第12話 命の水


 遠くで竜が吠えるような声が聞こえた気がする。


 竜が吠えるといっても、なんだか高い声だ。きゅうん、きゅうんみたいな、犬が鼻を鳴らすのに近い声。

 そうだな、アジャが初めてキャラメルを食べた時に、鳴き声を上げただろう。あの声と同じ声が鳴いているような感じだ。


 ただ、何故だかなんとなく助けを求めるような切ない声に聞こえて、俺は重い瞼を動かした。


 ぱちりと、存外軽快に目が開く。


[……起きた?]


 目の前には、アジャがいた。


 俺の視界いっぱいを埋める青い空に、ぴょこんとアジャの頭が飛び込んでくる。空の感じを見るに、気絶してからそれほど時間は経っていないことが察せられた。


 意外と近いところにアジャの顔があるので、長い金色の髪が俺の上に垂れ下がっていた。


 俺は何度か瞬きながらそれを見て、そして意識を失う直前のことを思い出す。


 そうだ、俺は何故だか唐突に気持ち悪くなって、気絶したのだ。

 あれは一体なんだったんだろう。


 自慢じゃないが、俺は人並み程度に体は頑丈だ。

 風邪はあまりひかないし、持病もない。せいぜい花粉症があるくらいか? 小学生の頃は皆勤賞を取れるくらいの健康優良児だったし、とにかく急に気持ち悪くなるような質の悪い病気には覚えがない。


 ここには病院もないし、もしも病気なら本格的にここでお陀仏だ。


 そこまで考えたところで、俺はふと自分がすこぶる体調が良いことに気がついた。喉の痛みも、気持ち悪さも何もない。


[あれ……あんなに気持ち悪かったのに今は驚くほど気持ちが健やか]

[……まあ、霊脈の……命の水を吸収してるから。……多分、あまりの力に体がビックリして、今は吸収終わったんだと思う……]

[命の水?]


 初めて聞くワードだ。


 おそらく飲んだら爆発するらしい水のことだろう。あの水本当になんなんだ。


 俺が怪訝な顔をして聞き返すと、アジャは少し口をむぐむぐさせて考え込んだあと、喋り始めた。


[……霊脈の水は、吸収すると体の魔力が活性化して、どんな怪我でも病気でも治るんだ。だから命の水って呼ばれてる。知らないの?]

[知らない……そんな超常アイテム知らない……なにそれ超強力なポーションみたいな? 「エナジードリンク」の濃縮一億倍……?]

[確か、ポーションの原料のすっごく純度が高いやつだよ。オババが言ってた]


 アジャが少しドヤ顔で解説してくれる。

 俺はへぇ、と感心して頷いた。


 というか、そもそもポーションなんて存在するんだ。


 ポーションとは、液状で服用する薬、または毒という意味の言葉である。転じてRPGなどのゲームでは、魔法的な回復アイテムとしてよく出てくる。当然地球には存在するはずもないものだ。


 ……今更だけど、ここはどこなんだろうなぁ。

 もう流石に夢ではない気がするし、明らかに地球ではないんだよなぁ。


 異世界転移ってやつだろうか。今流行りの。


 俺は首を傾げた。


 異世界転移だとしたら、何故だ?

 何故俺は異世界転移なんかしたんだ?


 しかし一人で考えても答えは出ない類の疑問なので、俺は一旦その疑問を横に置いておくことにした。町とかに着いたらそれとなく同類がいないか探してみよう。


 俺は一つ頷いて、アジャを見た。

 話を戻そう。


[……よく分からんが、貴重なものなのか?]

[命の水を求めて竜の峡谷に来る人間もいるくらいだよ。大体死ぬけど]

[ふぅん]


 相当貴重なものらしい。


 俺はゆっくりと体を起こす。

 そして気づいた。


[うわ体が軽い。えっ腰痛も肩こりもない! 目もしょぼしょぼしないし、えっ、すご! 若返った俺!?]

[若返ってはないと思うよ。体が一番元気な状態になったんだよ]

[よく分からんが代謝がものすごいスピードで行われたみたいな? てか、え、髪……?]


 パタパタと体をあちこち触って確認していると、さらりと視界に黒くてくるくると毛先の跳ねた毛束が落ちてくる。


 つまんでみると、どうやらそれは髪だった。しかもすでに抜けたものではなく、きちんと俺の頭から生えている。

 俺の髪は毛先が視界に入るほど長くはない。ではこの毛束はなんだ?


 嫌な予感がして頭を触ると、わさっと多量の繊維質の感触がする。触ってみた感じ、肩につくくらいの長さだ。カツラとかではなく、正真正銘俺自身の髪である。


[え、伸びた……?]

