第2章 臆病兄弟は偽物の鏡に囚われている

 柿原雪加と柄長。この二人が初めて殴り合いの喧嘩をしたのは、二人が五歳の誕生日を迎える前日のことだった。

 目が合えば口論、行動を共にすれば殴り合い、校内ではそんな噂が絶えない二人ではあるが、かつては普通の兄弟のように仲が良かった。玩具を共有して遊んだり、与えられたお菓子を二人で分け合ったり、時には衝突もあるがすぐに仲直りをする。そんな普通の兄弟だった。しかしそれとは対照的に二人の両親はいつも喧嘩ばかりだった。

 まだ幼い柿原兄弟には怒鳴り散らかす両親が何に対して怒っていたのかわからなかったが、毎晩隅っこで怯えていたのだけ覚えている。

 二人は必死に考えた。どうすれば両親が喧嘩をやめるのか。

 父の肩揉みをしてみた。

 母のお手伝いをしてみた。

 一緒に遊ぼうと誘ってみた。

 保育園で楽しかったことを話してみた。

 二人でとっておきの変顔をたくさん披露した。

 しかし両親は、そんなものには構っていられないと、余計不機嫌になった。

 ある日、兄の雪加は両親の喧嘩を止めようと割って入ろうとした。怖くて怖くて仕方がない。けれどこれ以上、柄長(弟)が怖がる姿をみたくなかったから。

 しかし、彼らの父は勢い余って雪加(息子)を突き飛ばしてしまった。

 壁に頭を強く打ち、たんこぶができた。

 痛くて怖くて仕方ない。でも我慢しないと。でないと弟を怖がらせてしまう。父と母をまた怒らせてしまう。だけど……

 雪加は強い自制心を持った少年だった。同年代の子に大事な人形を壊されても、目の前で大の大人に怒鳴られてもニヘラと笑って、悲しいことを誤魔化せる子だった。

 そんな彼でも怪我をしたら泣いてしまう、実に当たり前のことだ。

 頭がズキズキと痛くて辛い。両親が怒っていて怖い。父親に拒絶されて悲しい。弟の前で涙を流すことが悔しい。

 他にも、幼いながらに我慢してきた様々な感情が込み上げてきた。そして彼は……

 「うわああああああん、うわああああああん!」

 いつ以来だろうか。こんなにも年相応に、感情任せに涙を流すのは。

 大声で、躊躇うこともなく、幼さに身を任せたまま大声で泣いた。

 そんな彼を久々に見た両親は戸惑い、慌てて雪加の元まで駆け寄った。

 両親の顔には先程までの怒りは嘘のように消え、ただただ我が子を心配する表情でいっぱいだった。

 この瞬間二人は同時に答えを見つけたしまった。単純明快で、五歳を迎える少年が思いつくにはあまりにも残酷な答え。

 ——————なんだ、こうすれば良かったのか

 怪我をすれば周りの人は心配する。そうすればもう喧嘩をしなくなる。

 翌日、両親は再び喧嘩を始めた。

 柄長は、今度は自分の番だと言わんばかりに張り切って怪我をしようと試みた。しかし…………

 壁に頭を打ち付けようとしても、包丁で手を切ろうとしても、階段から転んで落ちてみようとしても、あと一歩のところで踏みとどまってしまう。

 痛いのは嫌だ、怖いのは嫌だ。でも大好きな両親が喧嘩をしているのはもっと嫌だから。

 柄長は雪加に頼み込んだ。どうか自分を殴って欲しいと。アザができるほど力一杯殴ってくれと。

 当然雪加は拒否しようとした。誰が好き好んで大好きな弟を傷つけるかと。だが、また両親が喧嘩を始めたら自分も止めなければならない。その時、果たして無理やり怪我を負うことができるのか……

 悩んだ末に二人は決断した。

 父と母が喧嘩をするならぼくらも喧嘩しよう。力一杯殴り合って、怪我をして、二人が放って置けなくなるくらいに仲の悪い兄弟になろう。

 もし、殴るのが辛くなったら、相手のことを自分だと思い込むようにしよう。弱くて情けなくて、こんな卑怯な手を使わなければ両親に振り向いてもらえない、大嫌いな自分を殴るのだと。

 兄を、弟を、一度だって自分と似ていると思ったことはない。だけど、ぼくらは双子だからと、同じ容姿を与えられたのならきっとできると。

 二人は初めて喧嘩を……いや『自傷』をした。

 何度も何度も繰り返した自己暗示はやがて強固なものになる。相手の頬をぶてば自分の頬が、腹を蹴れば同じく自分の腹が、次第に感覚が共有されるようになった。

 元々、他者の感情の機微に敏感だった二人は、友人同士のグループ内の空気が険悪になると度々喧嘩をするようになった。

 本当は彼らもこのやり方が間違っていることに気づいている。しかし、これしか方法を知らないのだ。

 本当はもう兄弟を殴りたくなんてない。けれど、向こうが弱音を吐いていないのに自分が泣き言を言うことなどできない。互いが互いのことを思った結果、余計に心さえも蝕んでしまう。

 やがて鏡さえもみることができなくなった。自分が何なのか、兄の、弟の顔がどんなものだったか、区別がつかなくなり始めた頃、意識は消えていた。

 目が覚めると、二人は荒れた教室の中にいた。目の前に広がるのはまさしく異常な光景。鼻いっぱいに広がる鉄と糞尿が混ざり合った匂い。教室一帯に赤黒く染まった血の跡。  

 そして、共食いを始める同級生。

 訳がわからない。昨日までふざけあっていた友達が獣のように歯を剥き出しむさぼり食おうととしている。

 止めなければ。でもそのやり方を知らない。ただ、意味もなく二人は互いのことを殴りかける。その拳には力はなく頬に触れただけだった。

 当然、意識のないゾンビたちがそんなものを気にかけるはずもなく、惨い現実を目にその場で打ち拉がれることしかできなかった。

 視界が黒く染まる。他者の目を窺うことばかりしてきたのに、無力にも止める術を知らない。

 身体中が絶望に蝕まれていく、そんな時二人の前に現れたのは———————————————

「はーい、授業始めるから席につけ〜」

 あまりにも平然と、悲惨な景色の教室のことなど認識していないのかと思わせるほど不自然に、その男は太々しく始業の号令をかけた。

「どうしたお前ら?ひどい顔してるぞ」

 一体何年振りになるのだろうか。お互いの姿をまともに見るのは。雪加は柄長を、柄長は雪加を静かに見つめる。

 その瞳に映るのは、ひどく汚れた兄弟の顔だった。

 しばらくの沈黙の後二人は笑った。訳も分からず声をあげて。

 一体誰のためにあんな馬鹿なことをしていたのか、もう忘れてしまった。

 もう誰の目も気にする必要はない。

 もう誰かの目に怯える必要もない。

 こんな壊れた世界で、柿原雪加と柄長はようやく兄弟に戻れたのだ。


 ■ ■ ■


 赤黒い霧がかった夜の景色に茜色の朝日が水平線から顔を覗き、窓にかかったブラインドの隙間から痛々しい色をした日差しが瞼にかかる。

 眠い目を擦り、重い腰を上げて洗面台へ。軽く顔を洗って新しい体操着に着替える。

 軽く歯を磨き、朝食はカロリーメイトをいくつか口に放り込むだけで済ませる。

 ここまできてようやく目が冴え始め、意識も覚醒してくる。

 見慣れない部屋、聞き慣れない呻き声。ようやく自分が非現実的な世界に放り出されていたことを思い出す。

 私、江波柚亜は変異体として覚醒してから二週間が経った。あれだけ重傷だった怪我も嘘のように完治し、あの戦いが夢か何かではないのかと疑いたくなる。だが、夥しいほどに刻まれた傷跡が現実を突き付けてくる。

