シアターズ・ウェルメイド

御伽ハルノ

第一幕 最後の舞台は血の味がした

 それはよく晴れた3月上旬のことだった。

 当時、中学2年のとある県立の文化ホールにいた。

 会場は満員御礼とは言い難いもの、観客席の8割ほどは埋まる程には賑わっていた。客層のほとんどは中学生か高校生と思われるくらいに若く、まばらに大人たちが感覚を開けて座っている。

 最前列には風格のある中年男性が数人、一人は少々退屈そうにしながら演目が終わるのを待っていた。

 舞台上では7人の中学生が学校と思わしき舞台セットの中で、大げさな素ぶりとセリフを交じり合わせている。

 オリジナルの脚本らしく、思春期を迎えた高校生がそれぞれの悩みを抱えながら不器用にぶつかり合う青春群像劇のようだ。

 芝居自体は中学生特有の青々しさが残るが、関東大会まで上がってきただけあって実力は確かにある。

 物語は佳境に入り、登場人物たちはそれぞれの思いをぶつけ合い、思うがままに感情を吐露する。泣いて怒って喚いて、一頻りセリフを吐いた後、彼ら彼女らは何かスッキリした顔をして和解した。何やら登場人物たちの友情が深まって物語は完結したらしい。

 観客は暗転と明転のタイミングに合わせて拍手をし、幕が降りた後に「面白かったねー」「最後の畳がけがグッときたー」などとざっくりとした感想を話している。

 その頃、自分の出番を待っていた海越は前の演目など見向きもせず、トイレの個室でひたすら止まらない吐き気と格闘していた。緊張で全身強張り、水以外何も喉を通らない状態のため吐くものなど無いはずなのだが、それがかえって辛いのか、個室を出て鏡を見ると顔面蒼白な自分の顔が写っていた。

 一度呼吸を整えて、唾液や冷や汗でひどい状態の顔を洗う。タオルで軽く水を拭き取って改めて自分の顔を見つめる。

 「ひっでえ顔。やっぱり、似合わないよなー……」

 甲高い中性的な声で欝屈とした言葉が漏れた。

 嫌になる程見て、聞き飽きた自分の容姿と声。おおよそ150センチ前半といった身長とそれに見合う幼い顔立ち。筋トレや食事といった体作りも中々効果の出てくれない華奢な体格。衣装を身に纏っても、お世辞にも様になっているとは言い難い中途半端な格好。

 年相応に見えなくもないが海越にとってはこの上ないほど悔しく惨めに思えるものだった。

 この先身長が伸びる可能性がないわけではないが、彼の両親は二人とも細身で背丈も低い。鏡を見る度にここが自分の成長の終着点だと言われているような気分になる。

 「前の演目が終わりますよー」

 外から聞き馴染みのある顧問の声が聞こえた。

 「すみません、今行きます!」

 バチンッ!と跡ができない程度の力で自分の頬を叩きスイッチを切り替える。

 「あーあー……、なんとか保つか……保ってくれよ」

 喉の調子を確かめるように発生をする。喉が枯れた時特有の濁りが少し垣間見えるが問題はない。服装と髪型をチェックした後、海越はタオルを持って舞台裏まで戻った。

 

 ■ ■ ■


「すみません、今戻りました」

「相変わらずメンタル弱いですね」

 若々しく爽やかな風貌の顧問、飯沢は笑いながら言った。

「いやあ、何度やっても慣れませんよ、これは」

「そうですね。見ている側の僕も緊張でどうにかなりそうですよ」

「出演しないのにですか?」

「出演しないのに、です」

「そういうものなんですね」

「今裏方の子達が準備してくれていますから役者陣と最終チェックしておいて下さい」

「了解です」

 そう言うと海越は上手(観客席から見て右側)のはけ口に移動した。

 そこにいたのは衣装を着飾ったいかにも役者といった様子の中学生が五人、台本を片手に何かを話していた。男子が三人、女子が二人いる。

 一人はスラッとした背丈と年の割に風格のある顔つきの和田、衣装のスーツがよく似合っている。もう一人はガタイのいい体つきにオレンジ色のつなぎを身に纏った石井。そして海越ほどではないが小柄体格に濁った色のハワイアン柄のTシャツと黒いカーゴパンツを履いた鈴木。

 会話の中心にいるショートボブの女子、雪宮は部員を鼓舞しようと明るい表情で確認作業をしている。快活な印象とは裏腹に衣装は年期の入った黒のセーターにロングスカートと大人しいものだった。

 「来た来た!遅いよもう」

 雪宮は海越を見つけるなり小さく跳ねながら手を振った。

 「すみません部長」

 「なんだ?また腹壊していたのか?」 

 石井は軽い口調で悪態ついたがその目は優しげに笑っていた。

 「まあ、はい。出すものないんで多分大丈夫です」

 「じゃあ漏らす心配はないな」

 白い歯を見せながら鈴木は言った。

 「しませんよ、先輩の最後の舞台くらい最後までやりきりますって」

 「おう!頼むぞエース」

 そう言うと鈴木は海越の背中をバシバシと叩いた。

 「ここまで来たんだから絶対に全国に行きたいよね」

 「まあ、全国大会は来年だから俺たちは出れないんだけどな」

 「それでも!」

 「そうだな。これも海越と泉谷のおかげだな」

 石井は海越と隅っこで一人無表情でたたずんでいるポニーテールの少女に向かって話した。彼女の名前は泉谷翡翠。海越と同じ中学2年生。ガラス細工のように透き通った肌と感情の色を持たない瞳。不自然なほど整った容姿と寡黙な表情はどこか異質な雰囲気を醸し出していた。

