第四幕 きっと物語は君と君の知らない誰かのためにある
筆が乗り始めたからといって、誰もがすぐに完成まで持っていけるわけではない。海越の場合、上演時間50分の台本を書くのに一ヶ月以上費やした。
初稿自体は2週間で上がったが紫蘭による修正と口論に大分時間を取られた。書きあがった時点の台本は勢い全開で仕上げたため、誤字脱字や日本語の間違いが多すぎて人様に見せられたものじゃなかった。
そんな状態で初稿を出されたものだから流石の紫蘭もブチ切れながら赤字で訂正箇所を殴り書きしていた。
第二稿からは演出家と脚本家の大ゲンカの始まりで、「ここを直せ」「うるせぇ。これでちゃんとあってるんだよバーロー」と口汚い言葉が飛び散らかった。
最終的に蒼馬が間に入ってなんとか落とし所を見つけ、それでもお互いに「黙って書き足してやろう」「絶対演出で脚色してやる」とどこまでいっても反発しあっていた。
そして夏休み突入し、むしむしと暑い稽古場で。ついにその時が来た。
「はい、と言う訳でなんとか決定稿上がりましたああああああ!」
稽古中、ずっとパソコンと睨み合っていた海越が呻き声を上げながら報告した。
「おお!ついにか!」
「よかったー、ほんと最終的に全部ボツになったらどうしようかと思った」
ユイと鴇から安堵の言葉が送られる。
「一時は……というより入部してからずっとご心配おかけしました」
「はいはい、もうそういうのいいから、先生に言って人数分コピーして来て」
数えきれないほど口論し続けてきた紫蘭は、疲れ気味に急かした。
「少しは労いの言葉くらいくれよ」
「いやいや、ないわー。海越君ほんとないわー。何度言っても私の言うこと聞かないし。初稿の1ページ目から変換ミスだらけとかほんと萎えたわー」
「それはごめんって何度も言っただろ」
「お前ら、この先もコンビ組むならお互いの相性とか再確認した方がいいぞ」
海越の横で真っ白に燃え尽きている蒼馬が絞り出すように言った。
「そうですね。一通り終わったら考えてみます」
これからようやく台本の稽古に入るというのに部員の半数はもう既に疲労困憊状態だ。海越の台本が完成して気力も底を尽きたのか、その場で立ち上がることすら拒絶反応を示していた。
「あのー、鴇かユイさ、このUSBを先生のところに持って行ってくれるか。俺はもうこの通り手も足も使い物にならねえ。だから俺の代わりにどうか、頼む」
「何カッコつけてダサいこと言ってんのよ」
「わかったよ、言ってくるから。海越の分もコピーした方がいいんだよな」
「すまん、頼むわ」
そう言って海越はガクリと力なくその場に倒れた。するとその場にツツジが駆け寄って
「ちょっと、海越君?ねえってば、目を開けてよ。一緒に生きて帰るって言ったじゃないの。起きてよ海越君!」
「バカヤロウ!お前が死んだら誰がキャサリンを迎えに行くんだ。あいつは俺じゃなくてお前を待っているんだぞ」
わざとらしい芝居で蒼馬も続く。その様子を客観的に観て、
「ねえユイ、キャサリンって誰だろう?」
「知らない。こう言う時はあまり深く考えない方がいいよ」
若干引き笑いを浮かべながら二人は職員室へと向かった。
残された海越たちは何もする気力がなくなり、横になってただ外のから降り注ぐ雨音に耳を傾けていた。
しばらくして二人が戻ってくると、紫蘭は気怠そうに伸びをして
「よーし、ここからは私の番だー!」
紫蘭は空元気でテンションを無理やり上げて指揮をとった。
まずは3人の配役を伝え、本読みからスタート。台本に書いている文章をト書きを含めて全て声に出す作業だ。何度も書き直したとはいえ実際に声に出さないとわからない部分は多い。
例えば「好き」というセリフだけでも、どんな感情を込めるかでそれがLIKEなのかLOVEなのか別れる。
そして演出家のイメージもここで再構築されることが多い。今まで文章で良し悪しを決めていたのが急に立体的になるからだ。
最初の読み合わせは確認作業の点が多いためそこまで感情移入して読むことはない。
ト書きは海越が読み、全員で情報を共有しあった。
一通り読み終えると、
「あー、なるほど。そうかそうか……」
紫蘭が何やら含みのある言い方で呟いた。
「どうしたんですか?」
鴇が不安そうに尋ねた。
「いや、何か悪い訳じゃないよ。でもねー、海越はどう思った?」