 今はブランクを取り戻すためにトレーニングを始めている。初めは一キロが限界。日に日に距離を増やし、五キロを二十分代で走り切れるまでには体力を取り戻した。

 ランニングを終えると第二実験室の上の階にある茶道部の部室へ。一番武道っぽい場所だからと古川先生が丸々一室柚亜の部屋として明け渡されたのだ。

 そして新品の稽古着に使い慣れた帯。私物はほとんど寮にあり、ゾンビ化した生徒たちの巣窟のため危険なのだが、帯だけは取り戻したいということで古川先生が単独で乗り込み涼しい顔で帰ってきた。

 私の名前が刻まれた帯を力強く結ぶ。精神が引き締まるのをヒシヒシと感じる。

 呼吸を澄ませ、気を練り、構える。集中力を極限まで高め体内に巡る血を静かに滾らせる。

 そして視界の中に鮮明に映る仮想の敵めがけて型を演武する。何度も同じ動きをより力強く、より素早く繰り返し、回数を重ねるごとに技のキレを高めていく。

 部屋に響くのは、衣擦れや鋭い風切り音。

 繰り出す度に洗練されていく技の数々、しかし頭に過ぎるのは二週間前に相手をした化け物『巡回者』の姿。人のサイズを明らかに超えた巨体に常軌を逸した肉体。

 古川先生が隙をついて倒してくれたからまだ生きていられるが、私一人だったら確実に食い殺されていた。

 この先巡回者と同様あるいはそれ以上の力を持った相手に、私がこれまで積み重ねて来た技術が果たして通用するのか……

 一連の型を終え正面に一礼し少しの間休憩をとる。

 正しい姿勢と正しい動きで行う演武は長距離走並みに体力を消費する。汗を拭き水分を補給。その後も正午まで型や組手の打ち込みに励む。

 普段なら余計なことは考えず取り組めるのだが、ここ最近はどうしても雑念が混じる。不安も悲観も喪失感も、一瞬でも気を抜けば私の身を押し潰すほどに迫ってくる。

 目標にしていた大会も、憧れていた先輩も、一緒に稽古をした友人も、自分の中で一部になっていたものが全て失われてもなお、私はなぜこんなことを続けているのだろうか。

 戦うため、生き残るため、それは理解している。でも、人を相手に想定された技が人ならざる相手に通用する道理はない。

 まるで暗闇の中で綱渡りをしているように浮き足立つ気分で、体を動かしていなければ気持ちが先にやられてしまう。

「先輩、今大丈夫ですか?」

 軽く二回ノックした後、柄長が扉を開けて顔を出す。

「うん、今行く。ちょっと待ってね」

 いつもこの時間に雪加か柄長が呼び出しに来て昼食をとって、その後は『変痕(スカー)』の使い方の練習。と言っても私の場合血を使うため一日に行う回数制限をかけなければならない。

 これは先週にわかったことだけど、私の『変痕(スカー)』……古川先生が勝手に名付けた『血晶』という力は、私に意志で自由にガラス状に凝固できるわけではない。

 血液の量と空気に触れる表面積の割合によって時間差で発動する。

 凝固する直前に形を整えれば鋭利なナイフにも貫通力のある槍にもなれるが、凝固する時間差を計算した上で液体の形を形成する必要があるため実現は困難を極める。

 何度か感覚を掴むため注射器を使って練習してみたが、五回に一回成功するかしないかだ。遠心力を使って辛うじて鎌状のものは作れたが、刃は分厚く、所々歪んでいる。それなら最初からナイフを手に持っていた方が効率が良い。

 この『血晶』が役に立つ時と言えば、止血か巡回者の喉を貫いた時のような不意打ちしか思いつかない。

 それでも未知の敵を相手にするのならまだ利用できる可能性を探るべきなのかもしれない。

「調子の方はどうですか?」

 不安が顔に出ていたのか柄長が心配そうに声をかける。しかしその視線は私には向けないようにしている気がした。

「まあぼちぼちかな。一応感覚は戻ってきたけどみんなについていけるかどうか」

「イヤイヤ、空手部主力の方が何を謙遜しているんですか」

「空手と言っても実際の殴り合いを想定しているわけじゃないからね。喧嘩とかもしたことないし」

「でも巡回者相手に臆さず戦っていたじゃないですか」

「アレは……無我夢中だったというか、不意打ちが上手くいっただけだし……」

「部内では男子相手にも引けを取らないって聞きましたよ?」

「交流試合でたまたま勝っただけだよ。女子相手に本気なんて出せないでしょ」

「先輩ってなんでそんなに謙遜しているんですか?」

「それは……」

 言葉が詰まる。

 柄長くんが積極的に聞いてくるのは珍しい。

 私たちはお互いに自傷を習慣にしていたため、何かの弾みに触れてはいけない傷に踏み込んでしまうからだ。

 実際、周囲の人から映る私の『謙虚』という姿は、完璧を求めるが故に自己肯定感が薄いことの現れであり、自傷の理由に直結している。

「部内にさ、憧れている人がいてね……」

「はい?」

「多分知っていると思うんだけど、その人は目が見えなくて」

「ああ、有名な人ですね。確か……」

 高等部3年、笠佐木唯駒(かささぎいこま)。盲目でありながら男子空手部の部長を務めていた先輩だ。視覚障害というハンデがあるため大会に出ることはできないが、一人黙々と稽古に勤しむ姿は武道のあるべき形に見えた。その姿に男女問わず尊敬の念を集める人で、私もそのうちの一人だった。

