第三幕 そして彼の世界に色が宿る

 順徳高校の公演から二日後、海越はついに演劇部に入部した。紫蘭が海越に対して絶大なアプローチをしまくっているという噂は教員内でも広まっていたようで、入部許可書を提出した時はなぜかその場にいる教師たちから拍手が送られた。

 隣にいた紫蘭はドヤ顔を浮かべながら職員室を後にした。

 一体自分がどれほどの期待をされているのかわからない。自分自身ですらできるのかどうかもわからない。だけどあの日、初めて舞台を作る側の人間に心の底から対抗心を燃やした。本気で勝ちたいと願った。

 その感情が赴くまま休日の間、姉から譲り受けたノートパソコンにいくつかのプロットを作り今日早速紫蘭に提出したのだが……

 「なんでそんな簡単に人のアイディアを全部ボツにできるんだよ!」

 「しょうがないでしょ、私がやりたいって思えないんだから!それにこの前観た公演に影響されすぎなの。ああいうディストピア系の作品は高校生が軽はずみに手を出しちゃいけない類のものなの。下手なレベルだと自分たちしか理解できない自己満足劇になっちゃうから」

 「べ、別に影響されてねえよ。ただああいう劇も作っていいなら俺も管理された人間社会とか核に汚染された世界とかそういう風刺っぽいのがやってみたくなっただけで」

 「完全に影響されているじゃない。社会がなんたるか知らない高校生風情が社会風刺なんて10年早いのよ。それをやったところで『なんかすごいね、うん(汗)』みたいな感想しかもらえないから」

 部室まで移動しながら二人は大会の台本について揉めていた。

 二人で部室連までの渡り廊下を騒ぎながら歩いていると後ろから嬉しそうに東雲もついてきたのだが、二人は全く気づく様子がない。

 「そんなのやってみないとわからないって。どんな凄腕の脚本家も実際に演じさせてみて方向性を決めるだろ」

 「そうだけど、そもそも人手が足りないんだって。これどれも最低でも10人はエキストラいるでしょ。それにこの舞台セットも時間内で組めるわけないでしょ」

 「じゃあ何人規模ならできるですか!それを最初に教えてください!」

 ワザとらしく海越は敬語を強調させて質問を強引に投げかけた。

 「それはごめん。情報が足りなかったのは素直に謝る。だからそのムカつく顔をすぐ引っ込めて。今にも手が出そう」

 海越はすぐに真顔に戻って紫蘭の返答を促した。

 「正直、順徳みたいにエキストラ大勢出すのは難しい。うちで役者ができるのはおよそ3人。そのうち一人はメガネのヒョロガリ部長。演技力に関しては器用貧乏って感じでどんな役もできるけど全部65点。もう一人は演劇未経験の一年生女子。正直難しい役はまだ荷が重い。まともに良い演技ができるのはユイくらいだよ」

 背後にいる東雲はそれを聞いて静かにガッツポーズをした。

 「あと裏方に演出で私。あともう一人は舞台監督と照明を担っている」

 「え、それだけ?」

 「海越を含めて6人、一応先生も舞台監督補佐で入ってくれるけど他の部活の監督もしてるからあまり大きな仕事は任せられない」

 「それってかなりまずいんじゃ」

 「まずくはない。裏方揃っていて舞台に一人でも人間がいれば舞台は成立する。かつては一人劇で全国まで上り詰めた高校だってあったんだから」

 「お前は役者やんないのか」

 「嫌よ。演出家が芝居すると作品の視点がごっちゃごちゃになるでしょ。まあ兼任してる人は結構いるけど。でも裏方で機材扱える人いなくなるから結局出られないのよね」

 「そうか……」

 海越は手を口元に置きしばらく考えた。まず大掛かりなセットは絶対に作れない。中学の時みたいにひな壇式の階段も手間がかかるから作れない。背景のセットも人手がないから相当前から準備しないとならない。

 そして役者は3人。一人は完全に初心者。この条件で白瀬秀樹を超える作品を作るとなるとどう構成したものか……

 「その上言わずもながら俺も脚本未経験者。これちゃんと作品になるのか」

 「そりゃあ、やってみないとわからないでしょ」

 「そんなさらっと言えるものなのかよ。あんな大見得切っておいて」

 「海越の方が恥ずかしいこと言ってたけど……まあわざわざ弱気になる必要はないでしょ。作る舞台がまだ漠然としているなら必要な要素を少しずつ埋めていけばいいだけだし。まずはその目で役者の実力を見てみるといいんじゃない。何か気づきがあるかもしれないし。」

 「そうだな、まず東雲の演技力が気になる」

 背後にいた東雲が露骨に反応した。

 「お前がスカウトしたってことはかなりの実力があるんだろ」

 「うーん、実力っていうと語弊はあるかな。上手いっていうよりは……面白い。きっと良い刺激になるはずだよ」

 東雲は声には出さなかったが口元を嬉しそうに歪めていた。

 「しかし東雲もよくここに入ろうって思ったな」

 「ユイ、私のこと好きだからねー」

 「え?」

 一瞬声に東雲は声を出してしまったがすぐに口を塞いだ。どうやら二人はまだ気づいていないらしい。

 「あ、やっぱり?俺もそうなのかなって思った」

 「本人は隠しているけど、海越と同じようにウブで顔にでるからねー」

 ええ、ちょっと待ってくれよ、とすぐさま飛び出したい気持ちで一杯だったがこのタイミングで気づかれたら余計怪しまれるため、必死にこらえた。

 「は?俺は違うから。いつまで子供扱いするんだよ」

 「はいはい、海越君は大人でちゅね。きっと経験豊富なんでちゅね」

 「やめろつってんだろ!」

 二人が騒がしく移動しているうちに部室の扉の前までついた。海越は開けて中に入ると、足に何か奇妙な感触を覚えた。

 「うわびっくりした。なんだこれ?」

 足元に目を向けるとそこには芋虫のように布で包んで丸めた何かが転がっていた。

 「う〜ん、うるさいし、突然蹴飛ばすなんて酷いよ〜」

 「うわああああ、なんか喋ったあああ!」

 「落ち着け海越、ちゃんと人間だから」

 「え?」

 すると芋虫のようだった布はスルリと解かれ、中から海越よりも少し小さい背丈の少女が眠そうに顔を出した。

 「もう来ていたんだ。おはよう、ツツジ」

 「おはよ〜紫蘭ちゃん」

 「タメ口ってことは……え、先輩?うわあああああああ、すみませんすみません。急に入ってきては踏みつけてしまって」

 相手が先輩とわかった途端海越はすぐさま土下座で謝罪した。だが少女は全く気にすることなく、眠い目を擦りながら起き上がった。

 「全然大丈夫だよ〜、新人君。あ、ユイちゃん、おはよ〜」

 「あ、おはようございます先輩」

 「え?東雲お前いつから?」

 「えーと今さっき来たところ」

 東雲は明後日の方向を向きながら答えた。

 「とりあえず紹介しておこっか。海越、この人が舞台監督の二つ森ツツジ。見ての通り無気力系キャラだけど本気出したらすごいから、多分」

 「なんだその紹介」

 「無気力系キャラは実は凄腕ってパターンがテンプレなのよ」

 「ふふふ、そのち私のすごさを見せてあげるよ。よろしくね〜」

 淡い栗色の長い髪を二つ結びで括った小さな少女、二つ森ツツジ。ゆっくりと起き上がると、か弱そうな細腕を腰にあて、えっへんと慎ましやか胸を張った。

 「それで、ソーマ君とトキちゃんはまだ〜?」

 「鴇は日直ってさっき聞きいた。蒼馬は……」

 東雲は部室のロッカーの方に視線を向けた。ロッカーの中には既に紺色のリュックと制服が畳んで置いてあった。

 「荷物置いてあるんでもう多目的室2に行ってるんじゃないですか」

 「おお、そうかそうか〜じゃあ待たせておくのも悪いし早く着替えて行こうか」

 「そうね。海越、着替え持ってきてる?」

 「昨日言われた通り、動きやすい服装だろ」

 「オッケー。じゃあ着替えるから男子は出て行ってね」

 そう言うと紫蘭は海越と東雲を追い出し、スライド式の扉をバタンと閉めた。残された男子二人は渋々トイレで着替えることにした。

 紫蘭はレディースのゴムジョガーパンツと肩出しの半袖のトップスといったダンスウェアのような稽古着に、ツツジは白い短パンとワンサイズ大きめのTシャツといったラフな服装に着替え、その後男子二人は荷物を適当に置いて練習場所の多目的室2へと向かった。その際に、

