行きましょう」
「いやでも」
「ほらほら、魔女はすぐそこですよ」
青年は少女に押されて足を進めますが、その表情は少し険しそうでした。
一度腰に手を回しかけますが、冷静にその手を納めます。
丘を登り年季の入った木の扉を三回ほどノックします。返事はありません。
一呼吸置いて扉を開けます。
カランコロンと軽やかなベルが鳴り、木材に染み込んだ甘く芳ばしい、コーヒーと紅茶が混じあった香りが鼻腔をくすぐります。
「わーなんか喫茶店みたいですね」
「そうだね」
恐ろしい魔女の噂に因んで、おどろおどろしい家を想像していた分少し拍子抜けです。
楽観的にはしゃぐ少女とは対照的に青年は気を引き締め直して屋内を見回します。
フロアは土足で上がれます。部屋の中央にはガラスでできたテーブルに白くて横長のソファー。その反対側に二脚腰の低い椅子が並んでいます。そこにふてぶてしそうに座る大柄の中年男性。
部屋には窓がなくその代わりに何枚もの絵が飾られています。部屋には扉が二つ、玄関手前に一つ、部屋奥にもう一つ。そこに痩せ細った女性が落ち着きのない容姿で壁にもたれかかっています。
———これは参ったな
青年はため息を漏らします。
「皆様よくぞ集まっていただきました」
部屋の奥のドアから爽やかな笑顔を貼り付けた男が三人ほど現れました。三人とも黒装飾に身を包んでいます。
痩せ細った女がそのうちの一人にしがみつきます。
「ねえ早く!早く私の願いを叶えなさいよ」
しかし男たちは落ち着いて女を引き剥がしまいした。
「お待たせして申し訳ありません。もうしばらくしたら魔女様はいらっしゃいます」
三人の中で一番背の高い男が言います。
「それまで些細ですが紅茶とケーキをお召し上がりください」
部屋の奥から大きめのトレーを運び、真ん中にあるテーブルの上に人数分のティーカップと大きめのポッド、それから一口サイズに作られた様々なケーキが専用のスタンドに並べられたものを乗せます。
「おい待てよ」
壁にもたれかかっていた体の大きな男がむすっと不機嫌そうにつっかかります。
「菓子なんてどうでもいいんだよ。それより魔女はいつになったら来るんだ!」
「魔女様はあと20分ほどでいらっしゃいますので、それまでゆっくりお楽しみください」
そういって男たちは部屋の奥へと消えていきます。
ガチャリと軽快な金属音がしたので鍵がかかったのでしょう。
しばらくの間沈黙が訪れます。
おしゃれな食器に食欲を掻き立てる甘い香り、ですがあまりにも怪しくて誰も手をつけようとは思いません。
男は舌打ちをしながら地面を蹴ります。
「クソっ、いつまで待たせるんだ」
「まあまあいいじゃないですか。ここはご馳走になりましょう」
少女は躊躇なく紅茶とケーキを口にしました。
「うん、美味しい。皆さんも如何ですか?冷めないうちに。せっかくですし魔女になんの願いをしに着たのかお話ししませんか」
三人は顔を合わせ困惑した表情を浮かべます。
「そうそうあなた。お腹空いているんじゃないんですか?ケーキも美味しいですよ」
お節介にも痩せた女に少女は取り柄分けてこちらに来てと無邪気に誘います。
危機感を感じていない、というよりは危険に身を投じている状況を楽しんでいるようでした。
女は迷惑そうに首を横に振ります。
「残念。では魔女に願い事だけでも教えてください。私は興味本位で探して、そこにいるお兄さんのおかげでたどり着いたんですよ。だから『お願い』が思いつかなくて、なので教えてください。自分の命と引き換えにしてまで叶えたい願いというものを」
「お嬢ちゃん、そんな気安く尋ねるものじゃないぜ」
体の大きな男が見るからに不機嫌そうに咎めます。
「確かにそうですね。気を悪くしたらごめんなさい」
