第6話 言葉
そもそも俺には、中学生くらいの頃からひたすら読み物の翻訳させられた時期があったのだが、一方で日本語以外を使って会話した経験というものが全く存在しなかった。
何だかんだ28歳になるまで外国人に遭遇せず、遭遇したところで相手は日本語を喋ることができたり「Hello」という挨拶ぐらいしか交わさない状況だったのである。
「未知の言語で会話する」という経験が、俺にとっては初めてのことだったのだ。
[んー……]
[で、結局何? 「はんぁち」と「ぁらめる」って]
[「ハンカチ」と「キャラメル」のことか? あれ、「ティッシュ」はいいのか?]
[は、どうでもいい]
つんと子供がそっぽを向く。
彼にとって「ハンカチ」も「ティッシュ」も「キャラメル」も等しく意味が分からない言葉のはずだが、何か琴線に触れるものでもあったのだろうか。
俺はとりあえず、持っていた鞄をゴソゴソやった。
物の説明であれば楽な方だ。実物を見せて、機能とか役割とかを説明してやればいい。すぐにエチケットとして持っているだけのストライプのハンカチを見つけ、取り出す。
[これが「ハンカチ」]
[うわっ、いきなり出すな!]
ザッと急に子供が飛び退いた。
瞳孔が縦に割れている。体を大きく見せて威嚇するように黒々とした尻尾を高く上げ、すぐに飛びかかれるようにか前傾姿勢を取った。この子供に初めて野生動物っぽい部分を感じた瞬間である。
俺はぱちくりと瞬きをした。
どうやら、この子供はハンカチに対して警戒しているようであった。
[え、いや、別に怖いものじゃねえんだけど]
[はあ? はあー??]
ビタンビタンと黒い尻尾が地面を叩く。
子供は怪訝そうに目を細めて眉も寄せて、下から覗き込むように遠くから俺が持つ布切れをひとしきり観察した後、また[はあ?]を繰り返しながら尻尾をビタンビタンとやった。
混乱しているようだ。
俺も混乱しているが、ちょっと面白くなってきた。
[ほら、怖くないだろ?]
[はあ? はあ? 紛らわしいんだけど! 紛らわしいんだけど!]
笑いながらハンカチをヒラヒラさせると、子供はようやく警戒しなくてもいいものを警戒していたことに気付いたようだ。失態を恥ずかしがるように[紛らわしいんだけど!]と繰り返す。
なんだ、結構子供らしいところあるじゃないか。
俺は思わずニマニマしてしまった。
[で、なんでそんなビビッてんだ? 何を想像しちゃったんだ? ん?]
[はあ? はあ? 怖がってなんかないんだけど? だって、音が……!]
[音?]
言われて、少し考える。
音。この子供は「ハンカチ」という日本語の発音だけを聞いて、それを警戒すべきものだと思い込んでいたようだ。発音に何か、意味があるのだろうか。
俺には「黒」と「negro」と「черный」と「黑色」が同じ意味だと分かるだけで、その言語の起源だとか、背景にある国民性や価値観だとかは分からない。
そう、言語の背景には国民性や価値観が色濃く現れている。
例えば日本人には「周りと合わせる」「曖昧な言い方を好む」みたいな特徴があることはよく知られたことだ。
逆にアメリカ人は「個人主義」「ハッキリとした物言いをする」などと言われる。
そしてその姿勢は言語にもよく表れている。
英語は基本的に主語を重視する。「誰が」が重要なので、多くの文章には明確な主語がある。何を当然のことを、と思うかもしれない。
しかし、日本語って意外と主語が曖昧な文章が多いのだ。かの有名な小説「雪国」の最初の一文とかは典型例だろう。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」……主語がないのだ。
この文章において重要なのは、「この景色を見ているのが誰か」でも「トンネル自体」でも「トンネルを抜けたこと」でも「雪国自体」でもない。これら全てが構成するふわりとした状況こそが大事なのである。
ちょっと前に大学生は「マジ」「ヤバい」「それな」だけで会話できると聞いたこともある。日本人って雰囲気で会話する傾向があるのだ。マジか。
このような特徴は、日本語・英語に限らず全ての言語にある。
しかし、そういうのは俺には分からない。使っていく内に察したり、勉強したりしないことには。
さて、彼が使う言語は発音が複雑だ。どこか歌うみたいな響きの言語。微かに音を変化させることで、意味に少しずつ変化を持たせている不思議な言語。
だから多分、「ハンカチ」という発音だけを聞いて警戒したように、この言語は発音が大きな意味を持つのだ。おそらく。
そういえば子供は他にも、「キャラメル」にも少し反応を示していたように思う。
この二つの単語と、彼の言語の特徴を考える。音。音が……?
