第4章 虚飾姫君は群青の空に手を伸ばす

 藍那来海(あいなくるみ)、彼はいつだって飽和するほどの愛に囲まれて生きてきた。乳児のから彼の容姿は魔法という概念を疑うほどに非現実的な魅力を放っていた。幼さ特有の愛らしさに不可思議な知性を重ね合わせた瞳と華奢でなだらかな肩に見る者全てが背徳感を覚える腰つき。それは性別という概念を超えたものだった。

 彼の両親は神からの恩恵とも思える彼の容姿に合わせ、沢山の服を買い与え、惜しみない愛情を持って育てた。だが、その中に無意識的に彼を女の子と扱う節があり、来海自身もそれを理解していた。

 『自分が愛されているのは容姿の可愛さゆえのもの』

 それを幼いながらに知ってしまったため、彼は何も欲しがれなかった。ヒーローの変身ベルトも野球のグローブやサッカーボールといったスポーツ関連の道具も。欲しがってしまえば愛されないかもしれない、という恐怖が深く根付いてしまったのだ。

 自分の意思に関係なく、両親が着て欲しいというのならどんな服も着用する。何気な

「〜のように育って欲しい」という言葉も全て鵜呑みにして言われた通りに振る舞う。

常に愛に満たされたため愛を失うことの恐怖が四六時中背中に張り付いて離れない。

 容姿への絶対的信頼それに反して自身の内面への自信の欠如。

『もし自分から可愛さが失われたら?』

 誰にも見向きもされず、人の温もりのない冷たい地獄を生き抜かなければならないのか。

 心も身体も男なのに求められているのはきっと可愛い女の子の自分。本当は容姿ではなく心を見つめて欲しいのに臆病ゆえに恐怖の根源たる容姿にすがりついてしまう矛盾。

 生まれた時から愛に満たされていため、愛というものにどれほどの価値があるのかわからないのに、失いたくないという執着だけが醜く膨れ上がった。やがてそれが空っぽのはずの自身のアイデンティティになり、自分で自身の内面を認識できないから彼は常に自分のことを『来海』と言い聞かせるようになった。

 しばらくはそれだけで心の均衡は保たれていた。

 しかし小学五年生の冬に彼の身体に変化が訪れた。

 整列する時はいつも背の順で一番前だったはずなのに、身長も体重も急激に増えた。筋肉がつきやすくなり、白く美しかったはずの柔肌に薄く体毛がかかるようになった。

 身体の成長、それは彼に底の見えない恐怖と絶望を与えた。

 保健体育の授業で見た、大人の男性の体。

 可愛らしさ、可憐さ、それらとは程遠い逞しくどこか威圧的な身体つき。それは彼にとって恐怖の対象であり、いつしか汚らわしいものとして認識していた。

 自分もアレにならないといけないのか。

 子供の時持っていた可愛らしさや無償の愛から離れてやがて教科書通りの『なりたくない姿』の象徴にならないといけないのか。そうやって誰もが大人になる、と美談めいて話す有象無象に来海は初めて殺意を覚えた。

 誰も教えてくれなかったくせに。全て諦めたように酸いも苦いも辛いも全部飲み込むことを『大人になること』などと偉そうにのたまうな。受け入れたくない、失いたくない。

そうやって信じてもいない神にすら祈りを捧げている『今の来海』はどうしろというのだ。

 誰にも理解されないこの絶望に喉が焼けきれそうな怒りは誰に向ければいいのか。

 ——————大人になりたくない

 そんなありきたりなわがままが脳内に埋め尽くす。

 『好き』も『嫌い』も通り越した、歪みきった可愛さへの依存。

 成長を止める方法、検索をかけてはエラーを繰り返す。

 睡眠を拒んだ。運動を拒んだ。ジャンクな食べ物を貪った。不健康を欲した。

 目にクマができた。肌が荒れた。体重が減った。

 最初は気分が最悪だった。吐き気頭痛腹痛目眩悪寒発汗代謝異常痙攣湿疹、様々な症状が警笛のように悲鳴をあげる。でも我慢した。辛いのは一時的なものだから、と。今は辛くて可愛くないかもしれないが、成長期さえ乗り越えればまたいくらでも持ち直せるのだから。そうやって言い聞かせ続けていたらいつの間にか苦痛は消え、不思議な高揚感が頭の上に漂っていた。

