第7話 キャラメルと名前
名前の話は終わりだ。代わりに、俺はゴソゴソと鞄を漁って小さな紙の箱を取り出した。明るい黄土色のパッケージがどこか場違いな、キャラメルの箱である。
スライドさせて箱を開け、銀の紙に包まれた中身をころんと手のひらに落とした。
[これ、やるよ]
[何それ]
[「キャラメル」]
[おっ、おお!?]
ビン! と黒い尻尾が立つ。
ただ、今回はすぐに飛び退いたりせずに、チラチラと俺の手の中の物を見極めようと視線を寄越してきた。さっきのハンカチのことがあったからあからさまに警戒したくないけれど、やはり警戒してしまうのだろう。
[ただの食い物だよ。手ぇ出せ]
[……毒じゃない?]
[毒じゃない、毒じゃない。……あ、竜って「アレルギー」とかある?]
[「ぁれる、いー」……?]
[んんんー]
しまった、アレルギーの対応言葉がない。
アレルギーってなんて説明すれば良いんだろう。免疫の……拒絶反応的な? いや、それで伝わるのか? 対応言語がよく分からないし、そもそも俺がうまく説明できるほどアレルギーをよく知らない。
少し考えて、俺は諦めた。上手く説明できる気がしない。
[少なくとも俺は美味しく食べられるものだ]
[えー……]
じとっとライムグリーンの瞳が俺を睨め付ける。
子供に渡そうと包装紙から出して摘まんだ濃い褐色の四角い物体と俺のつまらない顔を、ライムグリーンが行ったり来たりした。
……これは失敗したな。子供が一度警戒心を持ってしまった食べ物を口に入れるのは、酷く勇気のいることだ。ましてや俺はこれの安全性を説明できる気がしないし、もしかしたらこのキャラメルは俺には害がないけど子供には害がある可能性もゼロじゃない。
無理に食べさせるのはやめておくのが無難だ。
[あー……すまん、やっぱ俺食うわ]
[ちょ! ……っと待って]
ひょいっとキャラメルを自分の口に放り込もうとしたのを、子供が止める。
[……なんでくれようとしたの?]
[え、美味しいものだから]
[……それだけ?]
[まあ、そう。俺の使う言語だと「a」って別に嫌なものじゃないから。「ハンカチ」も「キャラメル」も危険なものじゃない。それを伝えたかった]
まず俺の意図を聞いてくる辺り、この子供は賢いんだなと思う。
俺が「キャラメル」が危険なものじゃないと伝えられないことを分かっていて、しかしここで「キャラメル」を出した俺の行動には考えがあることもちゃんと分かっていて、だから「アレルギー」や毒について掘り下げずに[なんでくれようとしたの?]と聞いたのだ。
子供はしばらく考えて、それからにゅっと小さな手を差し出す。
[……食べてあげる。俺、滅多な毒じゃ死なないし]
[……ありがとう。なるほどこれが「ツンデレ」か]
[は?]
[なんでもない]
ころんとキャラメルを子供の手のひらに落とした。
子供はそれを摘まんでまじまじと観察した後、意を決したように口に投げ入れる。
思いっ切り噛み締めて、そしてそのぐんにゃりと形を変えた食感に目を白黒させていた。肉とも野菜とも違う食感だからな。未知の噛み応えなのだろう。
[呑むなよ。舐めて、噛んで潰して、唾液で溶かして食べるんだ]
[ん……むぐ]
俺の言葉を聞いて、ぎこちなくほっぺをんぐんぐと膨らませたりへっこませたりする子供。上手くいかないのか、時々口を小さく開けたり閉じたりもしていた。
けれどそれも最初の内だけだ。すぐに要領を覚えたのか、無言でひたすら頬を動かすようになる。口内でコロコロ転がしている様子がよく分かる綺麗な食べ方だった。
瞳孔が縦に割れている。よほど集中しているらしい。
[はは、美味いか?]
[……]
子供は答えない。
ただ、真剣な様子を見ると結構気に入ってくれているのかなと思う。
やがて、キャラメルは完全に子供の口内から消え去ったようだった。
ぺろりと細長い舌が薄い唇を舐め取り、小さな口から鋭い歯が覗く。よく噛み切れそうな綺麗な歯並びだ。肉食獣みを感じる。さすが竜。
そして、一声。
[ ──! ]
[うん、なんだって?]
