第8話 寒い
困った事態に直面した。
[日が沈むと足元何も見えないな]
[目、悪いの?]
[いや人間的には普通のはず……]
そう、日が沈んで夜になってしまったのだ。
夕焼けは神秘的で美しかったし、夜空は満天の星で写真を撮ってブログにアップしたいくらいなのだが、そんな呑気なことを言っていられない。
なにせ暗い。
空はよく見えるのだが、その分足元が本当に真っ黒で、大きな石が転がっていたり小さな崖みたいになっていたりしても等しく見えない。まさに闇だ。わりと本気で怖い。一歩も歩けない。
あと寒い。
日が沈んだら一気に空気が冷え込み、容赦なく体温が奪われる。俺が着ているのは夏物の比較的生地が薄手のスーツだから、もう容赦なく寒い。むしろアジャは襤褸切れ一枚で何故平気そうにしていられるんだ?
そして腹が減った。
俺は朝はダルくてご飯は食べられないタイプだ。そして午前中から家を出て、その帰りに気づいたらここにいたため、朝から何も食べていない。一日くらいなら絶食しても大丈夫だけど、数日続くとまずいぞ。
でも本当に見渡す限り峡谷で、食べられそうなもの何もないんだよね。早くも詰みかな?
[アジャ公、お前は大丈夫か? 寒いとか、腹減ったとか]
[……気候は変わってないし、平気。ご飯も多少の絶食は耐えられるし、別に……]
[「ハイブリッド」過ぎかよ竜]
羨ましいことだ。
聞くに、マグマの中でも泳げるし、氷の中でも眠れるとのこと。流石古今東西のファンタジー小説で最強の名をほしいままにするだけあるわ。便利過ぎる身体である。俺もその身体に生まれたかった。エアコン必要なくて電気代浮きそう。
「……」
そんなことを現実逃避気味に考えているが、それよりも今俺が考えなくちゃならないのは現状の打開策だ。
わりと本気でまずい。
暗いのは、動かなければ良い。空腹も、まあすぐにどうこうはならない。今後どうにかなる見込みがないのはヤバいけど、まあすぐに死んだりはしない。
が、寒さが今すぐ命にかかわるレベルでヤバい。凍死しそう。震えが止まらないし、唇とか紫になっている気がする。
[……寒いの?]
[……人間は体温を35℃以上38℃以下に保たないと死ぬ生き物なんだよ死にそう]
[えっと、冬眠の仕方教えようか?]
[ごめん「爬虫類」じゃないから冬眠はできない]
気遣わしげにこちらを窺うアジャはいじらしいが、ごめんホント生物的に冬眠は無理がある。人間は変温動物ではない、恒温動物であるので。
俺は地面に座り込んで、自分を抱きしめるようにして縮こまった。
表面積を減らして体温が逃げていく部分を少なくしないと、あっという間に風に晒されて冷え切ってしまう。それでも着実に体温は下がる。
ぶるぶる震える俺を、アジャはおろおろと見下ろした。
[俺、できること、ある?]
[……あっためる方法、なんかない?]
[えっとえっと、火を出す魔法がある……]
[待ってヤな予感がする、使うのはちょっと待て]
まさか無いとは思うが、直に火炎放射とかされたらこんがり焼けてしまう。
いやまさか無いとは思うけど、今までの竜の最強具合を聞いた感じ善意でうっかり炙られたりとかありそうで怖い。
なんとなく、アジャはまだ人間と会ったことが無いのか、俺のか弱さを理解してない節がある。
峡谷を歩く最中も、崖に行き当たったりすると俺は回り道するんだけど、アジャは何故進路を変えたのかいまいち理解できない顔をしていて、崖の向こう側に辿り着いてからやっと回り道したことに気づいて、大分衝撃を受けた顔をしていた。そんな非効率的なことする!? みたいな顔だった。
いや飛べないよ? お前は飛べるのかもしれないけど、俺は飛べないよ?
