第30話 大陸言語


 しばらく、巨狼の棲処のギルドハウスで寝泊りし、昼間は砂ネズミの解体に従事する日が続いた。


 過ごしているうちに気付いたんだが、巨狼の棲処はマジで相当待遇が良い。


 三食保証されて、寝る場所も個室、そしてカーニャが常に俺たちの世話係としてついており、仕事もきちんと教えてくれる。報酬は低めらしいが、生活する上での基本的な支出は完全にギルド持ちだ。不満はない。


 他のギルドの冒険者などともたまに話す機会があるが、話を聞くにもっと色々と雑なのだそうだ。良く言えば自由度が高くて、悪く言うなら不親切。

 まあそれは逆に言うなら、巨狼の棲処が拘束が強いギルドだとも言えるわけだが、常識も何もかも知らない俺たちにはサポートが手厚い方が有難かった。


 つまり、そこを初っ端で引き当ててお世話になれている俺たちは運が良いという話だ。


『ハチさん! アジャコウ! おはよーっス!』

『おはよう、カーニャ。今日も元気だな』

『……ふ、うよ』

『うん、おはようっス! アジャコウ!』


 身支度をして部屋を出た俺たちに、カーニャが元気よく声をかけてきた。ピョコンと短い三つ編みが飛び跳ねる。


 俺とアジャが大陸言語で返事をすると、カーニャはニコニコしてアジャにまた挨拶をした。

 アジャはすでに挨拶と自分の名前は大陸言語でも聞き取れるようになっていて、カーニャに向けてふわりと笑む。


 俺もそれを暖かな心地で見守った。


 そう、ここに来てから、アジャは少しずつ大陸言語の勉強をしている。


[ハチ、言えてる?]

[言えてない。カーニャじゃなかったら伝わらないだろうな。『お、は、よ、う』。口を大きく動かすんだ]

[む……]


 アジャの問いに、俺は首を振った。


 アジャと目線を合わせて、『お、は、よ、う』の口の動きをゆっくりと繰り返す。アジャはそれを瞳孔を細めて観察した。ライムグリーンの瞳孔が縦長になって色を増す。集中しているようだ。


 だが、その後出てきたのは期待した通りの言葉ではなかった。


『ふおおん』

[んー、イントネーションはいい感じなのに、発声というのかなんというのか、口の動かし方が違うんだよな……]

[うううん……]


 俺がアジャの言葉を評する。

 アジャは難問にぶち当たった学者のように腕を組んだ。


 アジャが大陸言語の勉強を始めたのは、この集落に来て3日目のことだ。


 兎にも角にも、この場所では大陸言語がスタンダードである。アジャの話す言葉を喋れる人は誰もいなかった。全員に尋ねて回ったわけではないから何とも言えないが、分かる人がマジで誰もいないっぽい。


 俺という通訳が四六時中一緒にいるとはいえ、自分以外が自分には分からない言葉を喋っているというのはものすごいストレスだ。

 それに、今後人間の町で過ごすなら、おそらく大陸言語の習得は必須事項である。


 というわけで、俺はアジャに大陸言語を教えることにした。


 教え方は正直手探りだ。

 そもそも俺は人に言葉を教えたことがなく、聞いて喋れるだけだ。由来や根拠の類はなにも分からない。とにかく「これはこういう意味だ」くらいしか教えられない。


 結論から言うと、俺の懸念は空振りだったけどな。


 アジャは、大陸言語の発音の習得で盛大につまずいている状態だった。


 ちょっとつまずいているとかじゃない。『おはよう』が『ふおおん』になるくらいの、わりと跡形もないつまずき方だ。


[発音、難しいよ]

[そうか?]

[だって、うーん、ハチは、大陸言語では『ん』は同じだって言うけど、俺にとっては、ん、とか、んん、とか、ン、とか、んー、とか、ん〜、とか、全然違うんだ]

[あー]


 俺は理解を示す声をあげる。


 アジャの言葉は、日本語的に言うなら「ん」の発音の種類が圧倒的に多く、逆に「か」「た」などの弾くような発音はほぼゼロだ。「あ」などの口を開くような発音もほぼ無い。もうほぼ「ん」と母音だけで構成されている。大体口を開かずに会話ができるのだ。


 だから、口をはっきり開いて喋る大陸言語は相性が悪い。


[あと、『つ』みたいなやつの違いが分からない。同じに聞こえる]

[ホントに弾く音ダメなんだな……]

[複雑……]

[いや複雑さで言ったらお前の言葉の方が上だと思うぞ]

[どこが?]

[『ん』と『……ん』とか]

[あー、ハチ、骨に響かせない音苦手だよね]

[人体構造的に無理ないか?]


 いや、マジで、大陸言語に比べたらアジャの言葉の方が複雑さは圧倒的に上だと思う。


 まず発音の種類が多すぎるし、その中でも「ん」の発音の種類がさらに多すぎる。例外的な使い方もすごく多いし、音程の違いで使い分けるのも多い。


 あと、俺にはそもそも発音不可能な音もある。今言った鼻の骨を震わせない音なんだけどな、そういうの含めて会話がマジで鼻歌。


 しかし、大陸言語に慣れた俺にとってアジャの言葉が複雑なら、逆に母語に慣れているアジャにとって大陸言語は複雑なのだ。


[ハチは『ん』が全部同じって言うけど、無意識に使い分けてる、と思うよ。だって、俺の発音、変なんでしょ]

[まあな]

[ハチ、なんで俺と同じ言葉喋れるのに分からないの]

[んー、大陸言語の方が習得が先だから、みたいな……]


 嘘だ。

 習得はアジャの言葉が先で、大陸言語は後である。しかし、大陸言語の発音は日本語の発音に酷く似ているのだ。


 俺は謎能力で他の言語が話せるだけで、母語は日本語である。当然、日本語とそれに類する言語の発音はやりやすい。

 対してアジャの話す言葉は日本語と全く違う。発音の慣れやすさは大陸言語の方が上だった。


 また、俺はどんな言語も話せて聞けるだけで、使い分けなどは無意識だ。説明を求められると無意識でやっているから説明が難しいことが多い。


 例えば、有名なのだと日本語の「L」と「R」みたいな感じなのだろう。


 英語では「L」と「R」は全く違うものだが、日本語ではどちらも「ら」行である。ただ、一説によると日本人は「ら」行の単語を発音するとき、無意識に「L」と「R」と時には「D」っぽい発音を使い分けているらしい。


「ありがとう」は「L」に近くてaligatoと言っているし、「売る」は「R」に近くてuruと言っているのだとか。日本人にその辺の使い分けはうまく説明できない。だって無意識だから。


 アジャはもどかしげにグルルと唸った。

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