第3章 癇癪少年は鎖のない牢を謳歌する

 『良い子』の定義ってなんだろう。

 覚束ない意識の中でずっと考え続けていた。

 初めて両親に声を荒げて怒られたのは物を投げた時だ。『良い子』は物を乱暴に扱わない。思い出せる限り、父と母に最初に教わったことだ。

 有り余る時間の中でこれまでの自分を見つめ直した。

 ——————人に怒ってはいけない。

 ——————怖がらせるような言動はしない。

 ——————暴力を振るってはいけない。

 ——————他者を見下した態度を取らない。

 幼い頃からずっと言われてきたこと。なんの疑問も抱かずに従っていたこと。窮屈で

感情を表に出せないことにイライラして、でも何かにぶつけることができないから。

 ——————そもそもなんであいつらの言う事を聞かないといけなかったんだ?

 ふとした疑問をきっかけにこれまで受けた理不尽な記憶が連鎖的に目覚める。

 そして途方もない苛立ちと不快感で全身を震え上がらせる。

 やがて眼に映る景色が鮮明さを取り戻す。視界に映るのは、映画の撮影かと見間違うほど変わり果てた校舎と痩せ細った子供を抱きしめるボロボロの女子生徒……アレは確か江南柚亜、だったか。同じクラスで学級委員長を務めている。文武両道、品行方正、社交的で人気者。だけどどこか自分と似たような危うさが垣間見える。彼女の前に立ちはだかっているのは……誰だ?わからないけど、あの男が危害を加えようとしているのはわかる。そして自分も他人事ではないことも。だけど、肉体はまだ微睡みの中だ。

 どれだけ時間が経ったのか。正確にはわからないが、少なくとも二週間以上俺は何もできないまま呆然と立ち尽くしている。

 体が疼く。極限の不自由さにストレスが蓄積されていく。

 聞き覚えのない声で男が吼える。何か俺に命令をしている。いつもなら殴りかかりたい衝動を抑えて適当に遇らうが……今は虫の居所が悪すぎた。

「おいそこにいる感染体ども、こっちにこい。もう一体でけえの作るぞ」

うるせえ、うるせえうるせうるせえうるせえうるせえうるせえうるせえうるせえうるせえうるせえうるせえ……これ以上俺の自由を奪うな。

 苛立って苛立ってしょうがない。なのにこれは無意識的なものなのか、暴力を振るおうとする腕を体が自然と押さえつけている。

 ああそうだ、暴力は許されない。ものに当たることも許されない。だから俺は俺自身に攻撃する事を選んだんだ。

「ウガアアアアア!」

 だってそうするしかないから。行き場のない怒りを誰かにぶつけないと心が死ぬから。肌を掻き毟り、壁に頭を打ち付け、骨を砕く勢いで腕を叩きつける。痛みが広がる。それと同時に胸焼けが引いていく。溺れかけていた海の中で呼吸を覚えたような万能感。

