第4章 もう一人の自分は案外身近なところにいて

 飛鳥山公園の件から三週間期末試験が終わり夏休みに突入してから次の締め切りに間に合わすためにブラッシュアップに取り掛かっている。

 あれから何度も前坂とはスマホでやりとりしているが前坂は自分の作品を索に読ませようとしない。索も読んでみたいという好奇心はあるが、ただでさえ乗り気でなさそうなのに協力してもらっている手前向こうが嫌がることはなるべくしたくはない。

 索は現在、夏休みだからといって特別外出する予定はないため、クーラーの効いた部屋で折りたたみ式のキーボードを叩いている、はずなのだが

 

「グオオおおおおおおおお、バカか俺はああああ」


 ガンガンと音をならせながら壁に頭をたたきつけながら布団の中で悶えていた。

 「何?なんなの?あの痛々しさ全開の握手は?なに独自の世界観に没入してんだよ。完全に痛いやつじゃん。何が『俺たちは親友になれたような気がした』だよバーロー。前坂じゃっかん引いてたじゃねーか」

 ベッドの上で横たわりながらぐるぐる回って奇声をあげる。

 会話の流れどう考えてもおかしくないか、とか。自分だけ雰囲気勘違いしていなかったか、とか。それを全部踏まえて、前坂の手すげー柔らかかったな、とか。

 突発的に恥ずかしい記憶がフラッシュバックすると索はよくこのような奇行に走り出すのだ。

 すると勢いよく階段を駆け上がってくる足音が聞こえ、バタンを勢いよく索の部屋のドアが開いた。

 「あんたうるさい!その奇声で私の貴重な睡眠時間削るんじゃないわよ!」

 入ってきたのは目に少々グロテスクなクマがある40代ほどの女性、索の母親だった。

 「しょうがないだろ、息子は思春期なんだ。こういうことはよくあるからほっといてあげなさい」

 「それ自分で言うんじゃないわよ!」

 「庇ってくれる父親がいないんだから自分くらい自分の味方でありたいじゃないか」

 「名言風に言っても使いどころ間違えすぎて何も響かないわよ!」

 「というか今何時だと思ってんだ。もう1時半だぞ。むしろ起こされて当然ではないのか!」

 「あんた言ったね。大学生になった時覚えておきなさい」

 「それは卑怯だ、横暴だ、大学生の半分ニートで構成されているんだぞ。むしろ夜に起きてなんぼの生き物じゃないか」

 「開き直ってんじゃないわよ。あと反論するならするでぐるぐる回るの止めなさい」

  そう言われ、ようやく索はうるさい動きを止めた。

 「ったく。で何かあったの?」

 「あったにはあったが多感な時期の息子からは説明しにくい」

 「だから自分で言うんじゃないよ。いじめられてたりしてるわけじゃないのね?」

 「いじめられるほど目立ってないから」

 「それはお母さん安心できるわ。で、友達はできた?秀君以外で」

 「一人だけ」

 「女子?」

 「イエス」

 「絶対にその子堕としなさい」

 「だー!なんですぐそういう話になるかな」

 「夏休みなんだしどっか誘いなさい。あっちも多感な時期だしガンガン押しまくればいけるはずよ。あんたそんなに顔悪くないんだから」

 「叱るのか褒めるのかどっちかにしろよ」

 「あ、忘れてた。騒ぐんだったら外に行けクソガキ!私は二度寝する」

 バタンッと勢いよくドアを閉めた後、階段を駆け下りる音がした。

 まるで嵐が過ぎ去ったかのようだ。

 索の母、和恵は大手銀行の営業部に勤めるバリバリのキャリアウーマンだ。最近はやりの不当な取引をする上司に倍返しする勢いの働きっぷりで、家で索と接触する機会はかなり少ない。毎日重労働のため家事は基本的に索が担い、和恵は帰ってきたらすぐに寝てしまう。

 先ほどは少々特殊な親子のやりとりだが索にとっては親との距離感の取り方がいまいちわからなくなってしまったため、わざと無理やりボケたり変なキャラを作って距離感無視のコミュニケーションを取り合っている。過剰に感情を表に出している方が割と気楽に話せるらしい。

 だが次に無理やり起こしたら本当にキレられるなと思い、索は私服に着替えるとスマホと財布、それと折りたたみ式のキーボードと数冊のライトノベルをバッグに入れて、近くのカフェへと向かった。

 今日の天気は曇っており、さほど暑さは気にならない。少々湿気による気落ち悪さはあるがそれも問題にはならない。

 ブラブラと歩いて10分、駅前にあるサンマルクカフェに入った。店内は数席空いているうち窓際の席を取ってカウンターでマンゴー系のスムージーを注文した。今は少しだけ財布に余裕があったのでついでにできたてのチョコクロワッサンを頼んだ。

 店内の冷房が効いているのと冷たいスムージーを飲んだせいか体が冷えた後にできたてのチョコクロワッサンを口に運ぶとサクサクの食感と共に熱々のチョコがトロッと口の中いっぱいに広がり非常に上手い。なんだか贅沢なことをしている気分だった。

 それからスマホを取り出し2日ぶりにメッセージを確認した。

 文化祭実行委員の方に日程調整で10件、前坂に招待してもらったクラスのグループの方では「みんなでどこか行きたーい」とか「行けたら行く」みたいな絶対に予定組まれないであろうイベントの話と文化祭準備で集まれる人は集まって欲しいというのを合わせて50件ほどメッセージが来ていた。

 基本俺は暇なのでどちらも顔を出しておくつもりだ。

 グループ内のやりとりから日程を確認しているとスマホが「ブブー」と鳴った。雪宮先輩からだ。

 内容は演劇部の合宿に見学で来てみないかというお誘いだった。念の為理由を聞いてみると「秀君が来て欲しそうだからサプライズで」とのことだった。

 なんだその絶対なさそうな口実。もうちょいマシなのを考えろよ。

 行事とかは割と好きな方だが変に悪目立ちするようなことはしたくない。雪宮先輩のイマイチ意図が掴めないお誘いはお断りのメッセージを送った。数秒後にデフォルメ化された女の子のキャラクターがピエンと泣いているスタンプが来たけど無視した。

 一通り終わらせてワードを開いた。

 索は前回提出できなかった『終戦のガーディアン』の他にもう一つ新しいストーリーを作っているところだった。募集要項は一人一作品なのだが、直しだけだったらそれ自体にはさほど時間を割かないし、気晴らしのために違う作品を作るのは一つの手だと教わった。

 内容は学園モノがいいかなと、また新しくライトノベルを買い込んだ。前回は全て分析しようと近い距離感で読んでいたが今は使えそうな表現や参考になりそうな展開の作り方があったらメモする程度の、若干距離をおいた読み方をしている。

 中でもライトノベル界を激震させ全世界で累計900万部突破した学園ラブコメ作品に重点を置いて読んでいた。

 非常に表現の幅が広く、緻密に練られた巧みな心理描写がとても美しい。途中コミカルなノリが挟まれていて読者を飽きさせない。だが作品が放つ独特の雰囲気を纏っており、無意識に書き方を意識してしまいそうになるので少々注意が必要だった、

 今自分がこれの真似事をしたところでただのイタイ夜型ポエマーみたいになるから、と今の索はそれなりにブレーキ機能を覚えたようだ。

 なるべく自身の身近で起こったことを中心に書いた方が等身大のキャラクター性が出ていいかもしれない。

 だがそのまま普通の高校生を出しただけではありきたりすぎて面白くない。そこで索は秀樹をモデルにした物語を書いてみることにした。

 プライバシーの問題もあるため全部が全部彼のことを書くわけではないが、身近に秀樹ほど主人公というポジションが似合う人物がいないため、ギリギリ気づかれない程度を目指してプロットを作り始めた。


 タイトルは「カーテンコールとマクガフィン(仮)」

 主人公は心優しい演劇部部長。今まで顧問の横暴な態度や不真面目な部員に悩まされていたが中々強気に出れなかった。

 そんな中天才と呼ばれる女優の一年生が入部し彼の人生は変わり始める。自分の書きたいものをしっかり持ち始め、最後まで残った個性が強い部員達と全国を目指して奮闘する物語。

 天才一年と主人公はそのうち付き合うことは決まっている。


 「案外いけるんじゃね?」

 うまい具合に変えると言っても塩梅が良く分からなかったので適当に性格や境遇を正反対にしてみたら中々いい感じになった。

 様々なジャンルがあるライトノベル業界だが「演劇」が題材のものはそれほど多くない。もしここで感動する青春ドラマや舞台での美しい演技の描写をちゃんと表現できれば「演劇」という題材の市場を独占できて話題になるのではないだろうか。

 因みにマクガフィンというのは舞台用語で物語上重要になる小道具の総称らしい。発音がかっこいいから適当につけてみたら本当にそれっぽくなってテンションが上がった。

 あとはどう物語を展開するかだがこれは秀樹次第なところが強い。

 中学まで演劇部に所属してはいたが正直演劇部がどんな練習をしているかのあまり稽古に出ていなかったためかわからない。

 やはり合宿に参加するべきだったかと後悔するが、それは開き直って自分が理想とする、可愛い女の子とイチャイチャするハプニングが連続して起こるようにすればいいかと開き直った。

 だが念の為、雪宮先輩に「予定の都合上行けなくて残念です。ですがどんな感じだったかお話聞かせてください」とだけメッセージを送っておいた。

 一通りプロットが完成したため次は『終戦のガーディアン』に取り掛かった。

 量的に書く作業自体には時間がかからないが繰り返し何度も見返す必要があるため時間は結構かかる。

 まずはと最初に取り掛かったのは戦う時のシーンだ。

 ここ最近、索は買ってきたライトノベルの他に無料で読める創作小説投稿サイトからバトル系の異世界転生ものを読み込んでいた。

 そこから能力の誓約とか代償とかあった方がかっこいいのではないかと迫力ある描写のために設定も見直し始めた。

 うーん……これ無料で読めるのか。イラストも音楽もそうだがSNSの投稿サイトが増えすぎて当たり前のようになってはいたが、今更ながら罪悪感が湧いてくる。

 普通に面白い。当たり外れが酷かったり、作者が逃亡したりと色々不便さはあるがそれでも十分すぎるくらいに作品が豊富だ。選り取り見取りじゃないか。

 学園、異世界転生、バーチャルゲーム、戦闘描写が細かく描かれているのは主にこの3つのジャンル。偏見ではあるが割とそういうものはほとんど同じ内容ばかりで、俗にいう『テンプレ』なのだと思っていた。だが読まずに安っぽい批評を語るのは傲慢が過ぎるなと反省した。

 ご都合主義に主人公が最強になったり、異世界に現実の技術を持って無双したり、チョロインばかりのハーレム築いたり、確かに似たような要素は数え切れないほどある。だがそれに至るまでの過程や展開は決して統一されているようなものではなく、作家一人一人に描きたい世界観がちゃんとあって、少し足を踏み入れればどれも違う一つの作品なのだ。

 同じような設定ばかり、ではなく、ある種のジャンルとして確立しているのだと言えるし、見飽きるほどに沢山の作品が書かれているということは、それだけこのジャンルが奥深く夢が詰まっていることだ。

 参考のためと言って色々なサイトで読んでみたが、今までの価値観が少しだけ変わった気がする。とても良い方向に。

 一言一句丸写ししない限り『テンプレ』なんて作品は存在しない。それが理解できた。だが……

 「なんか……違う」

 納得のいくものが書けなかった。前坂のアドバイスを参考に作品のクオリティとしては格段に上がっている。自分なりに色々勉強もした。それでも拭いきれない違和感がじっとりと纏わり付いて離れない。

 読んでいるものが魔法や能力だったりと、ファンタジーによっているから?

 いや違う。確かに俺の書いているものは戦争だが、能力云々自体が問題なわけではない。

 主人公の性別が違うから?

 違う。確かに『終戦のガーディアン』の主人公は女の子だが、ラッキースケベとかハーレムとか、そういうご褒美的な要素がないだけで根本的な原因には繋がらない。

 参考にしている小説の内容が薄っぺらいから?

 絶対に否!

 作品によっては宗教や権力、倫理から道徳まで問い出すものもある。社会的なメッセージを残さんとしてきた優れた作品だって読んだ。

 じゃあ何故?

 なんでこんなに自分の書こうとしているものに納得がいかない?芸術家にはよくある作品へのこだわりの強さとかそういうものではない。

 それは彼らが自分の作品に、今ある状態異常の可能性を見出していることを表している。だが俺はこの作品の完成系が全く見えないのだ。

 プロットを書いてはいるが小説としてのゴールが想像できない。だから探り探りでしっくりくるよう単語と単語をパッチワークのように繋げて文章を構築しているのだが、きっとそのやり方では索の納得いくものは作れないのだろう。

 結局そこからは筆が進まず、夕飯の食材を買ってから家に帰った。

 索が家に着いた頃に和恵は眠そうに目をこすりながらどこへ行ってきたのか聞いた。

 「漫画喫茶で適当に時間潰していた」と答えるとすぐに料理の準備を整え、手慣れた手際でチャチャっと夕食を完成させた。

 和恵には小説を書いていることを内緒にしている。特別隠す理由はないのだがどうも自分の夢?のようなものを打ち上げるのは難しい。

 恐らく反対されたり将来について説教されることはないと思う。「読ませろ」と強引に原稿を奪われる可能性はあるが、困ることはない。

 それでも、やはり言いにくいことはある。

 「おい息子、何か悩んでいるのか」

 「急にどうした」

 「たまには母親みたいなことしてみたくなっただけだ」

 「ちゃんと血の繋がった母親だろ」

 「……そうだな」

 「え、待って!嘘だろ。『本当はお前のこと拾ってきたんだ』みたいなリアクションやめて」

 「一度やってみたくて」

 白米を掻き込みながら和恵は言った。

 空になったお茶碗を持って炊飯器から二杯目の白飯をよそうと

 「いやあ、なんか最近いつもと様子が違うからな。隠れて深刻な悩み抱えてそうだし」

 「例えば?」

 「……なんとなくだけど。わかるんだよ、索のこと」

 優しげの表情と声でそう言った。

 母親というのは怖いものだ。普段顔を合わせなくとも子供のことなら直感でわかってしまうものなのか、そう感心すると

 「ていうのは嘘で、最近味付けちょっと変わった。塩の降る量少し増やしたでしょ」

 「神の舌かよ。シンプルにすげーな」 

 訂正、直感とかそういうものではなく本人の知らない癖とか見て判断しているわ。俺の感動返せ。

 「お気に召さなくて?」

 「いや、普通に美味い。お父さんみたいに時々しか料理しないくせに変に凝った物出すより手慣れた家庭料理出す方が私は好きだ。『すごーい。料理上手ー!』とか言ってたけど出す品で普段料理してないの丸わかりなんだよな」

 「親父かわいそすぎるだろ。褒められたのになんか嬉しくねーわ」

 「プロの味よりも素人に求めるのって親しみやすさなんだよな。ユーチューバーと一緒よ」

 「その例えなんか違くね」

 和恵はおかずの麻婆豆腐と一緒に白米を頬張りながら話を続ける。

 「ぶっちゃけ社会に出たらお前の悩みなんてちっぽけなものだがお前の世界の中では重要なことだ。だから気にせず言ってみろ。どうせお前は主夫になるんだし」

 「言い方!あと勝手に俺の進路決めん……なんで主夫?」

 「働くの苦手そうだし」

 「そんなことありませんー!今文化祭実行委員とか色々やってますう!」

 「そうか……!」

 せかせかと動き続けていた箸が一瞬だけ止まった。和恵は少し嬉しそうに頬の筋肉を緩めると、2秒後にはまた箸が忙しそうに働き始めた。

 「まあ、所詮学校行事などお遊びだがな。自分がどれくらい不器用か思う存分試してこい」

 「あー、まあ頑張るよ」

 母の嬉しそうな表情に戸惑ったのかなんて返事すればいいのかわからなかった。

 「で、なんの話だっけ」

 わざとらしいスッとすっとぼけた言い方だった。

 どうやら和恵は相当索のことが気になるらしい。

 出張やら倍返しやらで忙しく、帰ってこないことも頻繁ではあるがそれでも非常に母親らしい側面もあるようで、せめて家にいて起きている間はちゃんと話せる時間を設けたいという心構えのようだ。

 隠す理由もないし、今日家に帰ってきてから食事するまでずっと、あるいは三週間前、執筆を再開してから今日までずっとモヤモヤを抱えていた。

 母親の前では隠そうとしていたがそれだけのスパンがあれば流石に気づかれてもおかしくない。

 応募規定に未成年者は保護者の同意が必要と記載されている以上、いずれは打ち明けなくちゃいけないのだが……

 書いた小説を読ませる、という行為はある意味裸以上のものを見せるようなものだ。自分でも知らない深層心理が文字として映し出されている場合、本当の意味で全てをさらけ出すということだ。

 顔も名前も知らない人に読まれても平気だが近しい人ほど読ませるのが困難になる現象はそれが原因だと思う。

 さらに索の場合、距離感がわからないが故に感情むき出しのコミュニケーションをとっている。それはある種の明確な線引きでもあるのだ。

 嘘や社交辞令見たく堅苦しくやましいものは一切ないからこれ以上知らなくていい。そんな意味がほんの少しだけ込められていたりする。

 だから簡単に打ち上げることはできない。

 それでも、不器用なりに真剣に聞いてくれる母を蔑ろにはできないから、決して本心ではないが嘘ではない悩みを打ち明けた。

 「秀樹に美人の彼女ができた」

 「なんですって?特徴は?」

 話したこっちが驚くほどに食いついてきた。

 「茶髪、ミディアムショート、身長160ちょい、優しそうな垂れ目と親しみやすい声をしたお姉さん系」

 「あんたのモロタイプじゃない!胸とバストとおっぱいは」

 「全部同じ意味じゃね?」

 「いいから!」

 「うーん……広●涼●くらい」

 「モロあんたの好みじゃない!」

 「でかい声で言うな、っておい!なんで知ってる」

 「あっ」

 「見たのか?おい覗いたのか?」

 母は頑なに目を合わせようとしない。

 小説を書いてます、というのを隠すのがバカらしくなるくらいの秘密を知っているらしい。

 索は、ぶん殴って記憶を飛ばしてやりたい、なんなら行くとこまで行ってもいいと本気で思った。

 「それで!脚は!」

 何事もなかったかのように白米を掻き込みながら質問してきた。

 ていうかそういう意味でオカズにする人初めて見た。

 あの時は色々衝撃が大きくてあまり注目していなかったが、雪宮先輩の全体像を思い出すのには時間はかからなかった。なぜなら

 「めちゃくちゃ綺麗で健康的な細さだった。あと40デニール」

 「ウヒョオおおおお!」

 おっさんかよ、と突っ込みたくなるがそれ以上に耳に届かないくらい興奮しているので放っておいても良さそうだった。

 「いやあ、残念だったねえ。そっかー秀君も彼女ができたかー」

 腹が立つくらいニヤニヤしながら呟いていた。

 完全に興味がそっちに行ったので作戦通りといえばそうなのだが、やっぱりわかっていてもムカつくものだ。

 「それは索も焦ったりするよね。でもそのうちいい人見つかるからゆっくりいきな。あ、でもいつまでも恋愛を神聖視していると重いって避けられるから気をつけて」

 「余計なお世話だ」

 「アニメの彼女もいいけどお母さんリアルの彼女も見てみたいなー」

 「宥めたいのか焦らせたいのかどっちだよ」

 「後者」

 「嫌な方に即答するな」

 「ぶっちゃけ恋愛の半分って妥協だから、その気になればできるって」

 「別に恋人に飢えているわけではねーよ」

 これは強がりではない。実際に俺は声優世良梨紗子に恋をしている。本気で好きになって本気で彼女に対等な形で逢いたくて、そのために俺は努力している。

 それなのに誰でもいいって半端なお付き合いをするのは相手にも失礼だし、俺自身が積み上げて行く努力の否定だ。

 秀樹がドチャクソタイプな先輩と付き合い始めたのはムカつくが、別にあいつに限ったことじゃない。自分以上に恋愛的な方面で幸せそうなやつはみんなムカつく。マジでリア充爆発しろと年中思っている。

 正直、自分があまり利口な恋愛をしていない自覚はある。当たり前だが相手は芸能人で近づくことすら困難だ。いずれ俺がデビューするより早く結婚報道があるかもしれない。そう考えるだけで胃に穴が空きそうになるし、実際報道されたら一週間は寝込む。

