第22話 食事の方法


[……めんどくさいなって、思う]

[うん]

[……なんで俺が合わせなきゃダメなのって、思う]

[うん。そうだな]


 ぽつりぽつりとアジャが言葉を溢す。

 俺はそれを丁寧に拾って相槌を打った。


 目の前の皿に乗ったステーキは、まだホカホカと熱を持っている。

 切れば閉じ込められた肉汁が溢れ、とろりと脂が溶けて柔らかい赤身と絡んでいるのだろう。濃厚な肉の匂いと臭みを取るためのハーブの匂いが食欲をそそった。


 アジャはステーキを睨むように見つめている。


[食べるのなんて、毎日だよ。毎回俺が使わなきゃダメなの? これ。……人間に合わせて?]

[不満か?]

[……うん、不満だよ]


 俺の問いかけに、アジャがはっきりと頷いた。


 俺はそれを見て思わず微かに笑む。


 最初は不満があっても黙って飲み込んでいたアジャが、はっきりと不満を口にしている。こんなにはっきりと言ったのは初めてなんじゃないだろうか。


 とても喜ばしいことだ。

 もちろんそれだけ不満なのだろうが、その気持ちをまずは口に出して訴えてくれたことは成長だと思う。


 それに、言ってることはかなりその通りだとも思うし。

 多分何事も無ければ、アジャは人間の町に来ることはなかった。であれば、こういう面倒臭い作法に則った食事をする必要もなかったわけだ。

 本来ならやらなくても良いことを強制されるのは、普通にストレスのはずである。


 俺はよしよしとアジャの頭を撫でた。


[……ハチと一緒に過ごすときも、少し思った]

[うん?]

[ハチに合わせないとダメなのか、……て]

[あー]


 そうだろうな。

 俺に合わせて歩かせたり、俺が夜の寒さで凍死しそうになったり、飛ぶにも俺がアジャの背中に乗れなかったり、かなり不自由させた自覚はある。どれもアジャが一人で過ごすなら必要ない不自由だ。


 俺は尚もアジャの頭を撫でる。


 そんな俺たちを、カーニャはそわそわと見守っていた。

 安心させるためにニコリと笑う。

 カーニャはそれを受けてピシリと固まり、少しした後、せっせと肉を切り始めた。あれ? 何故?


 アジャはそれに気付いているのかいないのか、ゆっくりと喋り続ける。


[……ハチ、言ったよね。嫌なことからは逃げてもいい、みたいなこと]

[言ったな]

[じゃあ、これも別にやらなくてもいいんじゃないの?]


 アジャがじっと肉を見ていた目を俺に移した。

 ライムグリーンの瞳がピカピカしている。


 これは、対応を間違えてはいけないところだ。

 慎重に言葉を選ばなければならない。

 俺は目を細めた。


[そうだな。やるかやらないかはアジャ公が選ぶんだ。やってもいいし、やらなくてもいい]

[……なんか、もやもやする言い方]

[よく聞いてるな。その通り、これには前提条件がある]


 アジャが首を傾げる。

 俺は指をひとつ立てて、話し始めた。


[例えば、このまま人間の町から逃げたとする]

[……むん]

[例えばな。例えば。人間の町に住むのをやめたら、当然人間の町以外の場所で住まないといけないだろ? つまり、人間の町は選べない選択肢になるわけだよ]

[……まあ、そうかも]

[じゃあ未来にさ、人間の町がどんどん増えたらどうなる?]

[…………む]

[俺たちが住める場所はどんどん減っていくんだ]

[……]


 アジャが口を尖らせて考え込んだ。


 ……というかこの例え、俺は人間側だからかなり皮肉じゃないか? マッチポンプという言葉が頭をよぎったが、まあいいか。続けよう。


[逃げてもいい。むしろ逃げるべき時もある。でも、逃げるってのは、選択肢をひとつ捨てることになる。それをよく考えた上で、逃げるかどうか選ばなくちゃならない]

[……]


 アジャからの返事はなかった。ずっと黙って考え込んでいる。


 俺は黙ってアジャの反応を待った。

 しばらくの沈黙を置いて、ある程度は考え尽くしたのか、アジャは短く息を吐く。金色の睫毛がパチパチと瞬いた。


[……難しい]

[ああ。凄く難しいことだよ]

[……ねえ、ちなみに、なんで最初は逃げるのを選んだの?]

