第5話 不思議な力


 さて、子供を引き連れ適当に歩き始めたものの。


 広がる景色はどこまでも雄大な渓谷ばかりで、人里なんてこれっぽっちも見えやしない。ただ地層によって縞々模様の切り立った地面と、段々に削り出された谷や山が陽光を浴びて斑模様に影を落とすのが延々と続いている。何も無いけれど、なんというか写真映えする景色だった。単純に綺麗だなと思う。


 これからどこに行くにしても、何がある場所に行くかは重要な問題だった。何せ食糧がない。金がない。家がない。人もいない。


 俺がすべきはまず情報収集であることには間違いなかった。


[そういえば、結局ここってどこなんだ?]

[……知らないであんなとこにいたの]

[だから言っただろ。気付いたらここにいたから何も分からんって]

[……]


 怪しむようにじとりとした子供の視線を感じる。

 ライムグリーンの大きな瞳は意外と感情豊かだ。子供らしくて実に良いと思う。


 子供はやけに大人ぶった仕草でやれやれと首を振った。


[竜の峡谷。……霊脈のひとつだよ。まあ俺が全部更地にしちゃったから今はワイバーン一匹いないけどね]


 竜。ワイバーン。

 何やらいきなりファンタジーな単語が出てきて面食らってしまう。


 しかし考えてみれば、あの雷は子供が引っ張ってきたらしいし、子供も角と尻尾があって人間じゃないらしいし、俺だっていきなりこんな場所にいたし、今更か。

 やっぱりここ所謂剣と魔法の世界なのかな。あの定番の中世ヨーロッパみたいな。あんまり実感が湧かない。でもまあいっか、夢だし。


 それにしても竜の峡谷。竜が住んでいる谷ってことだろうか。ロマンのある名前だ。秘境っぽい。

 渓谷と峡谷は、何が違うのかいまいちよく分からないけれど。


[金と食糧どうしよう、俺何も持ってないんだよな。……あ、ウソ。ガラクタとハンカチ、ティッシュ、キャラメルは持ってるわ。……お前は?]


 話を振ってみる。子供はちらと俺に視線を寄越して、だんまりを決め込んだ。

 分かりきったこと聞くな、と言われたような気がした。確かにどう見ても子供は何かを持っているような格好ではない。何せ襤褸切れ一枚。今更だけどちょっと拙い格好な気がしてきた。


 俺はおもむろにスーツの上着を脱いで、パタパタとはたく。

 バサッとはたくたびに大量の砂が舞って、うわぁと思った。俺今全身こんな砂だらけなのかな。想像しただけで頭が痒くなってきた。


 まあそれは措いておいて、ひたすらバサバサとはたいてある程度の砂を落としてから、それをはい、と子供に渡す。[羽織っとけ]と言うと、子供は素直に受け取った。

 それから、控えめにくん、とにおいを嗅ぐ。次にうげ、とその綺麗な顔を顰めた。おいやめろ。


[おいやめろ]

[……砂のにおいと人のにおい。ふぅん]

[何に納得したんだ]


 子供はもう一度ふぅんと頷いてから、何やらふんふんと呟いた。

 あまり聞き取ることができなかったが、多分聞き取れても意味は分からない気がする。俺の知らない概念なのだろう。そういうのは結構ある。


 呟いている最中に彼のライムグリーンの瞳がほんのり光を帯びた気がして、次の瞬間俺の上着がじゅわりと水を含んだ。


[!]


 思わず真顔になった。


 その間もじゅわじゅわと水が発生していて、それは重力に従い皺に沿って落ちていく。上着を離れて空中に放り出された途端、水は空気に解けるように消滅した。よく見れば、落下する水が大分汚れているような。

 それをしばらく繰り返して、やがて落下する水が徐々に透明になって、水が発生するよりも消えていく方が早くなって、最後には水が完全に消えてなくなった。


 心なしか残った上着が綺麗になっているように見えた。いや、多分間違いなく綺麗になっているのだろう。そんで若干色落ちした気がする。


 子供は何の気なしにそれを羽織った。


[……今の何]