そうして頭を下げると再びケーキに手を伸ばします。チョコレートクリームとスポンジでできたケーキです。
「お兄さんもいいんですか?美味しいですよ?」
「いや、甘いものは苦手なんだ」
「そうですか残念」
青年は平然と嘘をついていました。
「そういえばみなさん、『招待状』は持ってきました?あれがないと問答無用で殺されるなんて噂もありますからね」
「そ、そうなの?」
女が驚いて声をあげます。
それは青年も聞いたことのない噂でした。おそらく彼女のでっち上げなのでしょう。ですが全員荷物から『招待状』を取り出して確認します。誰も折り目一つ無い、綺麗な状態で保存しています。
「ところで、魔女ってあんなにボディーガードがいたんですね。びっくりしました」
誰も返事はしませんが少女は続けます。
「なんか色々予想と大外れですよね。なんかもっと海外の昔話みたいに大鍋とか危ない薬とかが並んでいると思ったら新築みたいに綺麗だし。部屋も魔女の住処っていうよりは応接室みたいですよね」
ズケズケとこの場にいる全員の不安の要素を上げていきます。
ただでさえあてにならない噂を頼りにしているのです。ペチャクチャと能天気に喋る少女を青年は睨みつけます。
外から芝生を踏みならす音が微かに聞こえてきます。
新しい魔女への訪問者でしょうか。しかし少し嫌な予感がしました。
青年は誰にも気づかれないように玄関のドアノブに触れます。
やはり予感は的中しました。内側から開けられないように鍵がかけられてあります。
次の瞬間、バタンっ、と部屋奥の扉が開き男たちが銃を乱射します。
青年はすぐさまその場で伏せます。
扉の近くにいた女もソファに座り背中を見せていた男も頭を打たれて即死です。
少女は男が盾になったおかげで辛うじて銃弾は届きませんでした。
二人に銃口が向けられている間に青年は遮蔽物のあるところへと移動します。とは言っても物の少ないこの部屋には盾になるようなものなど、ソファと椅子とテーブルくらいです。
「わあ!びっくりした」
少女は気の抜けた声をあげました。急いで身を屈めます。
男たちは躍起になって乱射しますが、青年はガラスのテーブルで防ぎます。
カランと空薬莢が軽い音を立てて床に転がります。
男たちがマガジンを交換する隙に青年は腰に手を回し、拳銃を構えました
「動くな」
男たちは驚愕した表情で、ゆっくりと両手を挙げます。
「お兄さんこれはどういうことなの?」
状況をつかめていない少女はあっけらかんと首を傾げます。その表情は命の危機など微塵も感じていないようでした。
「魔女の噂を利用して金品を強奪していたんだ。言ってしまえば全員自殺志願者だからな。だけど連携が全くなっていない。雇われの下っ端というところか」
「お兄さん詳しいんだね」
「君はさっきから無用心すぎるよ。さて、今すぐその銃を捨てろ」
青年の言われた通り男たちはその場に銃を捨てます。しかし焦っている様子はなく、むしろどこか楽しんでいるようです。
その態度に苛立った青年は銃の引き金に指をかけると、
「お兄さん危ない!」
少女が青年に押し倒す瞬間に玄関から銃声が鳴ります。
「うっ!」
放たれた銃弾は青年をかばった少女の腹部に命中。ひどい出血です。
玄関から黒装飾の男がさらに二人、青年に銃口を向けます。
「動くな。銃を捨てて質問に答えろ」
青年は舌打ちをしていう通りにします。
———油断した。
相手の人数を見誤ったことに後悔します。
一番背の高い男が青年に問い詰めます。
「お前、目的はなんだ」
「魔女に会うことだよ」
「その銃はなんだ」
「交番勤務していてね。それを使って魔法を独り占めにしようと思ったんだ」
「警察か。手帳は?」