 そして気がついた時には病院のベッドにいた。

 心配そうに手を握る母親に、怒気を含みながら涙を流す父。無茶している自分を丸一日叱り、そして「ごめんね」と言って抱きしめた。

 来海は拙い言葉で話した。今まで可愛いと言われ続けてきた故に、大人になるのが嫌だったと。可愛くなくなったら誰にも愛されないのかもしれない、それが怖かったと。

 恥ずかしくて怖くて、でも解放されるかもしれないと懸命に、赤裸々に全てを打ち上げた。そして。

 ————————————、そうか。

 刹那の沈黙。引きつった苦笑の中に含まれる僅かなため息の音。何かが台無しになる時に向ける笑い方に擬似していた。長時間かけて積み上げたジェンガが崩れたときの、丁寧に洗濯した服を埃だらけの床に落としたときの、そんな笑い方がコンマ〇・三四秒の刹那の瞬間向けられたのを来海は見逃さなかった。

 それは我が子への軽蔑なのか、それとも辛い思いをさせた親としての罪悪感からなのか、どちらなのかはわからないが、来海にとって良くないことだけは確信できた。

 それ以降、両親は来海に可愛さを求めるような言動を控えたが、来海の症状は悪化した。睡眠も運動も、バランスの良い食事もちゃんととるようになった。しかし

「うう……ウォェエエェ……」

 食べたものを身体が拒否してすぐに吐き出してしまう。

 解消した頭痛や目眩といった症状も全て飲み込んでしまうほどの吐気と倦怠感。口に何か入れた瞬間、味のしない異物感が口内を満たす。まるで印象材を無理やり喉の奥にねじ込まれるような気分で、なんとか飲み込んでも胃液が逆流し、鼻の奥までえぐみと酸味が広がる。

 栄養を拒絶する内臓に呼応して喉が開くと、体の中から空気が這い上がる音と共にさっきまで綺麗な姿で並んでいた有機物たちが、トイレの水面を激しく揺らし流れ落ちる。その間は胃液に溺れているかのように呼吸がままならなくなる。全て吐き出すとようやく体は平穏を取り戻す。

 だが、胃を空っぽにしたところで栄養失調によって常に二倍の重力がかかっているようなダルさが纏わりつく。さらに、発作的に起きる酷い飢餓感。無機物にさえかぶりつきたくなるほど脳に命令を下す『飢え』は確実に彼の身体を壊した。

 そんな姿を両親は、「またやっているよ」と、どこか他人事のように見ないふりをしていた。

 愛を求めた結果、彼の身体の成長を止めようとした来海は、拒食と過食を繰り返し、身体の成長を止めた代償に愛を失った。それは中学に入学しても続いた。

 全寮制の学校であるため、周囲の人間がその異常に気がついたのは入学一ヶ月後のことだった。再び入院、長い期間カウセリングを行った。彼の両親にも受けたらしいが、来海は面会することに酷く怯えていたため別々に受けた。あまりにも来海の凄惨な姿から虐待の可能性も疑われたが、証拠として有力なものは見つからず、来海自身も否定していたため問題にはならなかった。

 半月の入院生活から学校に復帰する際に大量の薬が処方された。週に一回のカウセリングの場も設けられ、食生活も彼に合わせたものを用意した。しかし、一向に回復の見積もりは立たず、壊れかけた心を抱えたまま寮と保健室を往復する生活が続いた。

 そうこうしている間に七月を過ぎると、彼の身体に再び異変が起きた。

 あれだけ重かった身体が嘘のように軽い。それどころか中学一年生のものとは思えないほどの身体能力を手にしていた。相変わらず飢餓感と拒食反応はあるものの壊れかけていたはずの肉体が見違えるように回復、それどころか発達していた。来海自身の身体の大きさはそのままに。