「でも、戦ったことないんですよね」

「うん、でも先輩は……私より強いと思うよ」

 確かな確信を持って言う。普通に考えたら試合なんて許されないし、勝負にもならない。けれど絶対にそう断言出来るだけの何かがあった。

「少し脱線したけど、そういうすごい人がいるとどうしても自分と比べちゃうのよ」

「なるほど、そういうものですか」

 興味無さげに歩を進める。先ほどから感じていた違和感が高まっていく。

「うん……それよりさ、柄長くん」

 なぜさっきからこちらに顔を向けないのだろうか。いいや、それよりも、

「私たちどこに向かっているの?」

 昼食の呼び出しなら第二実験室へ向かうはずなのに、彼は既に目的地へ続く階段を通り過ぎている。

 柄長は立ち止まる。彼の顔は見えないが不穏な笑みを浮かべているような気がした。

「あれ、言っていませんでしたっけ、先輩」

 思えば最初からどこか不審な点はあった。彼は一度も「昼食の時間です」なんて言っていない。会話も聞き流しているだけの態度なのに不自然に踏み込み、話題を無理やり作っているような気がした。まるで何かの時間を稼いでいるみたいに。

「ボクが先輩を連れていくのは……」

 そう言ってゆっくりと振り向く柄長は……顔の皮膚を無理やり貼り付けられたような醜い悪辣な笑みで、その瞬間—————————

 

 「先輩、伏せて!」


 後方から掛けられた声と同時に部活棟の天井に無数の衝撃波が走り、瞬く間に細切れの残骸へと姿を変えた。

 声に体が反応し間一髪回避できたが、完全に油断していた。私たちは既に管理者に攻撃されている。

 目の前にいた柄長くん……の偽物の上半身は跡形もなく消え、直立した下半身だけがその場に残っていた。

「先輩大丈夫ですか」

「無事よ。わかる範囲でいいから状況を教えて」

 伏せた状態のままお互いの安否を確認。後ろにいる彼が本物なのかまだ不確かではあるため警戒しつつ情報を引き出す。

「そこにいるボクが偽物だったように、恐らく兄貴も先生にも偽物のボクらが騙し討ちを仕掛けています。校舎付近には操られていると思われる感染者の群れ、先ほどの斬撃も合わせると最低二人は管理者が仕掛けてきています」

「先生と雪加くんは?」

「わからないです」

 事態は把握できた。要は分断して数で押し切る。空手部の私は警戒して隙をついて仕留める算段だったのだろう。

「多分もう囲まれているのよね。早く逃げないと」

「待ってください。管理者にボクらの存在が確認された以上、学校内じゃどこに逃げても一緒です」

「じゃあどうするの」

「まずは二人と合流して、管理者を倒します」

「本気?」

「無茶は承知ですが、先生がいればなんとかしてくれます」

「その信頼はどこからきているのよ」

 しかし、逃げ場がないのは本当だ。私たちの位置を特定されている以上逃げ回っても再び鋭い斬撃の餌食になるだけ。なら一か八か勝負に出た方がいい。でもその前に

「あなた、柄長くんでいいのよね」

「はい、証明できるものは何もないですが。警戒したままで構いません。ボクの目の前にいる先輩も本物であることを願いたいです」

 私たちの間に信頼関係というものはない。付き合いも浅いし、深く関わろうとしていない。いつまたゾンビ状態に戻るかもわからない相手に気を許すのは難しい。

 でも必要最低限、共同体の和を乱さない、その一点においては信用できる。今ここで

熱く情に訴えないだけ本物の可能性は低くない。だが偽物がどこまで本物に似せられるのかは未知数。一定の距離を取る必要はある。

 「ウ……アァァアアアアアアア!」

 下の階から感染体の呻き声が聞こえてくる。こちらに向かってきているのだろう。狭い所で囲まれたら退路を失う。

 それに意識がないとはいえ、彼ら彼女らは同じ学校に通っていた生徒。出来るなら直接殴り掛かるのは避けたい……———————————————

 微かに揺らいだ空気の波、刹那、本能的に脳から下った危険信号に従って飛び上がり、即座にその場から離れる。

 一秒前までいたはずの場所には一本の薄い切り込み線、遅れて衝撃波が音と共に通過する。

 そして目の前の景色は一変、部活棟を一刀両断に切り裂いた。

「走って!」

「はい!」

 私は全速力で階段に向かって走り駆け下りた。密集する感染体の頭を踏み台に人の群れの頭上を越えていく。

 無音で繰り出される不可視の斬撃。たまたま二発回避できたが次はもうない。あまりに不利な状況、でも相手の位置は特定した。

 斬撃が放たれた方角、本校舎西棟の屋上に人影を発見。私の視力ではギリギリ目視できる距離だ。

 なら、二手に分かれて校舎に侵入するべき。見通しのいいところは避けたいが、感染体が迫ってきている以上狭い通路だと一瞬でも捕まればアウト。

 柄長くんもそれをわかってか、すぐに合流の選択肢を捨て、部活棟から脱出し本校舎に向かって走る。

「これを使って」

 ポケットから注射器を二本取り出し、柄長に投げ渡す。

 中には私の血液が入っており、割って撒き散らせば即座に盾になる。

 量からして大きさにも厚さにも限界があるが、私の『血晶』のモース硬度は十段階中八以上あることが確認できた。

 衝撃への耐性は高くないが、これが斬撃であるならば防げる可能性はある。

 巡回者戦の時と同様不意打ち用に持ち歩いていたが、こういった形で使うことになるとは思わなかった。

 柄長は一瞬困惑するもすぐに意図を理解し、アイコンタクトを送る。そして二手に分かれ、本校舎の入り口まで全速力で駆け抜ける。

 背後の感染体たちも、ゾンビ状態とは思えないくらい俊敏な動きで追いかけてきたが、そんなの見向きもせずただひたすら走った。

 一秒先、一歩先の自分は細切れになっているかもしれない。その恐怖心が私たちの足を駆り立てる。

 幸い本校舎に駆け込むまで斬撃を放たれた様子はないが、緊張の紐を解くわけにはいかない。

 二週間前まで意識もなく過ごしていた場所。相変わらず血や肉と油、糞尿が飛び散り染み付いた、凄惨で惨たらしい景色。

 だが以前と違い、徘徊しているはずの感染体の数が少ない。柄長くんの予想通り管理者が操っているとみていいだろう。

 今も追いかけてくる感染体の群れも、あの数を相手にしては身がもたない。管理者が操っているとはいえ向こうは私を視認している様子から、距離を離せば撒けるはず。

 今最優先でなんとかすべきは感染体を操る管理者ではなく斬撃を繰り出す管理者。これをなんとかできれば自由が効くようになる。

 本校舎は基本的に五階までだが、西棟は音楽室や美術室といった芸術科目の教室が設けられているため一階多い。また、屋上に行くには専用の階段を使わなければならないため、そこに警備が集中しているはず。