「持っていたかな。バッグの中にあるかもしれない。探していいかい?」
「ダメだ。俺たちでやる」
背の高い男は横にいる男に顎で指示します。
青年は冷静に時間を稼ぐ方法を探します。いくら連携が取れていないからといってこの狭い部屋で5対1は対応しきれないからです。少女も撃たれた腹部を抑えて寝ているので頼ることもできません。
「手帳も、身分証明書も見つかりません」
「こいつの持ち物も調べろ」
男は命令通り青年に近づきます。彼のダウンジャケットの上からボディチェックをしようとした瞬間、彼はその手を掴み締め上げて動きを封じます。そして隠し持っていたナイフを男の首元に当て、
「こいつを殺されたくなきゃ銃を下ろせ」
「人質を取っても無駄だよ」
「俺らにそいつへの情はない。殺したいなら殺せばいいさ」
「薄情な奴らだな」
青年は心の中で舌打ちします。
人質があてにならないなら盾にしようとも考えましたが四方に囲まれてはあまり意味がありません。
もうここまでかと諦めかけた時です。
『あらあら、とても物騒ね。武器なんて捨てて花でも愛でればいいのに』
どこからともなく声がすると、四枚の招待状が青く光ります。
すると一冊の本が現れ、空中でパラパラとめくられます。そのページ一枚一から無数の蝶が飛び出し、部屋一帯が本の中へ吸い込まれるように青い輝きが空間に満ちてゆきます。
目を開くとそこには景色一面にネモフィラの花が広がっており、丘の上には白いガーデンパラソルが開いています。
白いテーブルと白い椅子、そこに一人の女性が一冊の本を手にとって読んでいます。
アールグレイのようにほんのりと濁った赤い髪にトパーズの色をした美しい瞳。真っ白なブラウスにベージュのフレアスカート、その上から長いカーディガンを羽織っており、少し冷えた秋の日のような格好です。
どこにでもいる普通の服装、ネリネの花飾りをつけた三角帽子と、服装には合わないのに彼女の醸し出す異様な雰囲気が、彼女が本物の魔女であることを物語っています。
「初めまして。ようこそ、私の絵本の世界へ」
パタンと本を閉じ、ゆっくりとこちらへ歩み寄ります。
「お前、一体何をしたんだ」
男たちも青年も何が起きたのかわからず混乱している様子でした。
「私はあなたたちの探していた魔女。名前はリテラ。何をしたのかっていう質問だけれど……それは私の台詞よ?」
背筋が凍るような寒気に襲われました。
先ほどから暖かく感じていた魔女の笑顔が、今では刃物のような鋭利さを秘めています。
「私の名前を借りて好き勝手やってくれたようね。本当は直接むかえにいきたかったのだけれど、都合上それができなくてね。だから、あなたたちに招待状を送ったの。正確には私の本の『栞』だけど」
徐々に近づいてくる魔女、その立ち姿だけでも男たちに取っては死の匂いを嗅ぎ取るには十分でした。
「うわあああ」
わけもわからないまま銃口をリテラに向けて引き金を引きます。ですが弾は発射されません。その代わり筒がクラッカーのように破裂し白い鳩が飛び出しました。
魔女はクスクスといたずらに成功した子供のように小さく笑い、
「そんな物騒なものはダメよ。絵本の世界なのだからもっと穏やかに、それでいて心が踊るようなものでなくちゃ」
武器が使えないことに男たちは取り乱して三人はリテラに襲いかかり、残り二人は一心不乱に逃げ出します。
「全く……この期に及んで暴力なんて。品がないわね……あら?」
突如、リテラが片手に持っていた本が光り出します。
「ふふ。そういえば、そろそろだったわね」
本はリテラの手から離れ宙へ浮かぶと、パラパラとページがめくれ、そして本の中から光が溢れ出します。それは先ほどの色あざやかな青とは違い、神々しく気高い、まるで朝日のような威光でした。
