第五幕 オーバー・ザ・ウェルメイド
大会前日ではあるが、大会に出場する高校の生徒は会場に集合しなければならない。
「おお、ついに……ついに」
「本当にここでやるんですね」
決して立派な会場というわけではないがユイと鴇は圧倒されていた。
「ようやくきたね蒼馬」
「そうだな、ここに来る一心だったからな、ツツジ」
「私、ここで都大会行ったたら結婚するんだ」
「なんで感傷に浸っている時にそういうボケかますかな」
「ちょっと緊張しているの〜。ここからもらう1時間が、1秒たりとも無駄にはさせないからさ」
「ああ、頼む」
大会では劇場の仕込みや場当たりの作業は前日に行われる。予め運営からスケジュールを出され、その時間以内にできる作業は全て終わらなさなければならない。もし準備不足で終わろうものなら当日少ない制限時間以内に詰め込まなければならなかったり、音響や照明のタイミングがブッツケ本番になってしまう。ある意味本番以上に気を張らなければならないのだ。
特に舞台監督であるツツジの責任は重大であり、忙しい上に絶対に怪我人を出してはならない。死傷者を出そうものなら今後の大会自体に影響を及ぼす。
「海越、一応覚悟しておけよ」
「どういうことだ?」
「えーと、多分すぐにわかると思うけど、とにかく言われたことちゃんとやって、できる仕事は積極的やっていって」
蒼馬と紫蘭に何やら忠告されたが、どういうことなのかさっぱりわからず、適当に
「わかりました」
とだけ返事をした。
「それじゃあ東京玉川都市高校さん、お願いしまーす」
そして全員が会場に入ると
「お前らあ!さっさと荷物置いて配置につけ!チンタラやっていたらぶっ飛ばすからな!」
ものすごい声量で、まだ何もしていないのに怒鳴られた。一体誰だとあたりを見回すと
「おい海越!うろちょろしてんじゃねえ!死にてえのか!」
それは厚手の手袋とガチ袋(工具や釘を入れる布袋)を身に纏い、鬼の形相で準備に取り掛かるツツジの姿だった。
「え、うそでしょ」
「海越、急いで!今のツツジは人格が入れ替わって気性が荒い。言われたことをすぐに取り掛からないと命が危ない」
紫蘭にしては珍しく本気で怯えている様子だった。
ああ、そういえば噂で聞いたことあるな。工具を持った瞬間豹変するタイプの舞台監督がいるって。あのツツジ先輩も……
「何、ボーとしてんだてめえ!」
「先輩やめてあげて、本当勘弁してあげて。海越、ここは食い止めるから早く行け!」
海越は我に戻り猛ダッシュで持ち場まで逃げた。
■ ■ ■
色々と衝撃的な目にあったが無事に前日準備が終わり、機材周りの説明もしっかり受けて、その日は解散となった。
本番を明日に控えていると言うこともあり、体を休めることを優先にした。
緊張してあまり眠れないのかと思っていたのだが、あまり現実味がなくその日はあっさりと来てしまった。
ぐっすりと十分に寝て予定した時刻より1時間早く起きたのに目は冴えている。
いつも通り朝食にパンとインスタントのスープを用意して適当に胃の中に放り込むと準備に取り掛かった。
前日に用意はしていたが念のため必要なものを確認する。忘れ物はない。制服に着替えていつもの足取りで家を出た。
さっきかまで落ち着いていたのに会場に近づくにつれて緊張が増してきた。
脚本家は本番になれば何かをする必要などないのだが、役者をやる時とは全く別のベクトルで高まっていた。
「おはよう海越」
集合場所には紫蘭が一番乗りで到着していた。
「おはよう。早いな」
「そっちもね。ちゃんと眠れた?」
「割とぐっすり」
「その割にはなんか顔色悪いけど」
「いつものことだ。本番は緊張で体調崩すタイプなんだよ」
「うわぁーだっさー」
「自分でもそう思う」
「海越本番は何もすることないじゃん。今日までちゃんとやってきたんだからあとは安心して楽しみなよ」