[何って、魔法]

[まほう]


 何の気なしに子供が答えた。当然のようにある概念なのだろう。変な感じだ。


 俺は訳知り顔でふぅんと頷いて、考える。


 魔法。魔法があるのか。まあ考えてみれば当然な気もする。

 どうやらあの雷はこの子供が落としたらしいし、じゃあどういう手段であんな事が出来たのかと考えると魔法とか超能力とか、兎角不思議な力を使ったとしか考えられない。


 不思議な力の存在を、俺は別に否定しない。否定する理由がないからというのもあるし、それ以上に俺は所謂不思議な力ってやつを生まれた時からの能力として備えていたからというのが一番大きな理由だ。


 別に俺にとってそれはなんら特別なものではなかったけど、他の人は持っていないものだったし、俺自身もメカニズムをよく理解していないのでやっぱり不思議な力と言っても差し支えないものだと思う。


 ──俺は生来、あらゆる言語を自然に書いて読んで、話して聞くことができる。


 説明するのは非常に難しいのだが、簡単に言うと上記に尽きる。

 だから俺は、子供の喋る全く聞いたことのない言語を自然に理解することができたし、それに対して同じ言語で返す、なんて芸当ができたのだ。


 昔から、俺は奇妙な奴だと言われていた。

 赤ん坊の頃は他の赤ん坊と同様、声帯がしっかりするまで碌な単語も話せなかったし、両親とのコミュニケーションを通じてもろもろの概念を理解していくまで日本語だって意味不明だった。


 ただまあ、概念ってやつを習得してからが異常だったんだと思う。

 俺にとって「白」も「white」も「weiß」も「blanc」も同じもので、言葉を聞けば同じものだと分かったし、文字を見ても同じものだと分かった。だからそれを喋るなんてわけなかったし、書くことだって当然できた。


 もちろん全く見も聞きもしないものは分からない。ただ、他の言語で俺の知っている概念を発されたら、「これは俺の知っている言語で言うとこういうものだ」と説明されずとも理解ができたのだ。


 それだけなんだけど。


 そういうこともあるので、多分魔法もあるのだろう。

 そもそもこれ夢だし。

 思えば夢も結構不思議な現象だよなー。


[……あのさ]

[ん?]


 つらつら考えていると、不意にワイシャツの裾近くを引っ張られた。


 彼の方からアクションしてくれるなんて、珍しい。

 俺はほんの少しだけ胸に湧いた謎の感動に首を傾げながら、話がしやすいようにしゃがんで子供と目線を合わせる。

 ライムグリーンの瞳が俺の視線を避けてうろうろした。


[……さっきの、何?]

[さっきの?]


 聞き返すと、子供は苛立ったようにワイシャツの裾を強く引く。

 スラックスに入れていたワイシャツの裾がずり出て、ファサっと砂が舞った。見るだけで体が痒くなるからやめてほしい。


[さっきの、持ってるもの。あの、ガラクタと……]

[ああ、ガラクタとハンカチ、ティッシュ、キャラメル?]

[そう]


 こくこくと頷く子供。

 それの何を聞きたいのかと聞きかけて、俺はハッとした。


「ハンカチ」も「ティッシュ」も「キャラメル」も、彼が操る言語で対応する意味の言葉が無かったことに気付いたからだ。

 つまり、彼の言語には「ハンカチ」も「ティッシュ」も「キャラメル」も無かったから、俺はそこだけ日本語のまま「ハンカチ」「ティッシュ」「キャラメル」と言ったのである。


「八郎右衛門司郎」も通じたからあまり気にしていなかった。


[あー……]


 そして、これは逆のことにも言うことができる。


 俺は彼が喋る言語の中で、俺の知らない概念が発されたらそれを理解することができない。

 魔法の呪文らしきものなんかがそれに該当するのだが、他にも[竜の峡谷]あたりの固有名詞などは、若干概念があやふやなのだ。聞く限りおそらく竜が住む峡谷で、ここのことなんだろうなと分かるくらい。


 この辺は今後気を付けたいところだ。

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