 それだけショックでも絶対に手のひら返したように推しを叩きたくないし、一ファンとして徹していたくせに過剰すぎるまでに暴れ狂うガチ恋勢のようにはなりたくない。

 人並みの恋愛をしていない分、失恋の痛みはかなりのものだと思う。

 だけど本気でこの気持ちを伝えると決めた時から、この痛みは覚悟していた。

 だから母よ

 「ぶっちゃけそれは余計なお世話だ」

 ふむ、と何かを納得したように頷き、「つまんねーの」とどこかニヤついた顔で吐き捨てた。

 「じゃあ、リアルの方はもういいや。二次元の方はどうなんだ?ちゃんとオタ活してるのか?」 

 「バリバリしているけど。学生は貯金もオタ活だぞ」

 「あー、そういうことじゃなくて」

 ドクンっ!と心臓がわかりやすく波打った。

 嫌な予感がした。

 「最近さネット内で見た噂なんだけど、ほらあれなんだっけ」

 母親が何を言おうとしているのかすぐに予測できた。

 俺もその記事は目に入った。だが、読んではいない。だから……

 「アレだ、索の好きなライマス」

 予測は確信に変わった。

 心臓はより早く波打ち始めた。

 「アレさ、かいさ……」

 バンっ!と必死に遮るように机を叩いた。

 お願いだ、俺はそれを知らない状態でいさせてくれ。

 ファンの間ではある程度予想できた。ライマスのアニメのストーリーは完結し、次のグループも出ると発表されている。だからソレが起こる可能性は十分にあり得る。

 それでも、誰かの口からは聴きたくない。

 たとえ噂だとしても、軽々しく俺の信仰を妨げないでくれ。

 「その話はしたくない」

 掠れるような声で、母親に向けるとは思えないほどの殺気が篭った言葉だった。

 決して暴力的な意思ではなく、心の支えを守り抜こうと祈るように、とても悲しそうに歪ませた顔だった。

 たかがアニメ、和恵にもそう思っていた時期があった。

 実際今でもなぜ索がそこまで愛情を捧げるのか理解できない。

 それでも自分の子供が本気で大事にしているということは知っていたから、それに対しては絶対にバカにすることはなかった。

 そして今回も軽率な発言をしてしまったのだとすぐに自覚し

 「ごめん、今のはお母さんが悪かったね」

 丁寧に謝った。

 正気に戻った索もすぐに

 「あ、ごめん。カッとなっちゃった」

 先ほどまで近しい距離で会話していたのだが、一気に気まずくなった。

 「ごちそうさま」

 先に食べ終わった索はそう言うと食器を下げ、ダイニングを後にした。

 「あ、今日私がお皿洗うから」 

 部屋に戻ろうとする索の背中にそう呼びかける。

 「わかった、ありがとう」

 振り返ってお礼を言うと、和恵は三杯目のおかわりを茶碗一杯についでいた。

 次からオカズ増やそうかな、いや、そういう意味じゃなくて、と考えながら索は二階への階段を上った。


                *


 「と言うわけでどうしましょう」

 「場転後にさっきまで会話してましたのノリで話しかけてくるな」

 3日後、索と秀樹は学校で再開した。前回見たくどっちかが誘ったわけではなく、クラスの出し物についてまだ決まっていないから召集されたのだ。

 索は文化祭実行委員のミーティングが被ったため、遅れての参加になる。

 二人は雪宮に呼び出されて資料なり機材なりを運ばされている最中だ。

 「何かしっくりこないんだよな」

 「書き直しているやつか?」

 「そう。いい師匠を見つけたおかげでだいぶマシにはなったんだけど」

 「俺は特に何もしてないぞ」

 「え?」

 「あ?」 

 「……ああ、お前じゃないぞ、名前は言えないが他のやつだ」

 「そうか」

 「あれあれ?秀樹君もしかして自分がいい指導者って勘違いしてたの?確かに君は作家としては優秀だけど教えることは専門じゃないって自分で言ってたじゃないか。あれあれえー?」

 今すぐ鳩尾を踏みつけたくなるような、一周回って見事だと言える煽りだった。

 秀樹の目は質量を帯びるほどの殺意が篭った視線を索に飛ばす。

 本当は手元にあるプロジェクターを頭に叩きつけてやりたいところだが、それをやって仕舞えば索の思う壺だと必死に殺人衝動を押さえ込んだ。

 「相手は、前坂か」

 怒りに満ちて震え上がった声で言った。

 「なんでわかった」

 「お前と話すやつは極少数だし、前坂は創作する側っていうのはなんとなくわかっていた」

 「へー、相変らず良い目を持っているんだな」

 含みを持った言い方で言った。

 「どういう意味だ」

 「別に、お前が選んだ彼女さんはさぞかしいい人なんだろうなと」

 「言ってなかったか」

 「雪宮先輩から聞かされた。ああいう人がタイプとは思わなかった」

 「そうだな、普通に見たら俺もあの人とそういう関係にはならなかったな」

 「普通?」

 「多分お前ならそのうち気づく」 

 秀樹には珍しく幼い子供のような笑い方で含みのある言葉を返された。

 会話の区切りよく会議室に着いた。

 先日の生徒会室より教室一個分くらいは広く、作業用の長机も用意された部屋で、既に生徒会の人たちが数名、10分後に行われるミーティングの打ち合わせをしていた。

 教室の扉をスライドさせると窓際にいた雪宮と目が合い、パタパタとこちらに駆け寄ってきた。

 「お疲れ様〜。これで全部かな?」

 「あとうちの部の一年が細かいもの運んでくるはず」

 「オッケー、二人ともお疲れ様。索君はこれから一緒に頑張ろうか」

 「はあ、まあやりますけど。なんで俺だけ集合時間より30分早く来させられたんでしょうか」

 「ダメだった?」

 「時間外労働なのでそれ相応の対価が欲しいです」

 「あんまりえっちなのはダメだよ」

 「そういうノリは彼氏の前でやんないでください。普通にこの前言ったやつでいいです」

 「ああ、もちろん合宿のネタは提供するね。なるべくかっこよく書いてよ」

 そう言って雪宮は索にウィンクを投げかけた。

 三日前合宿の様子を教えて欲しいとメッセージを送った時、理由を聞かれたのだが、なんとなくこの人なら言っても大丈夫そうだなとあっさり目論見を白状した。すると案外乗り気だったのか秀樹が主役なら面白そうということで承諾を得た。

