第1章 完璧少女は壊れた世界に佇む
私、江波柚亜はいつだって飢えていた。『理想』に、『期待』に、『羨望』に、『敬意』に、『承認』に、『畏怖』に……そして『障害』に。
寝ても起きても常に私が目指す『完璧』に執着してきた。
これは自分で言うのもなんだけど、少し異常に思える。
だからと言って私が育った環境に何か問題があったかと言われれば、迷わず「NO」と答えられる。
いや、むしろ私は誰よりも恵まれた環境で育ったと堂々と言える。
私は強い信念と優しさを持つ大学教授の父と理知的で愛情深い図書館司書の母の間に生まれた。生活に困ることない程度に裕福で、家柄といったものにも制限されることもない。
毎日美味しい食事に暖かいお風呂、休日は家族で遊びに行く。父も母も仲が良く、私がやることなすこと全て応援してくれる。
そんなどこにでもありそうで、けれどこれ以上ないほどに恵まれた環境。
何も不満はない。あるはずがない。私は両親二人を尊敬していた。
毎日が幸せで、私に際限なく注いでくれる愛情が嬉しくて、だからこそ……
——————堪らなく自分が惨めに思える
才能というものに定義を当てはめるとしたらきっと環境のことを指すのだろう。
能力の有無に関わらず、努力できない環境にいては開花することはない。
なら、これだけ恵まれた私が、ただのうのうと生きているなどあってはならない。例え誰かがそれを否定したとしても、私が私自身を許せない。
『幸福を貪るだけの無能』にはなりたくない。
だから努力を突き詰めた。
尊敬する両親に届く存在になれるように、二人から貰った愛情に報いられるように。
でも、どれだけ優れた成績を取っても満たされない。私が志す私であるためにはまるで足りない。
だから次に強くなることを選んだ。
どんな逆境の中でも立ち上がれるように、理不尽に襲われても一人で立ち向かえるくらいに強く、自立した人間になろう。
私が中学三年の時に選んだ進学先、都立八裕学園高等学校。全寮制の中高一貫校。新学校でありながらも運動系の部活が強いことで有名な学校だ。
私はそこの空手部に所属している。
元々、体づくりをしていたのもあるけど、堅実に積み重ねる武道の精神は性根にあっていたようで、私はすぐに様々な技を会得していった。
一年生の冬にはインターハイに出場できるまでには強くなった。
けれど、技術と経験値の差はそう簡単には埋まらない。
インターハイではあっけなく一回戦で敗北してしまった。
積み重なった期待が一瞬で蹴散らされた喪失感。もう二度とごめんだ。
私は以前より一層稽古にのめり込んだ。
休んでいる暇なんてない。気を抜いている隙なんて見せられない。
優れた場所で育った人間が少し優秀なくらい当たり前のことなんだ。
私が理想とする『完璧』にたどり着くためには、まだまだ足りない。
足を止めるな、頭を回せ、誰にも苦悩を悟られるな、笑顔を絶やすな、もっと、もっとこれが限界なはずないだろ。
突き詰めて、追い込んで、張り詰めて、積み重ねて——————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————
その結果たどり着いたのは、果てしなく馬鹿馬鹿しい、『自傷行為』
まさか自分がこんなことに手を出す日が来るとは思わなかった。
けど、痛みを感じている時、張り詰めていた緊張と疲労が甘く溶けていくような感覚に堕ちる。
息苦しい学校生活で一瞬だけだけど、ちゃんと呼吸ができる。
血が流れている間、尊敬する両親との繋がりを実感できる。
自分で自分を傷つけているだけなのに、なぜか自分に肯定的になれる。
生きていいのだと、なんの根拠もなく確信できる。
私の人生なんて、とっくに終わっていたのに……
■ ■ ■
気がつくと私は学校の裏庭にいた。
さっきまで見ていた景色とは全てが一変して、長い間夢でも見ていたのかと疑いたくなるが、腕に刻まれた真新しい傷口がそうではないと語る。
一度冷静になり、あたりを再び見回す。
夕焼けさえも焼き尽くしそうなほど赤い朱殷色の空。素人目で見ても人為的に半壊させられたわかるヒビ割れた校舎、そして……あたり一帯に散乱している何かの肉片や骨。
嫌な予感が止まらない。
近づいてそれの正体を確認してみると……
「うっ……うおえええええ……」
胃の中からこみ上げたものが口いっぱいに広がり、思わず吐き出してしまった。
腐乱臭を嗅ぎ取れなかったのはきっと嗅覚が壊れているからだろう。だが、近づいた瞬間、体が拒絶反応を起こした。
もう一度この目で確認してみるが、その事実は変わらない。
——————これ、人間の死体だ
あちこち喰い散らかされた、見るも無残な状態の死体。恐らくこの学校の生徒のものだ。
しかもそれは一つや二つじゃない。
今目の前にしている光景が私の知っているものとまるで違う……いや、私はさっきまで、この光景が『日常』なんだと認識していた。
