第二幕 0から1への可能性
公演終了後、海越はすぐに医務室へと運ばれ、診察を受けた。幸い、数カ所の打撲で済んだようで、数分後にはなんとか歩ける程度までには回復していた。
大事がなかったことを他の部員にも報告し、今回何度もフォローしてくれた翡翠にもお礼を言いに行った。だが、
「えーと……海越くん。怪我、しているの?」
当の本人は記憶がおぼろげなようで、きょとんとした顔で首を傾げた。
憑依型の役者、つまりキャラクターと一体化するタイプの役者にはよく上げられる現象なのだが、思考回路を全てもう一人の人格に委ねるような感覚で、舞台上での記憶や意識があやふやになることは珍しくない。
翡翠は汗を拭き取り水分補充をするとすぐに客席へと戻って行った。
これがさっきまでは、劇場にいる全ての人間を魅了した、木村伝兵衛だった者と言われても耳を疑うだろう。
海越は平然と舞台を後にする彼女の後ろ姿に、複雑な感情を抱きながら、何かを言えるわけでもなく、ただ彼女の後をついていくしかできなかった。
それからいくつかの作品の発表が終わり、その日のプログラムは終了。翌日同じようにいくつかの学校が作品を披露し、審査結果が出された。
海越たちの学校は惜しくも全国出場ならず。原因はどう考えてもあの転倒だろう。演出か事故か、曖昧になったとはいえ、一瞬でも観客に演出的意図にない不安を与えてしまったのだ。それは一時的に舞台上に作り出された世界からの隔離を意味する。
部員は誰一人海越を責めたりはしなかった。彼がどれだけ部に貢献しているかわかっているからだ。
それでも海越は拳を握りしめることしかできなかった。
それから数週間、海越は家で絶対安静を言い渡され、そのお陰でだいぶ回復した。だが喉に残る違和感だけは完治する気配がなかった。
不安になって病院へ行くと、声帯結節であることを言い渡された。強引に大きな声を出したり、喉を酷使しすぎることによって声帯に硬いポリープのようなものができる病気だ。海越は生まれつき喉が弱い。大会での強引な使い方をすればこうなってもおかしくはない。
今は部活も休んで声を出すことが一気に減り、症状は安定しているが、また以前のように無理に発声すれば悪化の一途を辿るのは目に見えている。
治療方法は主に手術による結節の切除が行われるが、術後に声が変わるケースもあるらしい。
簡単に、はいそうですか、と手術ができるわけではない。
どちらにせよ、発声方法を見直さないといけないのは事実だ。
海越は久々に部活に顔を出した。
3年生が引退し、今は新入生の部活勧誘のための演目の練習をしている。顧問に事情を伝えた後、海越もリハビリがてらに基礎練習から参加した。
柔軟に体幹トレーニング、発声練習は見送って台本の読み合わせ。目的が勧誘ということもあり、短時間でわかりやすく楽しんでもらうために、顧問が新しく書いたコントちっくな内容だ。なるべく部員全員が出られるように登場人物も多めに設定され、その代わり一人一人のセリフ量は少ない。
前回活躍していた海越も翡翠もチョイ役だ。
これなら負担はないだろう、全員スムーズに読み終わると、海越が休んでいる間に決まっていた台本の方向性について確認し、立ち稽古に入った。
初めは見学し、どのような流れか見た。海越は自分の出番になった時に立ち上がり台本を片手に読み上げようとした。しかしその瞬間、
「……あれ?」
どう読めばいいのか、どう立っていればいいのか、頭の中が完全に真っ白になった。
「先輩、5ページの8行目です」
「あ、うん。ありがとう」
様子を見かねた後輩が、気遣って海越のセリフの場所を教えたが決して見落としていたわけではなかった。
「あ……あ……」
———落ち着け、落ち着け、大丈夫だ。ここは舞台じゃない、ただの稽古だ。落ち着け。
必死に自分に言い聞かせるが体が言うことを聞いてくれない、いや、頭の中ですら自分が何をしようとしているのかわからない。
人前に立っているだけで、あの時の記憶がフラッシュバックしてくる。翡翠の芝居に心奪われた瞬間、そして、自分のミスで起こった事故のことを。
台本を持っている左手がバサバサと音を立てて小刻みに震え、背中から足まで悪寒が走り渡る。
「日寄君、大丈夫ですか?」
「す、すみません」
それがやっとの事で出てきた言葉だった。
海越の顔は真っ青に染まり、震えながら突っ立ったままだった。
不意に視線が翡翠の方へ向く。彼女は何一つ表情を変えないまま、つまらなさそうに台本を眺めていた。
———ああ、ダメだ。
俺はもうここには立てない。喋れない役者に意味はない。それなら、早く出ていかないと……
「はぁ……はぁ……せ、先生。すみません。ちょっと俺、無理みたいです」
そう言うと海越は重い足取りで教室を後にした。
残った部員たちは事態をうまく飲み込めずどよめいていた。
彼が今までに中途半端に芝居を止めることなどなかった。誰よりも真剣に、そしてひたむきに部活に勤しんでいた。そんな彼を尊敬していた者は少なくないだろう。だからこそ今の彼の姿は衝撃的で、信じ難かった。だが、絶望を纏った彼の背中を追える者は誰一人いなかった。
「海越君!みなさんすみません、しばらく休憩していてください」
そう言うと飯沢は教室を後にした海越を追いかけた。
「どうしたんですか、日寄君」
「あの、ほんとすみません。俺、もう芝居できません」
「それは喉のことですか、それとも他に怪我でも」
「違うんです。そういうのじゃなくて……俺、もっと自分のことできるやつだって思いたかったんですけど、限界がありました」
「限界を決めるのは少し早いんじゃないですか。日寄君は十分上手ですしまだ中学生です。これからいくらでも伸び代は」
「俺もそう信じていましたよ。けど、頭より先に心が折れたみたいなんです」
「……大会のことですか」
「多分、いやそれよりももっと前からかもしれないですけど」
海越は苦い笑みを零しながら続ける。
「才能って今まで、体格とか容姿とか、そういう生まれながらの外見的なもののことをさすと思っていたんですよ。俺にはそれが全部なくて、というより望むものは全部なくて。それでも『諦めなければ夢は叶う』みたいなベタな言葉信じて頑張ってきました。でも、それも限界みたいで」
まるで救いを求め、すがりつくような表情で、
「先生、才能ってなんだと思いますか」
ほんの僅かな時間、廊下に静寂が訪れる。飯沢はその数秒、黙り、考えた後、彼の思う本心を誠実に、そして今の海越にとって一番残酷な答えを優しく答えた。
「僕は自分より高い壁を見て、それでも笑って挑み続けられたなら、それはきっと疑いようもない才能だと思います」
その瞬間、海越の表情に笑みは消え、そして今にも泣きそうな顔で
「じゃあ、俺にはもう、才能は残っていませんね」
「……また気が向いたら戻ってきてください。待っています」
「はい、お世話になりました」
これが、役者・日寄海越の最後の瞬間だった。
■ ■ ■
それから海越は吹っ切れたように受験勉強に勤しんだ。今まで打ち込んでいたものが急になくったため。空いた時間何していいのかわからず、とりあえず勉強くらいしかやることが思いつかなかったのだ。
友達と適当に過ごし、帰ったら適度に受験勉強、その繰り返し。そのお陰もあって学力は飛躍的に伸びたが、何も感じるものはなかった。
その後の演劇部について詳しくは知らないが今年は地区予選で敗退してしまったらしい。去年関東まで進み、翡翠の演技もあって注目されていた分、皆不思議に思っているが、海越はこうなることを予見していた。
恐らく彼女の芝居だけが良くて、逆にその場から浮いてしまったのだろう。演劇は上手いからといって良い演技とはされない。その舞台の上で構成される世界観に合っているか否かが最も重要になってくる。
極端な例ではあるが、静かなリアリズムを求められる演劇で一人だけ宝塚や劇団四季のようなミュージカル形式の読み方をすれば、それがいくら上手くても観ている側もやっている側も何が何だかわからない舞台になる。
それと同じように、技量が極端に違いすぎると舞台上に作られる世界観が安定せず、観ていてもどかしい演劇になってしまうのだ。
そのため前回の『熱海殺人事件』は誰がなんと言おうと海越がいなければ成立しなかったのだ。
大会の結果を後輩から聞いたが、特別衝撃は受けなかった。それが起こることをどこかで予期していたのか、あるいは、中学の大会でどうなろうと翡翠が気にしないだろうと思っているからか。