ケラケラと笑って励ます。
本当にここまでよくやってきたと思う。自信もある。だからこそここまで張り詰めているのだが。
「まあ、体質みたいなものだから気にしないでくれ」
ほどなくして部員全員、そして顧問の相住先生も到着した。
みんな不思議と落ち着いている様子だ。それよりも昨日の出来事がまだ鮮烈に残っていて若干ツツジのことを警戒している様子だった。
会場に着いたらあとはもう自分たちの番まで待つだけ。それまでは他校の発表を見ているのだが、海越たちの順番はかなり後半に置かれているため、それまでまともに劇を楽しむことは無理だろう。
案の定相変わらず海越は自分たちの番はまだ先だというのにお腹を壊してトイレに駆け込んだ。
ああ、大会の会場のトイレはめちゃくちゃ綺麗だ、などと意識を逸らしていたが、やはり限界まで出すものは出して、若干やつれた状態で席に戻った。
お腹を押さえて俯いたまま歩いていると突然聞き覚えのある声で話しかけられた。
海越はその声に反応して蒼白な顔を上げる。するとそこにいたのは、
「やっぱり、海越君だ。久しぶり」
「え……」
自分の目を疑った。一度だって忘れたことない人物、泉谷翡翠だ。しかしその表情や立ち姿、醸し出す雰囲気が自分の知っているものとあまりにも違った。
海越は言葉を失う。
「体調悪い?大丈夫?」
ドクンっと心臓が嫌に強く波打つ。
「ああ、大丈夫だけど……お前変わったな」
「そうかな?自分じゃわからないけど」
「なんか、笑えるようになったんだ」
「何それ、ちょっと失礼。そっちは……そういえば演劇また始めたんだね」
「ああ、うん。今は脚本家だけど」
「そうなんだ、海越君の芝居も良かったと思うけど」
「えーと、色々あって」
「色々ねえ」
不思議そうに首をかしげる翡翠。その仕草はどれも年相応の少女のように豊かだった。その自然さが海越にとってはあまりにも不気味に思えた。
翡翠は少し考え込んだあと、ポツリと口を開く。
「知ってるかな。私さ、中学3年の時に孤立しちゃって」
「え?」
やがて嫌な予感だったものは的中していたのだと気付かされる。
彼女が孤立していた事実、その理由も、考えればすぐにわかる。そしてその後どうなったのかも……
かつての彼女だったら孤立していた、その事実さえもどうでもよく思っていたはずだ。自分の芝居の感性こそ彼女の中で最優先事項なのだから。
「なんか私一人目立ちすぎていたみたいなの。海越君がいなくなってから突然そうなったみたいで」
「そうか、ごめん」
「なんで謝るの?」
翡翠はその笑顔を崩さず首を傾げた。だが、本人にも理解していないであろう、その強大な怒りは海越に十分伝わってきた。
「いや、なんでもない」
相変わらずどこか作り物のように見える。未だ自分の感情にも疎いようだが、それでも彼女は以前よりずっと人間らしくなっていた。そしてそのきっかけを与えたのは紛れもない海越だ。
海越がいたから保たれていた舞台の均衡。それが崩れ、彼女一人の演技だけでは何も上手くいかなくなった。
まるで演劇そのものに愛された少女。海越が憧れ、追いつきたいと願い、心の底から焦がれていた彼女はもう彼自身の手で壊してしまった。
本当ならわかっていたことだ。こうなることくらい。自分があの時積み上げてきたものはそう簡単に誰かが補ってくれるほど安いものじゃない。なのに勝手に自暴自棄になってその責任を全てあてのない誰かに押し付けて逃げた。
海越は彼女の笑顔からその意味を受け取り、唇を噛み締めた。
「確かこの後だよな。お前の番」
「うん、良かったら観てね」
そういって控え室の方へ駆け出した。
これは喜ぶべきことなのだろう。翡翠は自分自身の感情を理解できる方がこの先ずっと幸せになれる。もっと芝居の幅も豊かになる。