溢れ出した光の中から、つま先から頭まで白銀の鎧に身を包んだ、一人の騎士が現れました。騎士は襲いかかる男三人をなぎ払い、彼らはあっけなく吹っ飛ばされました。
力の差に呆然と、立つ気力もない三人を置いて、白銀の騎士はリテラの元へ駆け寄り、膝まづきます。
「お久しぶりです。リテラ様」
「……久しぶりね。そう、あなたは立派な騎士になったのね」
「はい。あなたのおかげで私は、私の『物語』を完成することができました」
「あなたの守るべき人は?」
「ええ、終幕の時まで付き従うことができました。ですから最後に」
「わかったわ。では、最後に『契約』を果たしてもらうわ。私の敵に罰を与えなさい」
「はい。直ちに」
白銀の騎士はその鎧だけでなく、立ち上がり走り出す、その仕草一つ一つが童話の中の登場人物のような存在感を放っていました。
彼はまず逃げ出した男たちの元へ詰めよると剣の一振りで首を切り落とします。そのあと反対方向へ逃げた男にも同じように仕留めます。
その後、力なく地へ伏している三人の男を、慈悲深く一撃で息の根を止めました。
一人、往生際が悪く、青年の落とした銃を拾い騎士に向かって発射しましたが、騎士が左手で持つ大楯によって弾かれ、その後心臓を一突き。
血に濡れた剣を振り払うと、剣は再び水晶のような輝きを取り戻しました。
「よくやったわ。本当に、立派に騎士の務めを果たしてくれたわね」
「喜んでいただけて何よりです」
騎士は剣を鞘に収め、再びリテラの元へ膝まづきます。
「これにて契約終了よ。守ってくれてありがとう」
「いえ、これしきのこと……」
フルプレートアーマーによって顔は見えませんが、彼の声は震えており、兜の下には大粒の涙が流されていることが窺えます。もちろん彼から流れるのは悲しみや怒りといった負の感情は一切ない、喜びの涙です。
「貴方のおかげで、私の人生は、私の心は満たされました。これで思い残すことなく旅立てます」
「そう。貴方の歩んだ物語、読むのが楽しみだわ」
騎士はコクリと頷き、リテラに背を向けると彼は光の粒子となって空へと昇り、そして消えて行きました。
「さて、それでは残った仕事を片付けましょう。その前に……」
リテラは光の粒子となった騎士を見送ると、一冊の真っ黒な本を取り出します。すると男たちは本の中へと吸い込まれて行きました。彼らのいた場所には血一滴も残っていません。
真っ黒な本をパタンと閉じ、元あった場所へしまうと、リテラは血を流して倒れている少女の元まで歩み寄ります。腰を下ろして彼女の容体を確かめると、
「ダメね。貴方、もうじき死んじゃうわ」
「やっぱり……ですか」
「ええ、出血が酷すぎる」
「魔法か何かで……なんとか……なったりしないんですか」
少女の息は乱れ、声もほとんどかすれています。ですが彼女は依然とどこか他人事のように楽観的な態度です。
「無理よ。ここは魂の世界。貴方の身体は治せないわ」
「よくわかんないけど……なるほどですね」
「ねえ、どうして私に会いたかったの?」
「……私を、誰にも気づかれないように……消して欲しくて。私と関わった人間……みんなどうしようもないやつばっかりで……あんな地獄で生きるくらいなら、もういいかなって……だから」
「復讐したいとは思わなかったのね」
「……ああ、それもいいですね。でも……なんか後味悪いのでいいです」
「優しいのね。ねえ、一つ提案があるのだけど」
「なんですか……ちょっともう辛いんですけど」
「貴方が望むなら貴方に新しい人生をあげるわ」
「へー、なんかすごいですね」
「時間があれば貴方の望み通りの世界をあげたいのだけれど。この世界が気に入ったらそのまま渡すわ。その代わり……」