だが、それがいつからなのか、全く思い出せない。
どうしてこんな『異常』の中で私は……
いや、1人で頭を抱えている場合ではない。
私は急いで校舎に駆け込む。しかしそこで目にしたのは、やはり目を疑いたくなるような悍しい光景。
——————これは人間と呼んでいいものなのか
生気の宿っていない虚ろな目、痩せ細った体に緑に変色しかかった肌、知性の全てを捨て去ったような奇声奇行。
教師生徒関係なく、誰もが人間とは程遠い獣のようになっていた。
「わけ……わか、ん……ない」
長い間まともに声を発していなかったのか、喉の奥が詰まる。
しかし、今はそんなことどうでもいい。
本当に何が起きているのか、わけがわからない。
ついこの間まで普通に過ごしていたクラスメイトたちが、文字通り壊れてしまっているのだ。
もしかしたらさっきまで私も……
これを悪夢と言わずなんと言葉にすればいい
いったい私はどうすれば……
ほら、結局私はこんな時、何もできない。
ただ目の前の現状に絶望し打ちひしがれ、立ち尽くすことしかできないじゃない。
「ハハっ……ハハハ」
思わず乾いた笑いが溢れた。
——————キンコーンカーンコーン
その時、呆れるほど聞き飽きたチャイムが鳴り響いた。
すると、あれほど暴れていた生徒や先生たちは大人しく自分たちの教室に向かっていった。
このチャイムにこれほど安心する日が来るとは思わなかった。
「あ、私も……行かなきゃ……」
覚束ない足取りで私も彼らに続いて歩き出す。
教室の中は所々壁が汚れているが、今まで目にしたものに比べれば、不自然なくらいに綺麗だった。
■ ■ ■
休み時間中はひどく騒然としていたのに始業のチャイムが鳴ると先ほどよりは大分落ち着いた。
……まあ、さっきから机に額を打ちつけたり壁に激突を繰り返している人もいるため、うるさいことには変わりない。
私はフィクションの作品に疎いから詳しくはわからないが、これは所謂『ゾンビ』というやつなのだろうか。
生前の習慣が影響されるという話は聞いたことがあるけど……
それでも教室には数名席を空けている生徒はいる。
「ふぁ……じゃあ授業始めるから席につけ〜」
ガラガラっと扉を開けて現れたのは、白衣を着た眠たげな男。古川玲志、タバコの匂いを纏わせた生物学の教師。自身の身だしなみに無頓着なのか伸ばしっぱなしの髪が目立つ。
「じゃあ、きりーつ」
あまりにも自然に、まるでこの惨状が当たり前のように堂々としていたため一瞬気がつかなかったが、私が今目にしているのは、私以外にまともな人間がいるという現実。
驚愕のあまり声を上げてしまいそうになるのをなんとか堪え、辺りを見渡す。
「気をつけー、礼。じゃあ今日は58ページからな〜」
周りの生徒たちは反応が遅れながらも掛け声に従っている。私もそれに続いて礼をして、席に着く。
古川先生はこれがいつも通りだと言わんばかりに、淡々と授業の内容を板書していく。
—————————……
一度情報を整理しよう。
まず一つ、みんなの状態を『ゾンビ』と仮定して、『ゾンビ』状態になっていない人が私以外で確認できるのが古川先生のみ。その条件は不明だが後天的に意識を取り戻すことが可能なのは私が立証済み。
二つ、学校全体がこの状態になったのはいつからなのか。私が思い出せる最後の記憶……、恐らく七月二十日。夏休み前日だったから覚えている。確か部活が終わった後忘れ物を取りに行って、外はもう日が暮れていた気がする。それからどれくらいの時間が経ったのか、気候からして5〜6月頃、ということは軽く見積もっても約一年は経過している。
三つ、多分だけど、私たちは閉じ込められている。教室の窓から覗くと、学校の正門に十メートルはありそうな鉄の柵が埋め込まれている。つまり私たちは誰かの手によって『ゾンビ』にさせられた?ここからすぐに古川先生を疑うのは安直かもしれない。でも、まず古川先生は信用していいのか。
最初から『ゾンビ』になっていないのか、それとも私と同じように意識を取り戻したのか。
どちらにしても。この状況の中で平然と授業をしているのはなぜ。
ダメだ、情報があまりにも足りない。暫くの間は現状の把握に徹するべきか……
——————キーンコーンカーンコーン
そうこう考えているうちに終礼のチャイムが鳴り響いた。
「あーじゃあ、今日はここまでな〜。礼は、まあいいか。じゃあお疲れ〜」
古川先生は教科書を閉じ、黒板を消す。そのまま職員室にでも行くのかと思いきや、扉の前で一度足を止めると、
「あー、そういえば今日『巡回者』が回る日だから気をつけろよ〜。先生はいつも通り第二実験室にいるから何かあったらきていいからな〜」
クラスに全体に向けて、けど明らかに私に向けて古川先生はそう言い放った。
気の緩み切った声なのに、冷水をかけられたように血の気が引いていく。
そんな私を見向きもせず古川先生は第二実験室のある部活棟へと向かった。
——————まさかもう目をつけられた?