 「あ、ユイちゃん、今日もおねが〜い」

 そう言ってツツジが東雲に向かって両手を伸ばすと、東雲はなんの躊躇もなくツツジを抱えて、何事もなかったように歩き始めた。

 「じゃあ、行きましょうか」

 「いや東雲、ちょっと待て」

 「どうした海越君?」

 「その絵面が犯罪臭すごいんだけど、幼女誘拐する青年のソレにしか見えないんだけど」

 「ああ、これか。これはなんと言うか」

 「私が歩くのめんどくさいからいつもお願いしてるの」

 ああ、なるほどね。以前から当たり前のように東雲や紫蘭に抱えられていたけど、それが日常だったのね。納得……いや、できねえよ。それくらい歩けよ先輩。

 頭の中でツッコミが入り回るが、もう既にツツジは完全にリラックス状態で今にも眠りにつきそうだったため、口には出さなかった。これが本気出したらすごいって一体何に対してだよ、と演劇部に対しての疑問がまた一つ増えた。


 ■ ■ ■


 「すみません遅れました」

 そう言って現れたのは夏用のランニングウェアを身に纏ったポニーテールの少女だった。

彼女が先ほど日直で遅れると言っていた鴇という子だろう。

 「よし、それじゃあ全員揃ったからまずは円形に座ろっか」

 パンと手を叩くと紫蘭が指揮を取り始めた。部員は全員で6人しかいないためすぐに小さな円形になって座った。

 「じゃあまずはいいニュースを。ついに私がずっと目をかけていた期待の一年生、日寄海越君が入部してくれました。はい、みんな拍手!」

 パチパチ、と少し物寂しい大きさで海越に拍手が送られた。

 「なのでまずは自己紹介から行きましょう!はい、海越スタンドアップ」

 「えー、ご紹介預かりました。一年生の日寄海越です。この度先輩に誘って頂き脚本家として入部させて頂きました。できれば下の名前で呼んでください。よろしくお願いします」

 慣れた口調で海越は自己紹介を済ませた。一度辞めたとはいえこの手のフリは何度もやってきたため今更戸惑うことはない。

 続いてその隣にいた、メガネと白いジャージを着た青年が立ち上がった。

 「俺は演劇部部長の三木蒼馬(みきそうま)、二年生です。別に由来は神の酒とかじゃないです。担当は制作と一応役者。そいつが何かやらかしたら俺にヘルプを投げてください。ようやく大会に出られるようになったので勝てるところまで勝ちたいです。よろしくお願いします」

 淡々とした口調で済ませると、隣にいる鴇に合図を出して座った。

 「あ、えっと、一年の西野鴇(にしのとき)です。去年まで陸上やってて演劇は今年からです。体力はあるので頑張ってみなさんに追いつきたいです。よろしくお願いします」

 あまり人前で話すのに慣れていないのか鴇は目を泳がせながらぎこちない口調で話すと、すぐにその場に座った。

 「あと始めましては私だけかな?じゃあ改めまして二年生、舞台監督の二つ森ツツジで〜す。舞台上に必要なものがあったらなんでも遠慮なく言ってね。無理な時はすぐ諦めるけど。できる限り頑張るんでよろしく〜」

 ツツジは胡坐をかいたまま言い終えると発言権を紫蘭の方へと戻した。

 「じゃあ海越もみんなも少しずつ仲良くしていって下さい。あと、海越はユイのことは名字じゃなくて部名で呼んであげて。せっかく増えた一年生同士、呼び捨てで仲良くやって欲しいからさ」

 「……わかった。よろしく、ユイ」

 まだ抵抗あるが海越は東雲、改めユイに呼びかける。

 「うん。よろしく、海越」

 ユイは嬉しそうに呼び捨てで返事した。

 「それじゃあ早速基礎練から入ろうか。ということで、校門へ出ろー!」

 紫蘭が叫ぶとツツジを残して全員外へと飛び出していった。

 「え?何?これからどうするの?」

 「体力作りだよ。海越くんも早く行きな〜」

 グイグイと背中を押すツツジ。彼女が言うように海越もすぐに紫蘭たちを追った。

 「それじゃあ外周を3周ね。その後いつも通り体幹トレーニングと発声。それから課題の台本をやるから」

 「「了解」」

 蒼馬とユイが同時に返事をした。

 「じゃあ鴇ちゃん、タイマーお願いね」

 「は、はい!」

 「それじゃあよーい、スタート!」

 パンっと勢いよく手を叩くと一斉にスタートした。海越もワンテンポ遅れて走り始める。

 校舎周りは約900メートル、3周するとなると約2キロと700メートル。体力作りには程よい距離だ。

 先頭を走るのは元陸上部の鴇。綺麗なフォームで一気に距離を離す。本当に体力作りとかいるのかと疑問になるほどの速さだ。

 その後を続くのは同じくスポーツ全般できる運動神経抜群の紫蘭。その後を蒼馬とユイが追いかける。二人も決して遅いわけじゃないが案の定女性陣が早すぎて比較にならない。圧倒いう間に先頭集団は最初の曲がり角を曲がり、見えなくなってしまった。

 「ええ、マジかよ」

 海越が驚愕していると後ろからツツジが軽く背中を叩いた。

 「もしかして海越君も体力ない感じ?お揃いだね」

 「はは、そうですね。一応体作りは昔やってたんですけどね。これには散々悩まされますよ。ていうか先輩も走るんですね。」

 「本当は疲れることあんまりやりたくないんだけど、もし誰か出られなくなってもすぐ交代できるようにみんな同じメニューをやろうって決めたんだ。ようやく大会に出られるようになったのに何もせず終わりたくないからね〜」

 「いいですね、そういう支え合う感じ結構好きですよ」

 「でしょ。私もこういうの憧れてたからね。体力的なものは辛いけど、みんなの役に立てるならやれることはしてあげたいんだ。でもすぐ疲れちゃうから練習前は温存しないと本当についていけなくて」

 「そういうことですか」

 「さて、そろそろペース上げてちゃんと走ろっか〜。じゃないとすぐトキちゃんに一周差つけられちゃうから」

 「3周ですよね。それはさすがに」

 「本当だよ、私の目標は周回差つけられずにゴールすることだから」

 「え?」

 海越とツツジが曲がろうとした時、300メートルほど後方から綺麗なフォームで走る少女の姿が見えた。それが鴇だと認識するのに時間はかからなかった。

 「マジかよ……」

 凄まじい勢いで走る鴇に目を奪われた瞬間、ツツジも一気に加速して海越から距離を稼いだ。

 「あ、先輩ずるい!」

 海越もすぐ様追いかけるが二人の速さは大体同じくらいで、結局鴇には周回差つけられ、同じタイムでゴールした。

 「はぁ……はぁ……やるねえ、海越君。私の速さについてこれるなんて」

 「せ……先輩こそ、中々どうして……」

 二人とも今にも倒れそうなくらい息を切らしていたがお互いの目には火花が散っていた。

 「はいはい、ツツジちゃんも海越も頑張りましょうね。息整えたら多目的室に戻って、水休憩の後体幹だよ」

 紫蘭は最下位の二人にそう告げると駆け足で戻っていった。

 「む、むりいいい。誰か運んでえええ」

 「ちょっと、俺も……きついです」

 疲労困憊の二人の嘆きは残念ながら誰にも届かなかった。


■ ■ ■


 その後、なんとかトレーニングメニューと発声練習を終え、休憩時間海腰とツツジは仲良く大の字で寝転がっていた。

 中学まではなんとかついていけていたが、空白の一年間によるブランクは凄まじく、体が全くいうことを聞いてくれない。とにかく休める間は回復に専念しようと、ツツジに倣って遠慮なく寝ている。

 「とりあえず二人はお疲れ様。この後は演技レッスンだから海越とツツジちゃんは見学。何か見ていて気づいたことがあったら一年生でも気にせず意見して」

 「うーあー、わかった」

 「じゃあ、まず起き上がろうか。正直ここまで貧弱だとは思わなかった。そりゃああの台本じゃあ本番中に事故って当然だよね」

 「うう、ぐうの音も出ない」

 「まあ、続けていくことが大事だって。それに海越の仕事は脚本でしょ。そう落ち込まずできることことを最大限発揮していこう」

 ユイは海越に手を伸ばし掴むと、引っ張って起き上がらせた。

 「その台本もプロットの段階で全部ボツになったんだけどな。いきなり書くってなっても構成そのものがまず見えてないからキツい」

 「役者のことを知らないのもあるけど、舞台上のイメージが掴みにくいんじゃないかな?