 夢のようだった。希望が見えた。ようやくこの執着から解放されるかもしれない。

 そう思ったのも束の間、辺りを見回すと……

 そこから先は来海自身もよく覚えていない。

 目を疑いたくなる光景、耳を塞ぎたくなる阿鼻叫喚、嗅覚を捨てたくなる腐乱臭。五感全てから得る情報はどれもこの世の物とは思えない惨状。教科書で見た地獄絵図というのはこのことを指すのだろう、来海はただ一人、まともな状態でいられる現実を呪った。

だから彼は、意識だけを消して、これまで逃げ回っていた。食べるものも飲むものも最小限を下回る量を摂取して、生き物としての本能だけを頼りに。

 水飴のプールの中を泳がされている気分だった。身体は動くのに粘り強く重い何かが纏わりついて離れない。自分がどこにいるのかもわからないままひたすら光のある場所を目指して泳ぎ続けている。

 身の危険を感じればそれが消えるまで暴れ続け、アテもなく安全な場所を目指して徘徊する。彼が通った後に人間の残骸が増えていることも知らないまま。

 そして長い長い悪夢の末に、

「大丈夫……もう大丈夫だから……」

 暖かい。心の芯から安心する温もり。肌が凍てつく冷え切った夜に昇る朝日のような、爛々と輝く希望の象徴が来海に微笑んだ。

「大丈夫……私が絶対に守るから」

 優しく抱きしめて、震えながらも力強い意志を持った瞳で見つめる少女がいた。

 江波柚亜、触れる体温は慈愛に満ちているのに、彼女の心には同情や憐れみなどは一切なく、一つの揺るぎない正義があった。

 彼女が名前を問う。

 名前……そうだ、名前。大丈夫、ゆっくりでいい。思い出せる。発音の一つ一つを確かめるように、掠れた声で反復する。

 「く……来海(くるみ)……来海は、来海って言うの……」

 意図せず涙が溢れた。

 数年ぶりの光に目が順応しなかったからではない。鼻が曲がるほどの悪臭を知覚してしまったからでもない。ただ、純粋に、自分の存在が、一人の正義によって肯定されたことが、可愛いくなくても見返りのない優しさを向けてもらえた事実が堪らなく嬉しくて仕方なかったからだ。

 その晩、来海は拒食症になってから初めて吐き出さないまま完食できた。重湯を中心にしたメニューで味はどれも薄い、だが、美味しくないわけがなかった。止まらない涙と一緒にゆっくりと口に運ぶとどこか懐かしさを感じた。

 母親に叱られた後に一緒に食べたご飯は鼻がグズグズなせいで匂いはあまりしない。

きっと涙と一緒に食べるご飯が似た味になるのはそのせいだろう。それでも口に運ぶ度その料理に慰められているような気分で胃が熱くなる。

 感染体、変異体、管理者、断片的ではあるがこれまでの経緯は理解できた。自分の運動神経が急激に上がったのも、長い期間まともに食事をしなくても餓死せずに入られたのもそこに理由があるのかもしれない。

 空腹が満たされると冷静に事態が頭の中で整理される。自分たち変異体がどのような状況にあるのか、柄長の一件で鬼気迫る険相の三人。面識のない人のために悲しめるほど他者に関心を持てる余裕はなかった。ただ、落ち着いたように振る舞う柚亜の裏に燃え盛る激しい怒り、それを目の当たりにして来海は固く決意した。


 ■ ■ ■


 それは三人が食事を終えて片付けに取り掛かっている時であった。

 会話することもないまま黙々と作業に没頭する中、ガラガラと乱雑に扉が開かれる音がした。振り返るとそこにいたのはすっかり髪の色が抜けた雪加だった。

 剥き出しになった瞳孔にはどす黒い絶望を映し出し、ヨダレを垂らしたまま重い足をひきづると、そのまま埃被ったベッドに倒れた。

 目の前で弟を亡くしたショックと自己嫌悪でもはやその精神がまともに機能しているのかも疑わしい。感染体だってもっと人間らしく見える。

 ゆっくり数えて三〇秒間、息苦しくなってか蹲めていた顔を起こすと、ここで初めて来海たちの存在に気が付く。

 意思なく向けられた視線に柚亜は戸惑う。「大丈夫?」などと気休めにもならない言葉を投げかけられるほど無神経ならよかった。なんと声をかけていいのかわからないまま膠着した空気だけが流れている。