それ以降も進路を変えるたびにやや不満そうな顔をしていて、俺はひっそりどうしたもんかと思ったりした。
どうでも良いけど、不満なら言えばいいのに何故だんまりしているんだろう。いや言われても困るけどさ。
そんな調子なので、アジャは気遣わしげではあるものの、同時にちょっと面倒くさそうでもあった。
[細かい注文で悪いんだが、火を、その辺に出して、維持出来るか?]
[出来るよ]
[大きさはこれくらいで、一晩中出しっぱなしにして欲しいんだが]
[そんな大きさじゃ吹き消されちゃうけど……、じゃあ、結界張って風も遮る]
アジャはそう言うと、ふんふんとまた呪文らしきものを唱える。
すると冷たい風が吹き付けていたのがふわりと止み、そしてボワッと黄緑色の炎が宙に現れた。
ライムグリーンの光に照らし出されて、アジャの顔が明るくてらてらと浮かび上がる。
[どう?]
[ありがとう、風がなくなるだけでも大分マシだ。はぁ、あったかい……]
俺はほぅと溜息を吐いて、炎に手を翳した。
黄緑色の炎というのはなかなか奇妙だが、暖かさに違いはない。メラメラと踊る炎がじわじわと柔らかな熱を俺に伝えてくれた。
アジャはそんな俺を不思議そうにジッと見ている。
その顔には理解できないことを目の当たりにして腑に落ちないでいるのがありありと表れていて、俺は苦笑した。
[どうした?]
[別に……]
[言いたいことがあるなら、言ってくれよ]
アジャは俺の言葉にあからさまに困ったような顔をする。
しばらくの間うろうろと視線を彷徨わせ、やがて困ったように俺を見上げた。頼りなく眉が下がっていて、分かりやすく途方に暮れている。
何故そんな顔をするのだろう。
根気強く待っていると、アジャはおずおずと口を開いた。
[……庇護者に逆らうのは、いけないことだよ]
[逆らうのと意見を言うのは違うことだぞ。俺はお前が何を考えているのか知りたいんだ]
[……そうなのか]
アジャはひとまず納得したらしい。
にしても「庇護者に逆らうのはいけないこと」だなんて、俺が庇護者カウントされていたことも驚きだし、竜の上下関係の厳格さにも驚きだ。
確かに竜には弱肉強食なイメージがあり、野生のライオンなんかも群れのリーダーには基本的に絶対服従みたいな話を聞いたことがあるので、それほど不思議なことでは無いのかもしれない。それでもアジャは人型で、だから「逆らうのはいけないことだ」と幼い子供が口にするという光景だけを切り取ると、酷く違和感のあるものだった。
そして、今日俺が回り道をした時に不満げにしつつも何も言ってこなかったのはこれが理由かと、ふと腑に落ちる。
よく分からないが、俺はアジャに庇護者だと認められて、だから粛々と俺に従っていたということなのだろう。
うーん、それは困る。それはつまりアジャの自由権が俺に委ねられるのと同時に、俺にはアジャの安全と健康を保証する義務が生じているってことだ。
そんな義務が知らぬうちに発生していたなんてとても困る。単純にそんなもの保証できる気がしないし、むしろ現状は俺がアジャに庇護されているような状態だ。なにせアジャが風を遮って火を焚いてくれなかったら、俺は凍死真っしぐらであるのだから。
この認識は今すぐにでも正さなければならない。
俺は強く決意した。
同時に、ふと思い出すものがあった。
そういえばこの子は俺と出会った時に、大人に何やら壊せとか言われて、それで逆らったみたいなことを口走っていたような記憶がある。
これだけ賢く物分かりの良いアジャが、「逆らってはいけない」人に逆らうというのは、一体どういう状況なのだろうか。
俺は火に当てて暖めた掌で冷えた腕や耳先を摩りながら、深く考え込みかけて、しかしアジャが口を開く気配にアジャを見た。
アジャはむにゅむにゅと口を動かして、長い時間をかけて言葉を探して、そしてようやく口を開いたところだった。
[……ハチは、多分、俺より弱い、よね]
[そうだな]
[えっ]
あっさり肯定すると、アジャがギョッと尻尾を跳ねさせる。
何をそんなに驚くことがあるのだろう。確認するまでもなく、自明では?
俺は首を傾げた。
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