海越君真面目だから今まで観てきた良い芝居、俗に言うウェルメイドな舞台に囚われて

整理が追いついていないんだと思う」

 ツツジが海越の元まで転がりながらそう言った。その後ユイに向かって手を伸ばし、無言で起こしてくれとせがんだ。

 「紫蘭ちゃんから聞いたけど、登場人物に寄り添うっていうのが海越くんの良さなら、役者の時と同じように、自分が思う魅力的な人物を舞台に上げて、どうすればお客さんに伝わるのか。そのために舞台上に何が必要なのか、あるいは何を使って魅力を引き出したいのか。そういうところから考えていくのがいいんじゃない?」

 「やり方は作家によっていくつもあるけど、それに囚われる必要はないのよ。ツツジちゃんの言うように自分の武器を操ること。きっと良い作品が書ける。と言うか書け。いくらボツになってもいいから遠慮なくね」

 入学初日、紫蘭に自分なら書けると言われ、心のどこかでそんな才能があるのかもしれないと自惚れていた。だが、実際に試してみたが全く思い通りに構築できなかった。

 こういう話にしたい、と漠然とした映像が出てきてもそこにたどり着くまでの工程でいくつもの矛盾を孕んだり、書き出して実際に読み返したら全然面白くなくて自分に失望したり。

 最終的にやけになって、どこかで観たことあるような駄作しか提出できなかった。舞台上には何もない、だからこそ選択肢が膨大で、何を中心に表現を生み出せばいいのか全く分からなくなる。

 白瀬秀樹は一体どうやってあのような完成形にまでたどり着いたのだろうか。同い年なのにこうまで差があると天性の才能のように思えてしまう。

 だが、彼は決して翡翠のような天才ではない。彼の舞台にはなんと言葉にしたら良いだろうか、『持たざる側の意志』のようなものがどこかに紛れ込んでいた。だからこそ観客を魅了するのではなく、傷口を抉り出すような舞台を作れたのだと思う。

 なら自分はどうやってあのレベルまで追いつくことができるだろうか。

 海越は再び壁にぶつかった。ここまで考え込むと自分一人の力で抜け出すことはできない。それがわかっていたため自分の無力さにむしゃくしゃして頭を掻き散らした。

 そこで蒼馬が、

 「おーい、そろそろ演技レッスンに入ろう。時間なくなるぞ」

 「おっとごめんごめん。じゃあ役者チームそこで集合!台本はもう手に持ってるね」

 「あるぞー」

 「あります」

 「俺もあります」 

 3人はそう答えるとB5サイズの縦書きの用紙を手に取った。

 紫蘭は素早く配役を伝えると、まずユイと鴇が前に出た。

 「海越、ユイの芝居をよく観ておいて」

 紫蘭は海越にそう言うと3人と同じ台本を手渡した。

 「準備はいいかな、じゃあ初めてください。よーい、はい!」

 指をパチンと鳴らすと、瞬時にユイの表情から生気が失われた。今までいろんなタイプの役者を観てきたがユイのそれは誰よりも不気味に感じた。

 「私は今ここで龍馬を殺すつもりだったのよ!」

 鴇の力強いせいリフから芝居がスタートする。

 二人が今やっているのは『贋作・罪と罰』のワンシーン。ドフトエフスキー作の『罪と罰』を劇作家、野田秀樹の手によって舞台を幕末に、主人公を江戸開城で学ぶ女学生に置き換えた作品。『超人には人類のために既成の道徳法律を踏みこえる権利がある』という思想が、当時オウム真理教事件と重なる部分があり、観客に対して現実の世相や悲惨な事件とのシンクロニシティを生み、衝撃を与えた作品だ。

 このシーンは主人公の女学生が何万もの理想のために友人であるはずの坂本龍馬を殺そうとするシーンだ。

 「一つの命は何万の志と引き換えにはできない!」

 ユイの演じる龍馬は殺そうとしてきた主人公の思想そのものを否定する。だが、彼女の意思は固く、なんとしてでも龍馬を殺そうとする。

 「しかし龍馬、今ここに老いた老婆と……うら若き水々しい人間がいるとする。誰でもいい……そのどちらかがこの世に生きるべき決定をお前に委ねられたら、お前はどちらを死なせる」

 まだぎこちない部分はあるが鴇は堂々と読み続けた。経験がない分、割り切っているためがむしゃらに演じているって言う印象だ。

 「誰が生きろ、誰が死のうなど、誰が決めた!」

 そして、注目すべきはユイの演技だ。恐らく予め目は通してあるようだが、実際に読み合わせるのは初めての本だ。だが、龍馬の『殺すのをやめさせたい』という欲求と『彼女が親友である』という障害をよく踏まえている。

 しかし、この違和感何なんだ。翡翠のように憑依しているわけでもなければ理詰めで演じているわけでもない。

 「私は決めたのよ」

 「いつだ、どこでだ!」

 「私が!私があの老婆を殺したのよ!」

 「君が、君が殺したのか」

 「はい、おっけ。一旦止めます」

 紫蘭はパチンと指を鳴らして二人の芝居を止めた。その瞬間、ユイの目に生気が再び宿った。

 「あれ……」

 「なんかわかった?」

 「まあ。なんか喉の奥で引っかかる感じだけど」

 「そっか。この後のシーンもやるから自分なりに言葉にして、彼の武器を掴んでみるといいよ」

 そう言って紫蘭は二人の演技指導に入った。役者3人には目標が設定されているようで、まず鴇は基礎的な演劇力の向上。蒼馬は動きのパターン、例えば真理的描写でも腕の動き、足の角度など細かい動作でも意味が変わってくる。その感情表現のパターンを増やすこと。そしてユイは自分の尖った武器を徹底的に磨くこと。

 「鴇ちゃん、前より堂々とできるようになってよかったよ。ただその分、役に呑まれちゃうところが目立つね。これは自分の感情を呼び起こして芝居する、復元型の人によくあるんだけど。感情そのものを見せようって意識が強いとキャラクターが見えなくなっちゃうから注意ね」

 「はい、わかりました」

 「ユイ、出だしにしてはよかった。けど、もうちょっと鴇ちゃんがやりやすいようにサポートに回って。本領発揮させてあげたいけど、一応チーム戦だしね」

 「はい、気をつけます」

 紫蘭は二人の元へ行くと一つ一つ丁寧に説明し始めた。二人は台本とは別にメモ帳を取り出すと一言一句聞き逃さないように書き出していた。

 「案外面倒見が良いんですね」

 海越は胡座かいて見ていたツツジに言った。

 「ちゃんと見ているからね。それに嘘がつけないだけで普通に優しいから間違っても灰皿とか投げたりしないよ」

 「あー、結構有名な話ですよね、それ」

 「まあ、ソーマ君には普通に物ぶん投げるけど」

 「え、部長ですよね」

 「部長だからね〜、次見ていたらわかるよ」

 一通り演技指導が終わると、紫蘭はユイと蒼馬を交代させた。鴇にはそのまま芝居を続行。女性が一人しかいないと言うのもあるが、経験が少ないためなるべく彼女の練習回数が多くなるように台本を選んでいるようだ。

 「じゃあ、お願いします。よーい、はい」

 パチンと指を鳴らして再び同じシーンがスタートする。

 さっきと一言一句同じセリフを鴇が読み上げるが、紫蘭のアドバイスをなんとか取り入れようと探り探りで話している印象を受けた。

 そして蒼馬の演技力だが、わかりやすく上手い。キャラクターの、というよりはこのシーンそのもので伝えたいものを主張している気がした。そして動きに無駄が少ない。まるでいくつもの選択肢の中からコマンドを入力して体を動かしているようだった。

 その分、鴇も相手のやりたいことがわかったのか後半はさっきより役を掴んでいた。

 「はーい、止めまーす」

 紫蘭は手を挙げ、芝居と止めると蒼馬の元へ駆け寄り、そして……

 「お前、何緩い芝居してんだバカヤロウ!」

 今まで聞いたことなかった紫蘭の罵声と共にスパーンと蒼馬の頭をノートで叩いた音が気持ち良いくらいに響いた。

 「何すんだ、テメーこのアマァ!」

 「いつも言ってんだろ、その自分小慣れてます風の芝居やめろって。一年生に悪影響なんだよ、埋めるぞゴラア」

 「上等だやってみろ。そもそもお前が鴇ちゃんを気遣うように言ったくせに何後出しジャンケンでケチつけてんだ、ああん?」

 そして絵に描いたような、演劇人の醜い言い合いが始まった。何が起きているのか状況が飲み込めない海越にツツジは

 「ほらね」

 「ほらね、じゃないですよ。止めましょうって!」

 「ほっとけば5分後には収まってるよ〜」

 「え?いや、でも、なんでもあんな仲が悪いんですか」

 「二人はこの部の創設者だから、遠慮なく意見をぶつけ合っちゃうんだよ」

 「それ理由になってます?」

 楽観的に見守るツツジ、何事もないように台本を見つめるユイ、そしてどうして良いのかわからずオロオロする鴇。これが日常風景なのかなと思うと、一周回って心配よりも先に呆れが勝ってしまった。

 「あー!もう良い、引っ込んでろ。お前抜きで今日は進めるから。その凝り固まった頭どうにかしろ」

 「凝り固まるほどまだ勉強してねーよバーカ!」

 「そっちの方がダメなのでは?」

 思わず突っ込んだが二人も耳には入らなかったようだ。

 その後は、本当に蒼馬の出番はなく、ユイと鴇の練習を繰り返していた。

 「それで、なんかわかった〜?」

 真剣にユイの芝居を見つめる海越にツツジが話しかけた。

 「まだうまく言えないんですけど」

 「なんでもいいから言ってみな」

 「……なんというか、不思議な感じがします。これだけあいつの芝居を見ているのに、振り返ってみるとユイ自身とユイの役が全く一致しないというか、演じている時の顔が見え……ない?……あ!そういうことか」