 「そんなことないですって。俺はそんな、讃えられるようなことは」 

 「……」

 海越は翡翠の方に視線を向けるが、翡翠は何も言わず、小さい動作でコクリとうなずくだけだった。

 「そんな謙遜しなくていいの。二人の芝居がめちゃくちゃ上手いのは事実なんだし、だからこそ他の三年生も二人にこの役を任せてくれたんだよ」

 「……はい」

 期待もプレッシャー嫌いではない。正直自分の芝居が周りより頭一つ抜けて上手いことも自覚している。それ相応の努力もしてきた。だが、大会での成績が伸び悩んでいた中堅校が関東大会まで登りつめた功績、それが全て自分たちのおかげだと思えるほど海越は盲目的で傲慢ではなかった。

 明るく振る舞う三年生たち、だがそれが緊張を紛らわすための空元気であり、無理やり鼓舞するためのものであることも理解していた。

 「海越……、声大丈夫か」

 「え……!」

 いつも寡黙な和田が海越に声をかけた。

 海越はバレていたのかと声を殺しながら驚いた。

 「負担のでかい役だからな。気づかなくてすまない」

 「いや、大丈夫です。最後までいけます。それに知っていたところで対処しようがないじゃないですか」

 「……そうだな」

 「お願いです。無理させてください。俺は全国に行きます。これが最後のチャンスなんです」

 自分より頭二つ分上にある和田の目をまっすぐ見つめながら海越は言った。

 「先輩のため、とか言わないあたりお前らしいな」

 和田は海越の頭の上にポンと手を乗せると

 「好きにやれ、俺もそうする」

 セットした髪が崩れない程度の力で撫でた。

 「よし!じゃあ、円陣組もう!この座組みでやるのは最後だし」

 パンッと手を合わせて雪宮は提案した。

 「おっし、やるか!翡翠もこっちにこいよ」

 打ち合わせしたように石田と鈴木が便乗して、翡翠に呼びかける。

 翡翠は相変わらず無表情のまま頷き円陣の輪の中に入った。

 「みんな、笑っても泣いてもこれが最後、絶対に全国に行くよ」

 「「はい!」」

 「桐中!ラストステージ、全力でぶちかまして行くよ」

 「「おおー!」」

 緞帳の向こう側にいる観客には聞こえないように、だが様々な意思と力強い熱意のこもった声が舞台袖に鳴り響いた。

 小柄なハンデに抗う役者、日寄海越。彼の最後の舞台の幕が上がった。


 ■ ■ ■                   


 役者陣は各々自分の配置についた。

 舞台中央にはゴテゴテと豪華な装飾を施した英国スタイルのデスクとアンティークショップで売っていそうな椅子。デスクの上にはそれと似つかわしくない安物のスタンドライトと古い黒電話。

 平台を中央に向けて階段のように重ねて高さを作り、背景は青白い壁にプラスチック製のブラインドカーテン。取調室のような舞台セットが作られている。

 上手に和田、下手には海越、そしてデスクの上に足を乗せ、ドカッと偉そうに座るタキシード姿の翡翠。だがその表情は作り物のように整ったまま崩すことなく、ただジッと幕の向こうにいるであろう観客を見つめていた。

 簡単なアナウンスの後、ゆっくりと緞帳が上がり、それに合わせて舞台上に照明が点く。

 海越の体にこれ以上ないほどの緊張が張り巡る。何も入っていない胃袋がまた逆流しようとしている。

 表情が、筋肉が、血流が硬直する。普通なら声も出ずその場に立ち尽くすしかできないだろう。だが彼もまた一人の役者、目を閉じ、一つ呼吸をして役に入った。

 過剰なほどの緊張もうるさくて仕方ない動悸も、度重なる自己暗示と強引な理屈でキャラクターの心情に結びつけ、全て上書きする。

 幕が完全に上がりきり、緞帳のスピードに合わせて流れていた、チャイコフスキーの『白鳥の湖』が止む。

 その瞬間、ガラス細工のような翡翠の瞳に命が灯った。そして……


 「のぼせがんな!鑑識風情が聞いた口聞くんじゃねえ。なんで私がこんなチンケな事件を担当させらなきゃならねえんだ。私がもっと燃えられる事件を持ってこいってんだ!あ?バカが!火事じゃねえんだよクソが!」

 

 汚い言葉遣いで、だがどこか気品を感じられる怒声を電話に向かって吐き捨てた。

 完璧なタイミングで魅せた、よく通る第一声。芝居に飽き始めていた観客の視線が一気に翡翠に集中した。

 先ほどの無機質な少女の面影はもうない。表情、仕草、言葉遣い、癖、ありとあらゆる要素が彼女の隙間だらけの器を補い、まるで魂が埋め込まれたかのように役に入り込んだ。

 我らが桐ヶ峰中学校演劇部の演目は、つかこうへい作品初期で最も有名な作品、『熱海殺人事件 売春捜査官』だ。

 署内唯一の女性捜査官、木村部長刑事。故郷に自分が同性愛者と打ち上げられない木村部長の部下、万平。最近赴任してきた刑事、熊田留吉。この3人が容疑者、大山金太郎が幼馴染のアイ子を殺した事件について過剰なまでに熱く議論していく物語だ。