「あー、何か食べる?」

 それが誠意杯の言葉だった。

 雪加は柚亜の言葉に理解するのに一〇秒、その後頭の重みに従うようにコクンと頷いた。

「先生はどうしているかわかる?」

「いえ……」

 そう言うと口を固く結んだまま椅子に腰をかけた。

 柚亜はそれ以上何も言わず、回収したレトルト食品を開封して皿に移した。

「あ、あの……手当とかは……?」

 来海は恐る恐る雪加に尋ねる。彼の今の状態を見えれば声を掛けることをためらう理由は十分に揃っているがそれ以上に心配が勝ったのだろう。

「来海、私たちはある程度の怪我は放っておいても治るから」

「そうなんですか。でも……」

 一体何をどうすればここまで自身の身体を痛めつけられるのか。衣服から顔を出す素肌はどこもサツマイモ色に濁り、骨は使い古した釘のように歪んでいた。顔もよくみると額から垂れた血を拭った形跡がある。

「流石に酷いから湿布くらいは貼っておこうか」

 来海は「はい」と返事をすると診察スペースの奥にある棚を物色する。

「はい、自分で食べれる?」

 柚亜は雪加に食器一式を近くのテーブルに置いた。雪加はゆっくり立ちあがると椅子を持ってきて座った。

「あの、何が効くのかわかりませんけど、一通り持ってきました」

 来海が両手いっぱいに薬品やら包帯やらを抱えて戻ってくる。

「ありがとう。えっと、どこから手当てすれば……」

「貸してみ」

 あまりの患部の多さにまごついていると先ほどまで静観していた幸真が横から包帯を手に取った。すると手際よく処置を施し始めた。

「なんだよ」

「いや、ちょっと意外で」

 暴走しているときの印象が強くて手先が器用なイメージが湧かなかったのだろう。驚愕の表情を露わに出し過ぎてしまった。

「俺もしょっちゅう似たような自傷するから自然と身に付いたんだよ。でもこれは酷過ぎえーと……」

「柿原雪加くん」

「そうそう、柿原。お前、死ぬつもりでやっただろ」

「……ん」

 イエスともノーとも取れない曖昧な沈黙。けれど幸真は続ける。

「手首や首元に何重にも重なっている痕は失敗した形跡だろ。覚悟が座ってもいざやろうとした瞬間怖くなったか。それ以外の痣やら引っ掻き傷はかっこつかない自分への戒め、それともカモフラージュか」

 全てお見通しと言わんばかりに幸真は淡々と考察を口にする。 

 黒一色だった雪加の瞳に淀みが宿る。弱々しい背中に力が入って震えていた。

 その変化を見逃すことなく幸真はあえて、

「どちらにせよ、ダセエなお前」

 

 ガシャン!


 本人にも自覚のない怒りだった。

 テーブルを蹴飛ばし幸真に掴みかかってもなお、その表情に変化はなかった。

「あ……」

 誤作動でも起こしたかのように我に帰ると、小さく「すみません」とだけ言って再び席に着いた。倒れたテーブルを来海が起こすと、事前に柚亜が避難させていた食器を戻す。

「嫌なこと言って悪い。でも死ぬんならあいつらをボコボコにしてからでいいんじゃねえのか?そうしねえとどのみち俺ら殺されるし」

「……そうっすね」

 全く納得している様子ではなかった。

「まあ別にどっちでもいいけどさ。本当に辛いなら言えよ。屋上から突き飛ばすくらいのことはやってやるから」

「え?」

 雪加は聞き間違いかと疑うように目をやる。

 人によって『辛い』への尺度は違う。たかが表面状に吐き出された『辛さ』だけでは当人の感情をわかった気になるなどおこがましいにもほどがある。それを痛いほど理解している幸真にとって慰めの言葉など邪魔でしかない。だから、

