林 常治③

ジャパニーズゾンビの朝は早い。

まさか二度も男と同じベッドで寝る事になるとは想定外だったが、広いベッドはさほど窮屈さもなく、程よい弾力が長旅の疲れを癒してくれた。

適度に沈み体を優しく支えるそれはさぞかし名のあるマットレスと見受ける。

ベッドサイドに放られた昨日の新聞によると、本日の予報はmostly sunny(概ね晴れ)、最高気温は73℉だから…ええと。

華氏から摂氏への変換が煩わしい以外は特に困ったこともなし。

ベッドの抵抗力を尻で楽しんでいる間もベルが起きる気配は全くない。

始めは起きるのを待とうかと思っていたが、こうしている間にも貴重な機会を逃している気がして散歩にでも行く事にした。


クローゼットから自分の背丈に合う服をとり、姿見の前で当ててみた。

「ちょっと派手かしら」

このクローゼットに入っている服は自由にしていいとの事で居候の身としては助かるのだが、ベルの友人が置いていったという服はどれも若者向けの様に感じて気後れしてしまう。

なるたけ地味なパーカーとキャップ、それにいつもの着古したズボンと磨り減った半長靴。


「うーんン、久しぶりの外やー匂いが全然ちゃうなあ」


まだ日の出前の薄靄立ちこめる中を歩いて行く。

島からここまで14,000kmの旅路、米国第4の貿易港であるサバナから、大型トラックに積み替え揺られること数時間。

広大な土地にゆったりと人々が暮らし、鹿は道路を闊歩し、木陰でアルマジロが微睡むジョージア州へ。

改めて遠くに来たことを実感したが道路標識だけは同じで少しほっとした。


「朝飯でも買って帰るか」

ふらふらとかなりの距離を歩いたので、帰りは市場が開いている。

海が近いおかげか魚介類もなかなかの品揃えだ。

今が旬のニジマスを1尾(これはフライとムニエルにする)、グルーパーの大きな切り身(これは煮付にする)を買う事ができホクホク顔で復路を20分。

何やら襟足がざわつく様な嫌な予感がした。


―警官(ポリ)だ。


「は...!はよ帰らんと」

パスポート・ビザ・身分を証明する物一つない自分がここで捕まったらベルにどんな迷惑をかけるか・・・

悪い想像を振り払い、迅速かつ怪しまれない細やかな気配りでその場から離れた。


帰りは横道に逸れて人気のない道を歩いたので随分と時間を食ってしまった。

陽は高く、行きには見かけなかった人も鳥も獣も動き出している。

ほら、ご覧そこにも犬の親子が。

大きな耳にふさふさの尻尾、俺の魚の匂いに釣られてきたのだろうか、なんとも穏やかな時の流れを感じる・・・

「わっ犬やと思って近づいたらコヨーテやった…なんやここ…」

島では飼い犬は放し飼いスタイルが主流であったが、ここで放し飼いなどやろう日には瞬く間に淘汰されてしまうに違いない。

俺はとんでもない所に来たのかもしれないと思った。


家はもうすぐそこだ。

くすんだ空色の壁に、灰色の煙突・・・迷わずベルの家まで戻って来られた。

殺風景な庭にはつまらないほど整った芝生しかない。

俺からしてみれば立派な屋敷だが、この辺の家々に比べれば小振りな方だと思う。

整った庭に反して、ガレージは大工道具やバーベキューグリル、何に使うかわからないパーティグッズなどが溢れていた。


そこに埋もれる車が一台。

「・・・こいつ日本車やな・・・」

羅針盤が名の由来になったコンパクトなSUV。

埃の溜まり具合を見るに、ベルはそれほど車に興味がないのだろう。

フロントガラスは曇り、ドアは少し触れただけで手形が残るほどだ。

「タイヤとか大丈夫なんかな」


「Where have you been?」


階段の上の方から声がした。

他人様の車を拝見していただけで、やましい事は何一つないのに背筋がしゃきっと直ってしまう。

「Please don't break anything.」

「大事なもんやったらしっかなおしとけや・・・。」

物色していた事を咎められたのではなかったが、壊すなとはなんだ。

壊すわけないだろう。

「あっ・・・」

ガタンと音を立てて謎の箱が倒れる。

「こんなん歩かれへんやん・・・アホちゃう・・・。」

頭上からの冷たい視線を浴びながら何とかレッドゾーンを抜け出ると目の前には腕組みをしたベルが立っていた。

俺の挙動で何か壊したのではないかと心配で見に来たのだろう。

何も壊してはいないというのに全く・・・足を一歩踏み出した瞬間、わき腹を両手で鷲掴みにされた。

「ぐっ!?」

「Stop!」

下を見ると着地点には子供用のスケボー、釘、テニスボールが散乱している。

「せやからなおしとけって!」

「OK, Watch your step.」

おもちゃを散らかしているのはベルなのに、まるでこっちを子供扱いする言い方が気に入らない。

「物が多すぎるしな、これとか誰が乗るん?」

八つ当たりは承知の上で、全長70cmのメルセデスベンツを指差す。

「I don't know what you are talking about. Could you speak in English?」

そういえば、と

気に入らないついでにベルがアパートに置いていった500ドルの事を思い出した。

「そや思い出したわお前あの金はなんのつもりなん?」

「What? I'm telling you to speak English.」

それは言っても分からないだろう事は俺も分かっている。

階段をダッシュで往復して件の金をベルに突きつけた。

そして今度は俺が腕組みする番。

予想としては、あの晩寝ている間に何かやらかし、それをチャラにという所ではないか。

アイコにも娘にも異変はなかったし、家具が壊れていたということもなかった。

トイレは元から詰まり気味であったし・・・全くもって謎の金である。