「いいですよ……こんな……素敵な世界で……過ごせるなら、なんだって」
「契約成立ね。では、魔女・リテラの名の下に、貴方に『絵本の魔法』を授けましょう」
少女とリテラは握手を交わし、彼女たちの『契約』が結ばれました。
リテラは立ち上がり、パチンと指を鳴らすと、青く輝く世界は少女を残して収縮して行きます。
青年の身体はふわりと宙へ浮き真っ逆さまに、収縮していく世界を呆然と眺め、そのまま薄い雲がかかった空へと落下します。
眼に映る地上がやがて形のあやふやな箱庭の姿へと変わると、背後から薄い膜に包まれ、そして突き破ります。
司会は真っ白に染まると、バタバタと紙の束に弾かれ、青年は絵本の外へと吐き出されました。
元いた場所へ戻されたのかと思いきや、景色は一変します。
恐ろしいほど几帳面に本が整頓された背の高い本棚、それが一定の間隔をあけて空間一帯を埋め尽くすように並んでいます。薄暗い照明に照らされた書架たち、その光景は図書館というよりも『迷宮』といったほうが正しいでしょう。
本から飛び出した青年は勢いよく本棚にぶつかる———かと思いきやその身体は本棚をすり抜け、ふわりと地面に着地します。正確には若干浮いていますが。
何が起こったのかわからないまま青年は突っ立っていると、遅れて魔女が絵本の中から現れました。
「待たせてしまったわね。さて、話をしましょうか」
カツンとヒールで硬い地面を鳴らし、本棚の奥にポツンと置かれた図書館司書のような居住まい、おしゃれな彫刻の刻まれた椅子に腰をかけて青年に異様な眼光を浴びせます。
「念のため警告しておくけど、抵抗はしないことね。ここにいる数万冊の本たちが貴方に襲いかかってくるわ」
リテラが人差し指を立てると、ガタっと本たちが一斉に揺れます。
青年の首元に冷や汗が伝います。
「話っていうのは……」
「私はね悩んでいるのよ。貴方の処分について」
「僕の処分?」
「あら、この期に及んでまだとぼけるつもりかしら」
「……」
青年は沈黙したまま、せめてもの抗いとしてリテラを睨みつけます。
「少し世間話でもしましょうか。お茶でも飲む?精神体でも味くらい楽しめるようにしてあげるわよ」
青年は首を横に振ります。
「残念ね」
リテラはティーポットからティーカップへと紅茶を注ぎます。
「あら、ちょっと冷めてるわね」
飲み干してから呟きました。
「魔女の噂は知っているわよね」
「人並みには……」
「そう。じゃあ最近流れた噂、『魔女は深い森の中にいる』だったかしら。アレはあの男たちが流したものなのよ」
「そうか」
「まあ、身の覚えのない噂が一人歩きするのはいつものことなのだけど、それを利用して悪巧みをする輩が現れてね」
リテラは意味ありげに青年へ視線を送ります。
「でも私は訳あって、この館の外へは出れないの。そこで貴方たちに協力してもらうことにしたの。これよ」
リテラが取り出したのは青年たちに送られた『招待状』と書かれた紙切れでした。
「さっきも言ったようにこれは私の魔力が込められたただの『栞』よ。私が作った絵本の世界を開く鍵になるのよ。貴方たちがあの男たちを見つけてくれたお陰でこの騒動を解決することができたわ。ありがとう」
「いや、礼を言われても……」
「でもね、貴方は、いえ、貴方たちも同じことをしようとした。それは絶対に許さないわ」
「……!」
「気づかないと思った?本当は私を殺すための下調べで来たのでしょう?でも人為的に塞がれた跡をみて同業者がいるのではないかと疑った。けれど、あの少女のせいで後戻りできなかった。違う?」
まるでずっと心の中を見られたような、何から何までお見通しの魔女を前に弁解する気も失せました。
「俺は殺されるのか?」
「そうね。見方によっては殺しているのかもしれないわね」