「死にたいやつに希望を投げかけるとかそんな酷いことしねえよ」

 冗談でも真剣に言っているわけでもなく、ただ彼にとって当たり前のことを口にしただけといった様子だった。

「まあ、どちらにしよ、食わないと踏み出せねえんだから。応急処置もあらかた終わったし、せっかく用意してもらったんだから食えよ」

 淡々と、包み隠さことなく心意を剥き出す彼の言葉は人によっては刃物で挑発されたような気分になるだろう。だが今の雪加にとってはその冷たさを欲していたのだろう。雪加は静かに泣いた。瞳からは涙は一粒も溢れていない。だが、柚亜にも来海から見ても、鼻をすすりながら食事をかきこむ姿は、咽び泣く少年のソレだった。

「おいおい、そんな急ぐなよ」

 一気に詰め込みすぎたせいで喉に詰まらせた雪加に幸真がペットボトルの水を渡す。キャップは開けてあった。

「ありがとうございます……あの」

「立花幸真。好きに呼べ」

「立花先輩っすね。それと……」

「藍那来海です。中学一年生です」

「ありがとう。かっこ悪いところばかりで不甲斐ないっす」

「いえ、そんなことは」

「君も戦うつもりなんすか?」

「え?」

 見るからに喧嘩慣れしていない華奢な身体つき。むしろ相手が心配になりそうな細い腕。発狂したくなるほど管理者のデタラメ具合を思い知った彼にとっては当然の疑問だった。勝算など計算外の無意味な戦い、ただの個人的な復讐、そんなことに目の前の小さな命が無意味に摘まれるなど見逃せるはずがない。だから雪加の問いにはほんの少し圧のある声色が含まれていた。けれど、

「来海は、来海はもう自由になりたいんです。この心誰にも支配されたくないから、だから来海の自由は来海の手で勝ち取りたいです」

 真っ直ぐ見つめ返すその瞳はどこか柚亜に似た愚直さを彷彿させた。

 雪加は「わかった」とだけ言うとコップに残った水をぐいっと喉に流し込み、

「先輩、ご馳走様っす。美味しかったっす」

「別に私が調理したわけじゃないけどね」

「じゃあ、ぼくはお先に休ませてもらうっす。おやすみなさい」

 フラフラとベッドへ沈みこみ雪加はゆっくりと瞼を閉じる。

 その右手には柄長が残した一本の注射器が隠されていた。

 柚亜はそのことに気づかず、そっと布団をかける。

「私たちも休もっか」

 保健室の電気を消すと校舎は闇に包まれた。暗影の中で徘徊する感染体の足音だけがやけにこだまする。

 雪加は三人が寝静まったと判断すると、自分の首に注射器を突き刺した。やがて意識が遠のいていく。彼は苦しみながら自分の体温が冷たくなっていくのを感じ取り、ゆっくりと眠りについた。

誰にも気づかれることなく悟られることもなく静かに——————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————………


 扉が開く。柚亜と幸真は咄嗟に起き上がるが来海は落ち着いて体を起こす。足音の正体に気がついていたからだ。音を殺すように閉められた扉、重くゆったりとした歩調と反響する方向、衣擦れから呼吸の音まで、ありとあらゆる情報が問答無用で耳に入ってくる。優れた聴覚が自分のものじゃないようで少し怖かった。

「来海、起きているか?」 

「はい、どうしましたか先生」

 表情ははっきりとは見えなかったが、古川の影は外に出るよう促した。

 二人はその後を追うことも聞き耳をたてることもなかった。

 廊下に出ると古川は壁にもたれかかって物憂げに来海を見つめた。

「どうしたんですか」

「そう身構えるなよ」

 嘆息して浮かべる笑みの中に混じる不穏な瞳の光。その不気味で意味ありげな視線に来海は寒気を思い出した。それは、嘲笑、落胆、軽蔑を含む、同情を向ける目だ。

 来海にとって古川玲志という人間が苦手だった。常に何かを諦めたように無関心のくせに墨汁で塗りつぶしたようなどす黒い殺意が垣間見える瞬間があった。好きでもないくせに年中タバコの匂いが染み付いた白衣を身に纏うのが、全身に刻まれたヘルプサインを押し殺しているようで、自ら鉄の鎖を巻きつける獣みたいな不気味さがあった。