当人は目を見開いて暫し考えた後、ばつが悪そうに500ドルを畳み、丁寧に俺の掌へ返してきた。

「I've caused you a lot of trouble. This is to show you my apology.」

旅先で迷惑をかけるなんて誰にでもあることだ。

いやはやこの男にも謙虚な一面があったのだ。

「I do the same things too. 」

つまり俺が言いたいのは、親切の見返りに金を渡したりするなと言う事である。

だがその一言でベルは一層困惑してしまったようだ。

「You're gonna do the same thing?」


「Are you get laid with man...?」

「ん?なんて?」

「I need to get some fresh air.」

何かをごちゃごちゃ言いながら出て行ってしまった。

確かにアメリカはサービスにはチップを払う習慣があるが、これも文化の違いというやつだろうか。

金の事はひとまず置いておいて、買ってきた魚の鮮度が落ちない内に捌いてしまわないといけない。

朝食のつもりで用意した魚もこの時間では昼食か。

まぁ奴も腹が減れば帰ってくるだろう。


今朝読んだ新聞を手にキッチンへ。

昨日着いたばかりだが勝手知ったる他人の家、調理器具や調味料の場所は既に把握済みである。

お役御免と相成ったが、長年調理場の手伝いをしていた経験がここでも役立つというのは嬉しい事だ。

「素晴らしい・・・。」

感嘆の声ももらすというもの。

大容量の冷蔵庫と食洗器、独立したオーブン、四つ口のコンロは電熱線でもIHでもなく使い慣れたガス火。

整然と並ぶそれら全てがデザイン性と合理性に優れたドイツ製だ。

あの飲んだくれの拘りだろうか?まあなんでもいい。

「包丁がいっちゃん大事やん・・・。」

ここまで揃えて包丁で手を抜くセンス・・・ギリギリ魚は捌けるので良しとしよう。

ニジマスの内臓を取った所でガレージのシャッターをけたたましく叩く音がした。


ガンガンガンガンッ


ベルが帰ってきたのだろうか、鍵も持たず出て行って、途中でもよおして焦っているのかもしれない。

一刻も早くドアを開けてやらなければと一歩踏み出した矢先、下階の鍵がガチャリと開く。

鉄階段をカンカンと駆け上るヒール靴の音は、ベルではない何者かの来訪を知らせた。

「Stacey!」

ステイシー?誰の事だろう、この家には他にも誰か住んでいたのか。

とすると、先ほどガレージで注意されたのは同居人の物を壊さない為にだったのかもしれない。

ドアが乱暴に開かれ女が入ってきた。

部屋を見回す女に軽く手を上げて居ますよとアピールする。

「Hi there.」

「ถามจริง」

黒いワンピースから褐色の足が伸びる。

目の前の俺を見て取り乱し何かを叫んだ女は目にも止まらぬ速さで俺の右手を蹴り上げた。

魚の内臓をぶちまけながら宙を舞う包丁、驚愕する俺。

「待て、ちょっ」

2撃目は空いた右腕でガードする事ができたが、すぐに部屋の隅まで追い詰められる。

左手には今さっき取り出したニジマスの内臓が握られていて、力んだ瞬間にべったりと手に付いてしまったのでとても気色が悪いし、蹴られた腕も後で痣になるのではと心配だ。

50を越えた辺りから傷の治りが異様に遅い、朝はきっかり4時に目覚めるわ、枕から古い油のにおいはするわ、家族に鬱陶しがられるわ...

お前に・・・そんな俺の気持ちが分かるか!

「うおおおお!」

膝蹴りを対角の膝蹴りで打ち消し、掴んだ細い両腕を締め上げると女は苦痛で顔を歪ませる。

今のは明らかに急所狙いだった、許せん。

「ん?お前・・・」

「Let go of me, Murderer!」

それでも攻撃を止める気配はない。

こういう頭に血の上った相手には押す・・・と見せかけて引く!!

フェイントからの三角絞めは見事に決まった。

「ちんちん狙うのは卑怯やぞ!同じもんついとるやろ!」

「เชี้ย You killed Stewart.」

「生 き と る わ!ぼけぇ!」

十年に一度の大声を鼓膜に叩きつけてやった。

ベルを殺したとかなんとか訳の分からんことを・・・


「What's happening here?」

そんな殺伐とした空気の中、いつの間にか帰って来た家主は俺たちを見てキョトンとしている。


「Oh, Did you lose? Unbelievable.」

「I'm not losing!」

先に話しかけたのは女の方、いや、骨格からして女の恰好をした男だと思う。

「This guy had a blade!」

俺もすかさず腕を前に突き出して訴える

「This guy. kicked me in the elbow!」

こいつに喧嘩のお裁きをしてほしい訳ではなかったと我に返るも、すぐに後悔する事になった。

「Show me where it hurts.」

見せた肘は優しく撫でられたのですぐに引っ込めた。

二の腕まで広がる鳥肌、そして悪寒。

こんな嫌な思いをするのも全部全て全面的にこの男女が悪いのだ。


「わかった、お前ベルのコレやな?」

嫌悪感をいっぱいに小指を立てて見せる。

「そんな訳ないだろ、Onigiri head.」

今、部分的に日本語を話したような気がした。

そして悪口が聞こえたような気もした。


「What?」

「He says I'm Stacey's boyfriend.」

「I see.」

いやステイシーお前かい!


ベルは落ち着いてと言わんばかりに、さっと両手を前に出した。

「This is my friend, Chaychna. Nothing more, nothing less.」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る