視線を海越の方にやると、彼も紫蘭と同じように何かを噛み砕くようなリアクションをしていた。
「多分お前と似た感じだ」
「やっぱりね」
「おいおい、大丈夫か。お前らそこ確認しておかないと……」
「問題ない。上手く言えないけど、海越と私は感覚的なことは共有できているから大丈夫。ただ、なんて言うんだろう。役者の芝居にめちゃくちゃ依存する。ちゃんと自分のものにしないとクソつまらない芝居になる」
この中で一番場数の多い紫蘭でも言葉に詰まる。何から始めていいのか今すぐには判断がつかない。
決してマイナスな部分が大きいわけではない。この台本はちゃんと面白いし、ポテンシャルも高いと確信している。
だが、このまま沈黙を続けていても全体の士気にも関わる。ここで判断すべきは……
「よし、もう疲れたから解散!」
「「ええ!」」
「解散解散かいさーん!海越のせいでいらない労力も使ったし、蒼馬は仲裁役買って出るくせに下手くそだし、もう今日はこれ以上何もできませーん!だから今日はもうおしまい!帰って私は寝る」
床に仰向けになって手足をジタバタさせ、駄駄を捏ねるように言い切った。
「稽古は来週の月曜から再開する。それまでにセリフは頭の中に入れておいて!じゃあ皆さんお休みなさい!」
そして紫蘭は荷物を持って颯爽と帰っていった。
残された海越たちは口を開け、ぽかんとしたままだった。少ししても紫蘭は戻ってこないため今頃校門を出ただろう、蒼馬が一年生たちにも帰宅準備するよう促した。
「大丈夫?私の演技ダメだった?」
帰り道、鴇が不安そうに海越に訊いた。
「本読みに良いも悪いもないから心配すんな。多分紫蘭は自分のイメージを形にしようと頭を捻らせているはず」
「そっか。私たちはまだよくわかっていないんだけど」
「俺が下手になんか言うよりもちゃんと試行を重ねてきた演出の指示を待った方がいいと思うぞ。とりあえず明日からセリフ入れるの頑張ろうか」
「うん……そうする」
鴇の不安はまだ拭えなかった。無理もない。初めての大会ということもあるが、今までどんなことがあってもユイと鴇の前では楽観的な態度を取っていた紫蘭があの様子だ。そして紫蘭は自分が二人の前で必要以上に悩むと余計な不安を煽ると思って解散にしたのだろう、と海越は察した。
「海越の仕事はもう終わったんだよね」
「そうだな、ここからは演出に口を出すべきじゃないだろうし」
「じゃあ、ここから海越は何やるの?」
「……何やるんだろう」
とりあえず何をやるにしても台本書くよりは楽なことは確かだ。
■ ■ ■
「お疲れ様でええええす!」
言われた通り来週の月曜日……ではなく翌日の夕方。
スライド式の扉を突き破るくらいの勢いで紫蘭が部室に入ってきた。
「うわあ!びっくりした〜。なに、どうしたのいきなり?」
芋虫のように布にくるまって寝ていたツツジが飛び起きた。
役者はみんな休日のため家にいるがツツジは舞台装置を作るために部室に来ていたのだ。
「休みにしたんじゃないの?」
「いや、ちょっと相談したいことがありまして。ていうかよくこの季節に布団に潜れますね」
「相談事?いいけど何かな。なんかいきなり敬語な上に私にしか言えないってことは」
「はい、可動式の舞台装置を三つ用意してください」
「……この前の話聞いてた?」
■ ■ ■
今度はちゃんと来週の月曜日の放課後。
稽古場には長方形に象られた、そしてその中にさらに三マス仕切るようにスズランテープが貼られ、その中に折りたたみ式の椅子を海越は配置していた。
稽古場には既にツツジ以外全員揃っていた。
「はい、この青いテープがアクティングスペース、赤い印がついている場所がはけ口ね。そして大道具だけど、真ん中に三つ並べてあるのがソファ、上手に2つ向かい合って置いてあるのが教室の机と椅子。下手にあるのが楽器スタンドと鏡ね」
「はい質問です」
鴇が勢いよく挙手した。
「なんでも訊いてくれたまえ。スリーサイズ以外で」
「興味ないからいいです。それで、本番もこの椅子でやるのでしょうか」
「やりません、ちゃんと準備しますが今は用意できないのでとりあえずわかりやすいように置きました」
「はい先生、いつ大道具は揃うんですか」
「嫌な質問ですね、部費は制作が管理しているので予算以内に買えそうなものは制作の蒼馬君が買います。オーバーしたらみんなで出し合います」
「お金、払わなきゃいけないんですか!」