 古川は腰を屈め、警戒心を高める来海と目を合わせ、問いかける。

「お前、目覚めたのはいつからだ」

 声色に鋭さはない。だが、来海の肩に置いた手に無意識手に力が入る。

 彼は柚亜立ち寄り目覚めた時期が早い。その期間に感染体と変異体について学校設備内でできることは全て調べ尽くした。そこで一つの仮説を立てていた。

「いつ……意識がはっきりしたのは今日ですけど、それより前は記憶がごちゃごちゃしていて」

「じゃあ、気を失ったのはいつからだ」

 古川は食い気味に尋問する。自身の立てた仮説がどうか間違っていてくれと願いながら。

「わかりません。みんながゾンビみたいになって、それから逃げるのが必死で」

 つまり、全校生徒、全教職員に同時に感染症状が現れているのに、来海だけ例外的にそれが現れなかったわけだ。古川は唇を噛み締める。

 肩に伝わる振動でその不安は来海に伝染する。

「先生?」

「お前、食事や水はどうしていた。ずっと保健室通いで身体も弱かったよな。巡回者、鼻の効く化け物みたいなやつが毎日うろついている中どうやって逃げていたんだよ」

 言葉を発するたびに怒気の籠った息が漏れた。

「それは……」

 死んだはずの生徒、人間離れした身体の機能、そして目の前にいる来海という決定的証拠。否定の余地がないと古川は蹲る。

「もういい。全部わかったよ」

 彼には全て伝えよう。顔を上げてゆっくりと、我が子をなだめるように

 「来海、どうしてお前が奴らから狙われているのか教える。それを聞いた上で、自分でどうしたいのか決めな。先生たちと思う存分暴れて心中するか、人類の希望になるか」


 ■ ■ ■


 仕切りを介して眠りにつく。窓際で照らす月明かりは嫌に眩しくて、どこか現実味がなかった。星明かりが混沌とした黒い夜空を群青色に染める。目を瞑っても星空の光が瞼の奥をハラリと撫でるせいか、身体は疲労を蓄積しているはずなのに意識が澄み切ったように視界の先で踊る。

 布団にくるまりこれまでの人生を思い出しながら夜の中を泳ぐ。

 俯瞰して見る自分の映像が乱雑に眼球のレンズに映し出される。

 古川に告げられた話はどれも他人事のように実感が持てなくて、けれど、納得はできた。

 あの話が本当なら来海はもう両親に会うことも小学校時代の級友似合うこともできない。

けれど喪失感や寂寥感とかは不思議と感じられず、むしろ思い出していく度に心が軽くなっていく気がした。

 更けていく夜の中に視線を預けて、近い未来の自分を想像する。先生から教えてもらった藍那来海という『特別』。人並みに他者を思いやれる人間なら、利口に生きようとする人間ならきっと喜んでこの身を差し出すだろう。理不尽に強いられた自己犠牲も下らない美談にまとめあげて、納得して、そうやって心を殺すんだ。

 錆びついた窓に手をかけて力任せに開ける。砂利と鉄が擦れるような音は鋭い無機物の悲鳴ようで、鋭敏な鼓膜には潰された刃を当てられた気分になる。 

 外に出ると湿気と混じり合った土の匂いを含んだ冷ややかな風とともに鼻の奥を擽った。悶々と沸騰しかけていた頭を冷やすには丁度良かった。

 思えばこうやって落ち着いて夜更かしするのは初めてだった。

 胃の中に無数の虫が這いずり回るような吐き気と内臓から中から蝕まれていく飢餓感のせいで、眠れない夜を何度も超えてきた。人が寝静まる時間の苦痛は誰の目にも止まらないまま死ぬのではないかという恐怖が孤独感さえも飲み込むから。だから、夜が好きだと思えたのは初めてのことだった。