私は古川先生の後ろ姿を見送ると暫くの間、動けずにいた。
■ ■ ■
終礼のチャイムがなると再び生徒たちは各々好きなように放課後を過ごし始めた。
やはり生前の習慣が反映されているようで、体育館ではバレー部が校庭ではサッカー部が練習に勤しんでいた。
裏庭の一件もあるから古川先生ばかりを警戒しているわけにはいかない。
私は人目を避け目的地を目指す。
まず第一に把握しておきたいのは外の状況。
この学校に出口は三つある。
一つは、登下校の時に使われる正門。
二つは、主に来賓客や荷物の搬入搬出に使われる裏門。
この両方は確認したところどちらも柵で覆われていて脱出は不可能。
最後に残るのは校舎の地下にある非常口。緊急事態に避難するためにと長い地下通路を渡って校舎から離れた場所から出られる構造になっている。
緊急時、すぐに避難するため常に解放されてはいるが、それ以外での使用は校則で禁じられているため、滅多に近づく人はいない。
私も足を運んだのは今回が初めてだが、ジメジメした重苦しい空気が漂っている。
階段を降りて広い空間に出る。壁の隅には非常食や水、寝袋にカセットコンロなどその他非常時の時に備えてある備蓄が詰まった大量の段ボールが山済みにされていた。
よく見ると非常食と水の箱は何箱か開けられた形跡が見られる。
連絡用通路までたどり着くと、
カツーン、カツーン。
通路の奥から足音が聞こえてきた。
思わず手を振り上げ声をかけたくなるのを抑え、目を凝らして相手を観察する。
薄暗くてはっきりとは見えないが、それでも “私の判断は正しかった ”と実感するには十分だった。
異常なまでに発達した前腕、ヤギのように雄々しい角に巨大な爬虫類を彷彿させる刺々しい尻尾。遠くからでもわかるほどに荒い息遣い。
そのシルエット、放たれる異質な存在感。どこからどう見ても人間ではない。
カツーン、カツーン
私はすぐに物陰に身を隠した。
一定のリズムを刻んで近づいてくる足音、姿形は異様なのに足音だけがまともなのが余計に不気味に感じる。
カツーン、カツーン
気がつくとソレはもうすぐそこまできていた。
なんとかやり過ごしたいのにソレは足を止め、何かを探し始めた。
鼓動が加速する。
息を止め、煩いほどに震える心臓を右手で握りしめ、極限まで音を殺す。
しかし—————————
「ウオオオオオオオオオオオオオオ」
臓腑の底から引きずり出したような濁った叫び声。
けたたましいその雄叫びは、まるで獲物を狩る肉食獣が本能さえも制圧するような咆哮だった。
「ソコニイルンダロ、ナア『変異体』(イレギュラー)ノメスガキ」
柚亜は自分の耳を疑った。この化け物は今確かに人の言葉を喋った。つまり知性があるということ……
いやそんなことよりも、自分の位置が特定されていることの方が重大だ。発する音は呼吸さえも殺しているのになぜ……違う、匂いだ。
自分の嗅覚が麻痺しているから見落としていたけど、私も少し前までゾンビだったのだ。バレないはずがない。
なら、ここに隠れているだけ無駄。見つかったら何をされるかわからない。
私はすぐさま駆け出した。
足が重い。呼吸が乱れる。体がいうことを聞いてくれない。全身の力が湯水のように垂れ流され、甘い倦怠感が気力を奪う。
このままじゃ、捕まる。アレに捕まったらどうなる。
脳裏によぎるのは裏庭で目撃した光景。何者かに食い散らかされた死体。
—————————嫌だ、捕まったら私は……
「待テエエエエエエ!」
私の姿を目視で確かめたソレは猛スピードで向かってくる。
全力で階段を駆け上がるも、追いつかれるのは時間の問題。
散乱した机や椅子、壊れかけた扉に消火器など、とにかく使えるものは全て使い、投げ飛ばし、くぐり抜け、距離を稼ぐ。
しかしそんなもので振りきれるはずがない。
「イタっ」
後ろばかり気にした所為で足を挫く。すぐに立ち上がろうと顔を上げる。その時見たもの全てがスローに映った。
猛禽類のように鋭く開かれた眼光、肉食獣すら裸足で逃げ出すほど鋭利な牙、獰猛と暴虐を掛け合わせた十本の爪。
シルエットしか視認できなかったけど、冒涜的なまでに歪んだ継ぎ接ぎのソレは、まさしく化け物の姿をしていた。
緩やかに足の筋肉をしならせ、地面を叩きつける。
剥き出しの牙がゆっくりと私の腕に覆い被さる。次の瞬間、皮膚を突き破り、骨を砕き、食いちぎられる、わかっているのに私の身体は惨めに震え上がるだけで、足掻くことさえ許してくれない。
ザシュッ
皮膚と肉と骨を同時に圧砕される音。
感触、熱、微かに広がる鈍痛、そして……——————————————————
「いッッッ……アァァア!」
痛い痛い……痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
言葉さえ失う激痛が脳を駆け巡る。意図せず涙が止め処めもなく溢れる。
なぜ避けなかった。どうして避けられなかった。痛みの中に僅かに過ぎる後悔。
「離せ離せ、離せって言っているでしょ!」
どこまでも無様に、残された片方の腕でもがく。
微塵も効果などないとわかっていながら、子供のように腕を振り回し、硬い鱗で覆われた体に乱暴に自分の腕を叩きつける。
化け物は下卑た笑みを浮かべ、背筋に氷のように冷たい絶望が伝う。
私の左腕を噛みしめる大口は、腕を食いちぎらんばかりに鰐のように身をよじる。
体が宙を浮き、次の瞬間床に、壁に、天井に叩きつけられる。
痛い、そんな感覚さえも認識できない。ただひらすらに熱くて、そして寒い。
視界によぎるのは『死』、それと共に数時間前に私の身体に宿った異常、いや今の私には唯一の希望が。
私の右手を貫いた、アレ。
できるのか……いやそうする以外に助かる手段なんてない。
遠くなる意識を、舌を噛みなんとか取り戻す。
残っている神経を全て、大口の中にある左手に集中させる。やり方がこれであっているのか、そんなことわからない。考えている余裕なんてない。
ただ、生きることへの執着のみが、私の体に下す命令の全てを加速させた。
「くたばれええええええええええ!」
喉が焼け切れるくらいひたすら叫んだ。
そしてその瞬間、
ジャキン!