「余裕で予算以内にレンタルできるから大丈夫だよ」
慌てふためく鴇に蒼馬が冷静に教えた。
「それなら良かったです。あと先生」
「ハイなんでしょう」
「ちゃんとこの台本は公演できるのでしょうか」
「それは君たち次第です。質問の時間はこれでおしまい。今日も頑張っていきましょう。では、きりーつ、きおつけー、れいー、ありやしたー」
投げやりにオチをつけるツツジ。その様子を眺めていたユイと海越は、
「何この茶番?」
「途中から質問に答えるのが楽しくなっちゃたんだろ」
「鴇ちゃんもなんか、染まってきたね」
「染まってきたな」
ユイと海越は二人から一歩下がってそんな会話をしていた。
「あ、そうそう。海越これからだいぶ暇でしょ。ということで私の演出助手についてもらうからね」
「は?」
「はーっはっはっはっは!散々改稿作業の手伝いをさせおって、これからは私の手足として働いてもらうからな!ということで早速お茶汲んでこい、お茶あああ!」
「こいつ、助手とパシリの違いわかってねえ!絶対にやらねえからな。俺はこの後半歩後ろから偉そうなこと言うポジションにつくんだからな!」
「お前もお前でバカなこと言うな」
蒼馬は背後から海越の頭にチョップを食らわせた。
「演出にかなり負担かかるし、補佐できることはなるべくお前にやってもらいたい。
それに解釈は二人で一致してるんだろ、適任じゃないか」
「はい、すみません。調子乗りました」
「やーいやーい、怒られたやんの」
「お前もそろそろ年相応の振る舞いをしてやれ」
「はいはい、わかりました。じゃあ台本開いて持ってきてー」
「それで俺は何をすれば良いんだ」
「私が行ったことメモしたり、プロンプ(役者がセリフを忘れた時に教えること)飛ばして」
「それくらいならやるか」
「じゃあ役者の皆さん、これから一人一人ローテーションで演出をつけていきます。待っている間は外でイメトレでもしていてください。ではまずはユイ、それ以外はお外へ!」
出入り口の扉をビシッと指差し、鴇と蒼馬を乱暴に追い出した。
そして残されたユイは
「じゃあユイ、今日まで私は君に何を教えてきたかな」
「え、そうですね。自分の芝居を大事にしろとかそんな感じですよね」
「うん、私が勧誘したときのことも覚えてる?」
「覚えてますよ。きっと君にしかできない役がいつか見つかるって」
「私はこの台本がそうだと思っている。ユイの芝居は人によっては受け付けないかもしれない。でもそんなの気にしない。演劇に限らず受け付けないものは人に必ずあるし気にするだけ無駄だから」
「はい、気にしたこともありませんし、初めて知りました」
「そうか、じゃあ思いっきり蛇足だったね。ようは君の個性を存分に活かせるからぶちかませってだけ。この役は読んでいるから分かるように現実世界ではなく、ユイが演じるのは虚構の人間。演劇そのものが虚構なのにその上でまた虚構を演じるとはまた面白い話だよね」
「一応理屈は理解しているんですけど、演じ方はさっぱりで」
「ユイにとっては簡単だよ。一度ここで好きなようにやってみて」
ユイは台本を足元におき目を閉じた。そして再び目を開く時には生気が消え操り人形のように口を開いた。それが彼の役に入るときの合図だ。
そして自分のセリフを淡々と紡ぐように語り出した。紫蘭は前髪をかきあげ、ユイの動きを細部まで見通そうと見つめた。
「ごめん、ユイ。違う」
そして長いセリフの途中にも関わらず突然ユイの演技を止めた
「え?はい、なんですか」
慌てて素の戻り、困惑した様子で紫蘭の方を向いた。
「確かに虚構とは言ったけど、それでも意思ある虚構にしたいの。今、機械的なものを想像してやっているだろうけど、そんな単純な話じゃないんだよ」
「……はい」
「わかった、一回歌うようにやってみて」
「歌うように?」
「はい、スタート」
指をパチンと鳴らし、ユイは慌ててセリフを読み上げた。
さっきまで頭の上にはてなマークでいっぱいだったか、咄嗟に合図を出され考えることをやめ、捨て身で思うがまま演じた。
それを見て紫蘭は難しい表情で
「……なるほどね。とりあえずここから削っていくか」
そこから20分間紫蘭による無茶振りが続いた。何か気づいたかと思えば自分のスマホにメモしているため正直海越の出番はなかった。
「オッケー、じゃあ鴇ちゃんと変わってきて」
