林 常治①
昨日の台風で海は大時化。
当然ながら成果は見込めないが、今日はどうしても海へ行きたかった。
雨が上がっているとはいえ、浜辺にはほとんど人が居ないので荷物は岩陰にでも置いておけばいい。
軽く準備運動をして、フィンとマスク、腰網、銛、いつもの簡易装備を身に着けた。
波をかき分けて5m…10m…急に深くなる足場に注意しながら、一呼吸おいて海の中へ。
トプンと静かに落ちるとそこは、視界が濁り、生物も息を潜める静かな海であった。
潜って1分、うねりで身体ごと持っていかれそうになる。
だが、ほんの後少しで引き返せない深さまで達した時の胸の騒ぐ感覚がどうにも好きだった。
ふと、岩礁の陰に魚影が吸い込まれていくのが見える。
期待はしていなかったが、今晩のおかずになるかもしれない。
一度海面へ出て呼吸を整え、もう一度静かに潜る―
と、そこには悠々と泳ぐマムルがいた。
ナポレオン・フィッシュとも呼ばれるこの魚は色彩が美しく、なかなかに美味しい。
今では数が少なくなり保護対象となってしまった種だが、いつか島の者が揚げたのを振る舞ってくれた時があった。
同僚と我先にと競って食べたのも、思い出の中だけのものとなってしまった。
2時間ほど海に居ただろうか。
やはり収穫は無かったが、いつもより静かな海を泳ぎ満たされた気持ちだった。
しかし、昨日もその前もボウズである…今夜の夕飯は知人に集るしかないかもなあと坊主頭をガシガシ掻きながら浜辺へ戻った。
浜には一人だけ、若い男がビーチベッドに寝そべっている。
観光客に見えるが連れも居ない。
派手な色のサングラス、変な柄のシャツとメタリックのスイムウェア。
おまけにテーブルの上には信じられない量のビールの空き缶。
「ハッパやってませんように…」
南無南無、眉間の前で手を合わせる。
もし薬物に手を染めている輩ならおかしな因縁を付けられないとも限らないので、一考してやはり声は掛けない事にした。
しかし困ったことに、お魚スイムウェアの近くの岩場には自分の荷物があるし着替えもそこに入っている。
そうだ、マスクをしていて気づかなかったことにしてしまおう。それがいい。
のそのそと脇を通り過ぎようとしたその時、男の傍らにあるバケツががらんと音を立て、反射で振り返ってしまった。
男もこちらに気付いた様だ。
動揺して一言二言、日本語が出てしまったせいか、相手は少し不思議そうな顔をして、だが至って普通に挨拶してきた。
顔...先ほどは前衛的な装いと異常な酒の量に気を取られていたが、綺麗な顔をしている。
特に目が綺麗だ。
複雑に色を混ぜた硝子の様な瞳が、こちらを真っすぐ見据えたかと思えば睫毛を伏せて隠してしまう。
もう少し、もう少しだけ見ていたいと思う内に、気付けば次から次へと質問責めにしてしまっていた。
困った様子だが、相手も丁寧に受け答えをしてくれていたし、話が弾んでいる。
名前はスチュアート・ベル・ロバーツというそうだ。
「OK, Stuart.」
「Stewart.」
「すてゅあーと…ん?」
「Stewart.」
「すちゅわーと」
「I'm Bell.」
そんな事より…とベルは遠慮がちに首を傾げて覗き込むような動きをした。
背中の火傷が気になるらしい。
綺麗な瞳が線香花火の様に色を変え、自分を興味深げに見ているのが何とも言えずこそばゆかった。
少し魔が差したのだ。
自分の顔が怖いという自覚はあった。
水中マスクを取って、顔を見せて、少し驚いて欲しかっただけなのだ。
こんな悪戯をするのは良くないと思っていたが、まさか後ろに転げ落ちてしまうとは。
「Sorry, sorry」
謝罪を繰り返すも視線が痛い。
とにかく助け起こすと悔しそうな顔をして、流木を小突いたりしているのが可笑しかった。
そういえば、先ほど22歳だと言っていた。
半世紀…いや、曾孫ほども歳が離れていると蹴られようが殴られようが可愛いものだ。
もしかしてベルとはもっと仲良くなれるのではないか。
ここには何日滞在するのか、明日の予定は決まっているだろうか。
何か会話の糸口が見つかれば…ふと、先ほどから視界に入ってくるメタリックの水着が気になった。
人混みの中から探し出せと言われたら10秒以内には見つかるだろうし、子供が居たならこういう水着を着せるのも悪くはない。
水着には島の周りでよく見る魚たちが描かれていた。
その一つを指さし、名前や生態を教えるとベルはじっと真剣に聞いていた。
この島にダイビング目的で来たのなら役立つ知識かもしれないと思ったからだ。
―何分ほど話していただろう。
海の話に夢中になって、随分話し込んでしまった。
ベルはもう眠いのか、途中からは気だるそうに話を聞いていた。
最後の方はんーだのああだのしか言っていないし、話すのを止めたら今にも寝てしまいそうで。
いくら治安が良いとはいえ、人も通らない海岸に置いていくのは心配だ。
何とか移動させなければと暫し考えていると、もぞもぞと腹の辺りをさすっている。
もしや空腹なのではないか?