無数の鋭く歪な形に尖った紅色の刃が化け物の大口を内側から貫いた。
化け物は何が起こったのかわからない顔で、そしてすぐさま悲痛な叫びを漏らす。
顎の力が緩み、左腕は自由を取り戻す。見るも無残に血の色に染まり、所々結晶の破片が散りばめられていた。
手は……グッパ、グッパと握ったところ一応まだ私の命令は聞いてくれるようだ。
「ヨグモ、ヨグモヤッテクレタナアアアアア!」
化け物は我を忘れ怒り狂う。
貫いた結晶をそのままに、激情に刈られた力任せの大振り。
——————大丈夫、これは避けられる……
ふらつく足を横にスライドさせて躱す。しかし、次はもう避けられない。再び大きく振りかぶった五本の爪が襲いかかる。
——————あ、ダメだ。これは流石に死んじゃう
静かに、そして確信を持って悟る。
もういいや、と。あれほどすがりついた生への執着を手放し、目を閉じる。
次の瞬間、獰猛な爪は私の体を斜めに貫き、内臓を八つ裂く……はずだった。
瞳を閉じていたのは三秒。人生の中で最も長い三秒。
自分の意識がまだあることに違和感を覚え、目を開けるとそこにいたのは……
「先輩、大丈夫です?まだ生きてます?」
一人の少年があどけない笑顔を浮かべ立っていた。
怪物は突き飛ばされ窓枠に減り込んでいた。
私は目の前にいる少年に小さく頷く。
「良かった。もう大丈夫ですよ。ボクたちは味方です」
優しく笑いかけ、そして私の体を抱え上げた。
人肌の温もりに触れたのは一体何年ぶりなのだろう。張り詰めていた感情が決壊した音がした。
見るからに年下の彼にみっともなく縋り付き、私は声を殺して泣いた。
少年は一度戸惑うが冷静に指示を出す。
「一旦ここから離れて兄と合流します。窓を突き破るので目と口を閉じていてください」
そう言って、化け物と反対方向に走り出す。
ここが二階であるにも関わらず、少年は窓ガラスを突き破り綺麗に着地。そして私を丁寧に下ろした。
「見つけたよ、兄貴。『巡回者』もすぐそこにいる」
「了解だ、エナ。とりあえず先生が来るまで時間稼ぐぞ」
私を抱えて彼と話すもう1人の少年。小柄だがしっかりと作られた身体、あどけなさを残した顔つきに中性的なショートカット。
初対面ではあるけど、どこか見覚えのある二人だった。
「フザケルナアアアアア!」
ひび割れた校舎を突き破り、二階から飛び降りる。完全に理性を失っている様子だ。
「コロスコロスコロスコロスコロス」
まるで呪いのように殺意を向けてくる化け物。
グネグネと、自身の形を変形させていく。両手両足は四足歩行動物の構造を模して、角も尻尾も爪もより高密度に、より俊敏性を求め圧縮される。その様はもはや生物という定義に当てはめられるかどうかも怪しい。
化け物は十本の爪を地面に食い込ませ超前傾姿勢—————————突進。
空気抵抗を無視し、一歩目で超加速、二歩目で最高速度の疾駆。
瞬きする暇さえ与えず二人目掛けて一閃。
しかし直撃の瞬間、空間が弾けたように二人の体が宙を舞う。一方はひらりと体をひねり、化け物の首に跨る。もう一方は着地と同時に地面を蹴り上げ反撃。
「しっかり抑えておいてよ、兄貴」
「わかってる、思いっきりぶち込め!」
両足で首を締め上げ、両手で頭部をガッチリとホールド。そこに目掛けて力任せの拳を食らわせる。
「グアアアアアア」
痛みに耐えかねた化け物はデタラメに暴れまわる。しかし二人は予測不可能な攻撃を華麗に避ける。どこか見覚えのある、柔らかくて曲線的な身のこなし方だ。
そうだ、思い出した。この二人は校内でも有名な双子の兄弟だ。
兄の柿原雪加(かきはらせつか)と弟の柄長(えなが)。高校一年生。ダンス部に所属していて、二人とも一年生ながらにも部内でエースと呼ばれ人望も厚い。
私では手も足も出なかった相手に完璧な連携で翻弄する二人。しかし私の知っている柿原兄弟はとにかく仲が悪いことで有名だったはずだ。
避けて避けて避けて、隙をついて反撃。だがどれも決定打には至らず、むしろこちらの体力が奪われ少しずつ動きが鈍ってきている。
「サッキカラ、イライラスルナアアアアア!」
化け物は苛立ち蹲る。再び自身の肉体を禍々しく変形させていく。だが今回はどこか様子がおかしい。
二人もそれを察知してかすぐに距離をとった。
「ねえ、アレは一体なんなの」
聞きたいことは山ほどあるけど、まずはこの状況を打開することが先決だ。
「アレがなんなのかボクたちもよくわかっていませんけど……アレはここで意識が目覚めた人間を食い散らかす存在、先生は『巡回者』って呼んでいます」
「アレは意識のない人間には手を出さないところから、ここの管理者を気取っているみたいっす」
巡回者……そういえば古川先生が帰り際に言っていた単語だ。