だけどどうしてだろうか、こんなにも悲しいのは。
ひどく醜い、許しがたいエゴだ。
勝手に見ないフリして、いざ目の前にしたら勝手に傷ついて。その上『これでよかった?』気持ち悪いにもほどがある。
勝手な理想、勝手な解釈を二度と彼女に押し付けるな。海越は自戒するようにそう誓った。
そして海越はそのあとの演技を観て、静かに泣いた。
演目は改変版のロミオとジュリエット。舞台美術も衣装も頭一つ抜けてクオリティが高く、役者全員の技量も不足ない。間違いなくトップレベルだ。
だが、その中でもやはりロミオ役の翡翠が一際目立っていた。
演じ方そのものは以前と同じ、役の魂を憑依したような天才的な芝居。だが前とは比較にならないくらい表情豊かに伸び伸びと演技をしている。
そんな彼女に海越はなんの嫉妬も感じることなく、ただ感動して泣いた。その事実はきっと喜ぶべきことだ。純粋に彼女の芝居が評価されこれからも成長していくことを楽しみにしていこう。
そう言い聞かせながら誰もいないところへ出ると、声をあげて枯れ果てた涙を流した。
■ ■ ■
海越は翡翠の演目の後1時間ほど外にいた。ようやく感情の整理がつき自分の席に戻ると紫蘭が心配そうに声をかけた。
「海越、どこいってたの?」
「いや、別に」
「……失恋でもした?」
「別にそんなんじゃねえ」
暗くて目元が腫れていることはわからないはずなのだが、海越は咄嗟に顔を逸らした。
「図星だね」
「え?海越君失恋したの?相手誰?」
「ツツジ今はそっとしてあげましょうって。こういうのは同性相手の方がいいから」
「あーもう!群がるな!そんなんじゃないって言ってるだろ!」
「まあ、そんなのはどうでもいいや」
「自分で聞いておいてそれかよ」
「次がどこかわかっているのか?」
「あ……そうか」
「いよいよ大本命だ」
次は快進撃を繰り広げる、今話題生一位の高校、東京順徳高校。
開演のアナウンスが流れ、会場全体から期待値が上がっていくのを肌で感じる。
タイトルは『言の葉の名前』言わずもながら作演出は白瀬秀樹。
あの演劇祭からどれだけの成長を遂げたのだろうか、海越の中でも期待と緊張が全身を駆け巡った。
開演合図のブザーが鳴り終わると、沈黙が訪れ、緞帳がゆっくりと上がった。そして舞台上に照明がつくのと同時に盛大な爆発音があちこちで鳴った。
舞台美術は簡素……というより本当に何もない。ただの広いだけの空間。そこを何人ものエキストラがパニック状態で駆け回る。
何かを話そうとした者は次々と爆発し散っていく。
そして観客は、説明なくして理解した。
そこは、言葉を禁じられた世界なのだと。
そしてエキストラたちもそれを理解し、なんとかコミュニケーションを取り始める。
だが、その事実についていけない男が銃声を放ち、また次々に死んでいく。
もしこの世界からこの世界から言葉がなくなったらどうなるか。そんな単純明快な一つのテーマが浮き彫りになる。
国境や種族、肌の色から文化まで何もかもが違う人々が言葉なくして集まる。
だが、互いに理解できない人種だ。価値観も文化も違うなら当然殺し合いに発達していく。それを止めようとした人間も言葉に頼れば爆発して、残ったのは戦う気力を失った者たちだけだ。
海越を含む会場にいる全員が理解した。この物語のテーマを。そしてそれを台詞なしで作り上げるつもりであるということを。
セリフのない劇は別段珍しいわけではない。『黙劇』又の名で『ノンバーバルパフォーマンス』と言うジャンルとして存在しており、それ専用の劇場もある。だがそれは、主に音楽やダンス、パントマイムといったミュージカルに近い要素を多用して成立するものだ。
今回のように、作品のテーマを強調させるためにこの手法をとると言うのはかなり異例だ。
これを高校生でやると言うのか?