「なんや、腹減ったんか?」
自分も今日はたまたま獲物に巡り合えなかったし、丁度いいので夕食に誘う事にした。
先ほどまで眠そうだったベルは、手に持ったビールを飲み干すと勢いよく立ち上がった。
腹が減っているにも関わらず上機嫌で、何回も俺の腰網をぽんぽん叩きながら「Tough luck!」と言ってくる。イジるな。
立ち上がると意外に身長が高く、酔っ払いの癖に大股でずんずん歩いて行ってしまう。
「いや、道知らんやろお前!道路飛び出すなこら」
世話が焼ける…やっと追いついたと思ったら今度はゾンビマン呼ばわりだ。
そういえば会話を続けるのに夢中で名乗るのをすっかり忘れていた。
何故か俺の腰を撫でながらゾンビマンを連呼している酔っ払いに若干ウンザリしつつ、口を開こうとした瞬間、凄まじい酒臭さが鼻と喉を襲った。
咽てしまって声が出てこない。
「I'm...」
背嚢に縫い付けられた名札を指さしなんとか名乗ろうとしたが、ちょっと待ってと遮られた。
「George? George Hayashi?」
ベルはどうだと言わんばかりの得意顔だ。
林ジョージ…なかなかどうして悪くないのではないか。
思えば俺の名前は父方と母方の祖父から一文字ずつ取った単純なものだった。
両祖父は何かにつけて競い合う敵対心剥き出しの間柄であった為、初孫の命名などそれはもう天下分け目の大戦である。
父方の祖父が常雄。
母方の祖父が喜久治。
どちらの文字が先か、何文字取るかで揉めに揉め、刃傷沙汰にまで発展した曰くつきの名であった。
林常治(はやしつねじ)の名を捨て、林ジョージとなることも吝か(やぶさか)ではない。
「その場合はジョージ・ハヤシか…?」
そうこうしている内に店に着いた。
店に入るとすぐ、目配せで席を案内してきたのはこの店の主人で、家族同然の付き合いをしているアイコという老齢の女性だ。
「I’ll have a beer, and Boiled mangrove crab.」
「酒飲むんか!? you’re kidding me...?」
「Do you wanna have the same drink?」
「...It's okay to be the same.」
席につくやいなや当然の様に酒を頼んだ。うーんどうやらアホ。
「and may I have a wine list too?」
「は?」
結局、料理が来るまでにビールジョッキ、料理が来てからワインを1本開けた。
白い肌は頭皮から首から赤く染め上げて、汗を滴らせながら茹で蟹状態で蟹を頬張る。
「髪食ってんぞ」
口の端に入った前髪をちょいちょいと除けてやると、子供の様な瞳で一心に見つめてくる。
先ほどの陽気さとは一変した表情に心臓がきゅっと摘ままれた様な気がした。
そもそもこの顔がいけない。
先ほど夕暮れの中で見たものとも違う複雑な色をした瞳が伏せられるだけで、頼りなさげな眉が動くだけで何でも言う事を聞いてしまいそうになる。
「(俺はこういう顔に弱かったんか…)」
蟹を黙々と食べているのを良い事にまじまじ眺めている…と、ベルの呼吸が次第に浅く早くなる。
眉間には皺が寄り、肩が小刻みに揺れ始めた。
「なっ…吐くなら外や… Go outside! Hurry up!」
何としても店内で吐くことは避けねばならないという焦りから無理やり首根っこを掴んで外に連れ出す。
少々手荒だが時は一刻を争うのだ。
なんとか外のベンチに座らせることが出来た。
こちらの汗だくの様相とは対照的に、隣の男は夜は風が涼しいねなどと抜かしている。
「...I've recently a broken heart and am depressed.」
なるほど、傷心旅行だったのか。
その話を遮るでもなく促すでもなく、じ…と耳を傾ける。
