林 常治②

浜辺で出会った観光客と話して、食事をして、それからの事。

まだ夜の10時ごろ、店の片づけを終えてアイコが2階へ上がってくる頃だ。

俺は店の2階の一角に部屋を借りていて、先ほど倒した外国人を引きずりながら帰ってきたところだった。

件の人は、上からも下からも色々出しながら狭いベッドと便所を行き来するのがやっとという所だ。


「I can't believe you violated a OKIAKSANG!」

俺はというと、いい歳をして娘にこっぴどく叱られている。

店のお客様に暴行した事が許せない!とカンカンだ。

この島は観光業が主要産業だからというのもあるが、客を心からもてなすという習慣が根付いている。


「Because that man...」

理由を話そうとして、先ほどのやり取りを思い出し、止めた。

男に無理矢理キスされてな、舌も絡められたし最終的に少しパンツの中を弄られてなって、こんな話をして笑いをとる自信は俺にはないし、俺も笑えない。

一矢報いたとてこの結果ならばもう2,3発殴っておけばよかったと思う次第だ。

説教が大サビ部分に来た頃、丁度良く現れたアイコに説得され娘は自宅へと帰って行った。

家は店の裏なので何かあればまたすぐに飛んでくるのだろう。


「はぁ…」

テレビもない殺風景な部屋に大きなため息が響いた。


「Darling, come here.」

ガンッ

次言ったら殺すという思いを込めてベッドの脚を蹴っ飛ばした。

桶を抱えた男が掌を前に出し抗議する。

「George, It's dangerous, so don't do that.」

「Well, yeah. Prisoners of war have rights, too.」

「Thank you. Can I have some water?」

冷蔵庫からミネラルウォーターを持ってきて渡し、すぐ傍らに座った。

先ほどまで広がっていた吐瀉物と酒飲み独特の燻製肉の様な匂いは、窓を開けたので少しは消え去っただろう。

あとは今夜どこで眠るかだ。


「Are you in a bad mood? What did I do?」

僕何かした?怒らせちゃった?とは正気を疑う。

目を見開いたまま固まる俺に構わず話しかけてくるコミュニケーションの押し売り。

「Look.」

ベルが指さす方向を見ると壁に掛けられた写真があった。

「This is Napoleon Fish. It's called Maml.」

「そいつはカンムリブダイや。いいからさっさと寝ろ。」


「Oh...Please speak English.」

「知るか。俺はもう寝るぞ。」

ワンルームに肩身狭く置いてあるソファは所々擦り切れているのを大事に直して使っている。

スプリングが傷んで所々ギシギシいうので、寝心地は最悪だが一晩の辛抱。

もう寝ろ、と電気を消しても何となくベルの視線がこちらに向けられている気がした。

「...Come sleep with me.」

背後ですすり泣く声が聞こえる。

1分だか10分だかの間考えて、考えて、ああもうと立ち上がってしまった。


「なんなん!?」

「I'm cold. Sleep with me...」

室温は26度でちょっと暑いくらいだが、確かにベルの肩辺りは冷たく、逆に額や頬が熱を持っている。

「Can you stand it until tomorrow?」

「I'll be patient.」

部屋に1枚きりの布団でぐるぐる巻きにして、背中から抱く形で横になった。


やれやれ、こんな所は万が一にも同僚には見せられない。

娘の話だと隣の島で引っ越しの手伝いをしていて今日は戻らないそうだが、明日は朝イチで病院へ連れて行かないと鉢合わせてしまう事になる。

奴は米国人を毛嫌いしている節があるのでなるべくなら会わせたくないと思っている。


「I want to die...」

熱にうなされながらベルがまた泣いている。

先ほど話していた所帯持ちの男の話だろうか…死んでしまいたいとは穏やかでない。

素朴な疑問なのだが、妻子がいるのに何故男と付き合っていたのだろう?

「Did you talk to him?」

「I didn't know he was married until he passed away.」

先ほどまで声を殺してすすり泣いていたベルは、しゃくり上げ喉を詰まらせながらそう話す。

これ以上泣くと熱が下がらない。

自分の手には余る内容になすすべなく、声もかけられず、ただ子供をあやす様にぽんぽんと腹を打った。


「...Do you have something fun to tell me?」

この空気をなんとかしなければ。

そうだ、昔お前と同じ様な状況になった事がある。

その時は食べる物が本当になくて、目につく物を手当たり次第拾っては食べられるか確かめた。

その日はとうとう限界で、何でも良いから腹に入れたくてたまらなかった。

丁度良い具合にキズも虫食いもない綺麗なヤシの実を拾ったから、力を振り絞って割って食った。

「And then... ?」

「It was rotten.」

水に浸かってるのは特に駄目だ、絶対拾って食うんじゃないぞと言うと、分かったよとベルが頷く。

あの時は三日三晩、下痢と嘔吐が続いて、いっそ殺してくれとさえ願った。

これは恥ずかしいので誰にも話していないが、それからココナツは嫌いだ。

「Many Japanese are Buddhists, but they pray to God only when they have a stomachache.」