会場全体が沈黙の中で戸惑いを見せる。しかしそれは一種の期待の形なのだろう。芝居の中で順徳高校への期待値が上がっていった。
再び爆発音が一気に降り注ぐ。
その後なんとか生き残った人々は再びコミュニケーションを取ろうと努力するが、伝わらないし、自分も理解できない。
戸惑い、苛立ち、やがて疲弊しきった思考は単純な結論に陥る。それは『排除』だ。人が人を傷つけるときに最もためらいをなくす瞬間。それは強い怒りでもなければ正義の執行なんかでもない。諦めだ。
もういいや、と。楽になりたいと思った人から、なんの殺気もなく凶器を手にする。そのあとはもう地獄だ。
疲れ切った人間同士の抵抗。これ以上に醜い争いはない。正義も悪意もなくただ安息を求めての死闘。
誰も救われない。誰も生き残りはしない。もう限界かと思われたとき、一人の少女が仲裁に入った。
海越にとってよく見知った人物、雪宮先輩が演じていた。
彼女は殺しあう人たちを見るなり、誰よりも弱々しく泣きじゃくり口パクで何かを伝えようと訴える。それだけじゃない、伝わらないなりに巧みな動きで身振り手振りを使い、少しでも分かり合える努力をした。
そして生き残った人々はまた、共に生活することとなる。何度もすれ違い喧嘩になりそうになれば、少女は駆けつけ、身振り手振りで仲裁する。
それを繰り返してキャラクターも観客も理解した。彼女は難聴で、やっているのは手話だ。
鳥肌が立つとはこういうことを言うのだろう。
この一瞬のために手話を習得し完璧に芝居の中で活用できるほど上達させたと言うのだから。
何度もぶつかり合い、泣いて怒ってそれでも少しずつ互いを理解し合おうと努力する人々の姿。
争いは少しずつなくなり、国境も文化も人種さえも異なる人々が笑いあって暮らせる文化を新しく築き上げたのだ。
過去に少女はずっと泣いていた。自分には居場所がないから。自分はみんなと違うから同じだけの感情を分かち合うことができないと。
だが、世界が変わり、彼女は人を救おうと駆け回り、そして仲間と出会った。
彼女は世界を手にし、仲間たちは彼女に救われた。このまま平和に膜を閉じるのかと思われたその時、不穏なシーンが訪れる。少女はずっと一人隠れて言葉を話す練習してきたのだ。喋ればいなりにずっと練習してきた言葉を拙いがそれでも強い思いを込めて
世界で何が起きているのか彼女だけが知らない。誰も教えようとしなかった。だからこの事態を招いたのだろう。
そう気がついたときには遅かった。
「あ……り、がトぉ……!」
ずっと一人で練習してきた言葉を口にした瞬間、生き残った者たちは戦慄した。会場も緊張で凍りついた。ああ、彼女まで死んでしまうと。また私たちは争い合ってしまうかもしれない。
だがいくら待っても爆発はせず、その代わりに舞台両サイドから特大のクラッカーが祝福のように響き渡り、荒廃したはずの世界に桜が舞い散った。
それは彼女の起こした奇跡か、それとも世界からの祝福なのか、真相はわからない。そんなことどうでもいい。生き残った者たちは彼女の「ありがとう」に応えるべく強く抱きしめた。
ああ、これは認めざるを終えない。白瀬秀樹はもう既に芸術家の領域だと。
カーテンコールを迎えると誰もが立ち上がり最上級の賛辞を送る。
こんなこと大会史上なかっただろう。まさか地区大会でスタンディングオベーションが生まれるなんて。
それは会場が正真正銘一つになった瞬間にしか生まれない奇跡。
それはまるでこの感動を分かち合えたことに感謝するように、この作品と出会えた奇跡を尊ぶように、誰もが笑っていた。
認めざるを得ない。俺と彼はまだ届かないほどの差がある。だがそれはあくまで、脚本の話。
