第40話 これからと、出会いの謎


 その日の夜。

 作業を終えて部屋に戻ってから、俺はアジャに声をかけた。これからどうするかの話がしたかったからだ。


 部屋にはベッドと明かりの蝋燭しか家具がなく、窓がひとつある。もうすっかり夜だったので、窓の外は温和で隙間のない闇が世界を塗りつぶしていた。


 蝋燭の細い炎が少しくすんだ色のベッドシーツをじわりじわりと赤く照らす。俺とアジャがベッドに腰掛けると、体重で沈んだベッドとシーツの皺が濃い黒の影を作った。


[……これから?]

[そ。ずっとこの生活は送れないだろ。少なくともこのギルドはスタンピードの片付けが終われば別の場所に行くらしい。俺たちもこの集落に残るか、ギルドについていくか、それとももっと他の場所に行くか、考えないといけない]

[……]


 俺の言葉に、アジャは考え込む素振りを見せる。

 アジャは心なしか少し憂いた表情をしていた。金糸のまつ毛がライムグリーンの瞳に影を作る。


[ずっと一緒には、いれないの?]

[巨狼の棲処に所属するってことか?]

[うん。カーニャと、ヨンさんと……]


 列挙される名前に、俺は思わず微笑んだ。

 一緒にいたい人が増えるのは良いことだ。初めて会った頃の来るもの全部拒んでいた態度から考えると感慨深いな。


 アジャの頭を撫でながら、しかし俺は厳しいことを口にする。


[それもひとつの選択肢ではある。ただ、組織に所属するのはリスクもあるぞ。移動は組織に合わせなくちゃならないし、行動も制限される。あと……例えばの話なんだが。……例えばな? アジャ公が覚醒者だってバレたら、人間みんながアジャ公を殺そうとするとするだろ?]

[……]

[もしもそうだった場合、カーニャたちが殺しにくる、だけじゃ済まないかもしれないんだ。カーニャたちはアジャ公を匿っていた悪いやつだと、他の人間から攻撃されるって可能性も、]

[!]

[まあ、なくはない]


 アジャがライムグリーンの瞳を大きく見開いた。

 きゅっと剣呑な色を乗せて瞳孔が絞られ、けれどすぐに不安にゆらゆらと揺れ出した。


 俺とアジャはベッドの上に並んで座って話をしていたのだが、アジャはしおしおと体育座りになって小さくなっていく。黒い尻尾も丸まり、ただでさえ小さな体は小さく小さく頑なな結び目みたいになる。

 俺はその頭を丁寧に撫でた。


[……]

[例えばな。例え話だ]

[……でも、もしかしたらそれが本当かもしれない]


 すっかり固くなった声が落ちる。

 俺は[そうだな]と相槌を打った。


 アジャはすっかり意気消沈していた。

 瞳の光はゆらゆらと不安定に揺れていて、心なしか側頭部の立派な角まで元気なさげにしおしおしているように見える。それだけ辛いのだろう。


 そう、これはアジャにはとてもしんどい話題であると思う。俺はそれが分かっていてこの話をした。必要な話だと思ったからだ。


 そして、もういくつか俺が聞かなければならない話がある。ずっと聞くのを後回しにしていた話だ。


 俺は疑問をひとつずつ解消するために息を吸う。


[……アジャって、覚醒者が何かは分かるのか?]

[分かるよ。種族の壁を超えるんだ。条件を揃えれば、誰でもなれる]

[まじ?]


 アジャの言葉に、俺ははたりと瞬いた。


 誰でもなれるんだ? 俺とか人間でもなれるってこと? それは驚きだ。

 覚醒者は、アジャみたいに特別強い奴がなれるものなのかと思っていた。そんなに数は多くないみたいだし。


 部屋にある蝋燭の火は小さく、頼りなくゆらゆらと揺れている。小さな炎はかろうじて俺とアジャの輪郭を照らしているけれど、部屋全体を照らすには至っていない。部屋の隅には黒い闇がじわじわと居座っていて、そして俺とアジャからも黒々とした影が伸びていた。


 アジャがぐりぐりと組んだ腕に顔を埋める。


[……その条件が、よく分かんないんだけど。群れでは俺を覚醒者にしたくて、だから俺は……色々、やらされて、た]

[覚醒者ってなにが嬉しいんだ?]

[竜に、必要なんだって]

[……よく分からん]

[俺も]


[俺も、分かんないよ]とアジャが吐き捨てるように呟いた。不貞腐れたような響きをしている。


[……分からない。分からないのに、なろうとしてたんだ。俺は特別だから、なれるって……意味分かんない]

[誰でもなれるんじゃないのか?]

[誰でもなれるけど、特別じゃないとダメなんだ。分からないけど、条件がとても難しいんだと、思う]


 ふぅん?