 「善処します」

あまり距離感近いとこちらも秀樹を気遣って変に堅苦しくなるし、見た目も対応なので意識しないように必死だった。

 二人のやりとりを見ていた秀樹はというと、「姫織先輩がこうなのはいつものことだしな」と対して気にしていない様子だった。

 そうこうしているうちに他のミーティングに参加する生徒がゾロゾロ集まってきたため秀樹はクラスの方に戻って行った。

 去り際に

 「そう言えばお前、本当にあれが書きたかったのか?」と質問するだけして答えは聞かずに去っていった。

 索はその意味がよくわからず、モヤモヤしたまま前坂の隣の席に座った。

 こちらから声かけるまで索の存在には気づかなかったようで、

 「おはよう」

 と挨拶をすると、ビクっと体を震わせて

 「あ、おはよう」

 と返事をした。

 その後すぐに開いていたキャンパスノートに視線を戻し、小さな丸文字で何かを書き殴っていた。

 その仕草はどことなくいそいそとした様子で、索はすぐに前坂がゾーンに入っているのだと察した。

 物書きに限らず、クリエイターには時々神からの恩恵ではないかと錯覚するほどの革新的なアイディアが降り注いでくることがある。

 そのきっかけは人によって様々で、本を読んでいる時やお風呂に入っている時、トイレに篭っている時など、それは本当に突然訪れる。

 前坂曰く、「考え続けた先に、脳があるきっかけで覚醒し、可能性を知覚する範囲が拡大している状態になる」とのことだ。

 思いついた直後にすぐさまパッと消えてしまうこともあるので早いうちにメモを取らなければならない。

 索は集中を途切らせないようにと、それ以上は声をかけなかった。

 ミーティングが始まる直前まで前坂の右手は忙しそうに走り続けていた。なんとか一通り書き終えると「ふー」とスッキリした表情で顔を上げた。

 「良いの書けそうか?」

 そう聞くと

 「うん!」

 と咲き誇るような満面の笑みで返事が来た。

 なんだこの可愛い生き物、頭撫でてええ。と心中悶えながらも下唇を噛みなんとか平静を保つ。

 雪宮先輩の号令に合わせながら起立、礼をすると口の中で微かに血の味がした。


                *


 ミーティング2回目ではあるが結構な量の仕事が待っていた。

 実行委員会が行う企画を一通り確認した後必要になってくる備品や発注の必要なものを洗いざらいリストアップしていく。倉庫にある備品も使えるかチェックし、買い替えが必要であればそれも発注。

 あとは会計に回しておけば予算と照らし合わせてくれるらしいが、これだけで2時間ほどかかった。

 他の部署は持ち帰りの仕事が多いのかだいぶ前に解散していた。力仕事の面も大きく普段使わないような筋肉が現在進行形で悲鳴を上げている。

 「あとこのパネルでラストだ。頑張って」

 索の倍は働いているガタイのいい2年生が呼びかけた。

 「はい、行ってきます」

 「室内とは言え水分はちゃんと取っておくんだぞ」

 「ありがとうございます」

 体育会系特有の爽やかな言い方だった。

 一回の倉庫からエレベーターを使って三回の会議室まで持っていく。前坂に「開く」のボタンを押してもらって、パネルの高さがギリギリ入らないくらいなので角度を上手いこと調節してゆっくり押し込む。

 3階生会議室前に着くと「お疲れ様〜」と気の抜けるような甘い声で雪宮が駆け寄ってきた。前坂には引き続きドアを開いたままにしてもらい生徒会室前にいる何人かの生徒にも手伝ってもらった。この日のタスクはこれで終了。

  各種類のパネルの枚数を確認し、ぼちぼち解散となった。

 「索君、この後暇?」

 「暇じゃないってわかってて聴いてますよね」

 「バレたか、ちょっとツラ貸せよの方がよかったかな」

 「なんで俺先輩に気に入られているのかわかんないんですけど、いいんですかそういうの」

 「索君って堅苦しいっていうより、誠実な人なのかな?」 

 「知りませんし自分で肯定するのもなんか変でしょ」

 「そうでもないよ。友達に『可愛い』って言われたら『そんなことないよ』ってカマトトぶる女子とか嫌でしょ」

 「確かに。先輩は何て返すんですか」

 「肯定も否定もせず『ありがとう』っていうのが無難かなって」

 「じゃあ、俺もありがとうでいいっす。ていうか何の用なんですか」

 「ただ話したいってだけじゃダメかな?」

 索との距離を縮めながら熟練された上目使いで雪宮は尋ねる。

 「別にダメじゃないですけど、」

 「秀君ならこれくらい気にしないから大丈夫だよ。私たち割とドライな付き合い方だしね」

 「そういうものですか。てか仕事はもうないんですか」

 「進行役って作業日よりも持ち帰りの仕事の方が多いの。だからこうして索君とお話しできるよ」

 俺は違うんですけどね、と言いかけたが、どうせすでに遅刻なのでもう少し遅れてもさほど問題ないだろうってことで振り切るのを諦めた。

 会議室の椅子に座り、付き合いますよ、という意思表示をすると雪宮は楽しそうに隣に座った。

 「そうそう、送られてきたやつ読んだよ〜。まあまあだった」

 「まあまあ……」

 自覚はあるとは言えショックはあった。

 「お話しの内容は理解できたし面白かったんだけど、何というかあんまり登場人物が生きている感じがしないんだよね」

 「というと?」

 「索君ってさ、人はみんな行動に目的と理由があるって思ってる?」

 「一応、それがわかりやすい方がいいって聞いたので」

 「わかりやすいけど、人間としての面白みがないよね。例えばさ、さっきから私が索君と関わろうとする理由を聞いてくるでしょ」

 「はい、暇なのかなって思ってます」

 「違う違う。話したいから暇を作ってるの。人の会話って冷静に見直すと目的とか理由とかから離れまくってるんだよ」

 「わかりやすい例えが欲しいです」

 「うーんそうだなー」

 雪宮は片手で口を覆いながら考えた。

 「例えばあるカップルが買い物に行きました」

 「ノロケ話ですか」

 「ご想像にお任せします」

 イスから立ち上がると、黒いマーカーを手にしてホワイトボードに図解で説明し始めた。

 「二人の今夜の夕食はカレーです。ジャガイモやニンジン、お肉などの食材を買います。この時あろうことか女の子が『私の家ではコーヒーを入れてコクを出す』と言いました。男の子は『うちではコーンポタージュだった』と言い、二人はどちらを買うか喧嘩になります。このやりとりはカレーの食材を買うという目的とは離れたものですが不要だと思いますか」

 図解を描き終わると索の方を振り返りピシッと指差した。

 「あってもいいんじゃないですか」

 「その理由は?」

 「二人の好みとか家庭の環境とかわかるし、カレーの食材買いましたってだけで終わるのは見ている側からしたら味気な……あ!」

 「そういうこと。一見目的や理由とは矛盾したやり取りでも、登場人物が何にこだわっているのかだけでその人の背景が想像しやすくなる。これはね決して無駄なんかじゃなく、『個性』を見せるという意味でも重要なんだ。人間にはそれぞれ個性があって、合理的ではない判断に人は人間味や親近感を覚える。それが人が人に対して感じる面白みなのです」

 ふふんと胸を張ったポーズで自慢げに笑った。わかりやすい説明、見やすいボード、親しみある声での解説、その一連の流れをとても楽しそうにやっているものだから、思わず先生と呼びたくなってしまった。