「My lover had another partner. and his child.」
俯いたまま、視線を合わさず砂にでも語りかけている様だった。
遠い地で何の影響も与えない自分に話す事で少しでも気が晴れるなら、俺は喜んで砂になる。
しかし、なんだろう…先ほどから腰を抱き寄せられている気がする。
最初は吐き気が酷いのだろうと、寄りかかって来る事を許していたが、気付けば自分の方がベルに寄りかかっている状態だ。
腕組みをするついでに身動ぎしてみたり、咳をしてこの異常を相手に悟らせようと試みる。
「It's a little cold.」
それはあれだけ酒を飲んだのだから、夜の気温はこたえるだろう。
俺は別の意味で寒気がするが。
こんな所を店の客に見られた日にはどんな噂が立つか、想像するだに身の毛がよだつ。
何せ狭い島なので、島民はほとんどが顔見知りだ…お前は観光客だから良いだろうが。
明日のことを思い煩う俺の気など構うことなくぐいぐいと体の隙間を埋められ、思わず鳥肌が立ってしまう。
ぶるると震えた振動を感じとったベルに大丈夫?と顔を覗き込まれ、
目が合い、
そのまま
●●●
「なるほどな」
ベンチをまたいで寝転がると、雲の隙間から雪崩れ込んできそうな星々が見えた。
何がなるほどなのか、自分は全く腑に落ちていないにも関わらずそんな感想が口をついて出る。
ファーストキスというのは大事に取っておけばおくほど良いとか、そういうものでもなく、歳を取ってから経験してもそこにあるのはただただ『無』なのである。
別に捨てる機会がなかっただけのそれが『無』として膨大な質量で襲ってくる感覚に脳が圧迫され、ただ「なるほど」という言葉しか出なかった。
トントンとふくらはぎをノックされるが、答える義理はない。
いつまでも寝転んでいる俺の腹の上に1枚のコースターが置かれた。
裏を返すと住所と名前がよたついた文字で書かれている。
「あー手紙な。書く書く。お前を島から追い出した後でな。」
無気力で独り言の様に話しかけるが、どうせこの酔っ払いには何語で話しても伝わる気がしないのだ。
手紙には苦い思い出があった。
一度きり、学生の時分に意中の女(ひと)へ手紙を送った事があったのだ。
乗合自動車でよく見かけるその女は目が合うと小さく会釈をしたり、キャラメルを分けてくれた事だってある。
その周りの女学生も浮ついた様子でこちらを見てくるものだから、きっとこの女は僕に気があるのだろうと自惚れがあったのだと思う。
『海を見にゆきませんか。お返事を待ってゐます。』
送った文面はよく覚えていないが、きっと相手は喜んで返事をくれることだろう。
数日後、郵便で届いた手紙の封を開けるまでは疑う余地さえなかった。
手紙には端正な字で『娘には許嫁が居りますので、今後文は送らぬよう願います。』と書かれていた。
海には一人で行った。ただそれだけの事だ。
短い回想の間にベルは俺の手のひらに何かを握りこませていた。
綺麗にコバが磨かれた革製のキーケース、中には鍵が1本入っている。
「My present address.」
そう言うと、にこやかに笑いながらコースターを指さす。
「そやな、一緒に住もかー…ってなるかあほんだらぁ!」
イライラが限界に達した俺は、気付けばベルの腕を掴み蟹ばさみを繰り出し、二人してベンチから落ちたのだった。
「やったか!?」
つい喜びが口から出たが殺っては駄目だ。
残留日本兵が外国人観光客を殺めたとあっては国際問題まったなしだろう。
下は草がそれなりに生えていたのでダメージは少ないはずだ。
死んではいない、起き上がって来ないが多分。
加減したしな。
大丈夫だろう。
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