「管理者ってことは、みんながゾンビになったことと関係しているのね」
「確証はないっすけど、あいつら以外に元凶は考えられないっすよ」
「あいつら……組織形態での犯行なのね。これからどうするつもり?」
「本当はもう少しの間隠密に徹する予定だったんですけど、こうなった以上倒して情報を吐かせます」
「待て、エナ!」
ナイフを取り出し、飛びかかろうとする柄長を兄の雪加が静止する。
巡回者と呼ばれる化け物の様子が明らかにおかしかった。肥大化していた肉体は溶け出し収縮。そこから姿を覗かせたのは人の顔だった。
「はあ、全くめんどくさいことしてくれたねえ。覚悟はでき出るんだろうな?」
悪意と憤怒と殺意に満ちた笑顔。私も柿原兄弟も言葉を失った。
まさか思いもしなかった。いくつもの動物の特徴を継ぎ接ぎにしたような化け物の正体が人間だったなんて。しかも私たちとそう年の変わらない少年だ。
「大人しくしていればすぐに殺してあげたのにさあ。所詮失敗作のモルモットどもがさあ!調子こいてんじゃねえぞ?」
剥き出した銃器のような眼光。傲慢という言葉では足りないくらいに見下した振る舞い。
相変わらず状況に理解が追いつかないが、彼は堂々と私たちを『いらない存在』だと言い放ったことはわかった。
誰かの手によって、学校中の人がゾンビにされたり、人の尊厳もない形で殺されたり、挙げ句の果てに失敗作?人をなんだと思っている……
頭の中は冷静だ。冷静に胸の内からこみ上げてくる怒りを感じ取っている。
理不尽だ。荒唐だ。何もかも滅茶苦茶だ。
私がこれまで何をした。完璧を目指し、努力を重ね、仮初めのとはいえ誰にでも優しさを振りまいた。その仕打ちがこれか?
そこにもう先程までの恐怖はない。冴え渡った思考には溢れんばかりの不条理への怒り。
「オイ雌。何だよその目。震え上がって泣き喚いていた癖に。今度こそ四肢をもいで舌を噛み切りたくなるまで玩具にしてやるよ」
腕は動く。足も多少なら。怪我で動きが鈍いが問題ない。
血が巡る感覚。熱く疾くもっと隅々まで駆け巡れ。
痛みもある。体力はとうに限界だ。火事場の馬鹿力や超回復なんてものはあてにならない。だから、これは力の前借りに過ぎない。
血を巡らせ、アドレナリンで疲労を誤魔化し、悲鳴を上げる肉体を無理やり黙らせる。
「これは後がめんどくさいからやりたくなかったけど、今スッゲー頭にきてるからさあ。お前ら……ただで死ねると思うなよ」
巡回者はそう言い残すと、内側から液状化した肉が溢れ出した。膨れ上がり形を変え醜く姿を変える。そこにはもう人間だった面影は一切ない。
いくつもの肉食動物に昆虫のような外皮を重ね、複数の頭を生やした、禍々しい合成獣(キメラ)。
全長は優に五メートルは超えている。
「ギャギゥウ、グオオオオオオオ!」
校庭に轟く巡回者の雄叫び。震え上がる空気の塊を叩きつけられたような気分だ。
少し前の私なら絶望していた。けど、今はそんなもの微塵もない。あるのはこの化け物に報復したいという怒り。きっとこれが蛮勇というのだろう。
私は構えを取る。化け物相手に通じるか定かではない。それでも私が信頼できる技術は空手(コレ)しかないのだから。
巡回者は鎌状の複腕を振り下ろす。
受け流せる勢いではない。迷わず直進して懐に飛び込む。
自分より大きい相手にはセオリー通り支えている足から崩す。
駆け出した勢いのまま右足で踏み込み第一関節を左足で回し蹴り、回転の速度に上乗せして右足で裏回し蹴りを連続で打ち込む。
集中的に打撃を食らわせたことにより巡回者はバランスを崩す。両足共に鈍痛が残るが気にしている余裕はない。
巡回者は私めがけて四本の腕を叩きつける。一見避ける隙など無いように思えたが、冴え渡る脳は思考を加速させ、最低限の動きで頭上を覆う複腕を回避する。
地面が割れる音と共に砂埃が舞う。遮る視界の中に移る三つ首の影。怯えることはない。三度顎を蹴り上げれば良いだけの話だ。
バキンっと硬い外皮に切れ目が入る。肉体に直撃しなくとも衝撃は十分届いたはずだ。
一度距離をとって様子を窺う。
やはりダメージは全く通っていない。それに対して私の足は今にも膝をつきそうな程に反動を受けている。
——————仕方ない、もう一度アレをやろう。
ポケットからカッターナイフを取り出す。巡回者相手に使うわけではない。こんな小さく細い刃では相手にならない。だけど……
覚悟を決め左手にカッターナイフを突き立てる。自傷の時のよりもずっと深く。
「クッッッッ……」
痛い、ものすごく痛い。だけどそんなの今更だ。大量に溢れ出す血液は忽ち凝固し、刺々しい真紅の結晶を腕に纏った。
能力、スキル、異能、呼び方なんてなんでも良い。私はただ、一番正しいと思う形でこの力を行使する。