 「でも先輩、物語の内容から脱線した会話って難しくないですか。それこそ一人の人間が多数の人間がやるような不規則な会話をちゃんと表現できるのでしょうか」

 「いい質問ですね。確かにある意味アドリブのような書き方になって一見難しいように感じるかもしれません。私は役者だからその立場で言えることを言うけど、大事なのはイメージです。演じる時、絶対にその役の性格や話し方、シーンごとの心情などなるべく具体的に固めます。するとある時まるで頭の中に存在するように動き出す瞬間があります。

 台本上のこのセリフはこう言う気持ちで、このト書きはこんな願いがあるんだって。大事なのはイメージだよ。友達や家族が、こんな時どうするのかがある程度想像できるように自分の中で身近な存在になればなるほどその時々の会話は映像化されたように見えてくるはずです」

 まるで家庭教師のお姉さんの役に入ったような解説だった。

 非常にためになった。今教えてもらったこと全て、一度雪宮に断りを入れてスマホにメモし始めた。

 必死に一言一句思い出しながらスマホをタップしていると肩と背中に柔らかい感触を覚えた。

 雪宮は必死そうな索を面白がっているのか、肩に手を乗せ索のスマホの中を覗き込んでいた。

 未知の感触と柑橘系のフレグランスな香りで心臓が跳ね上がりそうになった。

 「あのー重いんですけど」

 「むう、女の子に重いとは失敬な」

 「せっかくの講義を忘れないうちにメモしておきたいんですけど」

 「すればいいんじゃない。私は見ているだけだから」

 悪戯っぽい声音でからかった。

 ただでさえ平静を装うのに必死なのに耳元で話さないでもらいたい。忘れているかもしれないが俺は女子と交流の少ないオタクなので。

 「これも『個性をも見せる』に入るんですか?」

 「まさか、これが個性だったら私ビッチってことになるよ。付き合いたての時に秀君にも言われたし」

 「流石に友達の距離感じゃないですし。ていうかそんなに俺の心弄んで楽しいですか」

 「索君頑張って隠しているけど反応がウブだから見ていて面白いよ〜」

 えー、嫌ではないけどそれなりにショック。

 確かに年上のお姉さんに弄られるのとか大好きだしめっちゃ憧れていたよ。なんならもっと下さい、からかい上手の雪宮さん。おいそこMとか言うな。

 あと人前ではクールだけど二人っきりの時は優しいお姉さんキャラって冷静に考えて最高なんだよな。理想の体現者っていうか。

 複雑な感情を抱きながらも確かに存在している幸せを噛み締める。秀樹がいつもこんないい思いしているのとか羨ましすぎて禿げそ……。

 ドクンっと心臓が波打った。それは突然湧き上がった違和感が危険体に危険信号を送るように。

 その瞬間索は雪宮の手を振り払って立ち上がり、3歩後ろに下がった。

 雪宮はキョトンとした表情で索を見つめる。

 索は体が知らせた違和感の正体を探らんと頭をフル回転させる。

 一体自分は何に反応したのか、何を持ってこの人を危険だと判断したのか。あれほど自分の理想に近い女性。

 親しみやすく誰にでも優しく、それでいて特別だと思わせ、一定のパーソナルスペースさえ感じさせないほど巧みなコミュニケーション。コロコロ変わる表情にあどけなさと穏やかな印象が残る雰囲気。

 ああそうか、完璧すぎるんだ。言動も振る舞いも全て都合が良すぎる。他者の目を極度に気にしてそれすらを悟られないように振る舞い、誰にでも好印象を与え、誰に対しても親しみと好意を抱かせられる。

 ああ俺の理想だ。だからこそ知っていたはずだ。そんな理想が現実に存在するはずがないと。

 ここまで完璧な芝居を日常的にできるということは、よほど周囲の目を気にしていたのだろうか。あるいはみんなに好かれることを望んでいるのか。

 どちらにしろ断言できることがある。

 白瀬秀樹という人間はそういう人種を最も嫌うということを。

 本当なら気づかないふりをするべきなのかもしれない。だが俺はそのやり方がわからない。だから直球に

 「ねえ、先輩。どうしてあなたが秀樹の恋人なんですか」

 すると雪宮の表情はスッと変わった。さっきまでの柔らかい表情の線とは打って変わって氷の造形のように透き通って凛々しい顔つきをしていて、慎ましい笑みを浮かべた。

 「どうしてだろうね、私もわからないんだ」

 とても落ち着きのある、だがどこか悲しげな声だった。 

 その瞬間、索は先ほどの自分の質問をひどく恥じた。

 人前で見せる凛とした佇まいも雪宮と一緒に話していて楽しい親しみある雪宮。この二つの顔を見て、なぜ自分にとって都合に良い彼女が本物だと錯覚していた。

 「舞台の上でもそっちなんですか」

 「うん、こういう感じの方が多いかな」

 時々いるのだ。舞台の上でないと自分が自分であるという実感が持てない根っからの役者気質な人間が。だが彼女の性質はソレとは少し異なる。

 「最初に秀君と会った時も見透かされてね。別に悪ことしているわけじゃないんだけど、学校とか家族の前とか、なんかこっちじゃいられなくなって」

 「嫌なんですか?」

 「どうだろう、少し窮屈ではあるけど。あっちの私が丸々嘘ってわけじゃないから余計後戻りできなくて。でも舞台の上とかだと少し解放された気分になる」

 「どっちの先輩も素敵ですよ」

 「ありがとう。でも良い加減中途半端なのは嫌だな。なんか罪悪感がある」

 「だから気付いてもらいたいってことですか」

 「半分半分ってところだね。気付いて楽にして欲しいのもあるし、気付枯れて幻滅されたくないって気持ちもある。とても人間らしい矛盾だと思うよ」

 「勉強になります」

 「そうなってくれたら嬉しい。前の部活は酷くてさ。あっちの私でいないと舞台に立てなかった。だから自分の感情の振り幅を広げて、へらへらと誰にでも良い顔できる私を作るしかなかった。それなのに秀君が何もかも全部壊してくれたから」

 「それは惚れもしますよね。天才すぎて怖えけど」

 「うん。すごいよね天才って。なんでも思った通りに物事を運べるんだから。神様に選ばれたみたいに。はあ、恋人なのに遠いなあ」

 雪宮は索以外の何かを見つめながらそう言った。少なくともそれは半分嘘だとわかった。

 その様子は今までの彼女よりもずっと人間らしく、魅力的に見えた。

 推しがいなかったら本気で好きになっていたかもしれないな、索はそう思いながら会議室を後にした。


                *


 クラスの方の会議は始まってから30分ほど遅刻して参加だ。さぞかし白熱していることだろうと期待したいのだが、今日の時点でまだ出し物を決めていないのはうちのクラスくらいだ。