「わかりました」
納得していない様子でユイは答えた。それは紫蘭に不満があるわけではなく、彼女の期待に応えられない自分に腹を立てているようだった。
彼女は最初に言っていた。この役は自分にしかできないと、ならば彼女を信じる以外に他はない。
ユイが鴇を呼び出して入れ替わると、鴇も自分が今から何をやるのか不安で一杯といった様子だ。
「それじゃあ鴇ちゃん。まずは安心して。何かミスをしてもそれは鴇ちゃんじゃなくて私と海越のせいだから」
「わ、わかりました」
「一年目なのにこんな鬼畜な台本でごめんね。でも私は鴇ちゃんならできると思っている。ここまでちゃんと付いてきてくれたし、本当にまだまだ上達の余地があるから」
「ありがとうございます」
「それで、鴇ちゃんはリア充だったりする?」
「え?」
「聞いたことなかったけど彼氏とか彼女いた?」
「い、いないですよ!」
「じゃあ友達は?結構仲良い女の子多いでしょ」
「まあ、はい」
「多分この部で一番リア充なの鴇ちゃんだから。何か難しいこと考えず、友達と文化祭を回っているくらいのノリがいい。でも過剰に感情をドーピングはしない。あとの二人がアレだから鴇ちゃんが舞台上で浮くのは避けたい」
「やってみます」
「あ、待って」
体が強張っている鴇に紫蘭は二つアドバイスした。
「一度全身に力を入れて、そのあと脱力」
「こう……ですか?」
ぎゅっと拳を握って、肩がぐっと上に上がる。そして数秒そのままキープしたあと、無意識に止めていた息を吐き脱力した。
「それそれ、今少しだけ緊張解けたでしょ」
「あっ!はい!」
「そしてもう一個」
そういうと紫蘭は両手の人差し指を口にあげ、口角を上げた。
「ニーって笑う。鴇ちゃんは可愛いんだからそれを舞台で発揮しないとね」
「はい!」
鴇の表情は見違えるほどに柔らかくなった。彼女もずっと焦り自分を追い詰めていたのだろう。紫蘭のアドバイスはきっと鴇が一人でいる時でも必ず彼女の助けになるはずだ。
「じゃあ鴇ちゃんの最初の長セリフから、よーい、はい」
指を鳴らし合図を出すと鴇は穏やかに笑って、語り始めた。今まで見て来た中で一番彼女らしさが出ている気がした。
紫蘭もご満悦のようで、
「うんうん、やっぱりいいね。じゃあ動きをつけながらやってみようか。多分もっと色々なやり方が見えてくるはずだから」
そして20分ほど経ち、鴇は自信に満ちた顔で蒼馬と入れ替わった。
紫蘭は机に両肘立てて寄り掛かり、両手を口元で組んでいた。
「言いたいことはわかるな?」
「……そのゲンドウポーズについてか?似合わねえな」
「違う!海越がどうしてあんたをこの役に抜擢したか」
「ああ、そっちか。わかっている。正直少しだけビビっている。お前の直感とやらは凄いし海越もよく書いてくれた」
「じゃあ始めましょうか。あんたはわかりやすくて楽ね。次の稽古から選択肢の一覧を持って来て」
「そんなのないんだけど」
「じゃあ作ってきて。私が一々あんたのできること覚えているわけないでしょ」
「わかったよ、海越にも送っておけばいいのな。あんまり見せたくないけど」
「仕方ないでしょ。とにかく二人が自分の一人芝居が完成するまで行動パターンを全部試すよ」
「はいはい、お願いします」
「海越、タイマーで測っといて」
存在を忘れられていたんじゃないかと思っていたため急に直接声をかけられ海越は飛び上がった。
「え、時間測ればいいの?スマホのでいい?」
「いい!早く!そのくらい準備くらいしてて」
そして蒼馬の練習を開始した。彼のセリフは二人と比べて極端に少ない。だがその代わり動きに関するト書きが人一倍多い。紫蘭は時間が許す限りあらゆるパターンを秒単位で決めていくようだ。
こうして海越が初めて手がけた脚本の稽古が進められていった。夏休み中は先ほどと同じように一人一人に合ったやり方で演出をつけていった。
きっと部活を休んでいる間ずっと考えていたのだろう。無茶苦茶な性格をしているがこういう面倒見のいいところがあるから嫌いになれない。
ユイの演出は彼が感覚を掴めるまでトライアンドエラーの連続で、かなり時間がかかったがそれでも着実に役を自分のものにしていった。
そして夏休みに入ってようやく三人合同で稽古ができるようになった。合わせて見て不調和がないかどうか、何度も調節を重ねた。