 大まかな内容は以下の通りだが、何度も再演を重ねていくうちに様々なバージョンが生まれた。過激な描写や言い回しが多いため、今回上演しているのは可能な限りセリフや表現をソフトに、そして制限時間に合わせて中身を圧縮するようアレンジしたものだ。

 「私はもっと燃えたいんだよ!心底燃えたいのよ。燃えて燃えて燃え尽きたいのよ」

 続け様に翡翠は取り扱う事件の物足りなさを訴える。

 汚く濁った声で叫び散らかし、端麗な容姿に狂ったような笑みを浮かべる。

 「失礼いたしました。初めまして、私、ここ東京警視庁捜査一課の紅一点、部長の木村伝兵衛と申します。あなたは」

 力強い、お手本のような『お腹から出した声』で海越に向かって自己紹介をした。

 圧倒的なまでの集中力と実際に観ることでしか感じられないオーラと呼ぶべきものを身に纏い、海越はその気迫に気圧されるそうになるが、負けじと彼女の芝居に応える。

 「これはこれはどうも、私、本日付けで府中八王子署より転任の辞令を受けました。熊田と言います」

 「熊田」

 「留吉と言います」

 「ほほう、なるほど」

 翡翠は突然立ち上がると、海越の顔をジロジロと見つめながら階段を降り、至近距離まで近寄った。

 「あなた、私のタイプです」

 「はあ?」

 「私の好みのタイプだと申し上げたのです。よろしければこの事件の捜査の後お時間いただけないでしょうか。すぐにでもそこそこのレストランとホテルへご案内いたします」

 翡翠は自分より一回り小さい海越の越しに手を回し、彼の手を取ると社交ダンスの様に振り回しながら、そんな口説き文句を吐いた。一見乱暴に見える動きではあるが、一切もたつく事ない洗練された舞だった。だが、海越は翡翠の手を振りほどき取調室を後にしようとする。

 「どこへいくってんです」

 「八王子に帰るんだよバカ野郎、俺は女の元で働く趣味はねえ」

 吐き捨てる様に呟くと、海越はその場を去っていく。しかし次の翡翠のセリフで反射的に踵を返した。

 「男の方は皆そう言います。その女にどれほど力があるのか確かめてからお帰りになられても遅くはないじゃあないですか」

 「なんだと?」

 「おお、食いついてくれましたか。ではこの熱海殺人事件の全貌を明らかにしようではありませんか。おい、万平!」

 「はい!」

 「さっさと容疑者を連れてこい!」

 その指示を聞き、万平こと和田は一度上手袖へと退場していった。

 「さて、二人っきりになりましたね。そう言えばこの事件について、書類は目を通しましたか!」

 和田が取調室を後にしたのを確認すると、翡翠は海越の方へ気味の悪い笑みを浮かべて振り向いた。

 「ああ、容疑者大山金太郎と被害者の山口アイ子。熱海みゆきヶ浦にて首を染めて殺害。二人とも五島の出身にして幼馴染だった」

 「それだけじゃ足りませんねえ、その五島の誇りであり二人の先輩、在日朝鮮人の李大全はなぜ飛び降り自殺をしたのでしょう」

 「知らん」

 「そしてなぜ容疑者の大山金太郎は愛いていたはずの山口アイ子を殺害したのでしょう。骨が折れるほど首に力を込めたのか、あなたならわかるはずです。さあ教えて頂きましょう」

 「知らん!」

 「じゃああの冷たいみぞれ降る駅に行ってみますか」

 「何……?」

 舞台全体に緊張が走った。

 「ようやく思い出しましたか。私です。10年前土砂降りの日に、あの場所で、あなたがまだセーラー服に心躍らせた私の心と体を奪ってくれましたね。あれが初めての恋でした。木村伝兵衛、売春捜査官、未だバージンです!」

 「やめろおおお!」

 海越は苦悶の表情を浮かべながら頭を地面に打ち付けて必死に喚いた。それを眺めている翡翠の表情は悪魔と見間違うほどゲスに、そしてどこか誇らしげだった。

 上手から和田と大山金太郎役の石井が登場する。

 石井はガタイの大きさを生かし、肩肘張り、ガニ股で歩きながら、如何にもガラの悪そうな雰囲気を醸し出していた。

 「おうおう、人の調査をするって時に随分とお楽しみなもんだな」

 「なんだてめえ!今いいところなんだ、下手なこと言っていると死刑台に送りにするぞ」

 「部長、大山を連れてきました」

 「遅いんだよ、バカヤロウ。犯人連れてくるだけでカップラーメンができるところじゃねえか!」 


 こうして、熱海殺人事件の主要な登場人物が全員揃う。ここまで観てわかる様にこの台本は学生が手を出すにはかなり難易度が高い。

 登場人物の心理は台本上では読み取りづらい上に言い回しがかなり独特だ。さらにセリフと連動して動きが非常に激しく、体力と集中力が一気に削られる。

 演劇は『聴覚』が中心とされる芸術と言われているが、ここでは『魅せる』ための動きが常に必要とされる。

 それは海越にとって非常に相性が悪い芝居だ。小劇場ならともかく大会で使われるような、広くて観客と舞台に距離があるホールでは『魅せる』体の使い方の必要性は一気に高まる。