 来海は名前の知らない星座が広がる群青色の空に手を伸ばす。感触はない。宙を掴んだ手を離しても何もでてこない。そんなわかりきった事実にどこか安堵した。

 彼は自分自身のことにあまりに無知だった。

 これからもっと自分のことを知れるかもしれない。これからもっと知らない世界に触れて、当たり前にあるはずの『知りたい』に出会えたのかもしれない。そう思うと、来海はこれまでどれだけのものを、そして 自分の未来にあるどれだけの可能性を失ったのか、初めて実感した。

 群青色の夜空が地平線の先から海の色へと変わる。大きな灯火がゆらゆらと景色を灼き、空に一瞬の虹を描く。

 来海はまだある群青を追いかける。手を伸ばすとそこにあった無数の星々はいつの間にか陽光に飲み込まれ朝を告げる。一睡もできなかったはずなのに、蝕んでいた疲労感は綺麗に消え去り、目は覚醒の時と変わらず冴えている。

 一瞬の虹を描いていた空を青一色に染め上げる太陽に向かって、あの時と全く同じ決意を固める。きっともっと真剣に考えるべきなのだ。でも、一晩悶々と考え込んでも、『どうでもいい』という感想しか出てこない。だから、来海はかつて抱えていた悩みもまとめて一蹴して開き直る。心も身体も信じられないくらい軽い。

 冷え切った空気を吸い込み、自身の体温を実感し手足を軽く振る。それだけで、自分の肉体が常人のそれとはかけ離れた能力を手にしたことを改めて自覚する。これが偶然に偶然を重ね何百人もの犠牲を払った上でのものだと思うとヘドが出るほど胸くそ悪い。けれど、それと同時に自分が『特別』であることの高揚感が芽生えた。

 ——————うん、今ならなんでもできる

 幼い子供が抱く万能感と似ていた。

 何も考える必要はない。何をしたっていい。もう、誰にも縛られる必要はない。自由だから、怯えるものは何一つないから、だから……

 「だから、僕は無敵だ」

 タンっと細い両足で地面を押す。身体は重力に逆らってふわりと宙を舞う。

 地面が遠い。不安も焦燥も追い越してさらに空へと加速、そして彼の右足は鮮やかな半円を描き “敵 ”を捉えた。

「ありゃ?」

 上空から飛び降りてきた少女の右肩に来海の鋭い蹴りが直撃し、そのまま地面に突き落とされる。

「イタタタ、おっかしいな〜。完全に不意をつけたと思っだけど」

 演技っぽく怪我した素振りを見せる少女。綺麗になびく金色の髪に派手に着崩された制服。整った顔の上にはナチュラルなメイクが施されている。女性の格好について教養の深い来海から見ても彼女の服装やメイクは非常に洗練されている。しかし、血なまぐさい背景にはあまりにも不自然すぎた。

「ねえねえ、君クルミちゃんで合ってる?小さくて可愛いね。ちょっとお姉さんとお茶しない〜?」

「……嫌です」

「大丈夫大丈夫痛くしないから。優しくしてあげるからぐへへへへ」

「気持ち悪いです」

「もー、サバサバしてるな〜。じゃあちょっと乱暴するけど良い?」

「ダメです……え?」

 ——————いつ踏み込んだ?