「あ」
[なっなに]
怪訝そうに子供が俺の声に反応する。尻尾がピクリと揺れた。
……あー、なるほど。
[「a」の発音か]
言って、すとんと納得した。
つまりこういうことだ。
彼の言語だが、最初に言ったとおり鼻から抜ける音が多い。ハミングみたいな感じで、「n」とか「u」とかの発音が多いのだ。というか大体口を閉じた状態で会話できる。
一方で、極端に「a」辺りの口を大きく開けるような発音が少ない。
あったとしたら「危険」とかが、あおおーみたいな高めの音で発音する。よく分からないが、「a」の発音が入るものは良くないものを表現する言葉であることが多いのだろう。
で、「ハンカチ」も「キャラメル」も「hankati」と「kyarameru」で「a」が入っている。警戒されたのはそれが原因ではないだろうか。「ティッシュ」はあ段の音が入ってないし。
[「ラーメン」食べてえ]
[はあ? それヤバいものじゃないの?]
[「アザラシ」って動物知ってる? 可愛いんだけど]
[可愛い? 凶暴そう]
[俺は「八郎右衛門司郎」]
[……]
ふざけてあ段の発音が入る単語を日本語で連発してみると、総じて反応が悪い。
「a」の発音嫌い説はかなり有力かな……?
と考えたところで、ふいと一つの疑問が俺の胸に湧いて出た。
この子供の名前である。
この子供は[アジャシャガシィザ]と名乗っていた。
これは俺の聞く限り、特に意味が理解できて互換した単語ということはなく、そのままの発音が[アジャシャガシィザ]だったのだ。
「a」の発音が嫌いなんだったら、何故彼の名前には思いっきり「a」の発音が入っているのだろう。
「……」
嫌な予感がした。俺が嫌いな予感だ。
俺は子供が虐げられるのは嫌いである。子供はちゃんと身近な大人に愛を注がれて育たないと碌な大人になれないと思う。
別に俺が身近な大人に愛されていなかったからこんなんになっているとか言うつもりはないし、俺に何かできることがあるわけでもない。
でも、聞いていて胸糞悪くなるからそういう話を聞くのはとにかく嫌いなのだ。
俺は陰鬱に溜息を吐いた。
[──お前の名前ってさ、誰が付けたんだ]
[何いきなり。竜の名前は同族で一番年長者が付けるって掟だけど]
お前竜なのかよ、薄々そんな気はしてたけど。という突っ込みは飲み込んだ。
[どんな意味なんだよ、アジャシャガシィザって]
[……]
子供は嫌そうにライムグリーンの瞳で俺を見上げた。
形の良い眉がぎゅうっと寄って、眉間に皺を作っている。長い睫毛が陽光を浴びて光っていた。こいつ睫毛まで金色なのか。
しばしの間見つめ合う。
やがて子供は西洋人らしく高い鼻をくふんと鳴らした。
[……別に。名前に意味なんかない。ただ、良い名前じゃないのは確かだ。パッと聞いてヤバい奴だってすぐ分かっちゃうし、すっごい言いにくいから呪文に組み込みにくい]
[ふぅん]
[何だよ。あんただって使いにくい名前してる癖に]
使いにくい名前ってなんだろう。
子供は口を尖らせてそれ以上喋ろうとはしなかった。
まあ確かにこれ以上掘り下げても詮無いことなので、俺は大人しく追及を止めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます