第11話 水が欲しい


 乾いた空気が剥き出しの肌を撫でる。


 日の光が目の奥を刺激して、目が覚めた。


(……朝だ)


 硬い地面の上に直接体を横たえて寝たから全身がバキバキだし、空気が乾燥しているせいか口内から食道にかけてがもれなくカラカラに乾いていた。

 あまりにも乾いていて、ヒュッと息を吸い込んだ拍子に少し咳き込んだ。


 目を開くと、空は水をたっぷり含んだ青い絵具で満遍なく満たしたかのような快晴だ。波紋一つない静かな水面のように、澄んだ青だけがただ遠くにある。


 風の音が聞こえた。


[……ハチ、起きたの]

[おう、おはよ、ゲホッ]

[わ、声、大丈夫?]


 アジャはすでに起きていた。


 バキバキに固まった関節を労わりつつゆっくりと体を起こすと、アジャがこちらを覗き込んでいる。

 遮るものの無い陽光の下だと、アジャのライムグリーンの瞳は果実みたいに艶々していた。


 以前にも話したかもしれないが、アジャの操る言語はほぼハミングである。そして、ハミングはカラカラの喉ではほぼ音にならない。


 俺は挨拶をしようとして、無様に咳き込んだ。


 アジャがオロオロしている。


[みず……]

[水? 水が欲しいの?]


 声が出ないのでこくこくと頷いて見せる。

 喉を渇きを潤すには水を飲むのが手っ取り早い。


 しかし、頷いたところでどうしようもないことに気付いた。


 何故ならこの乾いた峡谷に手っ取り早く手に入るような水はない。

 四方八方カラカラな峡谷で水が欲しいだなんて、無茶振りにも程がある。アジャだって困ってしまうだろう。


 仕方ない、頑張って唾を生成するしかない。鼻の奥や喉の奥までカラカラで、水分出る余地なさそうだけどな。


 また咳き込んで、俺は気管に痛みを感じた。


 うーん、わりと深刻である。次から眠る時はマスクするか口に布突っ込むかして寝よう。口内の水分はマジで大事だ。


[ハチ]

[?]


 アジャの声が聞こえた。


 声が出なかったので、首を傾げて見せる。

 アジャは困ったように俺を見下ろしていた。


[水、ね。このあたりなら掘ればあるよ。ただ、霊脈の水だから、そのままだと人間には毒だと思う]


 なんぞそれ。


 再び首を傾げて見せる。


 アジャは[見た方が早いかなぁ]と言って、てとてとと辺りを歩き出した。

 よく見れば、小さな鼻がひくひくと動いている。匂い的な何かをもとに何かを探しているらしい。


 しばらくアジャは尻尾をゆらゆらさせつつその辺の峡谷を歩き回った。


 やがて目当ての場所を見つけたのか、とんとんと踵で地面を叩く。すごく軽やかな動作だったが、次の瞬間叩かれた地面がドッと陥没した。


[!?]


 少しして、チョロチョロと水の音がする。


 四つん這いになってのろのろとそちらへ行くと、地面から水が染み出しているのが見えた。俺の腕くらいの深さの穴に、結構勢いよく水が湧き出ている。


 水は最初は砂を含んでいたが、すぐに砂が沈殿して澄んだ水だけがそこを満たした。


 日の光を浴びて水と空気の境界がキラキラとしている。見た限りは飲めそうな綺麗な水だった。


 しかしアジャはそれを立ったまま見下ろして、うんと首を縦に振る。


[……ね、ほら、人間にはちょっと刺激が強そうでしょ。特にハチは、薄いというか、もう、無だし……]

[?]


 よく分からない。

 人間には刺激が強いとはどういうことだろう。

 俺が見た限りは普通の水なのだが、アジャには違うように見えているのだろうか。


 そして、俺が無、とは? え、俺は何が無いの?


 ゆるゆると喉をさすりつつ意味を問うようにアジャを見上げると、アジャもよく分からないというように首を傾げた。


[……もしかして、分からないの?]

[(こくり)]

[……見るからにすごく濃いのに?]