多分彼女は、いや彼女は絶対にこの先も演劇の道に進む。次の代の子たちもこの結果を気に色々考えて進んでいくはずだ。それならその結果を自分が気にするだけ無駄だ。
海越は都内の有名な進学校に難なく受かった。そこで生活していれば次にやりたいことも見つかるだろう。そんな気持ちで卒業式を迎えた。
演劇への未練は時間と共に薄れていった。ただ卒業式の日に翡翠や同学年の演劇部が集まっている姿を見かけた時は少し心痛むものがあった。
どうせもう、別々の道を歩むのだ。今更何を気にする。
そう言い聞かせ海越は中学を卒業した。
そして彼が翡翠と再会するのはそれから半年後のことだ。
■ ■ ■
入学初日、これから過ごす三年間の中、どこかで急激に背が伸びることを期待して注文したブカブカのブレザーを身に纏い登校する。
流石にワンサイズ小さめにした方が良かったかも知れない、と後悔を残したまま家を出た。
朝の通勤電車は混み合うと聞くが、大井町線は都内で走る電車の中で珍しくどの時間もある程度空いている。
大岡山駅から上りで5駅、時間にして約11分、そこから歩いて15分ほどのところに、海越が通う東京玉川都市高校が大きく構えている。
如何にも私立高校といった新築のL字型の建物に人工芝のグラウンドが広がる。その間にある通路を新入生と思われる生徒がぞろぞろと歩く。
校門をくぐり、自分のクラスへ向かう。学校に使われるには珍しい螺旋状になった階段を登り、向かって4番目にある「1ーC」と書かれた札が垂れ下がっている教室のドアを開ける。
入学初日ということもあり、どの教室からも緊張感が漏れていて、廊下一帯にまで張り詰めた空気で満ちている……はずなのだが二つ向こう側の教室から何やら慌ただしそうにしている男子の姿が嫌に目立っている。
どうやら誰かを探しているようで、相手のこと御構い無しに聞き回っていた。
海越はその様子を見て首を傾げながら教室に入り、自分の席に座った。
その直後か、とてつもない勢いで走る足音が聞こえてきたのと同時にバタン!と大きな音を立ててドアがスライドされた。
そこにいたのはついさっき見かけた男子で、何やら興奮している状態だった。近くで見ると中々身長は高い、恐らく180センチはある。服越しからでも程よい筋肉のつき方をしているのがわかる。顔の輪郭線やパーツの形がはっきりしていて、髭を生やしたらソース顔という言葉が似合いそうな容姿だ。
教室内にいる20人ほどの生徒が物音に驚き、反射的に視線を向ける。その男子は満面の笑みを浮かべながら海越の方に駆け寄ってきた。
———なんだろう、すごい嫌な予感がする……
それは見事に的中した。
「君、一昨年関東大会に出ていたやつだよね!あの、ほら、熱海殺人事件の!」
海越の机に前のめりに手をつけて息を切らしながらそう言った。至近距離だとその体の大きさが、そこにいるというだけで迫力を感じる。
周囲が何やらざわつくのを察した。
最悪だ、これで第一印象が決まる。何かしらないけど厄介そうなやつとセットでいるポジションを強要される。
海越は悪態をつくのを堪え、口元を歪めながら精一杯の笑みを浮かべ
「あー、多分それ、俺ですね」
「やっぱりそうだ!入学式の時、どっかで見たことあると思ったんだ。あれめっちゃ良かった。絶対入賞すると思ってたんだけど、惜しかったね」
「あー、うん」
演劇をやめたからといって、褒められること自体悪い気はしない。だが時と場所を考えてほしい。わざわざそれを言うためにこうして探し回っていたのだろうか。関わりたくない、早く自分の教室に戻って頂きたい、と切実に思う。
「あ、急にごめん。それで、君のことを先輩が呼んでいるから、三階のオープンスペースまで来てくれないかな?」
「え?誰が?なんで?」
すると、彼は申し訳なさそうに目をそらして答えた。
「あー、その人も君の芝居観ていたみたいで、会ってみたいから連れてこいと言われて……」
「行くこと自体構わないけど、今じゃないとダメ?」
「ダメなの……お願い、俺を助けると思って」
目の前にいるガタイのいい大男はガクガク震えていた。
周りの不思議そうな視線が痛い。恐らく彼の言う先輩とは十中八九演劇部で、部活への勧誘に違いない。
そしてこの大男も演劇部、外見で判別できないが使い走りにされている様子から同学年なのだろう。
せっかく演劇から離れられたのにまた後戻りはしたくない。だが、ここまで必死に探させているところからよほど威圧的でタチが悪い輩なのだろう、断っても無理やり連れていかれる。
というかこの体格差なら余裕で抱えて運ばれる。
「わかった、とりあえず案内して」
渋々、了解してその恐ろしい先輩とやらのところへ向かった。
海越の通う高校は次世代的な作りになっており、至る所に『グーローバルラウンジ』や『イングリッシュサロン』、『アナライズセンター』と言った名目で生徒が自由に使える自習室やオープンスペースが設備されている。放課後になれば部活動や試験勉強で使用され、どこもいっぱいになる。
だが、今は朝の朝礼前。皆教室で号令のチャイムを大人しく待っている時間だ。そんな中一人の少女が偉そうに丸テーブルに座り、その空間を占領していた。
薄く青がかったYシャツの袖をまくり、白いセーターを腰に巻いたスポーティな格好、それに反して、セミロングの髪をふわっと、シニヨンで纏めた、凝った髪型をしている。
「遅い!待っている間にマッ缶全部飲み切っちゃったじゃない!」
彼女はこちらに気づくとすぐさま悪態ついたが、その声は不思議と怒気を感じず、どちらかというと楽しんでいるようだった。
「すみません、連れてきました。彼がその……ごめん、名前なんだっけ」
「はっ倒すぞお前」
半ば強引に連行しておきながら名前を把握してないと、天然なのかただ失礼なだけなのか、あまりのポンコツぶりに本音が勢いよく飛び出た。
「ひい、ごめんなさい」
「ああ、いや、俺もお前の名前知らないからお互い様でいいよ。それで……俺に何の用ですか」
海越がそう言うと少女は立ち上がり海越に右手を差し出した。
先ほどまで座っていたから気づかなかったが彼女もかなり大きい。隣にいる名前のわからない男子よりは小さいが彼女の身長は恐らく170センチ以上はある。すらっと引き締まった足とくびれ、モデル体型という言葉がそのまま当てはまるスタイルだ。
「やあ!初めまして、私は演劇部副部長の園田紫蘭、二年生よ」
「はぁ……一年の日寄海越です。何をかは知りませんがよろしくお願いします」
差し出してきた右手の意味が握手なのだと理解すると、海越も渋々手を差し出し、握手を交わした。
「ええ、よろしく。それとそこのでかいの。東雲結助(しののめゆうすけ)。ユイって呼んであげて」
「なんか女子っぽいけどいいんですか」
「本人の希望だからね、部名みたいなものだと思えばいいよ」
「ああ、なるほど」
学校にもよるが演劇部にはその部活独自のあだ名をつける風習がある。それは先輩がつけたり、自分で名乗ったりと学校によって文化は違ったりする。玉川都市高校でも一応存在するが特に強制力はなく、本名でも全く別人の名前でも好きにつけて呼び合うようにしている。
東雲の方に目線をやると何やら照れ臭そうに身をよじっていた。『ユイ』と呼んでほしいが、まだ慣れておらず恥ずかしがっているみたいだ。
「それで要件だけど、まあ御察しの通り勧誘だよ。一年生の入部期間はまだ先だけど、どう?今日から早速一緒に活動してみない?」
「嫌です」
「え?」
海越が即答すると横にいる東雲は意外そうに驚いた。だが目の前にいる紫蘭はあたかも予想通りといった様子で続ける。
「一応理由を聞いてもいいかな。私と彼は君が関東までいったことを知っているわけだし。それだけの実力があれば高校も続けると思うのが妥当だと思うんだけど」
「きっかけなんてどうでもいいじゃないですか。そもそもこの学校、大会に出場できるんですか。演劇部があるって学校のホームページにも掲載されていませんでしたよ」
「ちゃんと調べていたんだね。でも安心して。去年から準備してようやく今年連盟に加入できたんだ。これで大会にも出られるよ」
「それは何よりですね」
「それで、君はどうしてそんなにも過去の失敗をズルズルと引きずっているの?」
「……あ?」
挑発気味にかけた紫蘭の言葉に、海越は表情と声に怒りを露わにした。
「おっと、別に怒らせるつもりで言ったわけじゃないよ。ただそれだけのことで辞めるには勿体無いと思うんだよね」
「別に失敗を引きずっているわけじゃないですし、あなたには関係ないでしょ」
「そっか、じゃあ、原因はその喉?それともPTSDにでもかかっちゃった?」