 その瞬間、ユイの芝居の本質が一気に見えたような気がした。

 「自分を殺す芝居だ」

 そう、感じていた違和感の正体。それはユイ自身の感情が全く役と一致しないということだ。

 憑依型や復元型、海越のような構築型も、どの型をとっても演じるとなれば、役の感情と自身の感情を一致する部分は必ず出てくる。

 だがユイは、自分という存在を消し去り、その空っぽの器に役を入れているイメージだ。だからこそ、役者自身の魅力というものが見えず、それが逆説的に舞台上に彼自身にしか演じられないキャラクターとしてその魅力を発揮する。

 まだ完成形ではないのだろう、彼の芝居の真価はまだまだ観客には伝わりきれない。それでもその強烈な個性。「上手い」「下手」を通り越した得体の知れない存在感を持つそれは、きっとユイにしかない「面白さ」として昇華できるものだ。

 「どう海越?ユイ、面白いでしょ」

 紫蘭はまるで自分のことのように得意げに言った。

 「確かに、上手く活かせたら強力な武器になる……かも知れないな」

 その成否は海越の腕にかかっている。彼らの魅力を最大限活かせて、なおかつ人数と規模の制限がかかっても問題なくできる内容……

 「紫蘭、一つ稽古内容で頼みがある」

 「言ってみな」

 「既存の台本での練習をやめて、全てエチュードでやってくれないか」

 「……理由を聞いてもいい?」

 「正直、このままグダグダ色々考えてもいいアイディアが思いつくとは思えない。だから3人にとにかく演じてもらって、これだって思ったものを掘り下げる。それが合理的だと判断したから」

 「なるほど、海越の性格上そっちの方が合っているかもね。でも却下」

 「なんで?」

 「一つ、エチュードはあくまでエチュード。いくら掘り下げたってその域を超えない。二つ、いいものが見つかる保証がない。そんなのに貴重な稽古時間は割けられない。三つ、それで君が納得いくものは書けない。断言する」

 「うう、確かにそんな気もするが。でもあまりかけるビジョンが見えない」

 「そうね。私もこのままグダグダ海越のことを待っていられない。大会まで時間あるとはいえ、方向性だけでも早く教えてもらいたいのは事実。だから、明日から班別行動というこうか。ツツジちゃん、海越の面倒観てもらっていい?」

 「オッケ〜、何やればいいのかわからないけど任された」

 「私も細かく考えていないから帰ってから詳細送る。キリがいいぁら今日はこれでおしまい!ありがとうございました」

 「「ありがとうございました」」

全員がその場で一礼すると、多目的室の掃除に取り掛かった。その後部室に戻って着替え、部室の鍵を職員室に返すと時刻は既に19時を回っていた。

 「じゃあお疲れ様でした。解散!」

 一同揃って校舎を出る。その一歩後ろから海越はついていく。

 少し湿気を帯びた夜風が心地よく肌を撫でる。

 依然として演劇に対して後ろ向きではあるけれど、悔しいことにこの騒がしさが心地いと思えてしまう。

 ああ、戻ってきたんだな、と。これから何を描けばいいのか。全く違う分野で自分がどれだけ戦えるのか。果たして役者として積み重ねたものが脚本家として本物にたどり着けるのだろうか。

 雲に隠れていた三日月が顔を出す。

 夜空を見上げ不安のこもったため息を小さく漏らすと、

 「何一人黄昏ているのよ!」

 紫蘭の右手が勢いよく海越の背中を叩き、バシっと気持ちの良い音を鳴らす。

 「いったぁー」

 本当はあまり痛くない。

 「なんだよいきなり」

 「なんか寂しそうな雰囲気出してたから。なんでみんなのところに混ざらないの」

 「そりゃ初日だし」 

 「ふーん。何考えてたの」

 「台本のこと」

 「不安?」 

 「まだな」

 「そっか。まあそんな心配しないで。一応考えはあるから任せてよ。一応先輩なんだから」

 屈託のない笑顔。無根拠なようでどこか安心できる笑い方だ。

 「それにせっかく同じ部活になったんだから、みんなで仲良くいこうよ。ほら!」

 そう言うと紫蘭は海越の手を引き、前の集団の元まで駆け寄った。

 強引で身勝手、自由奔放、なのに何故だろう。依然よりもずっと楽でいられる。自分よりもひと回り大きいその背中に、少しだけ自分の未来を預けてみようと思った。


 ■ ■ ■


 翌日、体力作りのランニングとトレーニングメニューを終えると、海越は着替えてツツジと図書館に行くように紫蘭に指示された。

 言われた通り図書館へ向かうと、中には一人図書委員と思われる女子が受付にいるだけで、あとはガラガラに空いていた。

 ツツジは窓際の席に一直線に向かうと、リュックからノートとペンケースを取り出してそこに座った。

 「ほれ、海越君もかけたまえ」

 「なんで面接官の態度なんですか」

 「一度やってみたかった」

 海越も自分のリュックを椅子に置き、その隣に座った。

 「それで俺らは何をするんですか」

 「ふっふっふ、それはね〜」

 ツツジは鼻歌を歌いながらノートの表紙に油性ペンで大きく『海越君のノート』と書いて、ドヤ顔で提示した。

 「カウンセリングだよ」

 「え?今なんて?」

 「ああ、そうか。Counselingだよ」

 「違う、なんでカウンセリングするのかってこと。ていうかめっちゃ発音いいな」

 「ああ、そっちね。ごめんごめん」

 「絶対わざとですよね。そのボケやりたかっただけですよね」

 海越のツッコミを無視して、ツツジはリュックから携帯を取り出し紫蘭からのメッセージを読み上げた。

 「『お疲れ様。海越の件だけど、多分彼が未だに筆を取れないのは、私の過度な期待と過去の挫折から強いプレッシャーを感じ、彼自身の感性を縛り付けていることが原因だと思う。今回先輩にお願いのは彼に焦りや責任感からではなく、心の底から書きたいと思えるものを解き放ってあげて欲しい。やり方は私が下手に口を出すよりツツジちゃんが好きにやった方が上手くいきそうなので任せるね。では明日からよろしく』だそうです」

 「結局放り投げただけじゃないのか?なんか私を頼れとか言っておいて結局人任せかあいつ?」

 「しーちゃんなりに考えての人選ってことだよ。要は心の問題を解決すればいいんでしょ。だからカウンセリングするのだよ」

 「そうですか。でもいいんですか?ここ図書館ですよ」

 「大丈夫、みんな使わないくせにパソコンあるスペースばっかり行くからここはいつもスッカスカなんだよ。これが近代化ってやつなのかね〜」

 やれやれ、とツツジはワザとらしいため息をついた。

 「というわけで安心して始めよっか。まずは海越君の挫折とやらから聞かせて〜」

 「そんな、挫折っていうようなものじゃ……」

 「いいからいいから」

 気の抜けたような声で海越に促すツツジ。海越にとってはあまり人に話したくなるようなものではないが、ツツジ相手には不思議と気を許してしまいそうになる。

 一度躊躇い、適当に誤魔化そうか迷ったが、わざわざ自分のために時間を割いてくれているのに嘘をつくのも気が引けるため、打ち明けた。

 上手く説明できる気はしない。だけどゆっくりと言葉を選びながら、自分が一度演劇から離れた理由を説明した。

 ツツジは海越が話し終えるまで口を挟まず、ただ、相槌を打つだけだった。そして、声帯結節になったことと芝居が急にできなくなったことを伝え終えると、さっきまで気の抜けていた表情が一気に困惑の色に染まり、

 「え、ええ……、思っていたより重いやつじゃん。よくまた演劇やろうって思えたね、それ」

 「別に嫌いになったわけじゃないので、それに可哀想自慢するほどのものじゃないと思うんですけど」

 「あー、うん。確かによく分からない人に言ったら、へー、だけで済まされるかもね。でも……はぁ、みんな真面目だねえ」

 ツツジが深いため息をついてペンを置いた。そして陰口を叩くように呟いた。

 「そんな命の危機でもないのに、自分のこと追い込んじゃって、紫蘭ちゃんやユイちゃんはそれが丁度良いみたいだけど。海越君はそうじゃないでしょ。紫蘭ちゃんのいう通り真面目さが無意識に足枷になっているんだよ」

 「はい……なんかすみません」

 「あー、もう決めた!海越君、今日から私と一緒に不真面目になろう!」

 「え?」

 「今まで頑張って、そして一度距離を置いたなら、今度は中間地点。ほどよくわがままに、そして図々しく演劇と向き合う。その練習をこれからやっていくよ」

 「はい……いいんですけど具体的に何を?」

 「簡単。ここで私と好きなこと話して、たまに悪口も言っちゃって、そして気が向いたらみんなのところに顔を出す。でもトレーニングだけはサボらない。よろしい?」

 何がよろしいのか全く分からないが、ツツジの目は至って真剣で、むしろどこか怒っているようにも受け取れた。

 「よろしいですか〜!」

 グイグイとキャップをした油性ペンの先で突きながら念を押された。あまり理解できていないがもう何にでもなれと海越は首を縦に振った。するとツツジはいつも通り気の抜けた笑みを浮かべて