 めんどくさがりあるいは周りに合わせたがりが非常に多いため何か決めるときは時間がかかる。「ダリー」とか「早くおわんねーかな」とか「うちだけショボくね」と好き放題言うくせに絶対自分からアクションを起こさない。

 青春したいなら素直にそう言って頑張ってもらいたいのだが、高一の段階ではそんなものなのだろうか。

 教室の前まで来たがあまり声がしない。予想通り、「誰かなんか出せよ」の雰囲気が充満しながらも手をあげたら上げたらで悪目立ちする最悪の状態なのだろう。

 後ろの扉をスライドさせ教室に入ると、それと同時に小さな手が一つ、真っ直ぐに上がっているのを見つけた。

 窓際の列の真ん中の席、前坂優香だ。

 「はい!メイド喫茶がやりたいです!」

 淀んだ空気の中よくそんなにハキハキと発言できるなと思った。案の定クラスメイトたちは前坂の意外な提案にどよめいた。そのお陰で索は目立たず入室できたのだが、一体なぜ萌えの文化から縁遠い彼女がメイド喫茶をやりたいのか疑問だった。

 確かに文化祭の出し物だとフィクションの世界では王道だが、実際にやっているところはあまり見たことない。あるとしてもゴリゴリの筋肉を身に纏う男子校の生徒くらいだ。

 アキバとかにあるメイド喫茶も実は言ったことないので索も漫画やアニメの知識でしか知らない。

 あれ、そういえばと、この前お互いの趣味を理解し合うために文庫本を数冊交換して読みあったのを思い出した。その中にある学園ものにライトノベルで文化祭にメイド喫茶でヒロインたちとの距離が縮まるドキドキ回があった。

 恐らくその影響だろう。前坂の目は「ワクワクしてます」と訴えているくらい真っ直ぐで、いつも以上にあどけなさが垣間見える。

 周囲からは「え、まじで?」「着るの私たち?」「案外俺たち似合うんじゃね?」など反対の声はあるも大半は満更でもなさそうだった。

 「じゃあ、候補に入れておくね」と黒縁のメガネをかけた、如何にも優等生っていう見た目の男子が黒板の候補欄に『メイド喫茶』と書いた。

 「他に何もなかったらこれで決まりでいいかな」

 「えー」

 「どうする?本気でやるの?」

 「私絶対着たくないんだけど」

 色々と女子同士で意見は飛び交ってはいるが挙手された反対意見ではないので採用はされない。流石にここでノリノリだと『調子乗ってる』と思われるから表には出していないようだが、別にいっかと、どこか受け入れているのは挙手しないことからわかっているからな。

 男子のリアクションはというと運動部のやつが自分も着たいと盛り上がっている他、心底どうでも良さそうなやつらが大半だ。中にはいかにもなオタクって外見をしたやつが盛り上がっている男子のグループに混じりたそうに「グフっ」って言っててちょっとキモかった。

 しばらくみんなの反応を見ていた優等生君は

 「じゃあ決まりでいいかな」

 と、決を採ろうとした時、一人の手が上がった。

 そいつは生徒ではなく、『リーサ親衛隊2番隊隊長』ことAKI先生だ。(本名は伊東哲典(いとうあきのり))

 「ちょっといいかー。高校生の文化祭だし、あんまり如何わしいのはダメだぞ」

 気だるそうな声で注意した。

 やりたかったものを学校側の都合で却下され、さらに遠回しにいやらしいと言われたせいか、前坂はわかりやすくションぼりと落ち込んだ。

 雨の日に散歩が行けなくて大人しくなるチワワみたいな可愛さがあって、遠目で見ても胸がキュッとなる。

 ついさっき雪宮先輩の件もあって、この子ももしかして芝居なのでは?と疑いたくなったがそれはそれで怖すぎるので考えるのをやめた。

 いやそれよりも、オノレAKIめ!この作品で唯一のメインヒロイン候補になんて顔させるんだ。

 2番隊隊長のクセに!2番隊隊長のクセに!今度一番隊の人にツイッターでチクってやる、と心に誓った。

 ようやく帰れそうなのに、とさっきまで表面上反対してた奴らも口々に「うわだりー」とか「はよ帰らせろよ」と呟いていた。

 完全に振り出しに戻った、と思いきや進行役の優等生君が

 「では先生、喫茶店ということは決定にして、後々健全なコンセプトを決めていく形でどうですか」

 「あー、まあいいよそれで」

 というわけでうちのクラスはコンセプトカフェ(詳細は後日)に決まった。

 優等生君ナイスフォロー。よくぞ前坂の笑顔を取り戻してくれた。

 確か君は田中圭介君でいいのか。ライトノベルだったら普通すぎて一周回って覚えやすい名前だな。何かあったら君を頼ろう。

 後のことは恐らく田中君が中心になって決めていくようだ。

 2番隊隊長が解散の合図をかけると皆ゾロゾロと教室から出ていった。

 秀樹はずっと寝ていたのだろうか突っ伏した状態から起き上がり、眠そうにあくびをしながら教室を後にした。

 索と前坂は目が合い、流れでいつも通り、小説の近況報告会を開くことにした


                *


「ねえねえ!ライトノベルって面白いね!今まで表紙で敬遠していたんだけど、どれもちゃんと登場人物に個性があったり素敵な世界観があったりで面白かった!学校を舞台にしたお話はなんかこんな高校生活送りたいなってドキドキしちゃった」

 手をブンブン振りながら興奮気味に前坂は感想を語った。

 場所は飛鳥山公園、は暑すぎて長居したくないので3階にある予備教室だ。文芸部が活動するときに使わせてもらっている場所で、今日は夏休みということもあって人も少ないから、とのことで索の入室を前坂が許可した。

 「はっはっは楽しんでいただけて何よりだ」

 「なんか文学っていうよりは頭の中で映像化されやすい文章だからグイグイ入って来ちゃうね」

 「確かにな。そういう読みやすさもあってライトノベルって言われているんだろうな、知らんけど」

 「ジャンルとしての定義とかないの?」

 「ないんだなーこれが。まあ可愛い要素が強いイラストが表紙や挿絵にあって、さっき言ったように読みやすければライトノベルって感じだ」

 「そっかー。じゃあ根本的な部分ではあまり変わらないんだね」

 「そうだな。かく言う俺は読むのに結構時間かかったけどな」

 「どうだった?感想聞きたい!」

 前坂が貸してくれた小説は孤独を背負った一人の青年が水墨画家を目指す話だ。白と黒の世界の中でいかに鮮やかで美しい世界を作り出すのか。実際に見てもいない、知りもしない水墨画が線の力強さや儚い墨の色使いまで鮮明にイメージできる。

 言葉が織りなす美しい表現の一端を見た気がした。

 「すげー面白かった。俺に合わせて普段純文学に触れていない人でも読みやすいのを選んでくれたんだけろうけど、水墨画に命が吹き込まれる瞬間とか読んでてすげー熱くなったし、勉強になった」