巡回者の尻尾は蛇のようにウネリ四方八方から襲いかかる。左手にさらに刃を押しつけ、血が凝固する前に大振り。
宙に放り出された血は結晶化し、蛇の顔に槍の雨の如く降り注ぐ。
再び隙が生まれた。
右足で地面を弾き首元に回避不可能の刻み突き。纏った結晶も分厚い外皮も同時に割れる。
ここで終わらせるわけがない。
引き手の反動、突き手の押し出し、軸足の踏み込み、腰の捻り、拳の回転力、系五箇所同時加速を可能にする、基礎にして最強の突き技・右逆突き。
空手の道を極めんとする猛者しか集まらないインターハイで、唯一私が優位を得た技・私が突き詰めた必殺の技。
拳面が柔らかい皮膚に触れる瞬間、全神経を持って握りを強化する。
隠し持っていた小さなナイフの刃が手のひらに食い込み出血を起こす。
「イッケエエエエエ!」
巡回者の首に衝撃が走るのと同時に、真紅の結晶が、肉を抉り、骨を粉砕し貫く。
「————————————ッッッッ!」
喉を突き破られたせいで声が出ないはずなのに。それでも何か悲痛な叫びをあげようと泣き喚く。
「まだだ……」
まだ、まだ終わっていない。向こうはまだ余力を残している。ここから畳み掛けないといけないのに……
会心の一撃を決めた後、私の体はふわりと浮かぶように力が抜け、なんの抵抗も許さず地に伏した。
前借りの代償か視界どころか触れる物さえ感覚が覚束無い。
それでも、と砂を掻きわけて這うように前進するが……
我に戻った巡回者はにんまりと悪辣な笑みを浮かべる。私の腕を乱暴に掴んで掲げる。
「何よ……随分と血生臭い姿ね。透かした格好しているよりよっぽど似合ってるよ」
「ケヒャ—————————」
責めての強がりを無様だと笑う。握り締められた腕がキシッと悲鳴を上げる。
もう抵抗する体力さえ残っていない。
巡回者は爪を研ぎ澄ませ大きく振りかぶる。
けれど恐怖は感じない。生の執着を手放したわけではない。その逆。確信を持って助かると思えたからだ。
「何がそんなに面白いんだ。先生にも教えてくれよ」
「ハヒャ——————?」
刹那、聞こえないはずの断末魔が耳に響いた。
巡回者は私のことなど見向きもせずのたうちまわり、私は自由落下。
「あーあー、可哀想に、叫びたいのに喉が潰れちゃったのね」
巡回者の影から顔を出したのは古川先生だった。悠々と歩み寄り落下する私を受け止める。
「じゃあ、トドメ刺しに行くからちょっと待っててな」
そう言ってゆっくりと私を下ろすと巡回者の貫かれた喉を鷲掴みにする。
そこから三秒、巡回者は体の内側から炎を吹き出し、忽ち全身に燃え広がる。
「やっぱ獣相手には火だよね」
やがて合成獣のような肉体はボロっと崩れ落ち、少年は息絶えた。
「おー、お疲れさん。誰も食われてないな〜」
気の抜けた声で確認するが返事は求めていない。タバコを咥えて一服し始めた。
「ふむ……ひどい有様だな、江波。まあ目覚めてすぐならよくやった方か」
「……もう少し他に言うことないんですか」
「いや、特に」
目の前に未成年かつ重傷者がいるにも関わらず、呑気に煙を吐く。
「先生、遅いっすよ。マジで危なかったんすからね」
「ごめんごめん。君らでも倒せちゃうかなーって思って。ていうか後半から君らも動けていなかったよね、どうした?怖じ気ついた?」
「話逸らさないで下さい。次見殺しにしようとしたら缶詰禁止ですからね」
「見殺したら全部独り占めにできるんじゃない?」
柿原兄弟が腹立てて抗議しても古川先生は掴みどころなく飄々としている。
「ま、そんなことより彼女の手当だよね。ふむ……どう?」
古川先生はそっと私の足に触れ、痛めた箇所を確認する。
「イッ……」
「あーここか。これじゃあ歩くのもキツそうだね。雪加か柄長、どっちか運んであげて」
「はいはい、わかりましたよ」
「それから……」
古川先生は私の出血した箇所をマジマジと見つめ、何やら納得したように頷いた。
「あの……先生……」
「まあ、目覚めたばかりで何が何やらって感じだろうから、ゆっくり説明するよ。あ、コーヒー入れるけど飲む?」
「……はい」
こちらのことはお構い無しに話を進める古川先生。つい先ほどまで不気味で仕方なかったのに、今はそのマイペースさにどこか安心感を覚えた。
■ ■ ■
その後、兄の雪加に抱えられ、私たちは部活棟の第二実験室へ移動した。
古川先生はやることがあるからと先に行くように促し、その場に残った。
到着してすぐ私は簡易的に作られたベッドに横にされ、絶対安静を言い渡せられた。
「はーい、ただいま〜」
数十分後、扉を開きノソノソと戸棚を漁る。