 柄長くんと手前の階で合流し、どちらかが警備をおびき寄せるべきかもしれない。

 色々思考を巡らせたがするべき事は単純。

 現在地は南棟一階。校舎はL字型のため、ちょうど校舎の端から端へと移動することになる。

 ……一気に行こう。

 私は息を整え、東棟六階を目指して駆け出した。

 まずは長い廊下を一気に渡って追っ手から距離を稼ぐ。前方から感染体十数名、挟み撃ちで仕留めに来る。

 ポケットから予備の注射器を2本取り出し即座に割る。より長くより鋭く、足りない分は自傷した分の血液で補い、槍を形成。

 走り出した勢いのまま、躊躇いを殺して一突き。力任せに槍を捻じ込んで無理やり貫通させる。強引にねじ込んだ槍を足場にして無理やり突破する。

 悲鳴が聞こえる。感染体でも痛覚があるんだ……いや考えるな。

 同校の生徒だったとはいえ一瞬でも躊躇すれば数に押し倒される。

 着地と同時に再び加速。

 廊下の突き当りを左に曲がり、階段を一段飛ばしで駆け上る。途中で襲いかかってくる感染体たちも無視して一気に五階まで走りきる。

 人息つく暇はない。急いで防火扉を下ろして、追っ手が来ないよう通路を塞ぐ。

「はぁ……はぁ……」

 物陰に隠れて階全体の様子を窺う。

 管理者らしき人物はいない。

 感染体の数はザッと三十人は徘徊している。各教室にどれだけいるかは視認できないけど、自然に出入りしているところから無闇に逃げ場には使えない。

 どうすべきか頭を捻ろうとしても追っ手が扉を叩き物音を立てる。それに反応した感染体たちは真っ直ぐこちらに向かってくる。

 私は一旦物置部屋に駆け込み身を隠す。

 ここから屋上に行くのなら最奥の階段まで真っ直ぐに行くのが最短だけど、それはもうほぼ不可能。階の中心にいるためまた挟み撃ちにあう。

 感染体が音に反応して集まっているなら、人数が集中している隙をついて突破するしかない。

 物置部屋の扉をそっと開けて、僅かな隙間から覗く。

 予想通り感染体はゾロゾロと集まっている。

 どうやら管理者が直接指示を出して操っているわけではないらしい。それならなんとかなるかもしれない。

 扉に手を掛けてタイミングを窺う。向かってくる足を音、向けられた意識の方向、人が最も集中するその瞬間————————

「ウガアァアアアアアアアアアア!」

 後方から何者かに噛み付かれた。

「ウッ……ぐ……いッたぁ……」

 突然の痛みと衝撃に錯乱し声を上げてしまった。

 振り解こうと身をよじり、背中を壁に打ち付け、我を忘れて暴れまわる。ようやく引き剥がせたと思ったら……

「フスゥ……フスゥ……」

 骨が浮き出るほどに小さく痩せ細った身体、爪や髪の毛は何年も放置していたように長く伸び、男か女さえもわからないほどに汚れている。

 野生の獣を彷彿させるように四足歩行の姿勢で私に向かって威嚇している。

 一瞬感染体と間違えそうになったが、私を警戒しているため意識があることがわかる。

 長い髪から覗く瞳にはその姿に相反して人の持つ知性の色を宿していた。

 恐らく私たちと同じ変異体。だけど……感染体の人たちですらここまで悲惨な姿はしていない。

「大丈夫だよ、私はにんげ————」

 改めて意思疎通を図ろうとした途端、腹部に突進。受け止めきれずその場で崩れ落ちる。

そして加減なく噛み付かれた肩に肉を抉られたような痛みが走る。

「———————?」

 出血箇所がパキンと音を立てその子の歯に癒着する。不思議そうな顔をして必死にもがくがこうなってしまっては簡単には引きはがせない。

「ウガァ!ウグアァ!」

 こんな小さな子に一体何があったのか、想像に難くない。

「大丈夫……もう大丈夫だから……」

 私はその子を抱きしめ、何度も言い聞かせた。

 ドンドンッ、と扉を力強く叩く音がする。あれだけの悲鳴を上げたのなら仕方ない。

 カッターナイフの破片を握り、血晶を使って隙間を塞ぐ。積んである荷物も崩して強引にバリケードを作成。

 逃げ場がない以上、柄長くんや先生が助けに来てくれることを祈り、籠城して時間を稼ぐしかない。

「ウガァ!ウガアア!」

 錯乱状態のまま暴れ出すこの子を囮にすれば……

 そんな風に割り切った考え方ができたらどれだけ楽だろう。

 完璧であることを誓った自分がこんなにも簡単に残酷な発想に至るのが嫌で嫌で仕方がない。

 ドンドンッ!ガンガンッ!

 見えなくても夥しい数の感染体が集まっているのがわかる。

 今更怖じ気つくな。覚悟を決めろ。

 「大丈夫……私が絶対に守るから」

 精一杯の強がりで笑ってみせる。

「う……あ?」

 一瞬だけど顎に入る力が緩んだ。

「そのままジッとしてて。危ないからね」

 癒着した部分を皮膚ごと切り落として引き剥がす。

 今にも折れてしまいそうなほど細く、心配になるくらい軽い。

 ゆっくりと降ろし、目を合わせて笑いかける。

「君、名前はなんて言うの?」

「あ……」

「あなたの、な・ま・え。わかる?」

 ゆっくりと口の形を変えて伝わる。言動が動物のソレでも同じ変異体同士なら理解できると信じたい。

「な、まえ……?」

「そう、私に教えて」

 言葉一つ一つを思い出すように、掠れた声で反復する。

「く……来海(くるみ)……来海は、来海って言うの……」

 目に大粒の涙を浮かべて来海は自分の名前を口にした。

 張り詰めた緊張からの解放、意思疎通できる人間と会えたことへの安堵、心を殺さぬよう鍵をかけていた記憶の錠が決壊し、言葉にしようもない感情が涙となって溢れ出す。

 泣きじゃくる子供のように嗚咽し、縋り付くように私の手を握りしめる。

 私は黙って来海をまた抱き締めた。

 怖くて怖くて仕方ないと震える背中をさすってあげる。

「大丈夫、私が絶対に守る」

 さっきと同じセリフ、けどこれは来海への言葉ではない。私が理想とする私であるための、江波柚亜への誓いの言葉だ。

「おい、いるならさっさと出てこいよ」

 ハッと後ろを振り返る。

 騒いでいた感染体たちの呻き声は止み、聞き覚えのない男の声がした。

「なあ、いるんだろ。この失敗作どもが!」

 思いっきり足で蹴飛ばしたのと同時に扉が吹き飛ぶ。

 ワラワラと群がる感染体たちの先頭に立つ不機嫌そうな男。不愉快極まりないと言った態度で私たちを睨みつける。

「……」

 来海の握り締める手により力が入る。言葉がなくとも助けを求めていることはわかる。私は来海を隠すように一歩前に踏み出す。だが、

「あれ?そいつもしかして……」

 来海の存在を認識した途端、私のことは見向きもせずジッと見つめる管理者。

「おい邪魔だ!そこをどけ」

「来海に何をするつもり」

「さあな、俺らは知らん。けど、そいつは連れて行かないといけないらしいからな」

「動かないで」

「俺に命令してんじゃねえ!」

ガシャンッ!