なんだかそれは、鼻歌を一段階くらいグレードアップさせたような声だった。
澄んだ高い声。ものすごく難しいのだが、強いて言葉で表すならきゅろんー! って感じ。喉を鳴らす音に近いような、呼吸をする時に骨を振動させる音に近いような。
とりあえず、体の構造的に人間じゃ出せない類の音だった。
大した声量じゃないのに、それは澄み切った空によくよく響いた。
耳にすっと受け入れられる不思議な声。
言葉だとは思う。ただ、概念の分からない言葉だ。
[……何今の]
[何って?]
[言葉の意味]
俺の疑問に、子供は少し考え込む素振りを見せた。
むっつりと頬が膨らんで、やがて頬の中の空気と一緒に言葉が吐き出される。
[……なんか、世界で一番遠い人に祝福を受けたみたいな、そういう感じ……]
[祝福?]
[祝福だよ]
こっくりと頷く子供。
説明はそれで終わりらしかった。なるほど分からん。
……いや、祝福と言うからには、きっと悪い意味ではないのだろう。祝福を受けたくらいに美味しくて感動したとか、そういう意味なのではないだろうか。
世界で一番遠い人っていうのが意味不明だが。
うん、まあそういうことにしておこう。
[つまり、超美味しかったってことだな]
[……うん]
素直に肯定の言葉がもらえた。いや、説明を面倒くさがっただけか?
とりあえず嬉しかったので頭を撫でる。
サラサラと金の髪を掬うように触ると、結構ほつれて汚れているのに手触りが良い。柔らかくて空気を含んでふわふわで、微かにミルクの匂いがした。幼い子供の匂いだ。
髪の隙間から出っ張った角も陽光を浴びて黒くテカテカしていて、瑞々しい。
子供の角だな、と思う。……いや、他の角とか見たことないからどれが子供だとか具体的には分からないが、その角は新芽みたいに艶々している。
まだまだ頼りなくてやわやわで、でも目一杯のエネルギーを秘めている感じ。
あー子供なんだなーと、当たり前のことを思う。
意味もなくグシャグシャと子供の髪を掻き回すと、子供は苛立たしげに俺の手を払い除けた。
[あ、んたッ、いきなり角触るとか調子のんなよ!]
どうやら角に手が当たったらしい。
俺に角はないから分からないが、触られて気持ちの良い部位ではないようだった。子供はギッとこちらを睨み上げている。
[あ、すまん、「デリケート」なところだったか。悪かった、気をつける。でもそろそろあんたって呼び方はやめろよ]
[……だって、あんたの名前言いにくい]
[まあな。好きなように省略して呼びな。あ、俺もお前の呼び名考えていい?]
[はあ? 俺に名前付けたいの? ……まあ、いいけど]
ぶすっと剥れて見せながらも、子供は素直に頷く。
俺は、なんだか自然に可愛い子供だなと思った。素直な良い子だ。
ちゃんと相手を見て話を聞いて、よく考えて一生懸命返そうとしてくれる。子供のうちはこれだけできれば周りからちゃんと愛されるのに。
いや、大人になってもこれをやればある程度は上手くいく。人と関わるときの基本だ。
良い子なんだよなぁ。
会って数時間だけしか一緒にいない俺にも分かるくらい、良い子なんだ。
俺は今度は角に触らないように気をつけて、頭を撫でた。
子供はちらりと視線を寄越したものの、大人しくされるがままになる。
少しは俺を信頼してくれているのだろうか。
[じゃ、お前のことアジャ公って呼ぶわ。俺]
[はあ? なにそれ単純。じゃあ俺はハチにする]
[おう、アジャ公]
[何、ハチ]
[アジャ公]
[ハチ]
ひとしきり呼び合って、俺はにまにまと笑ってしまった。
アジャは[何]と怪訝な顔で見上げつつも、満更でもなさそうだ。
──後ほど知ったのだが、竜族は基本的に本名のみで呼び合うらしい。呼び名を考える、ひいては新たな名前を付けて受け入れるということは、竜族にとっては酷く大きな意味を持つらしかった。
そんなことも知らない俺は、気楽なものだった。
俺は[じゃ行くか]と言った。
アジャはただこくんと頷いた。
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