 「よろしい」

 と、言って安心したように海越の頭を撫でた。

 恥ずかしくて仕方なかったが、海越はなぜかその手を拒めなかった。


■ ■ ■


 それから1ヶ月間、海越は部活がある日は放課後ツツジと図書館で過ごした。彼女と話す内容は本当にその日によってまちまちで、ある時は好きな劇団について、またある時はテストのことについて、話すことがなくなったら適当に探してきた本でも読んで過ごした。同じような日を繰り返しているが不思議とそれが居心地よく感じていた。

 ツツジは小まめにノートで海越のことについてまとめていたが、本人にはその内容はさっぱり分からなかった。

 たまに勉強を見てもらったり、蒼馬や一年生二人が様子を観に来る時もあった。

 ただ、自分の中で何かが改善されているような気はせず、目に見えて海越から焦りが見え始めた。

 6月2日、「海越君のノート」が半分ほど埋まってきた頃、ツツジは海越にノートパソコンを持ってくるように指示した。

 「それで、なんでいきなりパソコンを?」

 「ふっふっふ、そろそろ頃合いかなと思って」

 「まさか、『今のお前ならできるはずじゃ』みたいな展開ですか?」

 「いや、なんとなくだけど?」

 少し興奮気味に尋ねた分、冷静に返されると非常に恥ずかしい。海越は頬を赤く染め、おとなしく座った。

 「でも、これ以上考えるなって無理強いしても逆効果だしね〜、ここら辺でネタ出しくらいした方がいいかなって」

 「なるほど」

 「それで、今までのことを振り返ってみようと思うのですよ。まず海越君は体力がない。頭はそこそこいいけど保険は苦手。意外と趣味はアウトドア。スタイルが良い人が好み。あとそれから……」

 「ちょっと待ってください。振り返るってそういう感じですか?」

 「なんか違った?」

 「なんか予想と違いました」

 「あ、褒めた方がいいやつかな?じゃあ、いつも言っている通り真面目で頑張り屋さん。負けず嫌いで感情的になりやすいけど悪いと思ったことはちゃんと謝れる。あと人の陰口はあまり好きじゃない……」

 「もういいです。ほんと十分なんで!」

 他にあるならもっと聴きたい気持ちはあるが、どんな顔をしてここにいればいいのか分からなくなるため、無限に出てきそうな褒め言葉を急いで止めに入った。

 「一応、これネタだしですよね。何をどう台本にするんですか」

 「自分のこと知るっていうのは駆け出しの作家にとっては重要なことだと思うよ」

 「先輩、俺の反応見て楽しんでるだけですよね」

 「否定はしない!」

 ツツジは清々しいまでに断言した。海越はもうそのノートを奪ってこの場を去りたくなっていた。その様子を見かねたツツジは、「海越君のノート」を真っ白な新しいページを捲る。

 「ごめんごめん。じゃあ、本題に入ろっか」

 しれっと次の話題に移り、そして穏やかな表情で海越に尋ねた。

 「海越君はさ、何で演劇やっているの?」

 「それは……」

 何度も聞いたことあるようで、一度も答えたことのない質問だった。そういえば自分はいつから演劇を好きになっていたのだろうか。今まで自分が観てきた舞台のことを思い返してみた。

 「私はね、劇場っていう空間が大好きなの」

 海越が答えられずにいると、ツツジが静かに語り始めた。

 「今、世界にはいろんな娯楽があって、安いお金でどこまでも楽しめる。公演を一回観に行くより映画を数本見た方がずっとリーズナブルだし。でも演劇の魅力はさ、舞台上にある偽物が、本物を超えるような何かを生み出すことだと思うんだ。それは劇場に行かないと分からないし、そんな不確かなものを求めるには効率が悪い。でも、私はあの空間が大好き。だから私は舞台を彩る人間になりたい」

 ツツジは海越と目が合うと、「君はどうなの?」と言いたげな表情で穏やかに笑いかけた。

 「俺は……」

 海越は思い出した。つい最近自分の口から話していた台詞を。

 「物心ついた頃から両親に演劇を観せられてきました。だからそこにあるのが当たり前で……あれ、なんで俺演劇に夢中になってたんだ」

 海越は固まる。自分の原点、きっかけや明確な理由なんて意識したことなかった。ただ、ほんの少しの憧れから始まり、中学では想像を超える天才を目の当たりにした。彼女に追いつきたい、彼女の隣に立ちたい、その一心で努力して、でもそれがなくなった自分には何が残っているのだろう。

 「なんか、他人の上部の能力ばかり気にして、そういう大事な部分は全く見てなかったんだな、俺」

 なんというか、つくづく自分には失望する。何がキャラクターに寄り添う、だ。自分の見栄えばかり気にして他の人のことなんてどうでもいい癖に。

 海越は呆れ、自嘲する。

 下を向いてもまだ世界は開けない。また自己嫌悪に陥りそうになると、

 「こーら、またナイーブになってる」

 コンっと小さな手が頭の上を優しくノックする。

 「物心つく前からそういう憧れがあったって十分な理由だと思うよ。知らないことはこれから知ればいいだけの話じゃないの?」

 ただ純粋な疑問と共に心配そうな色をした目で海越を見つめる。

 「確かに、それだけの話……ですよね」

 ジッと海越のことを見つめるツツジ。ほんの少しの沈黙の後、思い出したように、

 「ねえ、海越君はさ、脚本家になったこと、後悔してる?」

 その直球な質問に対して、海越は

 「後悔……とか言われたら、そりゃいっぱいありますよ。大会のこともそれ以前のことも、その後のことも」

 何故だか、海越の脳裏に翡翠の姿が過ぎる。大会での彼女ではなく、海越が部活を辞めてからの彼女。あれほど親しまれていた少女から人が離れていく、その景色が。

 「一度ちゃんとちゃんとケジメをつけたことは押し通したい。でもやっぱり、俺演劇は好きみたいで。だから、居場所をくれたこと、本当はめちゃくちゃ感謝してます。だから、またあの時のように勝手に失望して、勝手に周りまで巻き込むようなことはしたくない。それが本音です」

 自分の心を丁寧に紐解いていく。少しだけわかってきた自分の奥深くにある不安。

 この一ヶ月間、先輩と過ごすのは居心地が良かった。でもそれと同時に思うこと。

 作品が作りたい。何か進まなきゃこの飢えは治らない。けど、筆を持った瞬間に固まり閉ざしていく世界。

 好きだからこそ、臆病になってしまうんだ。

 そんな拙い言葉を紡ぐ海越の様子を見て、ツツジはニヤニヤと笑みを浮かべる。ノートを見ると、一ページ分すでに埋まっていた。

 「ふむふむ〜、なるほどね〜」

 「なんですかその顔」

 「ううん、ちょっと思い出し笑いしちゃって」

 「はぁ、そうですか」

 「丁度いいし頼んでみるか。あ、ちょっと待ってね」

 ツツジは携帯を取り出すと海越の前で電話をかけた。

 「もしもし、しーちゃん?明日の件なんだけど、うん、そうそれ。私と海越くんも連れてってくれない?いいじゃん、どうせ席すぐ取れるんでしょ。うん、ありがと〜」

 そうして電話を切ってバッグにしまうと

 「じゃあ、明日の13時からよろしくね」

 「またこの展開か」

 「うん、そう」

 「で、今回は何を見せられるんですか」

 「紫蘭ちゃんが昔所属していた劇団の公演」

 「え?」


 ■ ■ ■


 6月3日、海越とツツジと紫蘭は高円寺駅で待ち合わせをしていた。

 海越が改札を通り越すと既に二人は付いていたようで、楽しげに団欒していた。

 ツツジは青と白基調とした梅雨らしい柄のワンピース。

 紫蘭は意外にも、白い半袖のセーターにロングスカートと言った大人しめの服装だった。

髪型もいつものシニヨンではなくストレートに下ろした、可愛らしい姿をしていた。

 「おはようございます」

 「あ、おはよ〜」

 「15分は待ったんだけど」

 「そこは、今来たところって言うもんじゃないの?」

 「女子二人、しかも先輩を待たせておいて何を言ってるの」

 紫蘭は海越をみるなり、明らかに不機嫌そうな態度をとった。

 「まあ、待ち合わせの時間通りなんだしいいじゃん。早く劇場に行こ」

 ツツジがそう促すと紫蘭もしぶしぶ歩き出した。

 目的地は『座・高円寺』とい劇場。公演だけでなくワークショップや芸術関連の講座など幅広く芸術文化振興の活動を推進する劇場で、その分利用者の層も幅広い。

 大型の倉庫を改造したような外見の建物で、3階から地下3階までと中々設備が充実している。劇場も規模に合わせて二種類あるようで、今回は1階の大きい方の劇場でやる公演だ。