 扉に続いてバリケードも容易く蹴り飛ばした。

 思わずビクッと体が跳ね上がる。

 何度覚悟を決めても肝はそう簡単に座ってくれない。相手がどんな能力を持っているかはわからないが、気を抜いたら一瞬で殺されることは確かなのだから。加えてあの感染体の人数……諦めるな。考えろ。戦って勝つことは無理でも逃げることならまだできるはずだ。

「おい、黙ってんじゃねえぞ!てめえ何様のつもりなんだよ!」

「……ごめんなさい。でも」

「うるせえな、余計な時間使うつもりねえから!」

 そう叫ぶと近くにいた感染体の首を掴み、そして弾け飛んだ。

「え?」

「あーそうだ。仲間呼ばれるのもめんどくさいし、もうこのまま全滅させていいよね」

 続いて背後に立ち並んでいた感染体たちも瞬く間に弾け飛ぶ。砕けた肉体が集まり一つの大きな肉塊となる。そして……

「せっかくなら派手にやろうか。人間ガンダムとか人間巨神兵とか。あ、これリアルエヴァンゲリオンとか作れんじゃね」

 無邪気な笑みを浮かべ、先ほどまで人間の形をしていた物は粘土のようにグネグネと形を変える。そうやってできた赤黒い人形は階を突き破るほど巨大に、手も足も歪な形に膨れあがった。

「よーし、一体完成。なんかイメージと違うけどいっか。じゃあお前、こいつらの仲間探せ。そんで殺して」

 簡単な命令を下すと人の形をした肉の塊は独りで歩き出した。

「きひひ。いいねえ、次はどうしようかな」

 管理者は再び数十名の感染体をグチャグチャに一纏めにした後、ニタリと笑って次に人形作成に取り掛かる。

「正気じゃない……」

 今の一瞬で何人もの同校の生徒が死に、その亡骸まで冒涜された。意識がないまま操られ、気まぐれに殺され、死んでもなお道具以下の扱いで使役される。

 させない。これ以上誰にも手を出させない!

 「うおおおおおおおお!」

 ノーモーションで右足を突き上げ距離を詰める。

 彼の能力は触れた相手の形を変えたり命令で操れるもの。代償や条件などの詳細は不明だが、絶対に使わせてはいけないことは確かだ。

 「みんなから離れろおおおお!」

 意識が能力に向いている隙をついて全力で仕掛ける。

 左足で踏み込み右足による死角からの裏回し蹴りで脳へ直接打撃を打ち込み、着地した足を再び蹴り上げ顎を穿つ。カッターの破片を食い込ませ出血、そこで鳩尾に駄目押しの掌底。そして……

 【深紅血晶・昇り華】

 掌底が腹部に直撃する瞬間に血晶を発動させ貫く。しかし、

 「うそ……」

 一瞬、苦痛の表情を浮かべるも管理者は自分の頬に手を当てると、瞬時に穴が空いたはずの腹部は修復された。

 管理者はその場で地団駄を踏みながら

 「痛ってえな……今俺が工作していたのを知っていたよな。お前なんて瞬殺できるけどさ、それじゃあ面白くないからわざわざこうして、お友達の手で殺してあげようと思ったのにさあ!」

 首元に迫る右手、咄嗟に回し受けで受け流し、距離を取る。

 「は……?なに拒絶してくれてんの?俺に触られるのは嫌ってか?調子こくのも大概にしとけよ死体風情がよお!」

 はち切れんばかりに血管が浮き出ている。 

 管理者の逆鱗はもう止められない。

 作りかけの肉塊を鷲掴むとそれは巨大な禍々しい大剣に形を変えた。

 「はぁ、もうほんとめんどくせえなあ!」

 片手で乱暴に振り回された大剣は、歪な形に見合わず抜群の切れ味で、あらゆる物を木っ端微塵に切り刻む。

 私は咄嗟に来海を庇う。頭上に振りかざされた大剣、携帯していた最後の注射器を砕いて受け止める。

「クソ、まだ威力足りねえか。おいそこにいる感染体ども、こっちにこい。もう一本でけえの作るぞ」

 号令を送られた感染体たちは綺麗な隊列を組んで前進する。しかしその中に一人奇妙な動きをする者が。

「ウガアアアアア」

 ザンバラ髪の男が一人、突然規制を上げたと思えば、全身を掻き毟り、額を地面に打ち付け、自分の腕を壊すかのように壁に叩きつける。

 これには管理者も困惑した様子で、

「お前なにやってんだよ……おい、早くこっちに来い」

「……アハッ……アハハハハハハ!」

 再び強い指令を下しても効いた様子はない。それどころか虚ろだった目は狂気の色に染まり、タカが外れたような高々と笑い声をあげる。

 腕は折れ、頭蓋骨にヒビが入り、皮膚は痛々しい姿に破かれる。それでもなお、その男は意気揚々していた。

「なんだよ……気持ち悪いんだよおおお!」

 気味の悪さに戦慄した管理者は、その男の排除を優先し大剣を振りかぶる。男はフラリと躱すも、左腕の一部をスパッと切り落とされる。しかし彼に怯む様子はなく、むしろ恍惚とした表情で飛びかかる。