「テメェ……」
嘲笑うようにズケズケと海越の心の隙間に土足で踏み荒らす紫蘭。海越は今にも殴りかからないように堪えるので精一杯だった。
一方東雲はと言うと、状況が全く把握できず、ただオロオロしているだけだった、
「ごめんごめん、そんな怒らないでよ。わざわざ喧嘩売りに君を呼んだ訳じゃないんだし」
「じゃあなんだって言うんですか。というかなんで喉のことまで知っているんですか」
「だってあの時と声質が全然違うじゃん」
「ああ、それは俺もちょっと思った」
「多分、もうあの時みたいな芝居はできないんでしょ」
「それがわかっていてどうして」
「だって君、そんなことで演劇をやめるような人間じゃないでしょ」
「え……?」
紫蘭は確信を持って言った。海越はとっさに出てきた彼女の言葉に戸惑い、思わず今まで逸らしていた彼女の目を見た。先ほどまでのふざけた態度とは裏腹に彼女の目はまるで海越の心を覗くようにまっすぐに見つめていた。
「私ね、初めて見たんだよ。君ほどまでに役を突き詰めた人間を。構築型の役者は珍しくないけど、君のとことんキャラクターに寄り添う芝居、あれはよほど演劇を愛している人間じゃないとできないことだよ」
「でも、俺なんかより翡翠の方が……」
「ああ、木村伝兵衛部長の子か。あの子も中々すごいけど、私は君の方が気に入った。皆、見てくれや迫力に目が行くけど、でもあの場で君だけが役に辿り着いていた。だから君がここに入学したと知った時、とても嬉しかった」
海越の肩に手を置き、執拗に迫りながらなんの恥ずかしげもなく紫蘭は口説き文句を並べる。だがそのどれもが嘘偽りないものだと瞳が語る。
「もしやめることがあるとすれば、それは自分自身を信じられなくなった時。でも君はまだ演劇を諦めるべきではない。君が今までどれだけ努力してきたか私は知らない。でもその成果をこの目で見た、それだけで十分君の在り方がわかった。愚直に、誰よりもキャラクターを愛するその誠実な在り方を」
初めてだった。ここまで芝居をしている自分を見てもらうことが。気を使われたり、心配されながら続け、どれだけ頑張っても喝采は全て翡翠に向けられる。だが今目の前にいる人はどうだろう。
ずっと大事にしてきたこと、積み重ねてきた信念を正当に評価してくれている。こんなに嬉しいことがあるだろうか。目頭が熱くなる。
「どうだろ、また演劇をやらないか。今度は私たちと」
喜びと気恥かしさで絆されそうになる。だが、どれだけ役を突き詰めても『才能』のない自分に果たしてどれだけのことができるだろうか。
またあの時の屈辱を積み重ねながらこの先生きていくのか。唐突に襲いかかる無力感と
如何しようも無い後悔、その苦痛に耐えながら、それでもなお演劇をやろうと思えるのだろうか。
紫蘭は両手で再び海越の、右手を握ると
「もし、まだ君の中に演劇への心残りがあるなら、どうか入部して欲しい」
それでも演劇が嫌いな訳じゃない。なれるはずがない。
もしこの手を振り払ったら、一生戻れないかもしれない。ようやく出会えた自分の努力を認めてくれる人の元に。それなら、果てしない苦痛があっても乗り越えなければならないのではないか。
今、ちゃんと決断をするんだ。
「先輩……俺……」
その答えを口にしようとした瞬間
「私は君を脚本家として向かい入れたい!」
「……え?」
予想の斜め上をいく勧誘に海越はあっけらかんとし、そして次の瞬間、
「え?ええええええええ?」
予想外の勧誘に驚愕と先ほどまで先走っていた自分の思考への羞恥心でいっぱいになる。途中まで会話についてこれなかった東雲も
「先輩、海越君って脚本家なんですか?役者じゃなくて」
「え?私は最初からそのつもりだったよ?」
「は?今の流れで?なんで俺が脚本を?」
紫蘭の言葉に心打たれた反動で、今まさに一発ぶん殴ってやりたいという欲求であふれていたが、なんとか抑えて質問を投げかけた。
「わざわざ向いていないことをやらせる必要もないじゃん。人にはできることとできないことがある。君が役者として限界感じたなら今度は私の元で脚本を書かないかって話だよ」
「……おい」
海越は少しの間黙り、東雲と目を合わせると次の瞬間紫蘭に襲い掛かった。
「うおっ、ちょっと待って、落ち着いて」
間一髪東雲が海越を抱きかかえる形で止めに入る。あと一歩遅かったらその遠慮ない拳は紫蘭の頬に激突していただろう。
「おお、ナイスだ、ユイ。あとちょっとで私の顔が傷物になるところだった」
「先輩、今のはちょっとあんまりですよ。先に褒めておいて急に向いていないとか、そんなこと言われたら誰だって怒りますって」
「うぎゃああああああ、離せ!先輩とか美人とか関係ない。今すぐ降ろせ、そしてその鼻っ柱へし折ってやる」
海越は東雲に抱えられながら空中でバタバタともがくことしかできない。
その様子を紫蘭はなんの悪びれもなく、むしろ今にも吹き出しそうなところ、必死に笑いを堪えていた。
「いやあ、ごめんごめん。周りからはもっと言葉を選べって言われるから、これでも注意している方なんだけどね」
「ふざけんな、少し顔とスタイルがいいからって調子のんじゃねーぞ」
「海越君、それ褒めてるよ。もしかして君怒るのが苦手なタイプ?まあ、外見の良さは自覚しているけど」
「先輩、おちょくるのはそこらへんにしてあげてください。時間だってあんまりないんですから」
「時間?それなら今戻っても多分間に合わないよ、だって」
紫蘭がそう言うと、まるで最初からタイミングを計っていたかのようにチャイムが鳴った。
「ほらね」
「ほらね、じゃないですよ。俺ら入学早々遅刻ですか」
「私の名前だしておけば、先生たちは可哀想な人を見る目で許してくれるよ」
「絶対に嫌ですよ!」
「ていうか、先生たち公認の厄介者なのかよ」
東雲と海越の発言など気にも留めず、紫蘭は平然と開き直って続けた。
「こうして焦る理由もなくなったんだ。ユイ、彼を下ろしてあげな。一緒に座ってお茶でも飲もう」
東雲は海越と目を合わせ、もう暴れないかとアイコンタクトを取るとゆっくり下ろした。
「こっちに、自販機あるけど何か飲む?付き合ってもらっているお詫びに何か奢るよ」
「じゃあ……アイスココアで」
「かわいいな、見た目通り甘党なんだね」
「うるせえ」
「ユイは水でいいか?」
「なんで俺は一番安いので決定なんですか。コーヒーとかがいいです」
「わーたよ」
紫蘭は千円札を自販機に入れると、アイスココアと缶コーヒー、それとマックスコーヒーを買った。
がごん、と音がし、最初に出てきた二つの缶を投げて渡した。その後自分の分の缶を手に取ると、丸テーブルの椅子に座り、二人にもここに座れと促した。
「それで、どうかな?うちの部で脚本書いて見ない?」
「そんなこと急に言われたって、そもそも書いたことすらないし」
「でも、君にはその才能があると思う。根拠はちゃんとあるよ。物語を作るのに一番大事なのは想像力だから。あれほどまでに役の存在を確立させる想像力、それは書き手のテリトリーに踏み込めるほどだよ。私の元においで。必ず君は化ける」
「……それはあくまで役作りでしょ。0から1を生み出すのとは全く別だ」
「君さ、過去に自分の想像力に殺されかけたことないかい?」
「想像力に、殺される……?」
「心当たりないか、君だったらあるかなーって思ったんだけど」
「というか、さっきからなんでそんな、俺のことなんでもわかるみたいな口振りなんだよ」
「なんでもはわからないわよ、知っていることだけ」
紫蘭は顔をテーブルに肘をつけ、ドヤ顔でそう言った。東雲はその瞬間吹き出していたが、海越は「わけがわからないよ」と言いたげにキョトンとしていた。
「あれ?この名言知らない?海越君あまりアニメとか見ない人?」
「人並みには、ワンピースとか鬼滅の刃とか」
「それは勿体ない。私のオススメを紹介するからNetflixとかAbemaTVで見なさい」
「じゃあ、俺もオススメを」
「ユイのおすすめは大体女の子同士でイチャイチャするやつだから無視していいわ」
「あ、はい。そうですか」
東雲は目に見えてテンションを落とし、不貞腐れた顔でコーヒーを口にした。
「まあ、冗談は置いておいて、私、演出家だから高校生レベルの芝居なら大体その人がどういう役作りしているのかわかるのよ」
「え、演出家なのか?」
「そうだよ。私の端麗な容姿とこのナイスバディで誤解されがちだけど私の専門は裏方。舞台に彩りを与える側の人間だよ」
紫蘭はいたずらに成功した子供のような笑みを浮かべ両手でピースサインを示した。