 ではなぜ他の部員を抑えて彼が舞台に、しかも主要な役を担っているのか。これこそ彼が足掻き続けた成果だ。

 彼は自分に生まれながらにして持つような特別な何かを持っていないことをすぐに自覚していた。だからキャラクターの心情と物語のメッセージを徹底的に読み解き、膨らませ、解釈によって自分自身の頭を再構築する役作りを選んだ。

 そして体の使い方も研究を重ね、足の開き方から胸の張る角度を調整し、『小さく見せない』ための体の使い方を独学で覚えた。

 実際にその成果が凄まじく、稽古中、他の役者は海越の芝居を見て自分の方向性が見えたくらだ。だがそれでも彼は自分の功績を認めない。その原因は言わずもがな泉谷翡翠にある。

 彼女は海越とはまるで反対で、解釈や心情について深く考えることはない。物語に触れ、演じることで物語の中に入れば全て理解できてしまうからだ。

 翡翠は普段から自発的に話すこともなく、感情があるのかも疑わしくなる少女だ。だが芝居になるとそれは一変する。

 まるで空っぽの器に誰かの魂が宿ったように他者の人生を描き出す。それは芝居というよりも憑依に近い、最も才能に愛された者にしかできない演技だ。

 海越は毎日のようにこの少女に魂が宿る瞬間を見てきた。自分の方が良い芝居ができると何度も言い聞かせながら、それと同じ数だけ敗北を認めてきた。

 そして今日もその瞬間を目にし、全身身の毛立つような感覚に襲われた。

 容姿端麗な少女が芝居に入る瞬間、まるで一つの命の誕生を目にしたような。美しくて儚いのにどこか不気味でそれがたまらなく愛おしい。だからこそ悔しくて仕方ない。

 それでも海越の芝居が優れていることに変わりはない。どこまでも合理的にキャラクターに寄り添う役作りは翡翠と面と向かって舞台に立っても様になっている。

 メンタルが弱い面もあるが、だからこそ積み重ねてきたものは簡単に崩れたりしない。

 ここまでの導入で観客は食い入るように見入った。演劇を続けていれば中には熱海殺人事件を読んだこと、公演で観たことある人も少なくないだろう。同じ戯曲でも役者の力量と演出家によって芝居はガラッと変わる。

 完璧な再現型から極端すぎるほど自身の解釈を練りこんで改変したものまで様々に存在し、人によっては不快になるケースもあるがそれが演劇の面白いところでもある。

 今回は観客の反応は非常に良好。セリフの内容が強烈で入ってこなかったとしても翡翠の迫力で登場人物の魅力は十分に伝わる。

 役者が舞台上で観客席に目をやる、それは絶対にやってはならないことだ。舞台と観客席には目には見えない別世界の境界線のようなものが存在する。舞台上の人間が観客の存在を認識すればそれは舞台上に構築された世界を崩壊することに他ならない。

 それに直接見る必要もない。観なくても僅かに漏れる声や呼吸の音、そこにある空気の変化でリアクションはある程度わかるからだ。

 海越は頭の隅に僅かに残っている自我でその空気を読み取った。これならイケると。このままいけば全国も夢ではないと。

 物語はこのまま容疑者、大山金太郎の捜査へと向かう。

 本編では捜査に入るまでに暫く大山金太郎と刑事たちの下品という言葉を暴れ散らかしたようなシーンが多々あるがそこはなるべくオブラートに包みできる限り省略。

 全シーンやると大会規定の制限じかん60分を大幅に超えてしまうからだ。

 重要な情報をまとめると、木村伝兵衛部長が上司から職権乱用で言い寄られていること、李大全が大山金太郎の故郷、五島から上京してくる女の子たちに売春をやらせていること、そしてその目印の花が白いアリランであり、被害者の山口アイ子が最後に握っていた花であること。

 「アイちゃんは死んだ方がよかったとです、東京に出てきてアイちゃんは変わってしまった。この場所に来て性根が腐ってしまっと!」

 石井が拘束された体でもがきながら必死に訴える。

「じゃああんたは山口アイ子を幸せにするために殺したと?利いた風な口聞くんじゃありませんよ!踏ん張れば殺さずに済んだんじゃないんですか。今頃彼女のご家族がどんな思いでいると?どんなに性根が腐っていようと親としては生きてもらいたいもんじゃないんですか!」