 気がつくと目と鼻の先に鋭く尖った爪が迫っていた。咄嗟に上体を後ろに背けすんでのところで回避する。瞬き一回分でも反応が遅れていれば左目が切られていた。そのまま地面に手をつき、背骨をバネのように利用して蹴り上げるが意図も容易く受け止められる。

「お〜すごいすごい。マトリックスみたい」

 余裕ぶった褒め言葉に腹が立つ。来海は下半身を捩り掴まれた足を振りほどく。

「いきなりなご挨拶ですね。綺麗に塗ったネイルが台無しになりますよ」

「え、嬉し。良いでしょこの色。昨日徹夜で混ぜて作ったニュアンスカラーなんだ。クルミちゃんもする?」

「結構です」

 つかみどころのない強引さに苛立ち食い気味に断った。

 見た目はただの派手な女子高生なのに、研ぎ澄まされすぎた来海の五感が、理屈では理解できない異常な強さを危険信号として脳に刻み込む。身体能力はもちろん、彼女はまだとんでもないものを隠していると、なんの根拠もなく確信している。

 喧嘩なんて生まれて初めてなのだから、一瞬でも気を抜けば痛みを感じる前に手足を追って行動不可能にできる相手。なのに、こんなにも自然に、気さくに話しかけてくるから、

無理やりにでも苛立っていないと警戒心を解いてしまいそうになる。

「ねえそんなこと言わないでよ。きっと似合うよ」

 言い終わる前には紫と淡いセピアが混ざったような色をした爪が首元に伸びていた。だが、今度は目で捕らえられた。構えた瞬間に合わせてしゃがみ込み、前重心になった足を払う。

 バランスを崩した管理者は攻撃の勢いのまま落下、そこに来海が頭を掴み地面へ叩きつける。

 土埃が舞い視界から管理者の姿が消えるが、掴んでいる髪の感触を頼りにひたすら踏みつける。しかし、

「ちょちょちょ待って待って、タンマタンマ。流石に顔はないって!」

 むくりと起き上がり咳き込みながら土埃とついでに来海を払う。

「あ〜最悪。あとでやり直さないとじゃん。これクレンジングで落ちるのかな」

 来海渾身のカウンターも全体重で踏みつけられたことも全く気にしていない様子で、顔についた土を拭う。

 少しは痛がれよと内心叫んでいた。

「あのねぇクルミちゃん、元々かわいい君にはわからないと思うけど、このメイク超時間かかっているから。ナチュラル系ってゴテゴテのいかにも、みたいなメイクよりもずっとお金も時間もかかるの。わかる?」

「ご、ごめんなさい」

 鬼気迫る迫力につい謝ってしまったが、気を抜くなと自分で自分を咎める。

 気を引き締めて観察を続ける。

 ポケットから取り出した手鏡で最低限身を整え直す。隙だらけ……のように見えるが、どう攻撃を仕掛けても虫を追い払うように返り討ちにされる未来しか見えない。

 仮に当たったとしても効き目があるのかどうかも怪しい。

 叩きつけた時の感触、決して硬い訳でも受け流されたわけでもない。芯を捉えたはずなのに手応えを感じない。固定されたバランスボールを殴ったような感覚だった。

 いくら身体能力が上がったとはいえ力任せでは倒せる相手ではない。ならどうするのか。来海はイメージする。想像できるなら実現してみせると己の肉体に断言して、そして行き着いた構えは、

「先輩、借りますね」

 それは彼の最も信頼する人が使う、最も人体の破壊に長けた技、江波柚亜の使う『空手』だった。

 小さな拳にありったけの闘気を込めて、彼の英雄の生き様(戦い方)を全身全霊で模倣する。

「すみません。次は失礼のないよう全力でお相手します」

「ふぅん。なんか思っていたよりも、可愛くないね」

 ——————ああなるほど。これが殺気か。

 大袈裟、まやかし、フィクションの世界のものでしかないと鼻で笑っていたものを全身で感じ取り、戦慄と興奮の入り混じった笑みを浮かべる。もしかしたらこれは歓喜しているのかもしれない。生涯でたった一度の暴力、その相手に不足どころか手に余る存在。ああ、ワクワクするぞ、と未知の感情が昂り、血流が加速する。

 ——————僕って意外とヤンチャだったんだ

 押し殺していた自己の中に秘めた凶暴な牙。それは思いの外納得できて、それに気づけたことがやっぱり嬉しくて、その喜びをありったけ込めて、拳をふるった。

 手応えは確かにあった。

 いつの間にか群青色の夜空は地平線の先へと沈んでいた。

 




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