 駅から徒歩10分もしないうちに着き、受付に向かう。会場が会場なため、金額を見るのが怖くて何も事前情報見ていなかったのだが、どうやら3人は招待客扱いで、無料で入れた。

 指定席に座り、手渡されたパンフレットに目を通す。すると、

 「先輩、めちゃくちゃ聞いたことある名前の劇団なんですけど」

 震え声でツツジに耳打ちする海越。その反応が見たかったと言わんばかりにツツジは

 「あっれれ〜言ってなかったけ〜」

 「まあ、自分から知ろうとしなかったんですけど。というか、絶対にタダで見れるような場所じゃないですよね。何者なんですかあの人」

 「言ったじゃん。昔所属してたって」

 「それだけじゃ絶対説明つかないような……」

 「あのさ、何コソコソ話してるの」

 キッと鋭い目で睨みつける紫蘭。咄嗟に「すみません」と呟いてあとはどこを眺めるでもなくただ開演時間を待っていた。

 なんでこんなに不機嫌なのか、海越はわからないが、これ以上触れたら何をされるかわからない。

 長い長い待ち時間。体感時間は一時間あったが実際は10分ほどだろう。照明が暗くなると同時に開場曲もフェードアウトしていく。

 「みなさーん、こんにちはー!」

 幕は閉じたまま、スポットライトが上手を照らすのと共に一人の女性が登場。よく通る張りのある声で観客席に呼びかける。

 「みんなは、お肉やお魚は好きかな?私はね、大好き!特にお寿司なんか毎日でも食べられちゃうかな」

 まずは身近な話題から話し、作品のテーマに結びつけていく。ミュージカルではよくやる出だしだ。

 演目は宮沢賢治作の『フランドン農学校の豚』を舞台作品に昇華したものだ。

 最初に登場した女性は元気よく舞台の設定を大まかに説明する。

 「私たちが住む国、フランドン王国では新しい法律ができました。それはお肉やお魚を食べる時、必ず相手から承諾を得なければいけないのです。もちろん、どの動物も意味が伝わらないため、すぐに承諾してくれます。だけど、このフランドン農学校の豚さんは食べられることに同意してくれないのです」

 そう説明し、舞台中央へと視線を促すと、舞台の幕が開き、豪華に作られた牧場の色をよく表現した舞台セットが顔を出した。

 ここから物語の視点は豚に移り、命をもらう人の生活を見ていく。

 原作も児童向けでこの舞台の作風も忠実に取り入れているが、大人でも十分に楽しめるほど、エンターテイメント性と深く考えさせる教育的なテーマ。

 『食』について、『命』について巡る価値観を食べられる豚の視点から次々に触れていく宮沢賢治の描く世界観。

 ずっと食べられることを拒んでいた豚、娯楽として食文化を嗜むもの、一つ一つの食事に感謝して口に運ぶもの、何も食べられず飢えていた過去を持つ者、たくさんの人を見て、

学園長には泣きつかれ、そしてついには自分が食べられることを承諾する。

 彼が最後に放った言葉は、

 「僕を食べるなら残さず全部、骨の髄まで綺麗に食べて欲しい」

 そういって彼は消えていった。

 その後、大きな豚肉を囲んで楽しそうに食事を楽しむ生徒たち。最後には笑って、彼に感謝の祈りを捧げ、約束通り全て綺麗に食べて物語は終幕を迎えた。

 とてもテンポの良いスピード感のある劇、なおかつ強い印象を与える残酷で華やかな舞台。あまりこういうことは言いたくないが、高い料金を取るだけあってクオリティは十分に高い。

 カーテンコールが終わると3人はすぐにロビーへと出た。

 不意に紫蘭に視線を向けると、彼女はどこか退屈そうな表情を浮かべていた。

 「じゃあ、私挨拶してくるから、少し待ってて」

 そう言ってスタッフにキャストとの面会を持ちかけに言った。右手にはかなり高そうなお菓子の袋も持っていた。

 「じゃあ外にいようか」

 ツツジの提案もあり、二人は外で紫蘭を待った。

 「それで、結局あの人は何者なんですか」

 「まあ、それはしーちゃんから聞いてみて」

 それ以上ツツジは何も言わなかった。

 足並み揃えて駅を向かう観客をボーと眺めていると、人の波の中から紫蘭の姿が見えた。手を高く振ってこちらにいる場所を知らせる。

 「お疲れ様。どうだった?」

 「特に何も。それでこの後どうするの?」

 「せっかくだしどこかでお茶していこうよ。お腹空いてるでしょ。お肉とかガッツリいっちゃう?」

 「さっきの劇見てよく言えますね」

 「駅前にカフェあるからそこにしましょ」

 無難に紫蘭の提案通り、3人ともどこか重い足取りでカフェに向かった。

 「それで、いきなり呼び出した理由聞いても良い?」

 席に着くなり紫蘭はズバッと本題を切り出した。

 海越はツツジと目を合わせる。居心地悪そうにしている海越相手にやはりツツジはどこか楽しんでいる様子だった。

 「まあ、台本の件なんだけどさ、色んな人の演劇人生を聞くのも悪くないかなって」

 「意味がわからないよ」

 「嘘言っちゃって〜。彼を引き入れたならちゃんと全部話しても良いんじゃないの」

 「……わかったよ。まあここまで来たなら話さない方が不自然だし」

 言葉ではそう言うも、心底嫌そうな表情で海越を見た。

 何かしたわけでもないのに海越は罪悪感でいっぱいになる。

 はぁ、とため息を一つ吐くと彼女は自分の身の上の話を語り始めた。

 「まず私が昔いた劇団についてね。ご存知の通り私はあの劇団に子役として昔所属していたわ。両親がそれ関係で名前を売っている人でね。半ば強制的によ。中学上がる頃に無理言ってやめたけど、未だに引き戻そうって躍起になってるのよね」

 「なんか、すげえな」

 今の情報だけでなんとなく把握した。両親が顔の知れた人なら今日のような無茶も融通はある程度効くだろうし、彼女の芝居を見る目もそこで養われたのだろう。

 なんというか、少し住む世界が違うところに居たんだなと感心していると、

 「やめてよ、子役やっていた人間なんて意外といるものだし、ほとんどが日の目をみることなく忘れ去られているわ。私もその一人ってだけ」

 「でもまだ誘いが来るくらいの実力はあるんだろ」

 「両親のコネ目当てよ。あとまあ顔とスタイルが良いからってのもあるけど」

 そこは譲らないのか。あくまで自分の優れている点は自覚し、堂々と口に出す。嫌いではないけど。

 「それに言ったでしょ。私ほどつまらない芝居をする人間はいないって」

 「その意味はよくわからないんだよな」

 「……私は自我が芽生えた時からカメラの前にいたの。それで毎日こうやって怒れ、こうやって泣け、こうすれば喜んでくれるって色々叩き込まれた。私は同年代の子たちよりほんの少しだけ物覚えが良くて、それでよく起用されていた。やること全部観客の視線ばかり意識して、それでいつしか決められた動きしかできなくなった。観客の視線を窺ってそれっぽく見せるだけの紛い物、そんな自分の芝居をみてなんて思ったと思う?」

 紫蘭は遠くを眺めながら自嘲する。

 海越には答えがわかっていたが、敢えて口にしなかった。

 「気持ち悪い。そう感じた瞬間、二度と舞台に立てなくなった」

 悲しい顔で朗らかに笑う紫蘭。

 思いもしなかった。破天荒で、でも確かなポテンシャルを秘めている彼女が挫折をしていたなんて。そしてこんなにも苦しそうに演劇を語るなんて。

 「芝居ってさ、『上手い』と『面白い』は全く別物なんだよ。私は確かに技術を持っているかも知れない。でも自分のそれが醜いものって感じてしまえば、もうどうしようもない

じゃない」

 海越は初めて彼女が弱音を吐くこところを見た。

 掴み所がなく、だけど強い信念とまっすぐな演劇への愛を持った園田紫蘭。彼女へのイメージが崩れると共に、どこか胸のうちから熱く湧き上がるものがあった。

 「どう?これで満足?ツツジちゃん」

 「うん、大満足。ちなみに同期の子たちは元気してた?」

 「してたしてた。今日も元気に進行役が似合ってたよ。全く、あんなつまらないお芝居する子じゃなかったのに」

 紫蘭は心のそこから残念そうに呟いた。

 決してミュージカルの芝居が悪いと言っているわけではない。自分が受けた教育、そしてそれを受け続け変わり果てた友人の姿を純粋に悲しんでいる。そして、彼女の成長を喜べない自分自身にも。

 数多くある形の中で誰もが同じ理想像を追いかけているわけではない。身近にいる、応援していた人物が何かのきっかけで、その理想とかけ離れた姿に成長するのはよくあること。だけど、紫蘭はその現実がまだ受け止めたくない様子だった。