 「……なるほど、確かにそうだな。おい熊田!これを解け」

 「何を言ってるんだお前」

 「熊田!そいつの拘束を解け」

 「さすが部長さん、話がわかるじゃねえか。これから本気でやらせてもらうわ!」

 海越は渋々、石井を縛っていた縄を解くと、すかさず石井はその縄を奪い取り、翡翠に向かって突進する。

 「おい!止まれ!」 

 万平の制止も無視し、翡翠を突き倒すと縄を翡翠の首に回した。

 「これが凶器だよ。実際には腰紐だったがな」

 「おい!」

 「いいんだ熊田!続けろ。ここは泣く子も黙る東京警視庁、捜査中に刑事が死ぬことだってあるんだ」

 石井の握りしめる紐に力が入る。翡翠はそれに抗いながら苦しそうに続ける。

 「ただね、私死ぬ前に聞きたいんだ。あんたどうして彼女に千円を差し出した。彼女には千円の価値しかないと。周りにどんなにコケと馬鹿にされても幼馴染のあんただけは

綺麗だって言ってやるもんじゃないんですか。私はねそれが許せないんですよ」

  石井の腕にさらに力が加わり、翡翠の声は絞りカスのように途切れ途切れになる。だがその確かな殺意だけは声に出さずとも肌で伝わる。

 翡翠の意識が飛びそうになる瞬間、和田と海越が止めに入る。すると……


 ジリリリリリリリリ


 舞台中央のデスクに置いてある黒電話が鳴り響いた。

 無意識のうちに石井の力は緩まり、翡翠は興ざめしたかのように石井の拘束から抜け出すと、不機嫌そうに平台を駆け上がり、黒電話を手にした。

 その相手は警視庁総監。木村伝兵衛に売春宿に潜り込むよう指示するものだった。

 「大変なんだな、女が社会を生きていくっていうのは」

 冷静になった大山がバツが悪そうに言った。

 「そういう社会を作ったのはあんたたち男らなんです。男の嫉妬とはほとほと呆れますよ。女が相手となりゃ普段の恨みもあって突然団結して襲いかかってきます。でも負けませんけどね、私は」

 舞台は一度沈黙に包まれ、そしてまた大山金太郎の捜査を再開した。取調室は現場の再現に移行した。

 上手からは山口アイ子役として雪宮が、下手からは李大全役の鈴木が登場する。

 李大全は逃げ出したアイ子を励まし、なんとか売春宿まで帰らせようとする。そこで大山金太郎が止めに入ってくる。

 今この瞬間、舞台上には二つの時間軸の世界が生まれた。回想シーンのように鮮明に再現される過去の会話。そして先ほどまで取調室にいたはずが完全にその世界に移った大山金太郎。

 俯瞰している刑事たちは平台を登り、翡翠は足をデスクの上に乗せて、腕を組んで座りながらその様子をまるで映画を見ているようにくつろいで眺めている。

 「先輩、もうこげんことやめてください。五島の誇りであるアンタがどうして故郷を辱めるようなことすると。もうアンタは島の人間じゃなかと、もう二度と帰ってこんでください」

 「……帰ってくるな、それは島の総意か。そうか、村に発電所ができて、島が豊かになって、それでワシはもういらんと。ワシはこんなにも故郷のことを想っているのに。あんまりじゃないのか」

 「なんば言うちょるとですか、この人は。これだから朝鮮人はタチが悪い。無理やり売春やらせてた人間が何言うても無駄じゃなか」

 「ワシが無理やりこの子等に売春をやらせちょると、アイ子!本当のこと言え!」

 先ほどまでまだ優しそうだった鈴木だったが、まるで人が変わったように豹変し、怒り狂いながらアイ子に迫った。

 「アイ子、よう聞けワシはな一度たりとも故郷を忘れたことなか。なのに帰ってくるなと言われちょっとよ。頼むから本当のこと言うてくれ!」

 「先輩」

 鈴木が雪宮の肩をガシッと掴み揺らすが、雪宮は悲壮な声を漏らしただけだった。

 話が違うと困惑する鈴木。

 本当はお前が金が欲しいとせがんだんじゃないかと、金に溺れ欲に溺れたのは自分自身ではないのかと訴え、雪宮から装飾品を剥ぎ取り投げ捨てると、

 「ああ、うちのビトンが、シャネルが……ない、ない、ない、どこや、どこに行ったんや。あんた弁償しな、うちのビトンを返せ!」

 狂ったように地面に這いつくばりながら探し始めた。

 幼馴染の少女は目の前で金の亡者と成り果てた。金太郎はここでようやく売春宿の元締めである李大全は愛する故郷の人間に利用されていたことに気がつく。

 目の前の現実が信じられず、金太郎は無意識のうちに大粒の涙を流す。そして、

 「先輩、五島には売春するような女はおらんとです。死んでください。死んでください。今アンタが死ねば五島は美しいまま残ります。もし死な言うならオイがアンタを殺します」

 その言葉に李大全は、怒るでもなく、悲しむでもなく、ただ遠くの海の先にあるであろう故郷を見つめる。そしてセリフに合わせてゆっくりと平台を登っていく。

 「そうか、お前はワシに死ねいうか。朝鮮から追い出され、ようやくの思いでたどり着いた故郷には利用され、そして死ねと。ああ、わかった。これも宿命ばい。アイ子、お前たまには五島に帰って兄弟に顔見せちやり。一番下の弟にランドセル贈ったけん笑って祝ってやっちょくれ。どんなにコケと言われても故郷を愛し笑っていれば、女はそれだけで十分やと。おい金太郎、ワシの死体は五島に埋めてくれ、帰るな言われてもオイの故郷はあそこだけじゃ。頼む」