海越は確信を持って呟く。
———必ず『俺たちが勝つ』
それは、かつて彼が宿していた計り知れないほど強い野心を宿していた。
■ ■ ■
「はーい、みんな弱気になっていませんかー!」
控え室で紫蘭は意地の悪そうに声をかけた。
「まあ、正直すげえって思ったのは私も同じ。ムカつくほどに良かったし多分アレは上にいくことは間違いない」
誰も何も言い返せなかった。感動とともに圧倒され今でも余韻に押しつぶされそうだ。だが紫蘭はそんなもの鼻で笑って
「でも忘れていない?私たちはもっとすごいって。これは建前じゃないよ。本心からそう思っている。この六人で作った作品は何よりもすごいって私は知っている。だから役者は思いっきりぶちかましてなさい」
「「はい」」
全員が求めていた彼女の鼓舞を抱きしめるように受け取った。そして
「これが終わったらみんなで美味しい焼肉屋でも行って美味しい肉とジュースで乾杯しよう」
「なんでそう、死亡フラグを立てたがる!」
当たり前のように真剣なところでボケをかます。
ここにいる者はみんな知っている、これ以上に心強いエールはないと。
「さあ、行こう!円陣組むよ円陣!」
「「おう!」」
「たま高!世界で一番すごいやつかましていくよ!」
「「おおう!!」」
そして蒼馬、ユイ、鴇、は袖幕へ。海越、紫蘭、ツツジは機材ルームへと向かった。
「おい、海越。今日は倒れんなよ」
「流石にねえよ」
海越の新たなる一歩が開幕した。
■ ■ ■
東京玉川都市高校演劇部、タイトルは『その夢に縋りつけたら』
作・日寄海越 演出・園田紫蘭
緞帳が上がるとそこには蒼馬、ユイ、鴇の三人。
序盤は全員が順番にそれぞれの世界で一人芝居をしていく。
「あ、久しぶり。うん、元気してたよ。最近はちょっと仕事忙しいけど、でもちゃんと曲作ってる。この前とかもいいフレーズ思いついてさ。いや、まだ見せられる段階じゃないから。うん、うん、わかってる。もちろん聞かせるよ。じゃあ、またね。あ、えーと……そうだそうだ。思い出した。ごめんって。今?元気しているよ……」
そうやってユイは中身のない話を誰かと続けている。人当たりのいい笑顔なのにどこか不気味に感じるそれは異彩な存在感を放っていた。
観客は、この物語の世界はどこが中心なのか、食いつくように見入った。
そしてレールに乗ったキャスターが移動し、センターに鴇が来るとピタリと止まった。
「ヤッホー。みんな元気してる。今日はねこのままみんなとお話ししようかなって思って。実はねこの前学校で友達と喧嘩してすっごい落ち込んでいたんだけど、でも今日ちゃんと仲直りできたんだ。うん、うん、あーそれはね秘密。大丈夫、あとちょっとしたら教えてあげるから待っていてね。それでね……」
鴇も同じく中身のない会話、だがその複数の人間相手に必死に愛想振りまく姿は現代の女子高生に似た何かを表現しようとしていることがわかる。
そして蒼馬だが、彼はソファに座ったまま何も話さない。携帯やパソコンを見たりしながらちょくちょく動いているのだが、それが何を意味するのかまではまだわからない。
そしてこんな中身のない一人芝居が一通り済むと、ユイはギターを片手に持って何かを歌う。鴇は椅子に座り学校机の中から本を出し読み流し始めた。
「うん、大丈夫。まだ続く。続けられるよ。え?どこまで?さあね、わからないけどでもやるよ、うん」
ユイは誰かに向かって語りかける。その後ろで蒼馬は苦しそうに悶えている。
「そういえばね、この前友達とカラオケに行った時、練習していた歌を褒めてもらったの。すっごい嬉しかったな」