 ああ、懐かしい。思わず笑みが溢れる。

「……アハッ……アハハハハハハ!」

 翔ける感情に身を貸せるのは何年ぶりだろう。

 そうだ、足りなかったのかこれだ。痛みこそが俺自身の自由の象徴、大人たちが勝手に決めた束縛に争う術だ。

「なんだよ……気持ち悪いんだよおおお!」

 ひどい顔で怯えた男がこちらに向かって叫んでいる。俺に対して命令した男だ。身体が動く。なら無駄に波風を立てたないようにしよう。昔の俺ならきっとそうしていた。

 ——————もう、理由もなく親の言葉を絶対視するのは辞めだ。

 男は持っていた大振りの剣で襲いかかってきた。モーションが大きいため避けようとしたが、左腕を深く斬られた。

 ——————上等じゃねえか。

 斬られた箇所からじんわりと痛みが広がる。それに反して血が止め処なく溢れ出す。

 自分の血なのになぜかピリピリと沁みる。薬品で焼かれているような感覚だ。

 痛い。どこもかしこも。だからこそ、いい。気持ちよく暴力を謳歌できそうな、そんな予感がした。

 胸と首元と腿に溜まった鬱憤を全て乗せて容赦無く男の首を掴みにかかる。硬い。本気で絞殺するつもりで掴んでいたのに。

「なめるなよ、この程度の握力で俺を殺せるはず……」

 男の瞳が不安の色に染まる。絶対的な自負に亀裂が入りそして次の瞬間、トランプの束のように硬い首から感触が消えた。男の目の色から光が消え、肉体が力なく崩れ落ちる。

 呆気ない。実に呆気ない。

 「アハハハハハハ!無様だなお前」

 自由、とはこの瞬間のことを指すのだろう。果てしなく広がる高揚感。冴え渡る意識に霧払いされたように澄んだ五感。この万能感。この開放感。

 これが俺、立花幸真の覚醒の瞬間。最も幸せなエンドロールの始まりだった。

 

 ■ ■ ■


 先ほどまで猛威を振るっていた管理者は、首と体が分断されて息絶えた。

 彼の言う通り呆気ない最期だった。

 私は来海を庇うように抱きしめ、立花幸真の様子を窺う。全てを諦めたように自由奔放に振る舞う古川先生、人を人とも思わない傲慢と残虐を体現したような管理者たち。目が覚めてから狂った人を見てきた。でも彼はそのどれとも違う、純粋で破滅的な狂気。

 私と立花幸真は同じクラスだった。元々彼は大人しいというか、良くも悪くも無害な人物だった。誰とも積極的に話さず、だが聞かれたことには率直に丁寧に答える。猫背で陰湿というイメージがあるが、真面目な優等生とも捉えられた。

 しかし、傷を得て剣呑の笑みを浮かべる彼の姿はあまりにも私の認識と乖離していた。

 今もなお彼はその戦いの余韻に浸っているように、だがどこか物足りなさを感じながら管理者の亡骸を嬉々として眺めている。

「さてと、じゃあ次は誰だ?」

 真っ赤に染まった手で顔を拭うから余計に血が広がる。彼は周囲を見回すが、操っていた管理者がいなくなったことで感染体たちはまたフラフラと統一性もなくどこかへ消えた。

「なんだ、もうおしまいか」

 敵対者がいなくなった途端全てに興味を失ったよう瞳から色を零す。そして記憶にある通りの立花幸真に戻った。多少、以前より感情が表情に出やすくなったのか、不機嫌なことが窺えた。

「それで、これはどういう状況なんだ」

 初めて見る光景、たった今人の形をした物を壊したのに驚くほど彼は冷静だ。さっきまでの凶相が別人のように思える。

「確認なんだけど、あなたは立花くんでいいのよね」

「そうだけど。お前は江波だよな。なんでそんなボロボロなの」

「その前に答えて。あなたが覚えている最後の記憶はいつ?」

「あー?……あんましはっきりとは覚えてないけど、七月だったか?なんかスッゲー長い時間寝てたみたいで頭痛え」

 それよりも割れた額とか折れた腕とか他にもあちこち出血しているんだけど……

いや、よく見ると血は完全に止まっていた。あれだけ深く切った左腕さえも傷は塞がっていた。その代わり強い酸性の薬品で焼いたような爛れた火傷の痕が残されていた。

 以前より口調が荒れているがしっかりとコミュニケーションが取れている。記憶も私と同じ七月に途切れていた。何より身体にきたすこの異常。

 間違いない。立花幸真は変異体だ。

 自傷した後に出現した酸性の血、私とどこか似た性質を持つ『変痕(スカー)』の使用が何よりの証拠だ。なら、積極的に私たちへ危害を加えることはないはず。

 来海が怯えた様子で私の腕を握る。

「大丈夫、彼は敵じゃないよ」

「ホント?」

「うん……多分」

「いや、別に何もしねえって。なんで怯えてんだ?」

 ……自覚がないの?