 鈴木は誠心誠意の土下座をすると、取調室だった背景が縦に二つに割れ、小さな出入り口ができた。

 「あー、やっぱ死ぬのは怖か。こん崖40メートルはあるけんね。痛いんやろうな」

 鈴木は立ち上がってそう言うと、その闇の中へと消えていった。

 鈴木の姿が見えなくなると背景は再びぴしゃりと閉じ、雪宮と石井が取り残された。しばらくの沈黙の後、静寂に耐えかねたように雪宮が、

 「金ちゃん、アンタうちが東京で何やっとったか知っててここに誘ったんね?」

 「……」

 「知っとるよ、アンタがどこまでもずるい人間やって。ええよ、金ば出したら這いつくばるとよ」

 「アイちゃん何言うてると。アイちゃんはずっと綺麗とよ。今だってまだやり直せる」

 「本当?信じていいんね」

 「ああ、本当やと。五島に帰って傷ついた心じっくり癒せばよか。島の人たちは暖かい心で迎えてくれるばい」

 「金ちゃん、私ずっと辛かった、迎えにきてくれること、待っとたよ」

 雪宮、ゆっくりと歩み寄り、抱き合おうとする。だが、その手に握られていたのが千円札だと気づく。

 「千円……」

 その瞬間、雪宮の目に純粋な殺意が灯り、金太郎を積み重ねて平台の上へと追いやっていく。

 怒り狂う雪宮。握りしめた千円札を破り棄てようと襲い掛かる。

 それを見ていた翡翠と海越の様子がおかしくなり始める。

 「アイちゃん、女ちゅうんはそんな売春宿でトップになりたか?どうしてそんな風になってしまった」 

 次第に鈴木と海越、雪宮と翡翠の声が重なっていく。

 翡翠はセリフと共に立ち上がり、海越の元まで駆け降りていく。

 それとは逆に雪宮は翡翠がいた頂上まで登りながら石井に罵声を浴びせる。

 「当たり前ばい。あんた、あれを買うために女の私がどれだけ男にすり寄ったかわからんやろ。価値のわからん田舎者が。絶対に弁償してもらうけんね!」

 「アイちゃん、弁償って何ね。もう忘れてしまったと。美しい五島を、どんなに貧しくても助け合って生きる人たちの心を、忘れてしまったとね!」

 「だったらアイちゃんは死なないかんばい!」

 石井は涙と鼻水でクズクズになった顔をさらに歪め、断末魔のような叫び声と共に、平台を駆け上がり、持っていた縄で雪宮の首を絞め上げる。そして再び背景が二つに割れると雪宮も闇の中へと消えていった。

 残されたのは閉ざされていく闇を睨みつける石井、その5つほど下の段で海越を突き倒し、首を締め上げている翡翠、そして全てをつまらなさそうに眺めている和田。

 照明が映り変わり、舞台上の世界が取調室へと戻される。

 「やめろ部長、容疑者だって自白している。捜査官が差し出がましく口挟むことはない。容疑者にだって人権がある」

 海越は首を締め上げられながらも必死に翡翠を止めようとする。

「女に素手で負けておきながら何を言っているんですか。私たちは刑事です。たとえどのように正当な理由があろうと人が人を殺めるなどあってはならないこと、それは死よりも悲しい思いをする人がいるからです。だから私たちが裁かねばならないんです。わかったら私のことを止めないでください」

 「止めなかったらどうなると言うんだ」

 「悪党どもを一網打尽といくんですよ。海上保安庁に連絡して長崎県五島神社の村長いか全員を殺人幇助罪で逮捕、大山はあの扉を開け新聞記者たちがフラッシュを焚く中で検察庁の車に乗せてそのまま死刑台送りだ」

 「あなたそれでも人間か!」

 馬乗りになっている翡翠を海越はやっとの思いで突き飛ばし、今日一番の声量で叫んだ。その瞬間、喉の奥でガリッ、と嫌な音がした気がした。

 「ガハっ……、はー……、はー……」

 恐れていたことが起きてしまった。

 ほんの数秒、だが舞台上では致命的すぎる数秒、海越は直感で次のセリフがまともに出ないことを理解した。

 喉の奥からくる、焼けるような痛み。それより早く不安や焦りが先走る。

 声は出せない、だが他の役者にそれを伝える術はない。アドリブでどうにかなるようなタイミングじゃない。ここは自分にしかできないシーンだから。

 だから、絶対に芝居だけは止めてはならない。

 海越は軽い咳払いをして、呼吸を整えながらゆっくりと立ち上がった。

 多少グダッてもいい、セリフを出せるようになる数秒を動きだけで繋ぐ。

 木村部長に殴られ、大山の捜査で疲れ切った、そんな満身創痍の熊田を演じながら海越は立ち直した。わざとらしく呼吸を乱し、全身がいかにも殴られて痛がっているように、ゆっくりと自分の体を労わりながら立ち上がる。

 観客の視線が海越に集中する。

 「人間っていうのには絶対に超えてはならない一線がある。李大全は全ての罪を背負って死んだ。それをお前が踏みにじる権利がどこにあるんだ!」

 掠れ声になりながらも海越は必死に叫び続ける。ここまで声が枯れてしまったらもう発声は意味をなさない。ただただ、技法もクソもない力技で、なんとか言葉として聞こえるギリギリのラインでセリフを吐き続ける。