「なんか勿体ない気もするが」
無意識に出た素直な言葉だった。しかし、その言葉に知らんは少しの沈黙の後
「……それを決めるのは私だよ」
先ほどのおちゃらけた様子とは全く別で、鋭い声色だった。一瞬冷たい鋭利な何かが刺さったのではと錯覚しそうだった。
そして次の瞬間にはまた偉そうにニヤニヤ笑う紫蘭に戻っていた。
「確かに芝居は経験しているけど、私ほどつまらない芝居をする人間はそういないよ。いるとしたら多分うちの部長くらいかな」
「それで、優秀な演出家っていうのはなんでもわかっちゃうってわけか」
「演出がみんな私みたいに良い目をしているわけじゃないけど、私はお芝居もそれ以外も色々見てきたからね。それに役って素の状態以上に人の内面を表す時ってあるじゃん」
「はぁ……それで俺には脚本家が向いていると?」
「そう、まだ書いた事ないだろうけど性格的な面で向いていると思った」
「でも、それだけ経験あるなら自分で書けばいいのでは?」
「さっき自分でも言ってたじゃん、0から1を生み出すのとは全く別だって」
「言ったけども」
「大正解だよ。私は1を10にでも100にでもできるけど、私は0から1は生み出せない。君の力を貸して欲しい」
どうやら紫蘭は本気で海越が脚本を書けると信じているようだ。さっき自分が吐いたセリフなため言い返す言葉がない。
「もし何を書けばいいのかわからないなら、今まで体験してきた理不尽を、吐き出したくて仕方ない不満や葛藤、苦しみ続けた過去を筆に乗せればいい。物語の世界では君の全てが武器になる」
海越は沈黙した。本当にわけがわからない。
今までずっと目指してきたものは簡単に壊され、諦めたはずだった。やっと踏ん切りがつくかと思った時にそれが想像もしていなかった分野で、まだ何もしていないのに評価されて、つくづく人生というのは思い通りになってくれないものだ。
一番欲しいと願ったものはいつも誰かが手にしていて、自分の手に残るのはいつも望んだこともない代物だったりする。
この手を取ったら、あの日の後悔を消すほどの本物が手に入るとでもいうのか。そんなわけない。そもそも、物語を書きたいと思ったことも……
たとえそれが恵まれたものだとしても、熱意も信念もなければ本物には到底たどり着けない。この提案をされて、これだけ自分に才能があるって言われて、それでも自分の可能性を信じられないなら……
「やってみたらいいんじゃない?」
先ほどまで不貞腐れて黙っていた東雲が口を開いた。その言い方はどこか羨ましげだった。
「紫蘭先輩がここまで言うって珍しいよ。もうわかっていると思うけど、嘘や建前、お世辞は一切言わない人だし一度挑戦してみたら?」
「それは」
「はっきり断らないってことは興味はあるんでしょ?違う?」
「……お前名前なんだっけ」
「このタイミングで?さっきからユイって呼ばれてるじゃん」
「いや、その外見でユイはなんか」
「じゃあ、東雲でいいよ。それで、どうすんの。はっきりしなよ」
海越は数秒、考え込んだ後淡々と話し始めた。
「正直、急に言われたことだし、今この場でハイそうですかとは言えない。これは俺個人のことだけど、演劇とは決別してすぐに戻るっていうのもなんか気が引ける。突然連れてこられたけど、誘ってもらったこと自体は素直に嬉しい。でも今は首を縦に振ることはできない」
それを聞くと東雲は少し残念そうに、だけど紫蘭は全く動じず、静かに答えた。
「まあ、そうなるよね。今日のところは仕方ないか。それにこれ以上口説こうにも時間切れみたいだし」
紫蘭は海越の向こう側に視線をやるとそこには若い20代くらいの女性が血相を変えて走ってきていた。
「ちょっとおおおおお!あなたたちこんなところで何やってるの!」
「ヤッホー、スミちゃん。朝から元気だね」
フリースペースのドアを勢いよくスライドさせ飛び込んできたの女性は2ーAの担任、相住梨子(あいずみりこ)。綺麗なストレートの黒髪をバレッタでお嬢様結びで留め、今は眉間にシワがよって分かりにくいがまごう事なき美人だ。
「元気だね、じゃないわよ。こんなところで何やっているのよ」
「一年生のハンティング」
「見ればわかるわよ、入学早々一年生を二人も巻き込んでんじゃないわよ。早く戻りなさい」
「わかったってば、じゃあ一緒に行こっかスミちゃん」
「私は二人を一年生の教室まで送っていくから無理に決まっているでしょ。次やったら顧問もやめるからね」
「ごめんってば。それじゃあ、ユイ、また放課後。海越君は気が向いたら来るか、私が気まぐれに突撃した時にね」
「絶対にやめろ」
海越の制止を聞こえないふりして紫蘭は自分の教室へと颯爽と戻っていった。
「あのね、今回は災難だったけどあんまり平然とサボりとかしないでよ。高校生って漫画みたくサボったり屋上に行けたりするわけじゃないんだからね」
「え、屋上行けないんですか!」
「ユイ君は何度も部活に来てるんだからわかるでしょうが。いい加減振り回されないようになって」
「それは無理です。紫蘭先輩、逆らうと怖いんですもん」
情けないことを堂々と東雲は言い張った。
相住はこれ以上怒る気力がなくなったのかため息交じりに小言を続けた。
「もういいわ。二人とも1ーCよね。事情は担任の先生に説明するからいくわよ」
「あの……」
「どうしたの?」
「東雲は以前から部活に何度か顔を出しているんですか?」
「ああ、彼は去年だったかな、園田さんに声かけられて、合格が発表されてからうちの部活に参加していたのよ」
「ああ、だから先輩や先生とも親しげなんですね」
———あれ、そういえばさっき東雲は、先輩が誘うことは珍しいって言っていたが、もしかしてこいつも……?
大会ではみたことなかったけど、どの地区の中学だろうか。もしかして役者ではなく裏方?だが、演出家が音響や照明にあんな偉そうな態度はそうそう取れない。
できる裏方の人間は有名な役者よりもずっと貴重で重宝される。どんな傲慢な演出家でもわかっていて当然のことだからそれはない。
仮にも翡翠の芝居を見て未完成と言ったんだ。もし東雲が役者なのだとしたら。そんな奴が認めるほどの演技力を持っていると言うのか。こいつは一体どんなった芝居をするのだろうか……
東雲のことについて考え込んでいると、体が軽くなり宙を浮いている感覚になった。
「それじゃあ教室に戻るよ」
「はーい」
東雲がそう言うと、海越の視界は不規則に揺れ、下腹部が圧迫され始めた。気がつくと、海越は東雲の肩の上に担がれ運ばれていたのだ。
「うおー、ちょっとちょっと」
「どうした?」
「何この状況、先生も止めてくださいよ」
「あ、ごめんなさい」
「ついいつもの癖で」
現状に気がつくと東雲は慌てて海越を下ろした。
「ついって何?日常的に誰か担いでんの?事案の匂いが済んだけど」
「あーこれそういうのじゃないの」
「いつもグーダラな先輩を運ばされていて、小さくてボーとしてる人見ると反射的に」
「どういう部活だよ。あと小さいって言うな!」
かくして、海越の高校生活が始まったのだが、ここから半月ほど朝、昼休み、放課後、絶え間なく紫蘭から勧誘は続いた。
いつの間にか一年生の間で、彼と一緒にいたらまとめて引きずりこまれるという噂が広まり、海越の周りに人は寄り付かなくなった。
残ったのはたまたま同じクラスだった東雲結介だけだった。
第三幕 何もなくて、そして全てがある場所
4月下旬、桜が完全に散り、少しずつ夏の気候へと移り変わっていく時期。一年生同士も打ち解け始め、一緒に登下校をする相手やお昼を一緒に食べる相手も定まってきた頃だろう。
既に休日に遠出して遊びに行った話や超高速で成立したカップルの噂話などがどんどん耳に入る中、海越は全く充実とは程遠い学校生活を送っていた。
金曜4限、清々しいほどに真っ青な空と心地よく風が吹き抜ける、まさしく過ごしやすい春の正午。体育の授業を終え一年生が人工芝のグラウンドからまばらに戻ってくる。
そんな中、海越は授業中に見せなかった機敏な動きで階段を駆け上り、教室へ全力疾走で走った。
ドアをスライドし、着替えの制服に手をかけたタイミングで昼休みのチャイムがなる。海越は大急ぎで着替えながら廊下の方へ耳を傾けた。
無駄のない動きで体操着を脱ぎ、Yシャツに手を掛け、洗練された動作でネクタイを結び直す。最後にズボンを履き終えベルトを締めようとしたところで、一年生男子のローテンポの足音。その中に異常なスピードでこちらへ向かう者がいた。
何とか着替え終え足音と反対方向へ逃げようとしたが既に回り込まれていた。