 自身の血がベットリと付着した手で管理者の首を掴む。

「なめるなよ、この程度の握力で俺を殺せるはず……」

 腹部を貫いても瞬時に修復できるはずの管理者。いくらダメージを与えても殺すことは不可能と思えた。

 しかし私がそこで目にした光景は————————


■ ■ ■


 その日の早朝、古川は校舎を一人で徘徊していた。

 まずは各教室の簡単な清掃。どうせすぐに血や体液でグチャグチャになるが、授業をする場所だけでも、こうなる前と似た空間にするため、つまりただの現実逃避だ。

 倉庫から食堂や自動販売機への補充。これはまだ生前の習慣が残っている生徒のためのもの。

 さらに、学校内の設備の簡単な点検。専門的な知識はないが、まだ生きている機能だけでも長く活用させるために問題がないか確認している。

 そして最後に『変異体』の捜索。

 それを終えると古川は職員室へ行き簡単な朝食を済ませてロッカーにかけてある予備の白衣に袖を通す。

 その時、古川は背後に奇妙な気配を感じた。警戒しながら振り返ると

「先生、ぼくっスよ」

「なんだ、雪加か。黙ったまま近づくなよ」

「ちょっと驚かそうと思って」

「あっそ。で、何の用だ?」

「実は例の『変異体』がさっき現れて、それでついてきてほし……」

 校庭を指差す雪加の首元を古川は思いっきりつかみ掛かった。

「え……せんせ……?」

「こんなの簡単な変装で先生を騙せられるとでも思った?目的はなんだ。誰の指示だ。今すぐに吐け」

 優しげに微笑むがその声色には明らかに怒気が混じっていた。

 すると雪加の姿をした『何か』はニヘラと笑い、

「騙されたまま死んでおけばいいものを。めんどくせえけど、予定変更だ。嬲り殺してやるよ」

 そう吐き捨てるとドロッと溶けて崩れ落ちた。そして、

「……!」

 背後から襲いかかる生徒の格好をした『何か』たち。

 古川は近くにあるデスクを蹴り上げ間一髪避ける。しかし目の話した隙に再び死角から襲いかかってくる。

 一人一人の力は全く脅威ではないが如何せん人数が多すぎる。その上物が多い職員室で完全に囲まれた。

 脱出は不可能に等しい。

「お前ら、もうチャイムは鳴っているんだ。教室に戻りな」

 胸ポケットからタバコの箱を取り出し、一服しながら警告する。

 当然、誰一人言う事など聞かず一斉に襲いかかる。

 人数差に手も足も出すことができず古川はあっという間に床に押さえつけられる。しかし、古川は少しも焦ることなく、加えていたタバコをプッと吐き出し、煙を吹く。

「そんなガチガチに捕まえなくても、逃げたりしねーよ」

 めんどくさそうに呟くと古川は『変痕(スカー)』で蓄えていた熱を一気に解放する。全身の衣服が突然発火し、たちまち生徒たちも古川の元から離れる。古川はその隙を見逃すことなく畳み掛けた。

 怯んだ相手から首元めがけて超高温に熱された手で鷲巣かむ。悲鳴をあげる猶予さえ与えない。首を焼かれた生徒は順に溶けて形を失っていく。

 そんなことに一々驚いている暇はない。どうせ管理者どもの差し金なのだから理屈で考えたところで無駄だ。

 黙々と人の形をしていた肉塊を屠る姿はどこか機械的だった。

 一通り片付くと再び一服しながら辺りを見回す。

「結局何が目的か聞きそびれたな。まあいいか」

 そう言って火を消すと先ほどの先頭で焦げた服を脱ぎ、ロッカーから新しい服に袖を通す。その後授業へ向かおうと職員室を後にすると、

 

スパーンッ!


 部活棟の上層階が切り落とされた。普段感情の変化に乏しい彼でもこの自体は予想できていなかったのか、焦って窓から身を乗り出す。

 その後さらに見えない斬撃によって真っ二つに切り落とされる。

「嘘だろ……」

 古川はその時、思い出した。

 管理者が今まで自分たちを生かしていたのは、あくまで彼らの気まぐれのようなもの。偶然、認識から外れていたにすぎなかったからなのだと。

 奴らは体の作りも頭の中も化け物のそれなのだから、本気になってしまえばこの校舎さえ一日たらずで更地にできるのだろう。

 古川は走り出す。怯えている場合じゃないと。彼らの安否を確認に行かなければ。こんな狂った世界になってもまだ生きている生徒がいるならば、これ以上何も奪われてなるものかと。

 しかし、その行く手を塞ぐ感染体の群れ。

「クソが!」

 古川は怒りをむき出す。

 一体誰なんだ、こんな悪趣味なことをするのは。目の前にいるのは誰も彼も見知った顔の先輩や同僚たち。

 まるで自身が肉の壁であることを自覚しているかのような、ただ行方を阻むだけの無防備な構え。

 これまでずっと誤魔化してきた。今の状態が当たり前のように、何も怖くない、むしろ身軽になったと言わんばかりに飄々とした姿で振舞って自分を欺いていた。

 生徒のためと強がりを吹きながら物資を準備して回る。それは決して現状と向き合っていたわけではない。ただ、一人でも多く生きているのだと、その可能性にすがりついて現実逃避していたのにすぎない。

 これは目を背けてきた罰なのだろうか。

 息が上がる。代謝がおかしくなっているのかと思うほど汗が流れる。足元がおぼつかなくなり、視界がぼやけ始める。

 ——————あ、しまった

 気が付いた時には遅かった。

 古川の『変痕(スカー)』は外部から与えられた熱を体内に蓄えるもの。夥しいほどの火傷を伴うだけでなく、蓄積された熱が内側から全身を蝕む。彼は異常な精神力で自身の感覚を“鈍らせて ”いたが、本来哺乳類が耐え切れる体温を優に超えている。

 一瞬の気の緩みで、今まで誤魔化していた苦しみが一気に押し寄せる。

「一か八かだな」

 覚悟を決める古川。感染体の群れがタイミングを合わせて一斉に襲いかかる。

 彼のとった判断は先ほどと同じ、全身から蓄積した熱の解放。今の状態で自分が耐えられるか定かではないがやるしかない。

 階段の方から慌ただしい足音が近づいてくる。

 増援を危惧する古川。ただでさえ絶望的な状況なのにこれ以上増えるなら助かる見込みは0になる。しかしその心配はないとすぐに判断した。なぜなら、

「センセえええええええ!」

 その足音はよく知った教え子のものだったからだ。今度こそ本物の雪加が外れた教室の扉を盾がわりに持って感染体めがけて突撃する。

「大丈夫っすか、先生」

「ナイスタイミング。よくわかったね」

「さっき先生の偽物に殺されかけたんでもしかしてと思って。そしたらなんか感染体がいきなりわちゃわちゃ来るんでもうわけわかんないっす」

 小さい体の全体重を盾に預けて感染体たちを抑え込む。息が上がってテンションも少しハイになっているところから中々の激戦をくぐり抜けてきたのだろう。そんな状態で非常に申し訳ないのだが、

「ごめん、先生ちょっとしくちゃってまだ動けそうにないからそのまま頑張って」

「はぁアアアアア?」

「死ぬ気で三分、行けそう?」

「無理無理無理無理、体力的にというより物量的に塞げきれないっすよ」

 今まさに盾の両端。力の加わりにくいところから二人抜け出し古川に迫る。感覚を“鈍らせる ”のにはもう少し時間がいるのだが、これ以上雪加の負担を増やすわけにもいかない。

 しょうがないな、とため息を漏らしながら顔を上げる。

 意識を両手の人差し指に集中させる。呼吸を整えふらふらの足を靴の滑り止めに体重をかけて無理やり抑える。

「グオオオオオオオオ」

「先生、今もしかして……」

「大丈夫だよ」

 ——————せめて生徒の前では最後までカッコつけたいからね。

 そして古川は、両手を伸ばし相手の頭部に触れた。次の瞬間二体の感染体は力なくその場で崩れた。

 雪加と古川は感知できないだろうが、あたり一帯焦げ臭い匂いでいっぱいになった。

「ふぅ……久々に楽になったな」

 どこかすっきりとした表情で伸びをする。

「え、今何やったんですか」

 あまりの出来事に目を疑う雪加。その質問にノンキな口調で

「ああ、体内の熱を指先だけに集中させて全部出し切った」

 蓄える熱がなくなれば何も苦しむ要因はない。だがそれは同時に今まで頼りにしてきた武器を投げ捨てるに等しい行為。本来管理者を相手に想定していた技だ。

 「さてと」

 古川は雪加の押さえつけていた感染体たちを躊躇なくドロップキックで蹴飛ばした。蓄えていた武器がなくなった分身軽になったのか消火器を両手に一人一人頭を潰しにかかる。 

 ——————すまない。生徒のためだ。この罪はいつか必ず受ける

 無駄なことは一切考えずただひたすらに消化器を力一杯振り続ける。祈るように、懺悔するように。ガンガンと骨が砕ける鈍い音が鳴る。

 感染体にとって死の境界線がどこにあるのか明確にはわからない。そもそもこれが『生きている』と言えるのか、それすらも断定できない。食事を絶っても手足を失っても彼らはもがき苦しんでいる。