 「確かに子が死ねば親の心も死ぬ。だが娘が売春宿の千円女だと知って誰が喜ぶ。人の思いを、優しさを、踏みにじってまで貫く正義がどこにあるっていうんだ」

 疲労が溜まってきたのか体にうまく力が入らない。だが、なるべく重心を下にのせ、前のめりに右足で踏み込み、精一杯の虚勢を張りながら翡翠に訴え続ける。

 「彼らの意思を汲み取れずなにが捜査だ。あんた、あんたは人間じゃねえ!」

 「そんなことどうだっていいんですよ。大事なのはね、私とあんたのことだけ。そりゃあこんな名前と成りをしてますけど、少しは可愛いところだってあるんですよ。そんなに私のことが嫌いですか」

 「今はそういう話じゃないだろ」

 「そういう話なんですよ!」

 翡翠は海越との距離を一気に縮めてくる。

 「言ったでしょう。私はあなたが好きです。この捜査を終わらせてあなたと二人っきりに成りたかった。『お前のためなら世界を相手に戦える』そう言って守られたいんです。私ずっと寂しいんです」

 「勘弁してくれ。俺にはその愛は重すぎる。俺にはね、今いる女で十分なんだ。ブサイクで頭も悪くて俺の前で平気で屁をこく、そんな女で十分なんだ。だから勘弁してくれ」

 その瞬間、翡翠は海越に襲い掛かる。

 「何を勘弁するんです。散々下に見下され、売春宿に使い走りにされなきゃいけない上に愛する男に人間じゃないと言われ、これ以上何を勘弁すればいいんですか!」

 そう叫ぶと翡翠は海越を投げ飛ばした。

 投げ飛ばすと言ってもあくまで演出としての動きだ。キャラクターに憑依されている翡翠とはいえ、それは理解し、互いに稽古で何度も力加減と倒れ方を練習している。だが、

 「あれ……?」

 踏ん張りがきかなくなった海越の足はそのままもつれ、絡まり、そのままひな壇のように積まれた平台から転げ落ちていった。

 当然だ。本番前から口にしたものを全て吐き出し、動きの激しい演出で体力も水分も根こそぎ奪われて、海越はとっくに脱水状態に陥っている。さっきの転倒がトリガーとなり、症状が一気に海越を襲いかかる。

 吐き気に頭痛、目眩や痙攣、喉もとうに限界を迎え、芝居など続けられる状態ではない。

 体から先に落ちていったため、頭は強打せず意識は保っているが、自力で起き上がることもできない。

 ———最悪だ。ここまできて、まだダメなのか。俺のせいで全て台無しになるのか……

 クソ!どこでもいい、動けよ!なんでもいい、何か言え!続けろ、舞台にいる限り絶対に芝居は続けるんだ。

 頼む、お願いだ、後先のことはどうでもいい、この物語をちゃんと完成させてくれ……


 「はぁ、全くみっともねえ姿ですね」

 「え……?」

 「ここまで言われて何もできない根性なしだとは思いませんでしたよ、ええ。もういいです。さっさと八王子にでも帰れ」

 まさか、翡翠……

 「っち、動けねえんだったらしょうがねえ。おい大山こいつを連れてさっさとここから出て行け。なあに、後のことは任せてください。ちゃんとあんたを死刑台に叩き込んでやりますから」

 翡翠は淡々と、木村伝兵衛であり続けたまま、シナリオを修正し始めた。つまり、ここから起こることは、彼女のアドリブだ。

 海越はもう動けない。

 それを察した舞台上にいる石井と和田はすぐに彼女の意図を理解し、アドリブを重ね対応をする。

 「そんなのに従えるわけないだろ」

 「何いってるんですか、あんたはもう死刑囚も当然。人としての尊厳など無いに等しいんですよ。でも彼はあんたの人権を訴えた。その義理は通すべきなんじゃないんですか」

 「っぐ!」

 苦虫を潰したように顔を歪め、石井は海越を担ぐと右手はけ口から退場していった。

 それを見送ると翡翠は一息つきながら自分のデスクの方へと駆け上がり、足をデスクの上にのせ、また登場シーンと同じようにドカッと偉そうに座った。

 「ふー」

 「お疲れ様です」

 「ああ……、なあ万平。お前はもう帰れ」

 「え?」

 「もう飽き飽きしてんだろ、私のやり方に。憎んでいるんだろ。容疑者を完膚なきまでに叩きのめす私のことを」

 「ええ、憎んでいます。今日だって捜査中に殺されてしまえばいいと何度も思いました。人は力では動きません。思いやる心で動くものであります。あなたは間違っている。」

 「だったら、その辞表を出して早く実家に帰るんだな。親御さんはいつも心配していましたよ。あんたがホモだろうが殺人者だろうが、あなたは私たちの息子だって。だからどうか勇気を持って帰ってあげてください」

 「部長……」

 「だからこれがあなたの最後の仕事です。今すぐあの二人を追ってください。二人の処罰はあなたに任せます。然るべき処罰を下した後、そのまま羽田の便で村までお帰りください。お父様とお母様が待っています」