慣れた手つきでビーカーとアルコールランプでお湯を沸かせる。次にどこか楽しげな表情で準備室に行くと、この場に似つかわしくない、ドリップ式のコーヒーメーカーを取り出した。
「じゃあ何から話そうかな、なんか質問ある?」
ビーカーで沸かしたお湯をドリップ式のコーヒーメーカーに注ぎながら古川先生は私に尋ねた。
「えーと」
質問、と言われても何が何だかわからないことだらけで、どこから聞くべきなのか……
「先生、それは少し意地が悪いっすよ」
「何がわかんないって言うより、わかんないことしかないんですよ」
「あーそっか、すまんすまん」
なんの悪びれもなさそうに頭を下げる先生。ただ意識はコーヒーメーカーの方にしか向いていない。
「はい、熱いから気をつけて。ミルクとかは流石に残っていないけどシュガースティックなら端から二段目の棚にあるよ。いる?」
「あ、ストレートで大丈夫です。ありがとうございます……」
「どうした?」
「いや、コーヒーメーカーなんて残っていたんですね」
「最初に聞くのがそれですか」
「ああ、これいいでしょ〜。目を覚ました時、ちょうど持ち込んでいた私物が揃っていたからさ」
「ほとんどこの教室が私物みたいなもんじゃないっすか」
柄長兄弟は呆れたように肩を落とすが、古川先生は無邪気な子供みたく自慢げに笑う。
「じゃあ先生が今の状況をすごーく簡単に説明するよ。江波さゲームとかやったことある?バイオハザードとかワールドウォーとか」
「いえ、ないですけど。どんなものかくらいは……」
「まあ、想像つくと思うけど、あれってゾンビ駆逐していくでしょ。それでゲームとかだと少しずつ強い敵出てくるじゃない。その中ボスみたいなやつが、ここにいる四人」
「えっと……」
「つまり、ボクたちが人類の敵、みたいな感じだと考察しているんです」
「本能だけで動くゾンビなら閉じ込めておけばいいけど知性を持たせたら何をしでかすかわからない、だからぼくたちは狙われているっす」
意識を取り戻したからと言って身体に抗体があるというわけではない。あくまで知性のあるゾンビということか。
だから『感染体』と『変異体』という呼び方。
「でも知性あるゾンビって、人間とどう違うの?陽に当たっても焼けたりしなかったけど」
「ふふふ、それはな……」
すると古川先生は食い気味に質問に答えた。
「1、生殖機能が働かなくなる。2、いかなる病原菌にも侵されない。3、体に一つだけ特殊な機能がつく。これは変異体にしか確認されていない。先生たちはこれを『変痕(スカー)』と呼んでいる。お前の場合、血液がガラス状に凝固しているソレが該当する」
「えっと、スカー?」
聞きなれない単語だったため一度聞き返す。
「そうそう。こういうのってゲームとかだと『スキル』とか『異能』とか呼ばれるけど、先生たちのはそんな使い勝手のいいものじゃないから。むしろ体の機能としてはマイナスの面の方が強いくらい」
確かに……これが危険なものだっていうのは文字通り痛いほど知っている。
「それで、変異体の特徴なんだけど」
そう言うと、古川先生はタバコの先を自身の手に押し付けた。
ジュッと痛々しい音を立てて古川先生は顔色一つ変えず鎮火させた。そして……
「みーんな、こんな感じで自傷行為を習慣としているんだよね〜」
その一言に、心臓にナイフを突き付けられたような錯覚に落ちる。
古川先生は私の様子の変化に気がついたようだが、一切気にすることなく続ける。
胸ポケットからタバコを取り出し、指先で端を摘む。すると少し擦っただけでタバコに火がついた。
「そもそも『変痕(スカー)』は自傷しないと使えない。先生の場合、自傷した時に触れた熱を体の中に蓄えられる。ただ使い時なんて今みたいにタバコに火の着火と後始末くらいかな」
一通り説明し終えると火をつけたタバコを咥え、満足気に吹かした。
「一応ぼくたちのも説明しておくっすね。さっきも見たと思うっすけど、ぼくとエナ、二人の間に磁力みたいなのが発生してお互いに反発し合う。それだけっす」
「自傷云々の話はあまり触れたくないと思いますしお互いに伏せておきましょう」
「そうね。私もそこまでデリカシーがないわけではないから」
当たり前だ。自傷する理由なんて聞いていて気持ちのいいものじゃない。それに私としてはこの状況の中でも、そんなことしているなんて知られたくなかった。
第二実験室に重い空気が流れる。
手持ち無沙汰になって、軋む身体を起こしてコーヒーカップに手を伸ばす。昔は勉強する時は常に自分で淹れるくらいには好きだったのだけど……
匂いはしない。味も感じ取れない。
もう二度と何かを味わうということはできないのか……
「さて、じゃあ今後の方針について話しておこうか」
パンっと手を叩き、話題を切り替える。