 自分が何をしていたのかわかっていないのだろうか。この世界で生きるならどこか壊れていた方が健全なのかもしれない。

「で、お前は状況を把握してんの?」

 訝しげな態度で詰め寄る立花君により一層震え上がる来海。本人は気にしていないようだけど、ひどく損傷した身体や自身の血で焼いた顔の後が恐怖を掻き立てている。

「少し落ち着こうっか」

 死と隣り合わせの緊張から解放されたせいかどっと疲労感が押し寄せてくる。

 ——————めんどくさいなぁ

 ……あれ?今私なんて?

 二人の反応から口には出ていないみたいだけど、他者に対して不快な感情を持ってはいけないと今まで咎めていたのに、自然と頭に浮かんではそれを受け入れている。

 少しずつだけど、優等生だった私が薄れていく気がする。

 それが怖いのと同時に自ら敷いていた呪縛から解放される清々しさが湧いてくる。

 ……何はともあれ、先生たちと合流しないと。

「説明はちゃんとする。でも今他のメンバーとはぐれちゃったから、その後で……」

 ——————……え?

 私はその瞬間一人の人物を視界に捉え、そして確実に殺されていた。

 質量を帯びているのではないかと認識してしまうほど鋭く冷酷な殺気。巡回者の不純物だらけの殺意などとは比べ物にならない。刃物特有の冷気が突き刺さり、全身全霊で脳に危険信号が送られる。

 すぐさま二人の身体を引き寄せ口を閉じさせる。

「おい、何する……んぐっ」

「黙って、息も止めて」

 小声で警告する。立花くんも沈着したまま危機を察知する。

 もし、私たちの存在が認識されているなら、逃げても意味はない。

 確信できる。

 なぜなら……

 

 スパーンっ!


「……気のせいですか。これ以上無闇に早芝君の兵隊を減らすわけには生きませんね」

 そう言って杖をつきながら通り過ぎた刹那、近くにいた感染体一人の胴体が、スルっと滑り落ちる様に地面に落下した。残された下半身はワンテンポ遅れて膝から崩れた。まるで斬られたことに気づかなかった様だった。

 私の予感は正しかった。

 部活棟を十字に切り落とした管理者。強さが異次元すぎる。

 自身の力を過信して子供の様に振り回すのとは訳が違う。

 立ち方、歩き方、意識の向け方、何を取っても訓練を積んできたもののそれだ。

 私はその残酷すぎる現実に言葉を失う。それは圧倒的な戦力差なんかではない。もっとずっと恐ろしい悪夢を私は見ている。

「おい、良いのか。あいつ敵なんだろ。倒すんじゃねーの?」

 立花くんは楽観的に口にするが倒せるはずがない。

「あいつ杖ついていたけど、目が見えてないんだろ。じゃあ余裕だろ」

 私は知っている。あの人のことを知りすぎている。盲目というハンデを持ってしても届かない強さ。私はずっとあの人の強さに憧れ、追いかけてきた。だから……

 ——————なんであなたが生きているのですか。笠佐木先輩。

 これが夢であって欲しい。

 そんなありきたりな願いは、皮肉にもこの突飛な景色がフィクションの世界ではないことを確信させた。


 ■ ■ ■


 どれほど気絶していたのだろうか。

 目を覚ました古川は急いで雪加の後を追いかける。

 体内に溜めていた熱は全て放出させ、体温は正常に、ほんの僅かではあるが仮眠も取れていつもよりも脳は快適に回る。

 ならば、大人しく帰りを待っている場合ではない。

 柄にもなく全力で走り出す。

 階段を下り、片っぱしから教室の中を調べる。

 まだ自分の元に戻ってきていないということは、合流できていない、あるいは……

 柿原兄弟は運動はできる方ではあるが、決して力が強いわけではない。喧嘩だって見せかけのもの。経験はないに等しい。『変痕(スカー)』だって言ってしまえば過剰な拒否反応だ。もし部活棟を斬り裂いた管理者に出くわせば勝ち目はない。