 やはりいまいち分からないな。それだけこの件に関してアジャは何も知らされていなかったのだろう。この件はこれ以上深掘っても意味がなさそうだ。


 俺がそんなことを考えていると、今度はアジャがおずおずと俺を見た。


[……人間なら、知ってるかな]

[ん? ああ、かもな。殺しにくるんだろ? なんか人間には不都合なんだろうな]

[……強くは、なるよ。前よりずっと魔力量が増えた]

[うーん……]


 強くなるのは、多分そんなに重要じゃないと思うんだよな。アジャが以前言っている通り、いくら強くても人間総出で殺しに来られれば死ぬだろう。

 それに多分、竜ってもともと強いだろ。竜に必要なのが強さだとは考えにくい。


 そもそも不気味なのが、俺はこれまで一応カーニャをはじめとした砦の冒険者たちに、覚醒者についてそれとなく聞き込みを行っていた、その結果だ。


 ──知らない。


 誰も彼もが、覚醒者という言葉に心当たりはないと答えたのだ。


 おかしな話だった。人間は覚醒者を殺しにくる。それなら、人間は覚醒者について知っていて然るべきだというのに。


 蝋燭から、蝋がとろりと垂れて受け皿に落ちていく。

 俺は短くなっていく蝋燭を眺めつつアジャに聞いた。


[そういえばお前いつ覚醒したんだ?]

[神鳴りのときだよ。正確には、神鳴りを落とす直前。流石に、覚醒せずにあれは無理]


 ふぅん。あの初手の神鳴りか。ということは、もしかして俺があの森にいた同タイミングで覚醒してたのか?

 ……少なくとも、あの時あの瞬間、特に大きな音や異様な音はしなかった。だから俺は呑気に持ち物チェックなどをしていたのだ。


 音があったのは、あの神鳴りからである。


[──あれさ、あの神鳴り、結局あのとき何が起こってたんだ?]

[……言わないとダメ?]

[言うの嫌なのか? 嫌な理由は聞いても良いか?]

[んー。……言うのは嫌だよ。でも、言わないといけないのも、分かる]


 アジャは口をむにむにとさせた。


 案外長い時間、アジャは言葉を選ぶように、時間を稼ぐように口を動かすだけで、意味のある音は発さなかった。それだけ言いたくないのだろう。


 見れば、その瞳はたくさんの水分を溜め込んで、決壊寸前だ。


[アジャ、]

[…………あのね。オババがね。オババが言うんだよ。殺しなさいって。オババが]

[……オババさんが?]

[もう堕ちるから、殺しなさいって。嫌なのに。嫌だったのに。でも、オババが言うから]

[……]


 その先は言わなかった。言わなかったが、なんとなく察しは及ぶ。言われるままに殺したのだろう。アジャは涙を堪えるようにきゅうと目も口も閉じる。


 確認のために俺は努めて優しく、でもはっきりと聞いた。


[オババさんになんて言われて、誰を殺したんだ?]

[……もう堕ちるから、殺しなさいって言われて、……、……オババを、殺した]


 絞り出すような声。俺はアジャの背中をさすった。アジャは結局涙を零さない。


 ──しかし、なるほどな。

 色々主語が抜けてて分かりにくいが、オババさんが自分を殺しなさいとアジャに言って、アジャはそれを忠実に実行したわけだ。


 まさかの事態に俺は眉を顰める。


 アジャが何かを殺したことのある気配は察していたけれど、まさかオババさんまでそこに入るとは思っていなかった。

 でも考えてみればそうなのか? アジャは俺と出会う直前までは群れにいて、それを神鳴りで更地にしたんだから、多分同族殺しはやっていたんだろう。


 それにしたってなぁ。

 こんな子供が背負うには重すぎるものだし、オババさんも何でわざわざアジャに殺させたんだ。自分で死ねば良いものを。


 よく分からない。相変わらず詳しい事情がよく分からない。しかし酷く胸がもやもやする。


 ……それにしても、堕ちるってなんだろう。

 よく分からないが、良くないことであることはなんとなく分かる。じゃなきゃ殺せとか言わないだろ。


[……]


 アジャは泣いていた。涙は全然出ていないけど、多分ずっと泣いていた。


[そしたら、もういいやって思っちゃって。もうオババも言うならいいやって思って。これからも言われる通りにやらなくちゃならないなら、言う奴を全部無くしちゃおうと思って……!]


 泣いているのに、瞳は焼け死にそうなほどの鮮烈なライムグリーンだ。

 蝋燭よりも爛々と輝く瞳が、俺を焼く。


[もともとあそこは、深い谷だったよ。覗いても底が見えないくらい深い深い、そして荒野を真ん中から二つに割る長い……峡谷、だった]


 ふと、峡谷と渓谷の定義の違いを思い出した。

 まああんまり明確な定義はないらしいのだが、谷間の深さと幅で分けられるらしい。

 渓谷が谷間の幅が広い谷で、峡谷が渓谷よりもさらに深く狭く両側が切り立った崖になっているV字谷のことなのだそうだ。


[底から飛んだら、全速力を出しても上に出るまで少しかかるくらいの深さだった。岩壁にたくさん横穴があって、竜はそれぞれの穴に住んでた。谷底には森があった。霊脈があるから、日が届かなくても雨が降らなくても森は枯れないし、雨が溜まって森が流れてもまた茂る]


 ……うーん、嫌な予感がするなぁ。


 俺は本当の本当の初手では森にいた。薄暗くて昼も夜も分からない森。空気はカラカラで、しかし枝葉は異常に茂っていた。

 森だ。森なのである。


[俺が、全部、削っちゃった]

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