 濃いとか薄いとか無いとか、なんの話だろう。


 声が出せたらきちんと言葉にして問うのだが、まだ喉はハミングが出せる状態ではない。まあ時間が経てばきっと調子が戻るので、戻ってから話せば良いだろう。


 俺は分からないということを伝えるために首を振って、パタリとその場に横になった。


 そういえば腹が減ったなぁ。


 俺の視界いっぱいにはただただ青い空が広がっている。雄大で素晴らしい景色だが、見ていても腹が満たされるはずもない。


 というか、マジで見渡す限りの空と峡谷だ。

 アジャは大丈夫だろうが、これはもしかしたら俺が先に餓死するかもしれない。


 餓死というか、多分脱水で死ぬ。


 脱水で死んだ死体って綺麗なんだろうか。カラカラのミイラみたいな死体になるのはヤダなぁ。

 俺は空を見ながら呑気にそんなことを考えた。


 まあ俺の死体へのこだわりはおいておいて、このまま安全な水が手に入らなければ俺はアジャを残して死ぬことになる。

 アジャが今掘ってくれた水は何やら問題があるっぽいし、どうしたものかな。


 俺が死んだら、残されたアジャはどうなってしまうのだろう。


 ふとそんな考えが頭を過ぎる。


 別に、アジャは強いから俺一人がいなくなった程度でどうにかなったりもしないだろう。けれど、昨日の夜に眠気に身を任せながら聞いたアジャの言葉を思い出した。


[どんなに強くても、覚醒したら人間に討伐されるって、昔オババが言ってたんだ]


 どうやらアジャは「覚醒」しているらしい。

 だから人間に討伐されるかもしれないらしい。


 ……ふぅん?


 そもそも俺がいるからって生き残れるとも限らないし、アジャは意外と自分でどうにかしてしまいそうだが、しかし俺がいなくなったらこの子供は一人で戦うのかもしれない。


 ふと、そんなことが頭の端を掠めたのだ。


 そのとき。


 パシャン、と水がぶつかって弾けるような音がした。そして、俺のスーツにじんわりと染み込んでくる冷たい水気。


 ごろりと半身を起こして振り返ると、アジャが水を掘った穴の横にしゃがみ込んでこちらを見ている。手は濡れていて、俺の方に何かをかけたような形で止まっている。


 状況を総括するに、俺はアジャに水をかけられたらしい。


 え、何故?


 別にスーツは最初の雷の衝撃や地べたに直接寝たことで、すでにボロボロだし汚れまくっているので、今更少し濡れるくらい全く問題はないのだが、それはそれとして俺は今何故水をかけられたんだ?


 目でアジャにそう問うと、アジャはおそるおそると口を開いた。


[……水、多分ハチが直接飲んだら爆発するんだよ]


 え、待ってそれは一体どんな水なんだ?


 飲んだら爆発?

 初めて聞く現象なのだが。


 意味が分からなくて再度アジャを見ると、またアジャはおそるおそると喋り始めた。


[……だから、肌から吸収すれば、刺激も少なく済む、かなって]


 うん? 肌から吸収って何?

 これは本当に水なのか?


 少なくとも俺の知ってる水ではないだろう。飲んだら爆発する水なんて聞いたこともないし、多分地球にはない。


 二人の間をクエスチョンマークが飛び交う。


 アジャは多分、この水については俺よりもずっと知識がある。けれど、俺がこの水についてどこまで分かっているかが分からないこと、加えて俺が喉を痛めていて喋れないので俺が何を考えているか分からないことが、多分アジャを不安にさせていた。


 だからアジャもなんとなくオロオロしているのだ。


 俺は少々無理してでも何か話して安心させてやろうと、ゆっくりと口を開く。


 そして喉を痛めないようにゆっくりと息を吸ったところで、ぐわりと急激に何かが込み上げた。


「う、待って、気持ち悪……」

[? ハチ? なに? どうしたの?]


 ぐるぐると何かが全身を掻き回すような気持ち悪さが俺を襲う。咄嗟に出たのは、アジャの喋る言語じゃなくて日本語だった。


 アジャが慌てたようにこちらに寄ってくるのが見える。


 それを横目に、俺の意識はぷっつりと途切れた。

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