 不安と焦燥に駆られながら嫌な予感は加速的に流れてくる。

幸い感染体たちは大人しくなり、襲いかかってくることはない。だが、不安と焦燥に駆られながら嫌な予感が加速的に流れてくる。

 そして目にしたのは案の定……

 二メートルは優に超えるであろう、カサブタをかき集めた様な色をした巨人が力なく横たわり、その目の前で打ち拉がれて廃人の如く動かなくなった雪加。そして昨日まで柄長だったはずのもの。

 頭部を砕かれ腕も足もひどい損傷を負っている。顔も辛うじて柄長だと判別つくかどうかの状態だ。

 ——————わからない

 混在する感情と壊れかける理性の中で辛うじて頭の中で言語として出てきたものだ。

 教え子を失ったことを悲しめば良いのか、自分の無力さを呪えば良いのか、彼をこんな目にあせた管理者たちを恨めば良いのか、雪加の隣に座って一緒に涙を流せば良いのか、信じてもいな死後の世界のことを思って祈れば良いのか、いっそ楽になってしまえば良いのか。

 脳の処理が追いつかない。

 いつかはこうなるかもしれないって割り切っていたはずなのに。

 それでも二度と失ってなるものかと誓ったはずなのに。

 ——————ああ、怖いなぁ

 これからなんて雪加に話しかけよう。

 どんな顔をして彼に立てば良いのだろう。

 いい歳した大人がどこまでも無様だ。古川はそんな自傷に等しい自己否定を繰り返し、呆然とそこに立ち尽くしていた。

 それから先の記憶が現在進行形で朧げになり始める。

 気管支にソフトボールをねじ込まれた様な、そんな息苦しさだけが鮮明に残っている。

 雪加になんて声をかけて、どの道を通って歩いてきたのか、まるで記憶にない。

 二人はただ、何も考えず歩いた。その顔は『生』を放棄したような、憎悪も悲痛も後悔も憤慨も惆悵も恐怖も絶望も、自傷も自決も自害も自殺も何もする気になれない。何も感じず何も浮かばない、虚無で満ち足りた、文字通りの『廃人』だ。

 気が付けば、二人は柚亜と合流していた。

 柚亜は新しく仲間が増えたこと、管理者たちが来海を探していること、死んだはずの先輩が管理者側にいること、抱えきれない情報を今すぐにでも共有しようする。だが、古川と雪加の状態、そして柄長がいないことから否応にでも察しがついてしまう。

 古川は柚亜の目を見て、機会的に頷いた。

 崩れ落ちる柚亜に、困惑する幸真と来海。

 沈黙が続いた。

 長い時間、言葉も五感も失ったまま虚無という名の静寂に包まれる。

 それは夕日がそれを緋色に焼き尽くす、黄昏時のことだった。

 不意に指が動いた。

 立っている感触を思い出した。

 瞬きを忘れていたことに自覚した。

 そして一つの違和感に気がついた。

 涙が流れる気配がないことに。

 それは恐らく機能として失ってしまったから。

 だからいつまでもこの心は壊れたまま……

 ——————そうだ、きっとこの世界はすでに丸ごと壊れたんだ。

 じゃあもう、何も怖がらなくていい。

 何も恐れる必要ない。

 どうせ死ぬはずだった命だ。

 弄ばれた命だ。

 ——————なら、好き勝手にやろう。

 空っぽの器に再び色が注がれる。

 溢れ出しそうな勢いで、濃く、重く、純度一〇〇の『怒り』が、溢れ、割れ、そして器は壊れた。

 ——————もう何もかも壊れればいいよ

より異常(アブノーマル)に、より異質(イレギュラー)らしく、余計な理性も知性も悟性も理念も捨てて、この破壊衝動に身を任せよう。

 それは紛れもない『変異体』たち統一の意志だった。


■ ■ ■


 柚亜たちは保健室で一夜を越すことにした。

これまで拠点にしていた部活棟は瓦礫の山と変貌したため、次の安らぐ場所を求めた結果だ。感染体に襲われる可能性を考慮するといい選択ではないのだが、向かってくる相手には躊躇なく『駆除』して安全を確保した。いや、どちらかというと発散に近いのかもしれない。およそ保健室の周りにいたのはおよそ三人ほどだが、それでも躊躇いなく殺せた。あれほど守ろうとしてきた存在が今ではただの動く人形程度の認識でしかない。