 一度、三階から落ちたまま立てなくなった感染体がいた。最初は死んだかと思ったがよくよく見ると小さく震えていた。それは痛みに苦しんでいるからなのか、それとも身体が上手く機能しなくなっただけなのか。どちらにしよその姿は弱々しく、死ぬまで時間の問題だと思った。

 しかし、古川が感染体に近づくと足を掴んだのだ。夏の終わりのセミが地面に落ちてもなお生命力に溢れて足掻くように力強く。

 後日その感染体がいた場所へ行くと、そこには何者かに食い散らかされた跡が残されていた。

 彼らの死の在り方などわからないが、彼らはもう人としての死を迎えることなどできないのだ。ならば、今ここで守るために情けを捨てることがせめての弔いになるのではないのか。

「先生!先生!」

 無我夢中で殴り続ける古川を必死に雪加が静止する。

「先生!もう大丈夫っす。みんな動かなくなったす」

 古川は我に辺りを見回す。そこには頭部だけが異様に変形した感染体たち。不意に雪加の方を見ると、怯えているような心配しているような、そんな表情をしていた。

「あ、すまん。やりすぎた」

 今まで自分の体を蝕んでいたものが一気になくなったこともあるのだろう。ふわふわと軽かった頭の奥が冷静になっていく。

「そうだ、江波と柄長のところに行かないと」

 ふらつく体を壁に預けて引きずるように歩き出す。そんな彼の姿を悲惨な姿に耐えかねたか雪加の握る白衣の袖に一層力が入る。

「ダメっす先生。ずっと無理してたんすよね。二人のところにはぼくが行くので先生は休んでください!」

「いや、このくらい全然……」

 平気だといつものように軽く流そうとしたが、咄嗟に言葉を飲み込んだ。

 柿原兄弟は人の感情の起伏に敏感で常に顔色を伺っている。しかしそこからの気を遣う行動がとにかく苦手だ。何をすれば相手の気が紛れるのかわからず、わからないまま自傷を続けてきた。それが今まで一時的な解決になってきたからなのだろう。

 自傷を行う相手がいない今、雪加は何をすればいいのか、どうすればこの心配を伝えることができるのか全くわからず、今にも壊れてしまいそうな精神状態だったのだ。

「わかった。休むよ。その代わりお前も気をつけろよ」

 とことん自分が情けなくなる。いい歳をした大人がこんな子供に気を遣わせてしまうなんて。だが、今の雪加に強がるのは余計に事態を悪化させてしまう。仕方ないがここは信じて任せるしかない。

 どこか安心したように頷いた雪加は駆け足で階段を駆け下りていく。その後ろ姿を見届けると、古川の意識はプツンと途切れた。


 ■ ■ ■


 歳を重ねるごとに少しずつ窮屈になっていく気がした。

 昔は仕方ないで済まされたことがどんどん出来て当たり前にされていく。

 ボクらはそこまで器用な人間じゃない。当たり前のように好きなことをやって仲のいい友達と仲のいいまま過ごしたい。それだけしかできない。

 人の顔色に怯えるようになったのはいつからだろう。明確な記憶はないが、両親の喧嘩に絶えない日常が原因であることは確かだ。幼い頃、必死に考えた。怒っている人間が、悲しんでいる人間がどうすれば喜んでくれるのか。色々試した気がする。小さな脳みそを振り絞って、いつもなら笑顔で迎えてくれるはずのことを繰り返した。

 だけど、そんなことしている場合じゃ無いと突き飛ばされた。わけがわからなくなった。話が違う、そう叫びたくなった。いつもあんたたちが喜んでくれるから、ぼくらの前ではずっと笑顔を振りまいていたから。

 ボクらの中で一つの確信が生まれた。

 父や母が僕らにしてくれたものは全て嘘だった。

 優しさも施しも全て嘘だ。

 ボクらはそれからずっと怯えて生きている。

 嘘は怖い。自分にとって都合の良い嘘は信じてしまいたくなるから。

 嘘は怖い。他者が自分に向けてくるもの全て偽物に思えてしまうから。

 嘘は怖い。何が本物かわからなくなるから。

 普通ならきっと大人になっていく途中でうまく人と関わる方法を身につけていくのだろう。程よく信じたいものを信じて、見たく無いものには蓋をして、大切なものにも適当に諦めをつけて、そう言ったことが当たり前にできるようになるのだろう。でもボクらはそんな器用じゃないから。誰も正しい生き方を教えてくれないから。

 だから、全部見ないようにした。

 心配、呆れ、無関心、そう言った感情の熱から離れたものに染めてしまえば、何も矛盾は生まれないから。

 幼い少年の思考は両極端だ。嘘か本当か、その二択でしか考えられないから、わざわざ自分で勝手に出した結論にずっと苦しめられている。

 でもそれが一番気楽でいられる。ボクらの前で誰かが怒ったり悲しんだりしないでくれれば、トラウマから目を背けて怯えずにすむのならそれでいい。

 ——————本当にそうか?

不意にそんな疑問を投げかけてみる。

 ——————そんなことのために何度兄を殴った

 ——————何度目を逸らし続けてきた

 世界が壊れたことでようやく他人の目に怯えずに済むと思ったのに、最近そんなことばかり頭に浮かんでは胸のあたりを締め付けようとしてくる。

 何が正しいか誰も教えてくれないのに、間違っていることだけは容赦無く突きつけられる。

「こんな時に今更何を……バカみたい」

 ボクは自嘲気味にため息を零した。

 先輩にそっくりの偽物、大量の感染体、規格外の斬撃、それに続いて次は巨大ゾンビ。いい加減にしろよと眉間にしわを寄せる。

 血抜きのしていない生肉をミキサーにかけて、ゼラチンで無理やり固めたような、そんな色味と質感をした巨大な人形。頭のてっぺんからつま先まで悪趣味すぎる。察するに感染体を操れる管理者の仕業だろう。

 痛々しく膨れ上がった関節のない足を引きずり、小さく漏れるうめき声は助けを求めるようだ。

 感染体は重々しい動きで巨大な頭を振り下ろす。ドガンっと鈍い音を立てて床にヒビが入る。

「またこの手のやつを相手にするのかよ」

 正直勝てる気がしない。洗練された技をもった先輩やタカが外れたように変痕(スカー)を使いこなす先生と違い、ボクには攻撃する手段がない。さらに後ろは行き止まり。狭い通路で行く手を阻まれた今、隙を見つけて感染体の体をすり抜けるほかない。