「今、先生も含め君たちが置かれている状況。外から隔離され、あの怪物たちに追われ、監視もされているはずだ。捕まれば何をされるか分からない」
「先生。あの、怪物たちっていうのは、巡回者みたいなものですか?」
「ああそうだ。巡回者の他にも何かしらの化け物じみた力を持っているやつらはいる。だが、目的も人数も能力も把握しきれていない。とりあえず奴らのことは『管理者』(ハンドラー)とでも呼んでおこうか」
「うそ……まだあんなのが?」
「奴らが本気を出せば君らを、いや校舎にいる人間全員を殲滅することなんて容易いはずだ。まあ言わなくてもそれは実感しているか」
「じゃあなんでしないんですか」
「分からない!」
私の質問にスッパリと斬りふせる。
「ただ、向こうは何か理由があって『感染体』には極力手を出さない。しかしこのままひっそりと過ごしても捕まるのは時間の問題だし、食料もやがて尽きる。じゃあどうする」
それどころか私に質問を投げ返した。
話の文脈からして答えはなんとなくわかる。けれど、巡回者の恐ろしさを目の当たりにした今、口にするだけでも憚れる。
「……こちらから攻撃を仕掛ける……?」
無言で促してくる視線に当てられ渋々答えると、
「正解、というわけで管理者全員倒すぞ」
先生ってこんなこと言う人だったっけ。少なくとも私の知っている古川玲志という先生は何事にもめんどくさげな態度で、こんな悪戯に笑うような人ではなかった。
「倒せるの……?」
雪加と柄長に視線を送るも二人とも居た堪れなさそうな表情で首を横に振る。
「ぼくは全然算段を思いつかないっす」
「右に同じく」
当たり前だ。さっきの巡回者1人相手に避けるので精一杯。下手したら全滅していた。古川先生の『変痕(スカー)』も接近しなければ戦うのは難しいはず。
しかし古川先生は楽観的に
「まあ、なんとかなるだろ。先生は明日からも同じように授業して過ごすけど、江波はここで二人とリハビリな」
「いや、この重症ですぐリハビリって」
「あーそうそう。『変痕(スカー)』を身につけた副作用かわかんないけどなぜか傷の治りが早いんだよ。お前の場合止血は何もしなくてもできてるし、骨折くらいなら三日で治るだろ」
「そう……ですか」
「まあ、ゲームとかだと治りが早い分寿命が減るっていうオチだろ」
本当に何もかもデタラメだ。いや、目覚めたらこんな状況になっていてすぐに順応できる方がおかしいか。
「そのあとはすぐに稽古な。空手部のお前が戦力になってもらわないと困る。早く本調子に戻って『変痕(スカー)』も使いこなせ」
稽古……身体を本調子に戻すのは賛成だ。次に何かあった時また助けてもらうわけにはいかない。いつ食い殺されるか分からないなら無闇に校舎にいるべきではない。ただ……
「なんで先生はあんな平然と授業をしているの」
「なんでって……俺の授業受けてくれるやつが、まだいるからさ……」
そう呟くと、古川先生はタバコを灰皿に捨て、立ち上がる。
「腹減ったし飯にするか。今日は江波が加わったってことで乾パンやカロリーメイトだけじゃなくて、なんかレトルトも開けるか。血になるもの探してくる」
地下から運び出したダンボールが積まれた準備室へと向かっていった。
なんというか、冷静なのか能天気なのか以前と同じく掴み所がない人だけど、少しだけ雰囲気が軽くなった気がする。
「あの、先輩。先生なんすけど……あの人なりに他の変異体の生徒がいないか探し回っているんす」
「先輩は変異体かもしれないって目をかけていたのも、生徒たちの行動パターンを割り出していたからで、その……」
「あんな感じっすけど、無策無謀ってことはないと思うっす」
古川先生はよほど信頼されているようだ。二人の気の使い方からそれが窺える。
こんな状況下の中で楽観的かつ冷静に振る舞える大人は確かに頼りになる。巡回者相手に躊躇うことなく焼き殺すという判断ができたのもそうだ。
思えば色々合点が行くところもある。やけに綺麗な教室も、私が食べていたカロリーメイトとかも。全てまだ生前の習慣が残っている生徒のためにやっていたのか。
「おーい、肉食おうぜ肉。ハンバーグとかあったぞ」
「化け物一匹BBQにしておいてよくそんな嬉々として言えますね?」
「もうちょいなんか躊躇いみたいなものはないんっすか!」
両手いっぱいにレトルト食品を抱えて戻ってきた。
ふざけたように見えるけど、もしかしたらこんな世界の中でも絶望しまいという抗い方なのかもしれない。
最初に古川先生を疑ったことを少し後悔するのと同時に、改めて生きることを決意した。
私が私らしく、完璧であるために。
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