 感想を述べながらバッグから借りていた小説を取り出し、前坂に返した。

 前坂はにこやかな笑顔を浮かべて受け取った。

 「あ、私今日持ってくるの忘れちゃった」

 「次に学校来るときでいいよ。どうせすぐ来ることになる」

 「うん、わかった」

 「それでさ、前坂の方は進んでるのか」

 「うん、もうすぐ完成しそう。ライトノベル読んだのがいい刺激になったみたい」

 「それは良かった。完成したらどこかの賞に出したりするの?」

 「えっ!それは……興味があったらそうするかも」

 索は不思議そうに首を傾げた。

 小説にしろ絵を描くにしろ、創作するということは「誰かに見てもらいたい」という意思があってのことだと思っていたからだ。

 彼女は賞に出したり、出版したいという願望がないわけではないのだがそれよりも読んでもらうことが恥ずかしい、という気持ちの方が強いようだ。「誰かに見てもらいたい」よりも小説を書くという行為そのものを純粋に楽しみ、そして苦しんでいた。

 だがそれとは真逆に野心だけで書き始めた索には前坂の心情を察することができず、

 「完成したら読んでもいいか?」

 グイグイと攻めるのだ。

 「ええと、まだ私誰かに自分の小説を読んでもらったことがなんだけど……」

 困惑しながらも必死に言葉を紡ごうとする前坂。

 誰かに自分の小説を読んでもらう、それは自分ですら知らない深層心理を他者に曝け出すような行為で、ある意味裸を見られるよりも恥ずかしい場合もある。

 それを十分に理解している上で前坂は

 「索君になら……いいよ」

 本で顔を隠しながら視線を逸らすも目元まで真っ赤に染まっている。

 「あ……」

 ようやくその意味に気がついたのか索は声を失ってしまった。

 教室一帯に静寂が広がる。

 まるで時間が停止したのかと錯覚するほどに長い長い沈黙だった。

 決して自分の作品を読ませようとしてくれなかった前坂が初めて許可を下ろした。恋愛的な意味があるか否かは置いておいて少なからず以前よりも索に対して好意を持っているということだ。

 索が曝け出した世界観に対して前坂の心がアンサーを出す。プロの作家ではない二人には、もしかしたら友人以上の関係なのかもしれない。

 この先のセリフ次第で、その言葉にどんな意味を含むのかに二人の関係が左右されている。索の喉元に緊張が走る。

「だあああああああああああ!喜んで読ませていだだきまあああああああああああああす!」

 張り詰めた空気をぶち壊すような声量で索は狂喜した。

 「前坂先生の初めて、頂かせていただきます!」

 先程までの沈黙に耐えかねたのか、何かを誤魔化そうとわざとらしいテンションで舞い上がっていた。

 「あー、うん。喜んでもらえて嬉しいよ」

 言い方は呆れているようだったが、その顔持ては安堵していた。

 「で、それってどんな内容なの?」

 「あることをきっかけに引きこもりになった女の子が少しずつ外に出られるようになるっていう、すごくシンプルなお話なんだけど」

 「あとどれくらい?」

 「……10ページくらいかな」

 「おお、もうすぐだ」

 「うん。赤月君はブラッシュアップ順調なの?」

 「言われたところは順番に直しているけど、なんか引っかかるんだよな」

 「引っかかるって何に?」

 「何って具体的にあるわけじゃないんだけど」

 その時秀樹に言われたことを思い出した。

 『本当にあれが書きたかったのか?』

 「……前坂は、自分の書きたいって思える話をかけているのか?」

 「納得いくものにはまだなれていないけど、うん。私はこの物語が好きだって思って書いてる」

 「そうか」

 「赤月君は違うの?」

 「そうだな。確かに普段から空想も妄想もずっとしているし、それが形になっていく時は楽しいけど……」

 面白いか否か。自分が自分の作る物語を好きになれない理由。そこにどうしても他の作品との差を実感してしまう。

 理想が高すぎるが故に自分の作品には理想を組み込めない。だから他者の技術と知恵を請い、セオリーとしての面白さを求めた。だが自分に足りない何かが、それが原因なのだというのは察していた。

 だからこそわからない。自分の思い描く物語を、どうして他の遥か高みにある作品の存在を知りながらも好きになれるのか。

 「赤月君は小説を書く時、何を見ているの?」

 「何って……推し?」

 「お……し?っていうのは誰のこと?」

 ああ、そういえば小説を書く動機を前坂には言っていなかったか。

 「自分の描くラノベがアニメ化して、好きな声優さんをお近づきになりたい」

 「へ、へえー」

 前坂は若干顔を引きつらせながら頷いた。

 「でも、好きな声優さんに会いたいなら色々あったんじゃない?漫画家さんとか音響さんとか」

 「俺は絵を描けないし、スタッフとかプロデューサーが立場利用してキャストに手をとか絶対に許せん。だからラノベの原作者を選んだ」

 「あ、消去法だったんだ」

 乾いた声で言った。先ほどの良い雰囲気から一気に好感度が下がったのが目に見えてわかったがもうそれは気にしない。

 きっかけや理由がどうであれ大事なのは努力し続けることだってアニメの名言まとめで見たからな。

 「そっか。まあ理由は人それぞれだよね、うん」

 頑張って一人で納得しようと前坂は言葉を飲み込んだ。

 「じゃあ、赤月君はまず作家にならないといけないね」

 「それはまあ、デビューしないと始まらないしな」

 「そういうことじゃなくて」

 前坂は食い気味に否定した。

 「まず自分の作品を愛してあげられるようにならないとね」

 「……そうか」

 索は少し考えた。

 完成した原稿を前に提出できなかった時のこと。あの時索は自分が生み出した作品を悍しい紛い物にしか思えなかった。

 幾分かマシになったとはいえその気持ちはまだ拭いきれていない。本当に作品を愛せる日が来るのだろうか。

 「もし難しいならそういう自分を作れば良いよ」

 「どういうこと?」

 「普段の赤月君と作家であるもう一人の自分。役になりきるみたいに割り切って使い分けられたらさ、もしかしたら自分の魂を作品に注ぎやすくなるかもしれないし」

 「ああ、ペンネームを作るっていうことか、でも大袈裟じゃないか?」

 「ううん、そこに意味を込めるだけで新しい命が生まれることだってあるんだよ。アニメや小説のキャラクターにだって命があるように」

 「あ……」

 なるほど。もう一人の自分を作り出し、意味を与えることで生まれ変わった存在になる。アニメや小説のキャラクターが生きているって実感は何度もあった。それと同じように俺自身も……

 雪宮先輩がもう一つの顔を作り出したのもきっとこういうことなのだろう。

 「じゃあ前坂、お前が名前をつけてくれ」

 「ええ、なんか恥ずかしいな。名前考えるの苦手なんだけど……やってみる」

 照れ臭そうにはにかみながら前坂は言った。

 思えば考えたこともなかったペンネーム。

 もう一人の自分とか、二つ名とか、卒業したての中二病心がくすぐられた。



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