「ウウウウウウァアアアア」

 ゆっくりと起き上がりお腹のあたりを膨張させ何かを吹き出す。

「まさか……」

 予感は的中した。人間の体内にある胃液の濃度を何十倍にも濃くしたゲル状のものが降り注ぐ。

 足元にドシャッと落ちたそれは、熱せられたフライパンの上に脂を敷いた時のような激しい音を立てて床の一部を溶かす。

 これには流石にドン引きするし絶対に喰らいたくない。

 そうこうしているうちに感染体はゆっくりと距離を縮めてくる。

 しょうがない。腹を決めて感染体の足に見よう見まねのローキックをかます。

全く効いている様子はない。ドロドロとした見た目に反して固い感触が脛にジーンと伝わる。

 ——————これはもう仕方ないよね。

 だって無理だもん。対抗しようがない。攻撃を続けたとしても痛いのはこちらだし、下手に逃げようとすれば弄んで痛ぶられる。操っている管理者からそんな命令を受けた気配がプンプンする。

 何か手はないかと後ずさりしてももう、壁で遮られている。

「腹をくくるしかないか……」

 息を整え、相手の動きをよく見た。せめて最後の抵抗として……

 感染体は何かを察したのか、わざわざ腕をおおきく振りかぶって砲丸投げのフォームで振り下ろす。狙いは後頭部、完璧に仕留めにきた。

 ボクは覚悟を決めそして

「オラァアアアアアアアアア!」

 全身全霊の力を込めて左肩で受け止める。

 左右に避けようとしたところでどうせ感染体はそれに反応してくる。だから最小限の動きで致命傷は避けてあとは気合で堪える。恐らく左肩は愚か左半分の骨は殆どイかれた。

なんとか左足は踏ん張れるがそれ以外は全く動いてくれない。思ったより痛みが感じにくいのが逆に怖い。

 ここから先はもう賭けだ。

 ボクは胸ポケットから秘密兵器を取り出す。これで死んでしまったら本当に仕方がない。せめて安らかな最期であることを祈るよ。

 「グウウウウ……アアアア!」

 掴まれた腕からボクを引き剥がそうと乱暴に振り回す。どうやら予感したらしい。自分が殺される未来を。

 「うるせーよブァアアアカ!」

 ボクは胸ポケットから取り出した秘密兵器、先輩の血液の入った注射器を感染体の腕に刺した。

 変痕(スカー)『血晶』。外気に触れることで瞬時に凝固し、ガラスのような材質へと変わる。人の体内に入っても外気に触れていなければ発動しない。だが、

「感染体には体内の組織を破壊する猛毒になる!」

 注射器の血が全て入った途端、掴んでいた腕の動きが急激に鈍くなる。

「ウオ?」

 思うように体が動かないことに違和感を覚え一瞬の困惑、そして、

「グガアアアアア!」

 腕を抑えてあらゆる生き物の断末魔を混ぜ合わせたような呻き声で鳴いた。苦しんでいると一目でわかるのにどこか笑っているように見えるのは、泣きたくても涙が流せないように改造されているからなのだろう。

 感染体は耐えきれず、ボクのことを投げ飛ばすともう片方の腕を振り回し、気が狂ったように暴れ散らかした。

 本当に一か八かの賭けだった。

 先輩の療養期間中、先生の気まぐれで試した実験だった。心痛まない実験材料は校舎いくらでも転がっているからと、大きさや腐食具合を揃えて順番に血液を注入した。するとどれも肉眼でもわかるほどの変化を見せた。

 両手で抱えるサイズだったものは消しゴムと同程度まで縮み、皮膚の表面はグズグズに、小さいものであればあるほどすぐに炭化した。

 感染体には毒となる。しかし、管理者が改造した相手に効果があるのかまではわからなかった。実際、巡回者に攻撃した時そういった作用は見受けられなかった。

「まあ、結果オーライだよね」

 感染体は今も苦しみもがいている。あの巨体だと全身に回るのは時間がかかりそうだ。注射器はもう一本もらっているが、体半分が機能していない上に大暴れしている相手に針を刺すのは無謀な挑戦だ。ここは逃げるのが最優せ……ん……

「あれ?」

 前に進もうとしたはずが床にぶつかってしまった。起き上がろうにも体が言うことを聞かない。左半身は言わずもがな右足も嫌な方向に曲がって動かない。辛うじて右腕だけ、指は機能しないが這って進める。

「早く、合流しないと……」

 なんとなくだけど兄貴が近くにいる気がする。変痕(スカー)の特質のせいか、兄貴との距離が縮まると少し痒くなる。特に首元が。ボクと兄貴の変痕(スカー)は互いに体が反発し合うから発動しなくてもそういう反応が出てしまうのかもしれない。

 痒い……小学生の頃汗疹が出やすくて夏場は辛かった。その時と似たような感覚だ。だから、ほんの少しだけ安心する。

「エナああああ!」

 兄貴の声だ。視界がぼやけて見えにくいけど、ものすごい焦っているのがわかる。確かにこの状態だもんな。でも、ボクらは変異体。数日休めばすぐに治る。だからそんなに心配しないで……

「早く逃げろ!」

 え?逃げる?何から?

 近づく足音、不穏な気配、ゆっくりと大きくなる不気味な影。まさかと思い振り返ると、そこには不機嫌そうなのか悲しそうなのか、ぐちゃぐちゃに入り混じった表情を浮かべる感染体がいた。

「なんで……」

 さっきまであんなのに苦しんでいたのに……あ。

 ——————左腕がない

 全身に行き届く前に千切ったのか。

 目の前に広がる絶望の怨嗟。無慈悲に肥大化される鈍赤色の右腕。

「ごめんね」という、聞こえないはずの懺悔が聞こえた。

 兄貴が何かを叫んでいる。なんて言っているのかは聞き取れないけど、多分今のボクには実現できないことを。

 さっきまで潔く覚悟していたのに、至近距離で見るとこんなにも怖くて、呆気ないものか。

 ——————またどこかで間違えたんだ

 きっと何か致命的に、取り返しのつかないことをしたに違いない。

 いつもそうだ。

 何が正しいのか誰も教えてくれないくせに、いつも間違いだけ容赦なく突きつけられる。

だからいつも間違った答えのまま進んでしまうんだ。 

 他人の顔色ばかり伺ってきた。ずっと人の顔を見るのが怖かった。でも、兄貴の顔を見れないのは、今日が初めてだ。

 ——————いや違うな。

 うん。そうだ。喧嘩している時はいつも目を逸らしていた。これは自分の顔だ、って言い聞かせて。

 ああ、そうか。きっとそこから間違えていたんだ。

 ボクらはきっと、ちゃんとした兄弟喧嘩から始めないといけなかったんだ。

 「こんな時に今更何を……バカみたい」

 せめてボクらの授かった力が、逆だったらよかったのに。

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