「海越いいいいいいいいい!逃げるなあああああああ!」
「ぎゃあああああ!」
足音の正体は御察しの通り紫蘭だ。全力疾走の勢いのまま教室を飛び出した海越にタックルをかまして押さえつける。
「いい加減諦めなって。私から逃げられると思っているの?」
「そんな風に追っかけられたら誰だって逃げるに決まってんだろ。勧誘するんならもうちょっとソフトに間隔あけてやれ!」
「そうしたら入部してくれる?」
「するわけねーだろバーカ!」
「はい連行」
紫蘭は海越を押さえつけたまま慣れた手つきで軽々と肩に抱えた。もうこの状態になったら抵抗のしようがないと海越は理解していた。
「どうしてこうあんたらは人を抱えることに躊躇がないんだ」
諦めたような脱力状態で、せめてもの抵抗で悪態をついた。
「演劇って力仕事多いからな。時には逃げ出した人間だって運ぶ劇団はゴロゴロいるよ」
「あーそれ系の話はよく聞くよ。特に脚本家にな。てことはあれか、仮に入部したとして、締め切りに追われたら俺はこうなるのか」
「そうなるね。これぞ作家と演出って感じだよね。あれ、どっちかというと作家と編集か」
「どうでもいいけど、このまま二年生の教室通るのか。超嫌なんだけどって、グフ!」
海越の話を平然と無視して、紫蘭は抱えている荷物(海越)の位置を整えた。それすなわち、一瞬中に浮いた海越が紫蘭の肩に数度腹部を撃墜されたということだ。
さてこのあと海越はどこに運ばれ何をされるかというと、まず以前からお馴染みのフリースペースの椅子に縛り付けられ、著名の戯曲や劇作家のエッセイ、時々好きなラノベや漫画のあらすじや考察を絶え間なく叩き込まれる。
最初こそ知っている作品の名前が出てきて少しは楽しんでいたが、最近になって紫蘭による酷評あるいは自分の演出論をグダグダ語るだけの会となったため、正直ついていけない。
海越はお腹を抑えることさえできず、痛みに悶えていると、東雲の声が聞こえてきた。
「先輩お疲れ様でーす」
「ああ、お疲れ、今日も大物が釣れたぜ」
「今回は入部してくれるといいですねー」
「いや、違うだろ。どうみてもおかしいだろ。同級生が誘拐されかけてんだぞ。止めろよ!」
「全然おかしくないし、というか美人の先輩に構ってもらえるとかご褒美なんだけど。お前こそ何贅沢言ってるの?」
「顔は見えないけど、声のトーンでマジだってよくわかった。だから正直に返事しよう。馬鹿か貴様!」
「いい加減諦めなよ。どうせ他の部活に入ったわけでもないんだし。放課後暇でしょ?ぼっちだから」
「誰のせいだと思ってんだチクショーが。お前あれだぞ、今俺が地べたに立ってたらドロップキック食らわせていたからな!」
「はいはい、喧嘩はその辺で、そろそろ行くよ、海越」
「言ってらっしゃーい」
紫蘭は階段のある方へと方向転換すると歩き出した。東雲はその姿をヒラヒラと手を振りながら見送っていた。
「もう拒否権ないじゃん」
その後紫蘭は軽やかに階段を一段飛ばして駆け上り、その反動で揺れる度紫蘭の肩が全部海越の下腹部も直撃する。
全身に力を入れやり過ごすも、そのあとは二年生達からのひそひそ話が後を絶たない。なんていう羞恥プレイだ。
「あのー、いい加減自分の足で歩くんで降ろしてもらっていいですか、ていうか降ろせ」
「そうしたら逃げるでしょ」
「無駄だってわかったからいいよ」
「まあまあ、もうしばらく快適な旅をしようじゃないか」
「どこがだよ」
そうして紫蘭は空いているフリースペースを占領し、いつも通り決まった席に二人は座った。
「ていうかさ、本気で入部してほしいなら部活の様子とか見せるもんじゃないの?俺まだ部員の人どころか練習しているところも見せてもらってないんだけど」
「部員以外の人間を稽古に参加させるわけないでしょ」
「それはごもっともだけど、すっごい納得いかない」
「それにこれは必ず君のためになる。何故なら君は既に台本を書くことに興味を持っているから!」
「あんたの願望だろ」
「それもあるけど、君は何か始めるのに特別な何かがないとダメだと思ってない?」
「どういうことだよ」
「特別な想いだとか、特別な力だとか、そういうベッタベタなやつ」
「いや、そんなことは……まあ正直自分には何もないって思っているし、それがないと続かないだろ」
「この1ヶ月で大体わかったけど、君は自分の興味に誠実というか完璧主義者だよね。やるなら全力で理想を手にしないと満足できない。だからそれ相応の決意と覚悟がないと始める前に手放してしまう」
「なんかかっこよく言ってるけど、一歩間違えたらニートと同じじゃないかそれ」
「そんなことないよ。臆病と真面目は全然違う。芝居をしている時もそれがよく伝わるし、だからこそ余計に欲しくなる。でも過剰に自分を問い正していたら心はすり減るし、楽しい時間もあっという間になくなるぞ」
ワザとらしくかわい子ぶった言い方で紫蘭は海越にウィンクをした。
「……まあ、癪だけど、脚本家って提案された時、ちょっとワクワクしたし嬉しかった。でもな、俺はずっと役者に憧れていた。かっこよくて迫力があって、明日も笑って生きていこうって思える、そんな芝居をしたかった。今、お前の提案に乗ったら憧れから逃げたみたいになるだろ。それは脚本家に対して失礼だ」
探り探りな言葉だが、それだけ海越の真剣さが窺える。そんな彼を見て紫蘭は、
「ぷ……くくく、あっはははははっ!」
盛大に爆笑した。
「いやあ、ほんと可愛いなあ。多分海越は恋愛とかもめっちゃ愛が重いタイプでしょ。すっごい束縛してきそうだし、嫉妬とかも半端じゃなさそう。あーっははははは」
「な、何がおかしいんだよ」
海越は頬を真っ赤にして立ち上がった。
「あのねえ、逃げるだとか失礼だとか、普通そんなこと一々考えないよ。高校演劇なんてみんな目立ちたいからやる、くらいが丁度いいんだよ。あんまりに真剣に言うからこっちも恥ずかしくなってきちゃったよ」
「……何がおかしいんだよ」
海越は俯いたまま、無意味に拳を握りしめた。さっきと全く同じセリフだがその声はどこか救いを求めるように震えていた。
「どれだけ本気になったって理想に届かなければ、敵わない存在だっている。熱意も信念をいくら注いでも平気で打ち破られる。でも、それを手放した瞬間、二度と憧れと向き合えなくなる。何かを始めるならそれ相応の覚悟がいる。傷つく覚悟じゃない。理想を掴むまで自分を信じ続ける覚悟だ。でも、一度舞台から逃げた俺にできると思うか?この俺が、理想を手放した自分を許せると思うか」
今にも泣き出しそうなほどに海越の表情は歪む。それを見て紫蘭は
「いや、知らんがな」
すっぱりと言い切った。
「私はもう一人の君でも、カウンセラーでもない。だからその複雑そうな苦しみは理解できない」
どうやら紫蘭の辞書には同情という言葉はないらしい。先ほどまでナイーブだった海越の脳内も途端に冷静になり、
「ああ、まあそうですよね」
と、乾いた声で返すことしかできなかった。
「でも、そうだね、訂正しよう。海越は普通に臆病だ。他者や物事に対してではなく自分自身に対して。じゃあ私がいくらアプローチしても無駄だね」
「それはやり方に問題があるかと」
海越のツッコミはどうやら耳に入っていない、というより予め予定していた台詞を話しているだけのように見えてきた。
「なら話は早い。君の熱意をもう一度滾らせればいいだけだ」
ビシッと人差し指を海越に突き立て決めポーズを取る。そして
「ねえ、海越。明日の午後、私とデートしない?」
白い前歯をむき出し、体つきに合わない少年のような笑みを浮かべ、そう言い放った。その表情からはまた何か企んでいることが明白にわかるのに、息を飲み込んでしまうほどひどく魅力的に見えてしまった。
「よし!じゃあ午前の授業が終わったら放課後すぐ校門前に集合ね。とっておきのもの見せてあげる」
沈黙を肯定と捉えた紫蘭は楽しげに立ち上がる。
しばらくして、自分の鼓動が早くなっていたのを自覚すると、なんとなく紫蘭の方を見れなくなった。
なんだか恥ずかしくて口をもごもごしていると
「あ、そういえばお昼食べてなかった。朝買った菓子パンならあるけど食べる?」
「食べます……」
「なんで急に敬語?」
海越は紫蘭から形の崩れたメロンパンを貰うと、袋から取り出し無言で食べ続けた。
背後から何やら、ただならぬ殺気を感じたが気づかないフリをしてその場をやり過ごした。
■ ■ ■
そして翌日、海越と紫蘭は4限目の授業が終わると二人で駅に向かい、大井町線で終点大井町まで、そこから京浜東北線に乗り換え目的地へと向かった。