長い長い一場の稽古が一区切りつくと、ようやく次のシーンに進めるようになった。気が遠くなるような回数を重ねなければならない上に役者にとって最大の敵『飽き』とも戦う必要がある。
一回一回全て同じだけ新鮮なリアクションをする。役者が舞台上に起こる事象に飽きてしまえば、それは自然と観客にも伝わる。『飽き』との戦いは役者の基本であり、プロでも難しいことなのだ。
毎日長時間の稽古は避け、紫蘭は蒼馬と連携してうまくスケジュールを組み、なんとか役者の新鮮な芝居を保っていた。
夏休みが明けると実際の大道具とある舞台装置が準備されていた。
「うおおおおおおおおお!すごい!すごすぎる!もう先輩大好きです!」
紫蘭はそれを見ると大はしゃぎでツツジに抱きついた。
「いや〜そう言われると頑張った甲斐があるね〜」
その舞台装置とは、紫蘭が以前ツツジに頼んでいた、舞台上で大道具を可動させるためのものだ。
「これってどうやって使うんですか」
「あ!待って、使い方説明するから」
ソファーに触ろうとした海越をツツジは急いで止めた。
「実は結構作りは簡単でね、大道具とみんなの決められたアクティングスペースに合わせて切った板にキャスターとお手製のブレーキをつけただけ。これからレールを作って安全に決められた場所にだけ稼動できるようにするよ〜」
「マジですか、すげえ」
「先輩、こんなことできたんですね」
海越とユイは目をキラキラ輝かせてツツジに尊敬の眼差しを送る。
「ブレーキは観客からは見えないようにつけてある。その金具を踏みつけると全部のキャスターにブレーキかかるから」
「無茶な注文しちゃってすみません。本当にありがとうございます」
無茶振りをした紫蘭は膝をついてツツジを神の如く讃えた。
「あの時は冷や汗かいたけど、結構やれちゃうものだね。私はまた作業に戻るからあとは頑張ってね」
「「はい!」」
ツツジによるサプライズは全員のモチベーションを一気にあげた。その成果もありすぐに通し稽古に行ける段階まで進んだ。
その日から紫蘭は夜に転換表を海越は照明台本、音響台本を製作し、ツツジの元へと送った。大会まで1週間を差し掛かった時、稽古は佳境に差し掛かった。
「台本よし、演出よし、大道具小道具、そして先輩お手製の装置もよし!必要なものは全部揃ったー!やったー!」
紫蘭は手放しで仕事からの解放を心から喜んだ。
「じゃあ、あとは通し稽古しまくるだけだね」
「いや〜本当に疲れた。途中から海越君に手伝ってもらわなかったらほんと危なかったかも、ありがとうね」
「そ、そんな。ほとんど先輩の手柄じゃないですか。俺はお手伝い程度なんで。それに俺だけ何もしないのは気が引けますいし」
「私の時は拒んだ癖に」
「それはお前の言い方が悪い」
「お互い様だと思うけど、まあいいや。海越、前日まで音響プランナーやってもらっていい?私はまだ全体の流れ見ておきたいから」
「台本通り操作すればいいんだよな」
「そうそう、明日までになんとか目を通しておいて」
「目を通すも何も、俺が作ったからな。任せろ。因みに本番は?」
「照明は私がやるし、音響も紫蘭ちゃんだから公演中は純粋に楽しんでいれば?作者なんだしさ」
「そうね、舞台上から見る景色もいいかもしれないけど、自分が育てた劇が称えられる瞬間を上から眺めるのもいいものよ」
「それは……楽しみだな」
■ ■ ■
その翌日、ずっと不明だった泉谷翡翠の所在について紫蘭から連絡が入った。緑ヶ丘聖学院という女子校に在籍しているらしい。
先日その高校で文化祭が催され、演劇部の公演も行われたらしい。SNSでは一部の高校演劇をやっている生徒はその話題で持ちきりだったらしい。
ただでさえ名門と言われた高校にとんでもない一年生が現れたと。
それが言わずもながら翡翠のことだとわかった。さらにその高校は海越たちと同じ地区の高校、つまり大会ですぐにぶつかる相手だ。
ただでさえ順徳高校を相手にしないといけないのに、ここで翡翠も相手にするというのは中々の激戦になる。
だが、それとは別に少しだけ嫌な予感がした。SNSの評判を眺めていると自分の抱いている印象とは違う翡翠への感想が多く寄せられていた。
何とは言えない漠然とした、しかし確かな確信を持った不安と共に海越は本番の日を迎えた。
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