 「それで海越、さっきから黙っているけど、どうした?」

 「いや、なんと言うか……」

 自分の理想とするものを掴めず、諦めて立ち去った。けれど、演劇そのものを手放すことなんてできず、だからこそ次はと、形を変え、方法を変え足掻こうとする。

 彼女だけじゃない。個人差があるとはいえ、きっと誰もが理想と現実のギャップに打ちのめされ、選択を強いられる。

 そんな理不尽の中で彼女は、悟られまいと強く、逞しく、前を進んでいる。

 湧き上がるこの感情はきっと、『共感』とそれ以上の『情景』そして溢れ出す言葉以上の何か。

 閉じていた世界に亀裂が入る予感がした。

 「海越君、海越君」

 ちょんちょんと肩を突くツツジ。

 「これ、使う?」

 差し出されたもの、それはこれまでツツジが書き綴った『海越君のノート』だった。

 「使います。ありがとうございます」

 ノートを手に取り空白のページを開くと、頭を過る単語をひたすらに書きなぐり始めた。

 「なんか、道が拓けたみたいだね」

 「すごい不本意なんだけど」

 そう不服を垂れ流すも紫蘭はどこか嬉しそうだった。

 「私たちどうしよっか」

 「邪魔になると悪いし、帰っていようか」

 「それもそうね」

 そして二人は財布から小銭を会計分置いておくと静かに喫茶店を後にした。

 もちろんそんなこと海越は気づかないほど集中しており、筆は止まらずに走り続けた。

 10分後、無心で単語を埋めていたはずがいつの間にか過去の自分に対する不満をツラツラと述べ、ただひたすら懺悔のような文章がページをいっぱいに書き込まれた。 

 気がつくと辺りは暗くなり、海越は荷物を纏め会計を済ませて駅に向かった。

 駅のプラットホームで電車を待っているとポケットの中の携帯がブーっと振動する。

 紫蘭からメッセージが来ていたようだ。

 『どう進んでる?』

 『いや、まだ全然』

 『でしょうね。多分今は思いついたもの片っ端から書いている段階だと思うから、いい感じにまとまったらノートの中身見せてね』

 『絶対まとまらないと思うだけど』

 『いいの。とりあえず満足いくまで形にすればいいし、作品の不出来についてついては私と一緒に直そう。せっかく私がきっかけ与えたんだから、0が1になりかけているチャンス、絶対に逃さないでしょ』

 それから電車の中でも頭の中を常に書き綴っていた。

 最寄り駅で降りて、家に向かって全力で走った。息を切らしても止めることなく。

 帰るとすぐに海越はノートパソコンを開いて執筆を再開した。

 今まで溜め込んでいた不満、空白だった一年に襲われた虚無感、翡翠や白瀬に対する薄汚い嫉妬、将来の自分に到るまで、堰き止めていた何かが決壊したように溢れ出す言葉を。

 食べることも寝ることもそっちのけで、今ここに記さなければ一生浮かぶこともない想いを書き綴った。

 そして気がつくと外は日が差していた。

 朝日の眩しさが痛いくらいに目にしみて、ふとした瞬間、海越はエンジンが切れたようにパタリと倒れた。


 ■ ■ ■

    

 翌日……というより数時間後、海越は再び稽古に戻った。

 寝不足と辛い姿勢で寝ていたため体のあちこちを痛めて、コンディションは最悪だ。

 紫蘭には現状を報告すると合流を許してもらえた。

 まだ台本そのものは1ページもかけていないが、やること自体決まったため、役者と一緒にテーマを掘り下げていくことにしたのだ。

 「えーというわけで、今年の大会の劇のテーマについて、海越君から発表があります。はい張り切ってどうぞ」

 「待って待って、そのフリは辛い」

 「ドルゥルルルル、ドン」

 「え?あ……ゆ、夢と希望について……」

 部内を侵食する深い深い沈黙が訪れた。

 「えー、というわけで、今年の大会のテーマは『夢と希望』に決定しました」

 心の底から申し訳なさそうに蹲る。案の定誰も拍手を送ってはくれなかった。

 「はい!少しいいでしょうか」

 「どうぞ、蒼馬」

 「俺たち、この調子で勝てるのでしょうか……」

 何かを諦めたような表情で海越に訴えかけた。迷走に迷走を重ねた結果がこれなのだから、海越にはその主張が痛いほど伝わった。

 「はい!演出家です!そんなことどうでもいいので台本はいつ出来上がるでしょうか」

 紫蘭は空気を一切読まずズケズケと割り込んできた。

 「すみません、上がる予定はまだありません」

 もう海越は誰とも目線を合わせられなくなり、俯いたまま震えた声で返答した。

 そこで鴇が続いて尋ねる。

 「えっと、それで今日は私たちに何を聞きたいのかな?内容を詰めていく会なんだよね、これ」

 「まさしくその通りです。どうか協力してください」

 「うん、そんな土下座までしなくていいから。落ち着いて」

 鴇にほだされてようやく落ち着きを取り戻す海越。本題について説明していく。

 「それでちょっと昨日これまでの人生を振り返ってきたんですよ」

 「急に壮大だね〜」

 「それで廃人と化していた去年のことを思い出みて……多分あの時、幼い頃から自然と抱いていた夢を捨てたんですよ。俺にとってはあんまりよろしくないことなんですけど、でも大人って時々いうじゃないですか、現実を見ろって」

 「う!頭が痛い」

 突然蒼馬が頭痛を訴えたが見るからに嘘だとわかるので、無視して続けた。

 「それで考えたんですよ。人っていつ夢を捨てるものなのかなって。小さい頃当たり前のように抱き応援されていた夢。そして今捨てることが正しさと謳われる夢。そんな矛盾を俺は認めたくないし、ずっと憧れていたものを誰にも否定させず、希望を謳いたい。それが今回俺がやりたいことです」

 「……結構いいんじゃない?」 

 さっきまで黙っていたユイが関心を示した。

 「まあ、それなら悪くはないか」

 絶望の色に染まっていた蒼馬もユイに続いて頷いていた。

 「なので、今日は昔抱いていた夢とそれを諦めた時のこと、余裕があれば今の夢も教えて欲しいです」

 「小学校の作文みたいに言うけど中々エグいこと聞いてくるね」

 紫蘭が苦笑いを浮かべて肩を竦めた。

 「けど、面白そうだからいいか。じゃあ言い出しっぺからどうぞ」

 「え、俺から?」

 「はーやーくー」

 どうやら紫蘭は昨日のことをかなり根に持っているらしい。海越を弄り足して普段よりも生き生きしている。

 海越は改めて夢という漠然としたものを思い出す。

 「そもそも、純粋な疑問なんだけどさ。この中に演劇を将来もやりたいよって人、どれくらいいます?」

 全員に問いかけたつもりだが、みんなリアクションは薄い。

 「あれ、ツツジ先輩は舞台監督とか美術系やりたいって言ってませんでした?」 

 「ここで堂々と手をあげられるほどの度胸はないというか……」

 真剣なものほど中々口にし難い。それはわかってはいるけれど台本のためそこは腹を割って貰いたい。

 「まあ、舞台監督目指してるけど……なんというか現場の事故を減らしたいって気持ちが強いかな。昔目の前で人が大けがをしてるところ見たから」

 「そうなんですか?」

 「うん、見学で沢山の子が来ているときに運悪くね。それで、舞台っていう空間にそんなひどいことが起きるのは嫌だなって。夢っていうか目標みたいなもので申し訳ないけど」

 「先輩すごいな〜、もう進路とか決めているんですか」

 「いや、この話題は掘り下げなくていいよ」

 ツツジの話にユイが食いつくが照れてすぐに話題を移した。

 「そういうユイちゃんは?」 

 「夢ですか……まあ、最初の夢って言われたら魔法使いとかそういう非現実的なものとか」

 「あ、俺もそうだ。小さい頃ずっと忍者になりたくて修行してた」

 「ですよね。なんか意味もなく練習とかしちゃいますよね」

 波長があったようにユイと蒼馬は幼い頃の記憶を掘り返した。確かに非現実的なキャラクターや概念への憧れも憧れと言えるだろう。

 子供に夢を持たせるためと、そういったエンターテイメントが実際には存在しないと子供に教える大人は少ない。そして時間とともに世界を知る過程の中でいつの間にか忘れているものだったりする。