「たとえ俺が死んでも仲間があそこへ向かうぞ」
「何人来たところで、まだ栞は三枚もあるわ。いくらでも処罰は下せるもの」
「なるほど」
それは大変だなと、青年はため息を漏らします。
これから彼女にどんなひどい目にあわされるのか、うまく想像できませんが無事では済まないでしょう。殺されてもおかしくない———と言ってもすでに幽霊のような状態ですけど、そのせいか不思議と恐怖はありませんでした。
「では、貴方の処分を言い渡すわ。やはり貴方には罪を償ってもらうため、この本の中に閉じ込めさせてもらうわね」
リテラが取り出したのは、男たちに向けたのと同様、真っ黒な表紙に挟まれた本です。
「その本に吸い込まれるとどうなる?」
「その罪にあった悪夢を見るわ」
「外に出ることは?」
「無理よ。貴方たちの魂は私が有り難く頂くのだから」
「ひどいな」
「しょうがないでしょ。貴方たちは罪人なんだから」
「一応言わせてもらうと、俺はまだ違法なことは何もしていないぞ」
「どうでもいいわ。裁くのは私、裁量は私の快不快だけでいいのよ」
「随分と自分勝手なんだな」
「当然でしょ。だって私はとっても悪い『魔女』なんだから」
その言葉を最後に青年の魂は黒い本の中へと吸い込まれていきました。
本だらけの世界から一変して、深い霧に包まれた、裸の森へと落とされました。
今度はちゃんと地面を踏む感触がありますし、木に叩きつけられた背中に鈍痛が残っています。
「イタタタ……」
背中をさすっていると、正面に立ちはだかる巨大な影に飲み込まれました。
顔を上げるとそこには硬い鱗に覆われ、鋭い牙を剥き出したドラゴンがいました。
「なるほど、これが絵本の魔法か」
ドラゴンは火を吹き、青年を丸焼きに。その後丸呑みにされます。しかし彼は死なないままページが捲られる速度で罰が執行されます。
リテラが読む黒い本には青年の元に大きく口を開いたドラゴンと、大鎌を構える骸骨、
そして悪辣に微笑む魔女が降り注いでいる挿絵が、子供の落書きのように黒いクレヨンで描かれていました。
パラパラとつまらなそうにページを捲り、最後のページにたどり着く前にリテラは彼の魂を口に放り込みました。
白くふわふわと揺れる球体の魂を二本の指で摘むと、長い舌で口元まで誘い、咀嚼することなく飲み込みます。するとリテラの体がほんの僅かに青白く光りました。
一日に魔法を何度も使ったせいで枯渇していた彼女の魔力が戻ったのです。
けれどその表情は実に退屈そうで、冷めた紅茶で流し込むと、未完の物語をまだスペースの空いてる本棚に並べました。
そして、その隣にある、金色に輝く表紙の絵本を手に取ります。
紅茶を入れなおし、壁に並ぶお菓子の棚から、クッキーを10枚ほどお皿に移し、テーブルへ並べます。その時、口直しと言わんばかりに、チョコレート味のクッキーを数枚口に放り込んでいました。
そしてウキウキと椅子に座ると、
「さてと、あの騎士さんはどんな物語を歩んだのかしら。とても楽しみだわ」
そこに描かれているのは、村で弱虫だった少年が国のお姫様に仕える騎士になるお話。
最初は弱くても、必死に強くなろうと鍛え、その努力がゆっくりと実っていく。やがて憧れの白銀の鎧を身にまとい、敵国から市民を守り英雄となる。その栄誉を讃えて、身分違いにも関わらず騎士とお姫様が幸せに結ばれる。
そんなどこにでもあるような素敵な物語をリテラは心の底から嬉しそうにその絵本を読み耽ました。
これが彼女の魔法。
どんなおとぎ話にも存在しない、わがままで心優しい魔女・リテラの物語です。
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