どこか辛そうな声で鴇も誰かに向かって語る。
それが続いていくにつれ、観客は理解し始めた。彼ら彼女らは誰と話しているか、そして後ろにいる蒼馬の法則性を。
ユイはギターを抱きしめ今にも壊れそうな笑顔で大丈夫だと歌う。鴇は明るく振る舞いながらありもしない嘘を並べる。
その相手、それはネットの人間だ。振る舞いや話す内容と現実の自分の姿の乖離。空気の震えが観客の動揺なのすぐにわかった。
紫蘭は小さくガッツポーズをとる。
そして二人の世界に張られた境界が壊れる。
「あ、久しぶり、元気してた?」
「久しぶりです。私は元気に活動しています。あなたもまだ続けてくれていたんですね」
「そうだね、そうなんだけど、でもちょっと最近何をすればいいのかわからなくて」
そしてユイの言葉は少しずつ蒼馬に侵食されていく
ユイは床に膝をついて、それでもギターに縋りついたまま、何度も立ち上がろうとする。だけどもう既に壊れてしまったのか体が思うように動かない。
「というかもう何もできなくなっていてさ、本当は……やめようかなって思っているんだ。これ以上やっていてもさ、そんなにいい事ないし、生活も難しいし」
そしてもう一つの真実、ユイは蒼馬が作り出した虚構の存在、つまりアカウントだ。どんなにボロボロになっていても蒼馬が発する言葉が全てだから。命の持たない瞳で命ある者へと希望を歌う、そんな存在になりたかったはずだ。
だからユイはボロボロになっても笑って、立ち上がろうとしていた。けどその虚構の中にノイズが紛れ込む。
「君とは昔一緒に歌ったっけ。今も頑張っているみたいで嬉しいよ。そのまま頑張ってほしいなあ。なんてなんでこんなこと話しているんだろう」
ユイの声はとうとう誰にも届かなくなり、ギターを抱きしめながら倒れた。
「やめてくださいよ」
そして鴇の表情と声の色が初めて一致する。
「そんなこと急に言われても、困るだけですし。なんでそんなこと急にいうんですか。お仕事しながらでもできないんですか、何をしているか知りませんけど」
「それは、話せないけど。なんとなく、本当に始めた頃に君と会った気がしてさ」
全ての動作に意図があるような、そんな機械的な仕草で、ソファーから立ち上がりユイの元へ行く。
「いやさ、もう一つ裏で活動していたグループあったんだけど、何年前かな。これ一本でやっていくって言っちゃって。調子乗ってたんだよ。少し人気になったからって」
「そうですか」
「今頃続けていたら、こっちの理想と同じように歌えていたのかな」
「あの……」
「いや、そんなわけないか。あいつらもまだ無名だし」
「あの!私も辞めようかなって思っていたんです」
「なんで?」
「もう辛いんです。平気な顔をして嘘並べて、思っていたキラキラした未来があるかと思ったら待っていたのは気持ち悪い体目的の人や心ないアンチ。疲れたんです」
二人を形成していた器は壊れ、互いに本音を吐露していく。
「きっと、もっといい方法があったはずだと思います。だけど、それでも自分が何をしたくてやっているのか時々わからなくなる。将来のこと勉強のこと、友達のこと、もっと考えなきゃいけないことはたくさんあるはずなのに……だからもう」
「待って!」
舞台を降りて立ち去ろうとする鴇、蒼馬は彼女の元へ駆け寄ろうとする。だが、
「そこにいて、こっちに来ちゃダメ。こういうのはどんなに形が崩れても。その方がお互いにいいはずだから」
「わかった、でも聞きたいことがあって」
「なんですか」
「僕たちはどうしてこんな世界に来たんだと思います?」
しばらくの間、静寂が流れる。そして