 その後、古川と雪加は行き場のないどす黒い感情の矛先を自分に向けてひたすら自傷を繰り返した。

 切って叩いて掻いて毟って折って砕いて焼いて、目が覚めた頃には何の皮肉かほとんど治りかけていた。

 その間、来海と幸真の相手は柚亜が担った。心のうちはそれどころではないのだが、来海の状態もまた見過ごせるようなものではなかった。

 薄く弾力のない肌、黄ばんだ目、定まらない視点、どれも栄養失調の症状だった。

 伸び切った爪や髪、全身垢だらけで黒ずんでいる。まずは身体の清潔状態を整えないとならなかった。

 その間幸真は崩れた部活棟に向かい、無事な食料を回収する。鍋や包丁、ガスコンロといった調理器具も任されていたが、それは流石に揃えられなかったため、足りない分は地下や家庭科室で調達することにした。

 電気は使えるが散々暴れ回ったせいで照明は点滅を繰り返している。夜の校舎というのは無条件で不安を煽るが彼らにとってはむしろ安心感さえ覚える。

 幸真は往復の途中、深い紫色に染まる夜空を見上げた。目に見える景色のどこかに赤がある。校舎はどこもかしこも血痕だらけでそのせいかと思ったが、校庭に残っている木々でさえ、緑だとわかっているのに赤と認識している。

 夜空を埋め尽くさんと点在する星々でさえ、赤いレンズ越しに覗いているようで、だがどこかそれは自身の原風景に近いものがあった。

 幼い頃から抑え込んでいた破滅的な願望。忘れかけていた童心。

 幸真は重い荷物をまとめながらこれまでのことに考え耽る。

 クラスメイトがゾンビと化し、何者かに閉じ込められた校舎。管理者と呼ばれている化け物じみた力を持つ者たち。意図せず目覚めてしまった変異体。

 退屈だった。窮屈で仕方なかった。

 幼い頃、ヒーローに憧れた。傷だらけになる主人公がカッコ良く見えた。

 貧しい家で、いじめられている主人公が心も身体もボロボロになりながらそれ以上に敵を倒す、それが彼の中の正義だった。

 だから、恵まれた家庭で平和に過ごすことに違和感を覚えた。

 幸真は教育熱心な母と厳格な父のもとで育ち、毎日が息苦しかった。

 『良い子』に育て。まるで呪いのように理想を押し付けられた。

 両親は二人とも政治にまつわる仕事をしているようで、非常に優秀だったらしい。故に貧しさとは、求めていた混沌とした傷とは無縁の環境。

 目に見える『自由』以上に窮屈なものはない。恵まれた環境は這い上がるための力を奪う。力と支配を持った親の言うことは絶対で、逆らう理由さえ抱くことは許されないのだから。

 彼の母は特に世間体を気にする人だった。

 いつも思いつきで教育に関連する遊びを持ちかけたり、子供の想像力を広げる、といった売り文句を掲げたゲームや本ばかりやらされた。それに相対して、外で遊ぶことにはあまり良い顔をしていなかった。

 子供のやる球技やごっこ遊びは長くは続かない。最初は幼いなりに決めたルールに従うが、飽きたり、誰か一人が実力差に不満をあげて無責任にゲームを放り出す。そういった無秩序なものをひどく嫌う人だった。

 同年代の子が何も考えず思うがまま泥だらけになっている間、ずっと勉強。決して強制させたり楽しくないものではなかったため歯向かえなかった。

 しかしその甲斐あってか小学校受験では難なく合格した。父も母も喜んでいた。でも、無意識に広がる違和感、小さく散り積もったストレスはしこりとなり、胸焼けしそうなほど居心地が悪かった。

 ある日、同級生に手を上げてしまった。

 きっかけは同級生の男子が幸真の転ぶ姿を見て大声をあげて笑ったことだ。そのあと何か余計な一言を添えてクラス中に笑いが広がる。

 なんで笑われているのか、どうしてそんなひどいことを嬉々として言えるのか。初めて触れる悪意が不愉快で仕方ない、それと同時に少しだけ解放された気分になった。

 ——————ああ、こいつならいいや。悪いやつ相手になら暴力も正義だ。

殴ることに躊躇いはなかった。正義という後ろ盾を背負った暴力は、いつか見た特撮番組のように清々しい気持ちで、心を躍らせた。

 その後もちろん、父と母に数時間にわたって説教を食らった。

 その日、大人たちが掲げる理想の『良い子』のイメージが具体的に描けるようになった。

 『良い子』、つまりは大人しい子。問題を起こさない子。自我を持たず、忠順で、個性を捨てられる子を指すんだ。誰にも強い感情を見せず、物にも当たらず、我慢に我慢を重ね意志を捨てること、それが俺に課せられた重みなんだ、と。

 それに気づいてからできる限り大人しい子でいようとした。たとえひどい笑い者にされても、相手に先に手を出されても無反応を貫いた。

 もちろんストレスは溜まる。喉の奥に積み重なるシコリが容赦なく牙を剥く。

 無性に腹が立つ。視界の中が紅く歪む。息ができない。

 咄嗟に壁に頭をぶつけた。たんこぶができるくらい強く。

 すると息が吸えた。身体が軽くなった。

 次に思いっきり引っ掻いてみた。皮膚がめくれ所々血が出てきた。ヒリヒリとした痛みが五感を研ぎ澄ました。

 傷口はヒーローの証としてカッコ良く見えた。

 まだ精神的に幼い彼は、『良い子』でいる間の精神的なストレスを自傷で発散するようになった。

 だから、柚亜の八方美人な振る舞いを見たときどこか親近感を覚え、上手いな、と思った。完璧主義でありながらも人付き合いも上手い優等生を演じる彼女は幸真にとって良い見本だった。親密な関係になりたいとは微塵も思わなかったが。こんな世界になってどこか運命的なものを感じた。

 彼女が『壊れた』とき、その狂気に惹かれた。

「大丈夫?手伝う?手も怪我しているでしょ」

 気がつくと本人が目の前にいた。

「いや、大丈夫。なんかもう治りかけ。ちょっと考え事していただけだから」

「そう……まあ、急に目覚めて何が何だかって感じだよね」

 幸真は思う。これはどこかで望んでいたことだと。

 痛みに生かされる日常を誰かに壊して欲しかった。

 傷に生かされる少女の本当の姿を見てみたかった。

 クラスメイトを殺されようが、先生を殺されようが対して気にはしない。彼の興味の対象は自身と柚亜にしか向いていないから。

「来海……あいつはどうしたんだ」

「ああ、途中まで手伝っていたんだけど、なんか急に一人になりたいみたいで。心配だけどでも、そういう時間も必要だよね」

「そうだな」

 柚亜は柚亜でまだ混乱していた。

 入部当初からずっと憧れていた人、笠佐木伊駒。視覚障害を患っているため他の部員とは別のメニューで稽古をしていた。大会に出ることはできないにも関わらず自身の技を研鑽していく姿は武道の在り方そのものを体現したようで、柚亜にとって彼は一つの理想像だった。しかし三年の春に彼は事故で亡くなる……正確には植物人間状態になり、回復の見込みはないとされていた。