 「ありがとうございます」

 そう言って敬礼をすると和田は右手はけ口へと走って退場した。

 そこには顧問の飯沢と出番を終えた雪宮、鈴木、石井が集まっていた。

 海越はゆっくりと水を飲んで飯沢が支えた状態で横になっている。

 「海越!大丈夫か」

 観客の視線を切ったことを確認すると和田は急いで海越の元へ駆け寄った。退場までなんとか場を繋いだが、和田も石井も海越が心配で仕方なかったのだ。翡翠がすぐに二人をはけさせたのもそのためなのかもしれない。

 「大丈夫です。意識ははっきりしていますし、頭もそこまで強打していません。ただ念のため医務室に運んだ方が、」

 「ダメです」

 今出せる精一杯の掠れ声で海越は遮った。

 「まだ……、まだ、翡翠の芝居は……終わっていない」

 自分のせいで芝居を台無しに仕掛けてしまった。なら、その行く末だけでも見逃すわけにはいかない。泉谷翡翠という女優がまだ、舞台に立っているのだから。

 「……わかりました。ちゃんと、見届けてあげて下さい。おそらく彼女は、今日この瞬間、役者として大きく成長します」

 そして会場も舞台裏も、全員の視線が翡翠の次の行動に視線を向けた。

 先ほどの転倒は演出なのか、それとも事故なのか。観客にはその真相はわからない。わからせてはいけない。だから全て、『そういう演出』なのだと信じさせなければならない。

 翡翠は和田を見送ると、ゆっくりと席を立ち、黒電話の受話器を手にした。

 「もしもし、警視総監殿でありますか。木村伝兵衛でございます」

 先ほどの狂気じみた様子とは打って変わって、丁寧な口調で、だがそこには力強い意志が前面に出た声で話した。

 「今回の熱海殺人事件ですが、容疑者大山金太郎なる人物の痴情の果てでございます。五島は心美しき島でございます。五島周辺の海上封鎖の解除を……ご無理だと。私があなたの意のままになれば考える……」

 そして次の瞬間、

 「なるほど!警視総監殿、そこまで女をコケにしてないが面白いのでございましょう。いえ私は部下でありますから、踊れと言われればいつでも裸になって踊りますが、ええ、仰せのままにいたしましょう!」 

 また、とち狂った笑みで、濁り切った声で、笑い、叫び、暴れながら受け答えをする。

 「ではご指定の時間にお伺いいたします。それが済みましたら、私はかねてより懸案の売春宿に囮として潜伏いたします。では、警視総監殿、私も操を引き換えとする条件を出させていただきます」

 翡翠の声量のボルテージはさらに上がっていく。

 海越はその姿を、瞬きも忘れ、目に焼き付けていた。

 「それは、李大全。彼の墓を対馬海峡が見渡せるアリランの花咲き乱れる岬に作っていただきたく思います。彼こそ、私の操を引き換えにするだけの心清き日本人であり、朝鮮人でした」

 唇を噛み締めてその姿を見つめる。

 さっき、飯田は「この瞬間に成長する」と言ったが、それは違う。

 海越は知っていた。芝居が始まったその瞬間から彼女の開花は始まっていた。翡翠が気づいていたかはわからない。だが、翡翠を演じている木村伝兵衛は気づいていたのだ。海越の不調を。

 だから、海越が倒れる前からほんの僅かに演出と違う箇所が何度もあった。海越が倒れた後も、アドリブでも計算なんかでもない。この人物がその行動をしたら木村伝兵衛がするであろうことを翡翠がしただけなのだ。

 彼女は幕が上がったその時から、ずっと木村伝兵衛であり続けていた。

 ずっと彼女に挑み、敗れ続けていたからこそ、海越は全て分かっていた。

 悔しい、果てしなく、どこまでも悔しい。

 芝居で負けこと、舞台から追い出されたこと、いや、それ以上に、あの一瞬、刑事としての葛藤も女性としての苦悩も全て抱え込んだあの表情で、海越に迫り掴みかかってきたその演技に、ほんの一瞬、呼吸をも忘れて見入ってしまったことだ。

 ずっと役作りをしてきた。舞台上で突然殴られようが突き飛ばされようが崩れることはないくらいに。なのに、翡翠の芝居に心奪われ、役者から一人の観客になってしまったのだ。

 「はい、なんでしょう。なぜそこまでやるのかって?わからないんですか警視総監殿!」

 ラストシーン、原作と大きな違いはない。だが誰もが、疑いようもない才能を持つ彼女の最後に期待を寄せる。

 下品で性格も言動も汚くて、過剰なまでに威圧的。けれどその信念はどこまでも純粋で眩しいくらいに真っ直ぐで、

 「なあに、浮世の義理と人情のためでございます。いいですか警視総監殿!今、義理と人情は、女がやっております!」

 心を捧げたくなるほど気高く美しい。

 

 ——————ああ、チクショウ。また惨敗だ。

 せめてちゃんと最後まで一緒の舞台にいたかったな。どこまで行けば俺は、彼女に追いつけるんだろ。

 チクショウ、チクショウ、俺だっていつかは—————————


 誰もがそのフィナーレに惜しみない拍手を捧げる中、海越はただ自分の唇を噛み締めることしかできなかった。

 滲み出す景色の中で彼は茫然と、しかし掻き切れた喉の奥に、ほんの少し血の味が漂っていた。

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