土曜ではあるが海越たちが通う私立校は普通に午前中いっぱいまで授業がある。その代わり、基本的に制服のまま登下校中の寄り道は校則で禁止されているが、土曜のこの時間帯は黙認されている。
「それで、今俺たちはどこに向かっているんだ?」
最近できて注目を浴びていた高輪ゲートウェイ駅を通り過ぎたあたりで海越が声をかけた。
「なんかタメ口が板についてきたね」
「もう、敬う気失せたからな」
「まあ、別に気にしてないけど」
「俺にしたことは気にしては欲しいんだけど。それで、どこ行くんだ?」
「王子だよ」
「お、王子って舞踏会にでも行くのか?」
「駅名だよ。そこで高校生たちのための演劇祭が開かれているの」
「それを観に行くと」
「そう」
「もちろん入場料とかって」
「ないない、高校生の出し物だよ」
「まあそうだよな」
「でもクオリティは侮れないみたい。あまり知られてないけど北区って下北の次くらいに演劇が盛んな地域だと私は思ってるよ。安く借りられる劇場や稽古場が豊富だから拠点に置く劇団も多い。すると学生もそれを観に行ったり、自分たちで自主的に企画する人も集まるからそれに連れてレベルも高まる」
「それは知らなかった」
「毎年参加する高校は一年生の力試し、他校は大会のための偵察って感じで結構盛り上がっているんだよ。ただお互いに皮肉まがいな謙遜とお世辞言いまくってすっごいギスギスしているけど」
紫蘭はどこか遠くを見ながら鼻で笑った。
「あ、盛り上がるってそういうやつか」
「そうそう、ぶっちゃけそんなところで演劇楽しめないし、興味もないから去年は私も行かなかったんだけど、従姉妹の子が今年は主役で出るらしくて」
「へー、どこの高校なんだ」
「順徳ってとこ」
「順徳?」
どこか聞き覚えのある学校名だった。受験校を調べるときに何度か見たのだろうか。だが、この喉に引っかかる感じは多分そうではない。恐らく知り合いの誰かがそこに進学していたのだろう。
紫蘭は続ける。
「私もあまり詳しくないけど、なんか顧問がすごい高圧的で、先輩と顧問に絶対服従みたいなところらしい」
「そんなベタなブラック部活存在するんだ」
「結構ある。でもこの演劇祭でうまくいったら解任できるとかできないとか」
「なんだそれ、少年漫画か」
「私も思った」
電車は浜松町に止まると目の前に座っていた乗客が降りて、一席空いた。電車はドアを閉じると快速に移り変わり、再び走り始めた。
海越と紫蘭は目を合わせて数秒、海越がアイコンタクトで座るように促すと紫蘭はニヤニヤと笑いながら
「いいって、座りなよ。私立っているから」
「いや、そういう訳には」
「意外と紳士だね、敬語は使わないのに」
「毎日突撃されてたら敬えるものも敬えねえよ。早く座れって」
「無理しなくていいんだよ。吊り革に手が届かないんだから」
届くわ!と言い張りたいところだが、爪先立ちしてようやく指の第一関節で掴めるくらいなため、海越は黙って顎で指図した。
「わかったよ。じゃあお言葉に甘えて」
そう言って紫蘭は海越の目の前に座った。こうやって正面から紫蘭を見下ろす構図は珍しい。海越は少し新鮮な気持ちになった。
「それで、お目当はその従姉妹なのか?」
「それもあるけど、本命は違うかな。私も今日初めて観る公演だし、とにかくすごいってことしか聞いてない」
「随分と期待値を上げてくるな」
「女子って大概大げさに勧めてくるし、私に来てもらいたいだけかなって思ったんだけど。その子、海越にも来て欲しいって言ってたんだ」
「俺に?なんで?」
海越が尋ねると紫蘭は明後日の方を向いて考えた後、
「何かしら伝えたいものでもあったんじゃないかな」
「そう言われてもなあ。まずお前の従姉妹とか知らないんだけど」
「……え?」
「なんだよ」
「ああ、そっか。言ってなかったか。まあ折角だしもう暫く黙っていよう。どうせすぐ再会するんだし」
意地悪そうに笑いながら紫蘭は言った。
そういう含みのある言い方をされると反射的に翡翠のことを思い浮かべた。ただあいつが自分を公演に呼ぶなんてあり得ない。どの高校に進学したかはわからないが、彼女が自らの意思で誰かに自分の芝居を見るように強要はしない。
だが、紫蘭の話しぶりからして俺の中学の頃の知り合いだ。それだと、数ある学校の中でうちの演劇部に注目していたっていうのに合点がいく。そこから絞ると……
「海越、空いたから隣来なよ」
紫蘭は隣の席をポンっと軽く手を置き、座るように促した。
「あ、秋葉原だ。そっか、ここ通るんだ。帰りに寄っていい?」
「いいけど、なんで?」
「オタクにとって聖地なんだよ。ありとあらゆるアニメショップとコラボカフェがいたるところに蔓延っているし、某有名アイドルアニメもここが舞台だったんだ」
「あー、なんか東雲から聞いたかも」
「ユイ、あのアニメ好きすぎて信仰の域に達しているんだよね、一度捕まったら底なし沼のごとく引きずり込まれる」
「こっわ、なんの宗教団体だよ」
「私も普通に好きなだけどねー」
その後二人は駅に着くまで、たわいもない会話を楽しんだ。
ずっと紫蘭の勢いに押され、反発するように乱暴な態度をとっていたが、そういえばこうやって落ち着いてお互いのことを話すのは初めてだな。
紫蘭は自分の演劇への思想や趣味のことは話すけど、自分自身のことについては全く喋らない。東雲曰く、稽古中は誰も紫蘭に口出すことはできないらしい。
今まで何をやってきたのか、それは敢えて教えないようにしている。あまり深入りするつもりはない。だが、初めてあった日に言っていた言葉が引っかかる。
『私ほどつまらない芝居をする人間はそういないよ』
どういうことだろう。上手い下手ではなく、つまらないと形容した。理詰めの芝居が嫌いということなのか。それだと自分もその類に入る。紫蘭はそれを好んで声をかけた。
感情的になりすぎる芝居を冷めて見てしまう人はいるが、それは共感性の高さから生まれやすい。自分のことを客観視してつまらないとは言えない。それなら……
「おーい、着いたよ?」
海越が考えに更けているといつの間にか王子駅に着いていた。
「北口降りたらすぐそこだから」
二人は電車を降りると北口改札を出ると向かって左側に直進した。紫蘭は歩きながらぽちぽちと携帯で誰かと連絡をとっているようだ。
「えーと、入り口の真ん前にいると」
「例の従姉妹か」
「そうそう。じゃあ答え合わせといこうか」
「そう言われても、俺と同学年の女子の志望校全然知らなかったしな」
「ふふーん、まんまと引っかかったね。誰も同学年なんて言ってないよ」
「え?」
「あ!いたいた!」
「待ってたよー!二人とも久しぶり」
紫蘭が入り口付近にいる少女に手を振るとすかさず向こうも振り返し、こちらへ駆け寄ってきた。赤みがかかった明るいブラウンの髪、おっとりした特徴的なタレ目と聞き覚えのある優しい声。海越は思わず懐かしい呼び名を唱えた。
「部長!」
そう、彼女は海越と同じ、桐ヶ峰中学演劇部の元部長だ。関東大会では海越や翡翠と共に舞台へ上がるほどの実力も持ち、コミュニケーション能力と面倒見の良さから部長に抜擢され、当時後輩たちからの人望も計り知れなかった。
「しーちゃん、来てくれてありがとうね」
「こちらこそ、誘ってくれてありがとう」
「うん、海越君もありがとう。元気してた?」
「はい……お陰様で」
なんとなく目が合わせられなかった。海越も雪宮のことは慕っていた。関東大会の時は海越が倒れた時に最初に舞台裏に駆けつけてくれた人物だ。再会が嬉しくないわけがない。だが、やはり大会で自分が倒れてしまい、全国を逃した負い目が拭いきれない。
「それは良かった。まさかしーちゃんの高校に通っているとは思わなかったから」
「私も高校で海越を見かけた時はびっくりしたよ。すぐにわかったもん」
「不思議な縁もあるもんですね、ハハ」
俯いたまま乾いた笑いで答える。そんな海越を見かねて雪宮は一度でから屈んで覗き込むように見上げ、
「今日ね、私初めて主役を任されたんだ。頑張るから楽しんでいってね」
思わず抱きしめたくなるような暖かい笑顔を投げ掛けた。
「じゃあ、私準備があるから先に行ってるね」
雪宮は軽やかに踵を返すと颯爽と入り口の方へと立ち去った。
海越は彼女の後ろ姿を眺めながら呆然と立ち尽くしていた。
「あれ、海越?どうした?」
紫蘭が声をかけると海越は咄嗟に顔を逸らした。何事かと思った紫蘭は彼の顔を覗き込むと、片手で口元を隠していたが、頬を真っ赤に染めていたのがわかった。