 本来先輩が目覚めることは喜ばしい奇跡だというのに、この状況でそんな楽観的な発想はなかった。

「なあ、お前あの男を……何先輩だっけ」

「笠佐木先輩」

「そうそう、そいつと敵対した時、お前戦えるのか?」

「どうだろ……」

 柚亜は俯いて黙り込む。

 元々自分たちの目的は打倒管理者、というわけではない。彼らに見つからず生き残ること。この学校から脱出すること。戦わず逃げる方法があれば喜んでそれを選んでいた。

 でも今は、戦うことに前向き、というより今すぐにでもこの衝動をぶつけたい思いでいっぱいだ。圧倒的な実力差、殺される確信、それは当たり前のように怖い。けれど何故だろう、その程度の恐怖で止まれる気配がない。

 そして柚亜はハッと顔を上げる。

 ——————アレは先輩なんかではない

姿かたち、声まで全て一緒だった。でも私が知っている先輩は真っ直ぐで、誰にでも敬意を持って接する。だからこそ皆あの人を尊敬してついていく。でもあの管理者は何の容赦もなく切り捨てた。

 ——————アレはもう私が憧れた人ではない

 なら壊さないとダメだ。

 柚亜は幸真の方を向いて、

「うん……殺すよ。絶対に」

 まるでそれが自分に課せられて当たり前の使命のことのように言い切った。

 幸真は初めて殺気というものを感じ取った。

 彼女の瞳は何一つ濁りのない、真剣そのもので、だからこそ狂っている。

 静かに昏い笑みを浮かべる幸真。

 二人は荷物を運び込み食事の準備をする。

 来海のために固形物はなるべく煮て柔らかくし、重湯を中心にしたメニューを作った。

 給湯室で身体を綺麗にした来海はタオルを巻いておずおずと扉から顔を覗く。

 外で柚亜が着替えを渡すと恥ずかしそうに受け取ってまた扉を閉めた。

 温まったおかげか顔色は幾分か良くなり、野生動物のような不安定な状態からだいぶ落ち着いた。そのせいかふと気がつく。来海のことについて何も知らないことに。

 いつ目覚めたのか、どうして管理者たちから狙われているのか。きっと来海自身にもわからないのだろう。一人でゾンビだらけの学校に閉じ込められながら生活していたのだ。何を食べどうやって逃げ続けてきたのか、想像するだけで悪寒がする。

 ほくほくと頭から湯気立つ来海。倉庫に余っていたジャージを着せただけなのだが、別人のように様変わりしていた。

 華奢で丸み帯びた骨格に中性的な可愛らしさを持つ顔立ち。長いマツ毛にすらっとした鼻先が一層その魅力を引き立たせている。童話の中のお姫様を彷彿とさせる外見に思わず見とれてしまった。

 不思議そうな顔で見上げる来海、何とも庇護欲を掻き立てられる仕草に胸が締め付けられる。「何でもない」と無理やり目を逸らして連れて行く。

 目の前に広がるのは久しぶりに見る人間らしい食事の品々。

 この時来海は言葉もなく静かに泣いていた。

 そして一口ずつ、『生』を噛み締めるようにゆっくりと口に運び、その度に大粒の涙が零れた。

 遠くから聞こえる悲鳴に似た叫び声などまるで耳に届かないほどに。

 準備していた幸真は何故かばつが悪そうにしていたけど、柚亜にはその気持ちが理解できた。

 来海だけがまだ人間のままでいられているのだ。辛いことにも嬉しいことにも当たり前のように涙を流せる。自分が何かの拍子に捨てていったものの全てをまだ宿している、そんな相手を目にすれば意味もなく胸がざわつく。決して来海が悪いわけではないのに。

 胃の壁面に太い小骨が刺さった気分のまま食事を終えるとそのまま眠りについた。

 管理者の拠点もいつ現れるのかも不明。だが、二人も倒してしまった以上、『次』は近いうちに来るだろう。むしろ明日から積極的に動き回ってこちらから仕掛けてやろう、そんな浅はかな思惑を浮かべながら寝静まる。

 変異体と管理者との全面衝突、その『次』がきたのは翌日の早朝のことだった。

 

 

 

 

 







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