第53話 疑いの目


『ふぅん。ほんっとーに呆れた平和ボケなのね。お兄さんから崩せれば楽だったんだけど……』


 少女はまあいいわ、と目を伏せた。


 次に晒されたウルトラマリンブルーは、底のない水の奥を覗き込むような色をしている。少女がもう俺と話す気はないのだと、明確に分かった。


『竜の峡谷で誕生した魔王、アジャシャガシィザ』

『! なんで、名前を』


 ギョッとする。

 俺もアジャも、名乗っていなかったはずだ。ましてやアジャはここ最近『アジャコウ』としか呼ばれていない。本名なんか、知る術はないはずなのに。


『神が討伐しなさいとご命じになったのよ』

『神ぃ?』

『あら、不敬。もしかして信仰心とかない人? でも、今に人間社会の全てが知り、恐怖し、討伐を望むわ。お兄さんも人間なら同じように祈ることになるでしょう。さあお兄さん、お話はおしまい。納得した? 納得したわよね。したら速やかに退きなさい。じゃないと巻き込んでしまうわ』


 少女がトンっと窓枠から床に降り立った。


 白い外套がふわりと舞い広がって、翳る。


 情報収集イベントは終わりだ。


[……アジャ公]


 俺は片手を出して、後ろにいるであろうアジャを庇いながらじりじりと後ずさった。


 少女がどれほどの強さなのかは分からない。

 正直、早々アジャより強い奴はいないだろうと思う自分もいる。

 ただ、ここは人間のフィールドであり、ここでアジャが本気で戦わなければならなくなった時点で俺たちの負けだ。今まで人間の中に紛れ込めていたのが、ほぼ確実にできなくなるだろう。


 俺たちはどうにか穏便に少女から逃れなければならなかった。


[……ハチ、何話してたの?]

[アジャ公、本当にごめん、説明はあとだ。逃げるぞ]

[なに? その女、殺せばいいの?]

[アジャ公、それは危険だよ。殺したらな、大体確実に争いになる]

[今は争いじゃないっていうの? こんなに殺気を当てられてるのに]

[分からないけどな、人間って、大体組織に所属しているんだ。殺すと、そいつがいた組織との争いになる。妥協点を見つけるか、片方が片方をねじ伏せるまで終わらない、長い争いになる。この場合、多分、人間のほぼ全部が敵になって、全部殺すかアジャ公が死ぬまで終わらないぞ]

[……]


 アジャが黙り込んだ。

 しかし、一向に動く気配がない。


 どうしたというのだろう、先程までは普通だったと思うのに。

 申し訳ないが、今は詳しく聞く暇がない。とにかく、一刻も早く逃げなければ──、


[……ハチ、ねえ、ひとつ聞かせて]

[なんだアジャ公、今は──]

[ハチのそれは、俺のこと、考えて言ってくれてるんだよね……?]


 不安そうな、弱々しい声だった。


 俺はギョッとしてアジャを振り返った。


 ライムグリーンの虹彩はパキリと縦に伸びていて、攻撃的な色をしている。

 それが真っ直ぐ、俺に向かっていた。


 明確に、俺はアジャに疑われていた。

 なにか信頼を失うことをしただろうかと思考を巡らせて、ついさっきナイフでアジャを傷つけようとしたこと、そしてアジャの言葉に答えず少女との会話を優先したことに思い当たる。


「──ぁ、」


 疑って当然だ。


 サッと血の気が引いた。背骨に金属板を差し込まれたような、危機感にも似たひどい罪悪感。

 先程まで色々考えていた頭は即座に白飛びし、久々に、本当に久々に一つの感情が芽生えた。


 ──ああ、俺はなんてことを、死にたい。


[アジャ公、ごめ]

『はぁい、時間切れ〜』


 少女の歌うような軽やかな声が、俺の言葉を掻き消す。


 次の瞬間、ぶわりと朝日の差し込んでいた部屋を影が覆った。

 背筋に寒気が襲いくる。俺のすぐ後ろで何事かが起こっているのが分かる。多分俺もまとめて殺されようとしている。これが殺気ってやつだと俺でも分かる。分かるけれど、俺は振り返れないし動けなかった。


 アジャを視界から外すことができない。


 アジャの疑いの目が俺に向いている。そっちの方が、俺にとっては一大事だったのだ。


 アジャは、そんな俺に向かって手を伸ばした。

 やけにスローモーションにそれが見えた。


 そして、俺のすぐ耳元で、ボキンッとやけに小気味良い音がする。


「!」


 アジャの腕は、俺を通り越して俺のすぐ首元のなにかを掴んでいた。

 多分、俺があと数センチ身じろぎすれば触れられるだろう。


 少女が俺ごと殺すために差し向けた何かを、アジャが俺越しに掴んでいるのだ。


 すぐ後ろから少女の笑う声が聞こえた。


『あはは、なぁに、腕が痛いから離してほしいわ』

[……ハチが言うから、腕一本で許してあげる]

『困ったわね、私もあんまり派手に動くなって厳命されてるのよね。それに、うーん、正面切って戦うのは部が悪そうだわ。そもそも私、戦闘能力はあんまり高くないのよね』

[分かるよ、お前、普通の人間よりは強そうだけど、でも俺にとっては雑魚。本当なら、お前なんか指先一つで殺せる。だから、ハチに感謝してね]

『って言っても、通じないのかしら?』

[って言っても、通じないんだっけ?]


 アジャと少女は、お互いに言葉が通じないはずなのに、同じような内容をお互いに向けて同時に喋っている。

 この空間で、俺だけがそれを理解できているのは、なんだか奇妙な心地だ。


 後ろから、バシッと何かを弾くような音がして、すぐ後ろにあった気配が離れた。

 同時にアジャがガッと俺越しに伸ばしていた手を払い除ける。いつの間にか俺を庇うように背中に回されていたアジャの黒い尻尾が、ゆるゆると引いていった。


 俺の背後で何が行われていたのかは結局分からないが、とりあえず事態は収束したらしい。


『今日は撤退、束の間の平和をあげるわ、竜の魔王』

[見逃してあげるから、どっかへ行ってよ、雑魚]


 ととん、と軽やかな音が窓枠から過ぎ去っていく。


 俺は振り返ることができなかった。

 ただ、俺越しに向こうを睨むアジャの顔を見続けた。


 背後の、外の階下、下の方で、厳つい馬の鳴き声が聞こえる。


 馬の鳴き声。

 色々な憶測が頭をよぎったし、多分それは大体合っているのだろうと思ったが、俺にはそんなことを考えている暇などなかった。ただ、俺を映していないライムグリーンに釘付けだった。


 物音は遠のき、静かになった頃、やがて、アジャがぱちりと瞬きして、俺を見る。一度目があって、それから、気まずげにライムグリーンが逸らされた。


 それを認識した途端、俺はその場に崩れ落ちてへたり込んでしまった。

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