[うん。体毛全部成長してると思うよ]

[なにそれキモ。うわ、確かに爪も伸びてる。でも全身毛むくじゃらってわけじゃないな]

[そうだね、ほとんど髪だけ伸びた感じ]

[めっちゃ長くなってんだけど。怖]


 命の水とやらを吸収した影響だろう。

 やはり命の水は、代謝を急激に促進して、体の細胞を全部一気に新しいやつに入れ替わらせるとかそんな感じの効果なのだろうか? それなら髪が伸びるのも頷けるような、そうでもないような……。


 その理論だと、体が一気に歳を取ることにならないか? 俺は人体の構造とか医療とかそういうのは専門外なので、よく分からないけれど。


 俺はくるくると髪を弄びながら考えた。


 それにしても、この伸びた髪はどうしようか。

 俺の髪は典型的な猫っ毛で、しかも碌に手入れをしないものだから大体常時ボサボサだ。端的に言うなら伸ばしてもみっともないだけなのである。早急に切りたいところだ。鞄の中に何か切れそうなものはあっただろうか。


 ゴソゴソとおもむろに鞄を漁っていると、アジャがうろうろと迷うように視線を彷徨わせたあと、ぽそっと呟く。


[……でも、長いの、いいと思う]


 おや、と俺は鞄を漁る手を止めてアジャを見た。


 褒めてくれているのだろうか。

 可愛いことを言うじゃないか。


 アジャはもぞもぞと居心地悪そうにしていて、尻尾は地面を絶えずたしたしと叩いている。アジャの尻尾は普段は大人しいものなので、落ち着かないのだろう。


 俺は胸に湧いたくすぐったさと暖かさのままに、アジャの頭をくしゃりと撫でた。

 アジャが[なに?]と俺を見上げる。


 ……うん、まあ、アジャが良いと言ってくれるならそう卑下するものでもないのかもしれない。切るのはとりあえず保留としよう。


 アジャの髪はさらさらと絹糸のようで、柔らかく滑らかな触り心地はなかなか良かった。


[なら、とりあえず括っとこう。輪ゴムがある]

[あ、いいね、似合う]

[そうかぁ?]


 とりあえず輪ゴムでポニーテールのように一括りにしておく。

 高い位置にまとめたのは、そうすると首元が涼しいからで特に深い意味があるわけではない。また、ゴムは取るとき髪に絡んで痛いらしいが、この際贅沢は言っていられない。


 アジャからは意外と好評だった。


 俺は思わず口元が緩むのを感じた。


 アジャが「好き」だとか「良い」とか肯定的なことを言うのは、実は案外珍しい。そもそもあまり喋る子じゃないし、今はまあまあ打ち解けていると思うが、最初はかなり警戒されていたから。


 あと、アジャは感情を言葉にして発するのに多分あまり慣れていない。


 キャラメルのときですら、初めて食べたときに自分から美味しいとは言わなかったし、また自分から好きだとも言い出したことがない。

 あからさまに食べたそうにはするから好きなのは明白なんだけどな。


 好きなものを見つけるのも、それを誰かと共有するのも、子供にとっては大事なことだと思う。これからはたくさんやってほしいなと、そんな保護者気取りなことをふと思った。


 さて、俺は括った髪をパサリと雑に払う。


[んじゃあ行くかぁ]

[……ハチ、背中、乗る?]

[え?]


 いざ出発というところで、アジャに思わぬ提案をされ、俺はきょとりとアジャを見下ろした。

 アジャは真面目な顔で俺を見ている。


[移動、この速度だと、人間の町に着くのにすごくかかるよ。少数精鋭の勇者だって、人間の町から竜の峡谷に着くまでに、騎獣に乗って何日もかかるし、ここは人間の軍は来れないんだよ。人がたくさん移動すると、食べ物がたくさん必要だから、それが持ってこれるような距離じゃないんだよ。オババが言ってた]

[マジかぁ]


 [まあこの辺は竜種の縄張りだから、弱いと死んじゃうのもあるんだけど]とアジャがぽそっと呟くのが聞こえた。


 聞けば聞くほど絶望的だな。


 アジャ一人だったらどうにでもなるのだろう。だが、もし俺一人だったらどうやっても万事休すだ。

 魔物とやらに殺されるかもしれないし、そもそも食べ物もなくこんな峡谷を永遠に彷徨えば飢餓か脱水症状で死亡確定である。どれもしんどそうな上に、死体は散々な感じになってしまうことだろう。是非とも遠慮したい死に方だ。


[俺なら、一日で着くよ]


 アジャがむふーんと薄い体を反らして胸を張る。


 流石は最強種族だ。

 ここは任せるとしよう。


 唯一の懸念点は、俺が空飛ぶ竜に乗れるかということだが……。


[まあチャレンジあるのみか。頼んでいいか?]

[んふ。任せて]


 アジャがドヤっと得意げな顔をし、尻尾がペシリと地を叩いた。

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