「憧れたからです。単純な話で、憧れに追いつきたかった。でも私は彼女にはなれなくて、そしてもう息が苦しい」
「でも、まだ時間があるなら」
「違うんです!やめたいんです!」
「どうして……」
「私、友達いないんですよ。こんな思いしながら夢を追うなら、私は当たり前の幸せが欲しい。ずっとやめどきを探していたんです。それで今日久しぶりにあなたに会えたから」
「僕もきっと誰かに憧れていたのか、それとも辿り着きたい場所があったのかも。こんな風にみっともない姿だけど、本当は……本当は」
蒼馬は倒れこんでいるユイを抱きしめる。
「羨ましいです。あなたにはまだ夢が残っているんですね。頑張ってください。そしてありがとうございます。最後にあなたとこんな話ができてよかった。私はずっとあなたを応援しています」
鴇は舞台から去り、上手から姿を消していった。
蒼馬は彼女の世界へ入ろうと体当たりするが、境界線のような何かに邪魔されて向こうにいけない。ただ、彼女の後ろ姿を見送るしかできなかった。
そして、蒼馬の携帯から電話が鳴り、昔の仲間からまた戻ってこないかと誘われる。それを断り、彼はギターを手にまた何かを弾き語る。
ここで終わりだと誘導するように照明がスッと暗く鳴り始める。しかし、
「あ、もしもし、うん、俺。え?見てくれてるの?なんか嬉しいな。あーいや、ちょっとね。え?またお前らと?」
倒れこんでいたユイがまた目を覚まし、そしてギターを握りしめる。
「ごめん、それはできないや。うん。きついけどさ、もうちょっと本気で頑張ってみる。わかってる。それも楽しいかもしれないし、きっと一つの夢の形だと思うよ。お前らを尊敬している、心の底から。でも……」
そして再びユイと共に語り始める。侵食……ではなく彼ももう一人の自分として。
「俺はやっぱり、ドームに行きたい。一緒に歌いたい歌手もいるし、歌ってみたい曲もまだまだありそうなんだ。うん、だから俺は行くよ。もしダメだったら?わからない。でもきっとそれも俺の夢の形だと思うから」
そう言うと照明は一気に明るくなり、眩しいくらいに舞台上を照らし、ゆっくりと暗転していった。
再び照明をつけて、蒼馬、ユイ、鴇が一礼する。その瞬間、惜しみない拍手が三人を包み込んだ。
海越にとって初めて観る光景。共に歩んできた仲間たちが自分の生み出した登場人物に命を吹き込み、そしてその返答がこの賞賛の音。
胸の奥が熱くなる。生まれて初めてのこの感動になんて名前がつくのかもわからないまま、海越はその光景を目に焼き尽くした。
「な?ここから見る景色も案外悪くないでしょ」
紫蘭は今日一番の笑顔でそう言った。
「ああ、最高だよ」
今もまだ続く拍手。そしてカーテンコールの中でやりきった喜びを滲み出す役者たち。
ただの学生の出し物、ただの地区大会、そんな風にどこかタカをくくっていた自分が馬鹿馬鹿しく思える。こんなにも美しい景色があるのにどうしてそんなことを考えられる。
結果発表を前にしても、『いい舞台を作れた』という達成感。これは一生消えないのだろう。自然と涙がこみ上げてくる。
「紫蘭。俺を舞台に引き戻してくれてありがとうな」
「なんだよ急に。恥ずかしいやつだな。でもそうだな。私からも礼を言う。ありがとう」
そう言って二人はコツンとグータッチをした。
その様子を見ていたツツジは
「あのさあ!そういうの、バラシ作業が終わってからにして!制限時間過ぎたら失格なんだよ!」
「「あ、すみません!」」
こうして、彼ら彼女らの舞台は大成功で幕を閉じた。
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