[何を捨てたとしてもまあ死ぬよりは良いかなって思った。あそこにいたらお前は殺されるらしいし、俺もどの道生きていけないしな。それに、一回逃げてもまた戻ってくる選択肢もあるし]

[今は?]

[今はまだ死ぬ危険はないからな。考えて選べる場面だろ]


 アジャが[ふぅん]と鼻を鳴らす。


 そして、アジャは少し考えた末に一言。


[……ハチは、死ななければ、良いの?]

[……、]


 その問いに、俺は思わず言葉を飲み込んだ。


 なかなか難しい問いだった。


 お忘れかも知れないが、俺の将来の目標は綺麗な死体になることだ。眠っているみたいに綺麗な死体。安らかな顔で体に傷がないと良い。


 だからつまり、死ななければ良いというわけでもない、と思うのだ。


 俺が一瞬呆けたそのとき、テーブルの空気を幼いボーイソプラノが切り裂いた。


『あの!!』


 向かいの席に座るカーニャが声を上げたのである。

 アジャと一緒に顔を上げると、カーニャはフォークに切った肉を刺し、それをずいっとアジャに差し出していた。


 ちょっと緊張したような面持ちで、カーニャが言う。


『ア、アジャコウ、とりあえずまずは食べてみるっス! 食べ物があるのはありがたーいことなんスから、食わず嫌いはダメっスよ!』


 そうして、またずいっとアジャに向かってフォークを差し出す。

 なるほど、そういえばさっきカーニャに『アジャコウはワイバーンが苦手なのか』と聞かれたな。とにかく一口食べてから判断してほしいということか。


 アジャはカーニャの言葉が分からないので、困惑した顔をした。


[え、なに]

[とりあえず食ってみろってさ]

[……いや、別に、自分で食べるし……。それに、他人に向かって口を開けるのは、ちょっと……]

[手で受け取れば良いんじゃないか?]


 俺の言葉にアジャは[む、そっか]と言って、慎重にカーニャの様子を窺いながら手を伸ばした。

 カーニャもアジャの意図が分かったのか、アジャの手に自分のフォークを押し付ける。


 アジャはしげしげとフォークに刺さった肉を眺めた後、[このまま口に入れて、抜けば良い?]と食べ方の確認をし、遠慮がちに口を開けた。


[あむ……]

『ど、どうっスか!?』


 カーニャが身を乗り出してアジャの様子を見る。


 アジャは肉を口に入れた瞬間、ピシッと固まった。

 ライムグリーンの瞳が大きく見開かれる。


[……]

『えっ、なになに、何っスか!? ハチさん、アジャコウ反応分かりにくいっス!』

『あー、アジャ公は頭が良いけど、多分人と一緒に過ごしたことがあんまり無いんだ。ちょっと待ってやってくれ』

『え、ずっと一人ってことっスか……?』

『さあ? 俺もアジャ公とは会ったばかりで、あまり分からない』


 俺とカーニャがそんな話をしている間、アジャは一心不乱に肉を噛み締めていた。


 この反応は覚えがある気がする。

 俺とカーニャが見守る中、アジャが肉を飲み込み、ペロリと唇を舐め取った。きゅう、とライムグリーンの瞳孔が縦長に細まる。


 そしてアジャは、ガバリとこちらを向いた。


[ッ、ハチ! ハチハチ!]

[ん、どうした?]

[つ、使い方、使い方教えて!]


 カチャカチャと見様見真似でナイフとフォークを両手に持つアジャ。よく見ていたのか、意外とちゃんと持てている。


 俺はそれを見て、少し笑ってしまった。


 うん、この反応は覚えがある。

 アジャが初めてキャラメルを食べた時と似たような反応だ。


 つまり、ワイバーンのステーキがめちゃめちゃ気に入ったのだろう。面倒臭がっていたナイフとフォークを思わず手に取るくらいは。


 ははーん? なるほど、面倒臭さよりもステーキの美味しさが勝ったな?


 そういえばアジャはまだ子供だったなと、俺はそんな当然のことを考えた。

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