 「ちなみにそれを諦めたのっていつ頃?」

 「えーと、小学生の頃とか?作文で発表する時になんか恥ずかしくなって、無難な野球選手とか書いたかも。やってなかったけど」

 「なるほどね〜。他人の目とかってその頃から気にし始めたりするもんね〜」

 「まあ、それから取替え引替えでしたね。小学生の頃はパティシエに憧れたり保育士になってみたかったり」

 「なんかちょっと可愛いのな。でもそこからどうやって演劇に?」

 ノートにメモを取りながら受け答えする海越。この流れで前から気になっていた質問を投げかけた。

 「うーん……学芸会とかかな。昔やりたい役があったけどそれに落ちて、こんなに悔しいならちゃんと演劇やろうかなって」

 「なるほどね〜」

 「因みになんの役だったの?」

 鴇が興味津々に聞く。

 「えー、今思えばちょっと無理があったってわかるんだけど。主役の女の子の役。『エルコスの祈り』ってやつ」

 「あー名前だけは聞いたことある!」

 劇団四季のミュージカル作品で、エルコスという人工知能を持った少女が夢も希望も捨てた生徒たちに生きることの喜びを与えていくという話だった。

 小学校の学芸会で使用するものといえば『オズの魔法使い』や『魔法を捨てたマジョリン』に並んでよく挙げられる作品だ。

 「でも、今は女の子の役とかやらなくていいの?」

 今のユイは体格に見合った役ばかりやらされているため、鴇はその現状を不思議に思い首を傾げる。

 「流石にこのなりと声じゃ難しいだろ……というか、引かないんだな」

 「え?なんで?」

 「……嫌なんでもない」

 ユイは何かを言いかけて言葉を飲み込んだ。あまり話したくないようなのでそれ以上は無理に広げる必要はない。

 ただ、なんとなくだけどユイの『自分を殺す芝居』もそこから発展しているような気がした。

 「それで、将来演劇はするの?二人は」

 「うーん、俺はまだわかんない。でも演劇は好きだしプロアマ関係なく続けていきたいかな。鴇は?」

 「え?私は……」

 「はーい、誤魔化しちゃダメだよ〜」

 「わかってますって」

 自分の番が終わって吹っ切れたツツジは、安心して鴇のリアクションを楽しんでいた。

 「ええ!その……昔は夢とかなかったけど、最近になって声優に……なりたいなって思って……はい!そんな感じです!ラストお願いします」

 鴇は耳まで真っ赤にして答えると、強引に引き渡した。

 「え〜、鴇ちゃん声優目指してるんだ」

 「いいじゃないですか。私のことなんて。無理でもやってみたいんです」

 「別に無理なんて言ってないじゃん。道が険しいからって諦めることを促すなんて私たち演劇人ができるわけないじゃん。ねえ?しーちゃん」

 するとツツジはずっと黙っていた紫蘭に向けて言い放った。

 「その含みのある言い方は何よ。まあいいわ。ちゃんと言葉にできる勇気があるならきっとなれると思うよ。応援してるね」

 「あ、ありがとうございます!」

 「おい、こいつなんかいい感じに終わらせようとしてるけど、自分のこと何も話してないぞ」

 「うるさい!蒼馬!」

 回避しようと言いくるめようとしたがそれを逃さまいとあっさり蒼馬に止められる。しかし海越は気付いている。彼もユイに便乗しただけでちゃんと腹割っているわけではないということを。

 「まあ、知りたいのは、いつ夢を諦めるのか。そして将来についていつから真面目になり始めるのか。そのギャップに思うこと語りたいんでしょ。もう十分じゃない?」

 「いや、話せよ。俺とツツジ先輩は知ってるのに他の人が知らないって不公平だろ」

 「あんた、スランプ抜け出せそうだからって調子乗ってるんじゃないよ?」

 「別に何か躊躇う要素ないんだからいいじゃねーか」

 「そうだそうだ。話せ話せ〜」

 ツツジも煽りに参加しだし、討論、というか喧嘩はさらに激化した。

 不貞腐れながらも紫蘭は語り出した。脚本のことなら協力すると言ったためそこはブツクサ言いながらも丁寧に説明するところから、律儀な性格が出ている。

 「それで、このエピソードってそのまま使われるのかな?ちょっと恥ずかしいんだけど。今日私初めて人に話したよ、これ」

 鴇はユイの広い背中に隠れながら尋ねた。

 「流石にそのままは使わない。色々脚色して登場人物の人格を形成していく」

 「おお〜、なんかそれっぽいこと言ってる〜」

 「おまけにノートパソコンまで開いてなんか本格的に劇作家みたいだ。なんかいきなり生意気になりやがってチビ助」

 「なんで野次が俺に飛び火しているんだよ」

 「やーいやーい、この面食いチョロ助!」

 紫蘭は不貞腐れたように蒼馬の後ろから余計な小言を挟む。

 「もしかして紫蘭先輩って海越のせいで昔のこと話すことになったから、ちょっと不機嫌?」

 鴇はユイに質問する。

 「うん、多分そう。でもなんだかんだ協力しちゃうんだよね」

 「以外とそういうところは律儀だよね」

 「そうだね、でも……」

 二人が一瞬目を離した隙に海越と蒼馬は並んで四つん這いになり、紫蘭はそこに足を組んで座っていた。

 「何がどうしてああなったんだろう」

 ユイは少しだけ羨望の眼差しを向けながら呟いた。

 「よし!じゃあ今日はせっかくだし、このまま夢についてのエチュードでもやろうか!」

 どこかスッキリした顔で紫蘭は提案した。

 「いいですけど、二人は開放してあげたらどうですか」

 ユイが紫蘭に立つように促すが、

 「いや、結構座り心地いいからもう暫くこのままで」

 「先輩やめてあげて!蒼馬先輩は役者ですし、海越も何かメモしなきゃいけないこともあるでしょ」

 「ユイ……お前だけでも……逃げろ」

 「待て海越、お前そんな簡単に服従するやつじゃないだろ。しっかりしろ」

 「はあ、わかったよ。ほらお前たち、持ち場に戻りなさい」

 満足気味に立ち上がると先ほどまで椅子だった者二人、一人はパソコンを抱え、一人はユイの元へ一目散に逃げていった。

 「じゃあ、そろそろ稽古に入ろっか」

 そして、またチームに分かれて、海越とツツジは隅っこで見学しながら台本を進めた。

 「それでさっきのエピソード。それとこの日本語になっているのかすら怪しい文章を組み合わせていくんだね〜」

 海越の隣に座るツツジが覗き込む。

 「あまり見ないでください」

 「そんな堅苦しいこと言わないでよ、私はこの子の片親みたいな存在でしょ」

 「ツツジ先輩だけじゃないですよ。ここにいる全員です」

 「むう、浮気者め」

 ツツジは軽い力で海越の頬を摘んだ。以前まではすぐに照れていた海越だがもうこれくらいのスキンシップには抵抗ができていた。

 「さて、ここから登場人物3人の構成要素として組み合わせていく。まず核となる部分は全員共通にして……いや、それよりまず役者との相性から吟味すべきか。蒼馬先輩はなんでもできるとして、ユイを主軸とするのが一番安全か。夢を追い続けていたけど現実との壁に挟まれて、それでも乗り越えていく。何があれば立ち直って挑むことができるだろうか、例えば……」

 「おーい戻ってこい」

 パソコンの中の情報から吟味して、ブツブツと呪文の様に考察を呟き続ける海越にツツジはチョップをかました。

 「あ、すみません」

 「集中するのはいいけど、舞台設定は現代?それとも抽象的なセット?それだけでも決まっていたら教えて。照明プランも一気に変わるから」

 「あ、それなんですけど。伝えたいことが等身大の学生の方が伝わりやすいと思うんです。でも現代寄りだと舞台美術の負担が大きいと思うんですよ。だから目安程度にどれくらいの作業までが可能か教えて欲しいです」

 「ちょっと待って。どのくらいまでできるかって、自分でデザイン考えるの?」

 「いや、それを知っていた方が内容も書き直さないでいいかなって」

 「あ〜そういうことね。舞台美術が無理なら台本も変わると」

 「はい」

 海越がパソコンを眺めながらそう返事するとツツジは壁に手をついて迫っていた。側から見たら俗に言う壁ドンという状態である。

 「え?先輩?」

 「あのさ、海越君、それ舞台監督の仕事だから。確かにこの人数で可動式の舞台にしろって指示されても無理だよ。でも、その意図は絶対に表現できる空間にする。舞台でできないことはないんだよ。あまり私を侮らないで欲しいかな」

 「は……はい。すみません」

 突然豹変したツツジに海越は驚きを隠しきれなかった。情けない声で謝ると次は少し不満げに顔色を変え、

 「全くもう。そういうのはちゃんと相談してよね。別にもの置くだけが舞台セットじゃないんだから」

 「……それって、敢えて物を減らすってことも可能ですか」

 海越は何かを閃いた様にツツジに訊いた。すると、ツツジは

 「もちろん、お任せあれだよ〜」

 新しいイタズラを思いついた子供のような笑顔を浮かべて答えた。

 その瞬間、海越の中で何かが繋がった。

 ああそうか、制限なんて思わなくていい。少ない人数も、役者の芝居の欠点も、マイナスとして扱う必要はないんだ。それは武器として扱っていいと、海越はようやく気がつく。 

 そして彼の想像力を縛り付けられていた最後の鎖が崩れ落ち、色鮮やかな世界が一気に広がっていくような感覚を覚えた。

 ようやく彼の培ってきた能力が脚本家として役立つ時が来たのだ。

 海越は無我夢中でパソコンに書き込んだ。映像として頭に流れてくる光景と、そこで動き回るキャラクターたちの会話を。

 その様子に気がついた紫蘭は、心の底から安心したようで、本人には聞こえない程度の大きさで

 「待たせすぎだよ、バーカ」

 そう呟いた。





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