布団の中からくつくつ笑う声と呻き声が同時に聞こえる。

「If I were God, I'd give you a medicine & nice spare rib.」

「ぉん?スペアリブ?ああ…ありがとう…」

最後のは寝言だったのか何だったのか、ベルは少しだけ寝返りを打って寝入った様だ。

ぽんぽん、ぽんぽん、腹を打ちながら俺も眠りに落ちていった。


―夢を見た。懐かしい母の夢を。

縁側で足の爪を切っている俺に、東北訛りが抜けきらないあの声が呼びかけている。

あの時俺は自分の事を、母を、母は僕を何と呼んでいただろうか。もう思い出せない。


●●●


明くる日の朝―


"捕虜、逃亡せり"


奴は捕虜ではないが逃亡したのは事実だ。

起きた時には忽然と姿を消していた。

身の回りの物を取られてやしないかと焦ったが、それは杞憂に終わり、逆に机の上には100ドル札が5枚、計500ドルがマグカップを重しにして置いてあった。

食事代にしては多すぎるし、歓待に心打たれたとしたら尚更無言で金を置いていくとは考えづらい。

身に覚えのない大金、ついでに昨日渡されたキーケースの事も思い出す。

厚手の本革で出来たキーケースに鍵が1本、ディンプルの数が多い防犯性の高い物が入っていた。

この近所はそもそも鍵を掛けずに外出する人間ばかりなので、物珍しさに掌で転がしてみる。

「うーん…どないしよ…。」


あの状態で一体どこへ向かったというのか…普通に考えれば病院・空港のどちらかだ。

ただ、昨夜のベルの発言が気がかりだった。

人というのは、笑顔を見せていてもふとした瞬間に思い立って実行してしまうものだ。

そう考えるとそっけない態度を取ってしまった自分にも責任の一端があるような気がして、気付くとアパートを飛び出していた。


1階の店、始めに会った海岸、病院、と言っても病院はここからボートと車を使っても3時間弱の場所にある。

空港にも寄った方が良いだろうか、あの飲兵衛の事だからどこかのバーにひょっこり現れるかも。

「暑い~!」

今日は最高気温28度と出がけにラジオで聞いた通り、次から次へと汗が吹き出してくる。

全く何だってこう今の時代は、空港もホテルも病院も二言目には”個人情報保護”と言ってくるのだ。


灯台下暗しという言葉があるし、もしかすると元の場所に戻っているかもしれない。

携帯電話という物を必要だと思ったのは生まれて初めてだ。

俺の顔が溶け落ちる一歩手前の所でやっと店に戻るが、やはりベルの姿はない。

「アイコ~どこにも居らんかった~」

「誰がや?」

そういえばベルを探しに行くと伝えていなかった。

事情を話すとアイコはすぐに911に電話をかけて、そういった事故や事件がないか調べてくれた。

「アンタほんまにアホやなあ」

返す言葉もない。

ただ、本人と連絡が取れない以上心配は続く…どうしたものか。

机の上にキーケースとコースターを並べて眺めても、解決策は思い浮かばない。

外国人観光客の死亡事故がないか、明日の新聞も明後日の新聞も、ずっとずっと気に掛ける事になるだろう。

「家が分かってるんやったら手紙書くとか?その鍵も送ってあげたらええやん、知らんけど。」

アイコは母国語でも何でもない関西弁をごく当たり前の様に話す。

「まぁ…そうやな…」

「うわ!ええ、うふふ何よあんた!」


気持ち悪ッ


急に照れてクネクネし出す老婆を前にそう思わずにはいられなかった。

口に出していたら出刃包丁で刺されていただろう。桑原々々。

「好きなん?」

「はぁ?ついにボケたんか?」

ロマンスババアから目にも止まらぬ速さで繰り出されたグーパンはわき腹にヒットした。

「ジジイが照れても可愛ないわ~ここに『Let's live with me. (一緒に住みましょう)』って書いてあるやん。」

漬物石でも縛り付けて海に沈めたい記憶が、再び蘇る。

「これはな、そんなんちゃうぞ…言うなれば俺にかけられた呪いや。」

「もしかしてルー宛てなん?」

「違う!俺!!!」

ルーとは娘の名だ。血は繋がっていないが、大切な娘をあんな酒カスにやるものか。断じて。


「… … …。」

「アメリカ行くの?うちはええけど。」

何でそうなる?と聞こうとしたが、確かに安否を確かめるならそれが一番手っ取り早い。

「でも困るやろ、店の事とか。」

「全然。」

その間、コンマ3秒。

突然の戦力外通告であった。


男手のない店で俺なりに頑張っていたつもりなのだが、本当に全然なのだろうか。


「アンタが魚捕って来なくても別に困らんで?まぁ言うほど捕ってきてないしな。」

あともう1撃くらったら泣いてしまいそう。


「おれ…俺、アメリカ行ってくる!」

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