「ぷっ……あははは!まじで?海越ってほんと可愛いね。チョロすぎでしょ」
「う、うるさい。おま、ほんとうるさいから!」
「わかるよ、わかる。思春期の少年にはあの笑顔は刺激が強すぎたね。落ち込んだ時にアレをやられたら誰だってコロッと堕ちるよ。気にすんな」
「変に気を使うなってば!」
「ねえ、今好きになっちゃたの?それとも中学の時から?初恋かな初恋?」
「ちげーつってんだろ。バーカ、バーカ!」
そんな幼稚なやり取りをしながら二人も入り口の自動ドアを潜った。
この出来事は後に半年ほど紫蘭によっていじられまくり、その度に海越は半泣き状態で稚拙な罵倒を繰り返すのだった。
■ ■ ■
北区高校生短編演劇祭『ぽらりす』
厳密には指定されていないが主な対象は北区周辺の高校、参加するのも申請書を一枚出すだけで可能。毎年5月頭から下旬にかけて公演が行われ、どの公演を観に行くのも自由。最終的に審査員からの批評が入るが特に賞や順位はつかない。
舞台装置も不自由聞かない程度には貸出され、その都度使い方の説明も入る。非常に初心者にも優しい演劇の祭りだ。
会場は北区のシンボルともされる区民施設、北とぴあ。
海越と紫蘭はエレベーターで15階にある150人規模のホールまで昇った。開演までまだ時間はあるが会場内には制服を来た生徒で半分は埋まっていた。
「これ、全員偵察で来ているのか」
「そうだね、無名校にこれだけ集まるとはみんなよっぽど暇なんだね」
「ちょ、それは言っちゃダメでしょ」
「ま、順徳に関しては私たちと地区大会当たるし、見ておいて損はないけど」
一応小声で話していたが周りにいた高校生からはギッと睨みつけられたような気がした。急いで訂正させようにも紫蘭は絶対に取り消さないことを知っているため、代わりに二人分海越が申し訳なさそうにしていた。
「別にそんな気を配らなくても自分たちのやりたい芝居をすればいい、スポーツと違って正面から対決するわけでもないし、せっかくなら私は純粋に楽しみたいよ」
「それは……ごもっともな意見だな」
「別に偵察ごっこを否定するわけじゃないけど、他校が下手で安心しているとクソみたいな作品しか作れないからね」
「だから、なんであんたはそうやって敵を作るようなこと言うんだ!」
周りのことなど御構い無しといった様子の紫蘭。挑発するような口ぶりだがその実、周囲の顔ぶれと制服に目をやり、知っている名前がいないか確認していた。
席に座った後も、置いてあったパンフレットに目を通す。ザーッと簡単に読み流すが、順徳高校の作演出の欄で目を止めた。
「何難しそうな顔してんだ?」
同じくパンフレットを読んでいた海越が声をかけた。
「どうやら噂は本当らしい」
「どういうこと?」
「作演出が一年生だった。白瀬秀樹(しらせしゅうき)。私も聞いたことない名前。順徳高校が顧問を解任させようとしてるって噂は話したよね」
「ああ、そうだな」
「もしそれが嘘なら無名の一年生なんてこんな重要なところに名前が乗らないでしょ」
「なるほどな。つまりこいつがその部内クーデターのリーダー格って感じか」
「まああくまで推測だけど」
「雪宮先輩からも特に聞いていないんだっけ」
「聞いてない。でも、姫織は前よりずっと自信持って演技していたから。これは期待してもいいかもね」
「演技って、何が?」
「そのままの意味。姫織の演技の型は少し特殊でね、熱海の時もだけど姫織の芝居って基本的に冷淡で、でもどこか強かな印象を受けるでしょ。表情もいつもの甘ったるい顔から一気に凛々しくなるし」
「結構人が変わるよな、先輩の芝居って」
「あれが素なんだよ」
「は?」
一瞬、意味がわからなかった。芝居している時が……?
「え…どういうこと?何が演技で……何が素……?」
「いや、素っていうか、姫織はね芝居している時に本音が出るの。普段のあの都合のいい人全開の演技は日常生活で身につけたもの。舞台上でようやく自分らしい魅力を発揮できるの」
「でも役を演じるから芝居で、それ全部が本音ってこと?」
「性格的な面よ。姫織はそんな都合よく誰かに優しくしない。氷の造形のように透き通っていて、でも芯の通った精悍な子だよ」
「じゃあ、さっきの笑顔も……」
「現実であんなことできるわけないでしょ、普通。あれはフィクションの世界でやるもの」
海越はショックのあまり声も出ないまま絶望した。そして走馬灯のように中学校生活で雪宮に優しくされたシーンを思い返していた。
「去年まではどこか辛そうだったけど、さっき会った時はちゃんと使いこなせていたから少し安心したよ」
胸を撫で下ろすかのように顔を綻ばせた。
じゃあ、結局俺のドキドキはただの勘違いだったかよ、と叫びたかったが流石に今の紫蘭を見てそれを言うのは無粋だと理解していたため、公演前ではあるが既に傷心中の海越は黙って開演を待った。
5分後、照明がゆっくり落とされ、それに反比例するように開場曲の音量が上がっていく。最高点まで調達するとゆっくりフェードアウトしていき、舞台上に照明が点いた。
今回見る劇は舞台セットが非常にシンプルだ。横長のアクティングスペースに、ちょうど腰をかけられそうな瓦礫の残骸が疎らに設置されている。
照明は薄く青みがかかった灰色の光が全体を照らし、上手から登場する枯葉色のコートを着た女をピンスポットライトが追う。
あちこちから岩と岩がぶつかり合うような鈍い音が会場をかき鳴らし、時々誰かの悲鳴が微かに紛れている。
女は大きなトランクを抱えて歩き回る。
「おい女!その荷物を置いていけ!」
途中、ボロボロの民間人が女の荷物を奪おうと襲いかかる。
空間に走る刹那の緊張、そして次の瞬間、
バキッ!
女はそれを平然とあしらい、腕を折り、足を折り、簡単に返り討ちにしてしまう。
「あの、すみませんちょっといいですか」
老人が声をかけると、女は屈む。すると老人は隙をついてナイフで切りかかるが、返り討ちに。そして殺す。
怪我人が助けを求めているかと思いきや騙して襲い掛かり、そして殺される。
食べ物を恵んでもらうようにと物乞いをする人も女にナンパする色男も断られたらすぐに襲いかかり、殺される。
日常的な会話を少しでもしていたのならすぐに痛々しい音と共に登場した人物がすぐに息絶えその場に転がされる。
そしてその瞬間その場だけ照明が落ち、死体は闇の中へと消える。
女は表情一つ変えず、凛々しい顔つきと美しい姿勢で、コツンコツンとヒールがコンクリートを叩くような足音を立てて歩く。
時々、闇の中から明らかに女より強そうな男が出てきたら
目にも止まらない速さで懐から拳銃を取り出し、男の額に突きつける。
女は冷酷な目で男を睨みつけると、すぐさま闇の中へ消えていった。
女は歩く、目的地など決めることもなく、とにかく進む。荒れ果てた街の中をランウェイのように。
突然、女に少女が飛びつく。外見は年相応に高校生くらいだが、一つ一つの動作が純粋に恐怖へ怯える幼い人間のそれと同じだったため、役が子供なのだとわかった。
女はすぐさま殺そうと首に手を伸ばすが、
「私に銃を売ってください」
その一言で女は静止した。
「そのトランクスには銃が沢山入っているって聞きました。私に一つ譲ってくれませんか」
少女がすがりつくように女に懇願する。
「どうして銃が欲しいの」
「銃さえあれば誰も私を襲わないから」
女は少しの間考え、そして
「わかった、使い方を教えてあげる。ついておいで」
そう言って二人は一緒に歩き出した。女は片手に拳銃を持ち、襲いかかる人間をそれで殴りつけて殺した。
先ほどまで人間だった物を的に女は銃の構え方を少女に教え、狙うべき場所や銃の扱い方を教えた。
「どうしてあなたは人を殺すの?」
「私は、私に危害を加える人を殺す。そうしないと私が殺されるかもしれないから」
女は襲いかかってきた人間を返り討ちにした。だが、今度は手足を折るだけで殺しはしなかった。その後縛りつけると、
「じゃあ実戦。君にこの銃を渡す。正解したらそれをあげるよ」
そう言ってトランクスから出した拳銃を手渡した。
少女は戸惑う。
「どうしたの?これが欲しかったんでしょ?銃さえあれば襲われないって」
「……うん」
そして安全装置を外し、拳銃を構え、縛られた人間の額めがけて引き金を引く。だけど発砲はされず、その代わり女が懐から取り出した拳銃から発砲音と火薬の匂いが漂っていた。
「なん……で?」
そう言い残すと少女は力なく倒れ、闇へと消えていった。
あたりは闇に包まれ、ピンスポットライトが女を照らすだけだった。
「ごめんね、半分までは正解だったんだ。銃があれば襲われない。でも君は引き金を引いた。君は私の脅威になってしまった。だから……おやすみ」
その声色はとても悲しそうなのに、女は顔色一つ変えることなく拳銃を拾いあげ、トランクスに仕舞う。セピア色の照明に移り変わり、アップテンポの曲が流れ出すと、再び女は歩き始めた。
そしてさっきの出来事と同じ結末を何度も辿った。観客から見える角度を変え、テンポを変え、会話のシーンだけを、殺すシーンだけを、断片的に何度も繰り返す。
舞台上には殺されていった人間が石で殴り合い、その中を少女が逃げまどう。
「君は引き金を引いたから、私の脅威になってしまった。だからおやすみ」
そう言って再度少女を殺す。
エキストラがいがみ合う中、拳銃とトランスを抱えて颯爽と歩く。
「銃ですか、ええ売りましょう。使い方も教えます。代金は結構です。最後にあなたが正解したらお渡しします。違いますよ。これは私なりの平和の築き方です。この世界は壊れてしまった。今必要なのは均衡と抑止力。あなたたちが私の正義となり、悪を食い止めるというなら、ぜひお声掛けください」
無機質な声で、淡々と誰かに呼びかける。
啀み合うエキストラたちは女がその場を通り過ぎると音もなく倒れていき、最後に女だけが残った。そのタイミングで挿入曲は終わり、照明も再び女だけを照らす。
「それでは……お休みなさい」
引き金を引き、銃声が会場に鳴り響き、暗転した。
照明が付くとそこにはさっきまで人を平気で殺す女の役だった雪宮が立っていた。そして両サイドから出演者全員が出て、礼をすると一瞬の沈黙の後、凄まじい拍手の音に包まれた。
キャストがはけると入れ替わるように上手から高身長で細い体つきの男子生徒が出てきた。あれが今回の作演出なのだろう。
舞台中央で深くお辞儀すると再度、惜しみない拍手が送られた。
舞台上が空になると出口の扉が開き、終演のアナウンスが流れる。
観客は疎らに立ち上がり感想を話しながら会場を後にする、というのが基本的な流れなのだが、海越はあまりの衝撃に立ち上がれなかった。
恐らく会場にいる何割かは全く理解できなかったかもしれない。だが、その世界観にやられた人間は凄まじい余韻で強い疲労感に襲われるだろう。
時間にして30分程度、だが濃密で1秒1秒が表現で凝縮されている。海越が最初に感じたもの、それは得体のしてない恐怖だった。先ほど同じシーンが何度も繰り返される演出は、リフレインと呼ばれる技法の一種だ。
同じシーンでも見え方そのものを変え、同じ場面でもあらゆる方面から観客に気づきを与える、空間と解釈を自在に操る現代演劇的アプローチであり、それを完全に使いこなしていた。
理屈で、これはどういうメッセージ性があった、と説明できるわけではない。だが、演劇の世界観に引き込まれ、死とそれ以上の何かが隣り合わせであること対する恐怖がより身近に、そして繰り返されていく絶望感。
深い深い闇へと引きずり込まれるような錯覚を起こしていた。
とにかく怖いし、とにかく凄い。だがそれ以上に……
「ねえ、海越。どうだった?」
紫蘭の震えた声が聞こえた。
「やばいな……」
「やばいね、これは。まだ一年生だってよ。スポーツや勉強と違って芸術は突然開花するものだから、学年とか関係はあてにならないってわかってるんだけどさ。すごいね」
二人はようやく顔を見合わせた。そしてお互いが今同じことを思っているんだと理解した。
「ねえ海越、どう?」
「悔しいけど、なんか、高まるものがある」
恐怖、嫉妬、疲労感、そんなもの以上に二人は対抗心を燃え上がらせていた。
紫蘭は獰猛な野獣のように飢えに満ちた笑顔を見せた。
少しして他の観客も立ち上がり会場を出始めた。皆口々に「やばい」や「凄い」と形容し難い感想をなんとか伝えようと連呼していた。
海越と紫蘭はその流れに乗って会場を後にした。
ロビーに出ると雪宮や他のキャストが知り合いの観客と面会をしていた。雪宮は二人の存在に気づくと
「今日は本当に来てくれてありがとうね!」
顔をパーっと喜びの色に染め駆け寄ってきた。
海越は頭の中で『これは演技だ』と唱え続けていたが、どうしてもそれが信じられる普通に照れてしまう。
「こちらこそ本当にありがとう。こんな良いもの観れると思わなかったよ」
「そう思ってもらえたなら、嬉しいな。海越君、どうだった?」
「初めて観るタイプの芝居でしたけど、とにかく凄かったです。正直悔しいです」
「悔しい、ねえ」
紫蘭は海越のその言葉を聞くなりからかうようにニヤニヤ笑った。
「しかし、腕を上げたね、姫織。この脚本でここまで力を発揮するなんてね」
「うん、頑張った。今年は絶対勝ち上がるから、一緒にと大会に行こう」
「わかっている。私も絶対勝ち上がってみせるから」
その言い方には何一つ含みはない。言葉通り勝負し、共に勝ち上がろうという宣戦布告を意味するものだ。表情はいつもと違い、真剣そのもので、瞳には煉獄のような闘志が静かに燃えていた。
ああ、この人。こんな顔もするんだ。この人もちゃんと負けず嫌いで演劇大好きなんだ。昨日よりもずっと紫蘭のことを身近に感じられた。
「しかし、この短期間でよく成長したね。何か良いことでもあった?」
「良いこと……まあ、彼が私はもっとできるって言ってくれたからかな」
えっ?『彼』とは?
海越は一瞬その言葉の意味が理解できなかった。震えながら紫蘭の方を向くと、彼女も「いや私も聞いてないよ」と言いたげな顔で驚いていた。
「まだ頼りっぱなしだけど、もっと良い芝居できるように頑張るよ。海越君も良かったらまた来てね」
「は……はい。また観に来ます」
「じゃ、じゃあまたね」
ショックで掠れ声の海越と今にも吹き出しそうな紫蘭。雪宮に挨拶を終えるとエレベーターの方へと踵を返した。
すると後ろの方から
「姫織先輩、ちょっと来てもらって良いっすか?」
「あ、ごめん秀君。今行くね」
「秀君……?」
「ダメだ、海越。それ以上考えちゃ、ぷっくくくく、身がもた、くっふ、もたないって」
ああ、そういうことか。お前が白瀬秀樹か。なんなんだお前。こんな凄い劇書いて、今日で他校からも注目されるようになって、その上美人な先輩の彼女もいるのか。
不公平だ、こんなの許せるわけがない。
「うおおおおおおおおおおおお!」
「だ、ダメだ海越。か、敵うわけ、ぷっくふふ、あははははははは!」
海越は雄叫びをあげ、紫蘭は止める気があるのかっていうくらい笑い転げた。
湧き上がる感情に身を任せ、海越は目つきの悪い高身長のイケメン、白瀬秀樹に突撃した。
「お前えええええ!」
「え、なんすか」
「お、俺は東京多摩川都市高校の日寄海越!お前と同じ一年で脚本家だ!大会で絶対にお前以上の物語を書いてみせる。絶対に俺が勝つんだからな。覚えてろ!」
涙目……というか完全に半泣き状態で海越は好き放題叫び散らかすと、エレベーターに飛び乗り『閉』のボタンを連打した。
ポカンとしたままの雪宮と白瀬には違う意味で涙目の紫蘭が軽く謝り、海越と同じエレベータに乗った。
「あーっははははははは。何今の、めっちゃ面白かった」
「うるさい!ほんとするさいから!うおっゲホゲホ、んん!オッへゲホ」
「あーあーもう、ポリープ持ちが無理するから」
「声帯結節!」
「どっちでも良いよ。それより大丈夫?お姉さんが何か奢ってあげようか?」
紫蘭は海越の背中をさすりながらおちょくった。
「いいです。もう今日は早く秋葉原寄って帰りましょう」
「今日はそれパスかな。もっと面白いもの見たし、それにさっき勢い任せでも言っちゃてたもんね」
「え、なに……」
「うちの脚本家だって、そんで白瀬君を超えるって言ってたじゃん」
「あ、言ったな」
「ふっふっふ、ようこそ、演劇部へ。歓迎するよ、日寄海越君!」
「……自分で啖呵切っておいてなんだけフォ、俺本当に何にもないぞ。あいつみたいなすごい世界観とか有名劇作家のやる手法とかも。それでもいいのか?」
「いいんじゃない。何もないけど全てがある芸術、それが演劇でしょ」
海越が自分から脚本家を名乗り上げたことがよほど嬉しかったのか紫蘭は目に見えて上機嫌だった。
軽い足取りで駅へと向かっていく紫蘭、その後ろ姿を見て海越は思う。確かにムカつく時はあるけど、演劇に対して真っ直ぐな情熱を向けられるこの人に自分は付いて行きたんだなと。そして、この人に自分の魂を注いだ台本を託してもみようとも。
海越は新たに芽生えたその情熱を胸に宿し、紫蘭の背中を追いかけた。
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