第15話 ホワイトデー その2

 風紀委員室の前で立ち尽くしていると、廊下の先に穂積の姿が見えた。彼女もまた、俺を見つけたらしく、口を開こうとする。それが言葉として発せられる前に、俺は廊下をダッシュして、その口を手で塞いだ。

「んんんんっん、んんんんんんん!」

抗議しようとする彼女に向け、空いている方の手で、しーっと人差し指を立ててみせる。

 穂積は納得はしていないまでも、俺が言いたいことは理解してくれたようで、大人しくなった。そのまま、彼女を風紀委員室から遠ざける。


 栗花落は泣き顔を人に見られるのを嫌うだろう。涙の原因は俺だから、こんな行動は偽善でしかないけれど。今の俺が彼女のためにできることは、これくらいしかない。


 風紀委員室から十分に離れたところで、穂積を解放する。彼女は非難めいた視線で俺を見上げ、

「いきなり何をするのだ。あと、廊下を走るのは禁止だぞ」

こんな時でも風紀委員魂の塊だった。

「人道目的の緊急措置ということで、今回は勘弁してくれ」

「人道……?」

「詳細については黙秘権を行使する」

「黙秘権を行使するのは自由だが、現行犯では意味がないのではないか?」

なんてこった。

「まあ、それはさておくとして」

「さておくな」

食い下がる穂積を無視し、俺は

「ほれ」

と、彼女に紙袋を差し出す。彼女はじっとそれを見つめたまま、首を傾げた。

「何だ? 賄賂ならば断固拒否するぞ?」

「お前からはバレンタインにチョコをもらっただろ。そのお返しだよ」

「ふむ」

穂積は慎重に紙袋を手にすると、俺を見上げる。その目はまだ、風紀委員の目だ。

「念のため、中身を改めさせてもらうぞ」

「どうぞ、ご自由に」

そう答えたものの、さすがにちょっと切ない。賄賂と疑われたり、毎年中身を確認されたり、俺はそんなに信用がないのか。


 俺にとって、彼女は特別な存在だ。

 時間はかかったが、やっとそう自覚した。

 しかし、彼女はどうなのだろう。彼女にとっての俺は、何なのだろう。

 そんなことを考えると、たまらなく不安になる。

 そうか、栗花落は、こんな気持ちを抱え続けていたのか。


「日下先輩、どうしたのだ?」

気づくと、穂積が包装を解く手を止めて、こちらを見ていた。

「いや……」

以前は何ともなかったはずの視線が眩しい。

「その、あれだ。去年もお前にお返しの中身を確認されたよなー、と」

本当に訊きたいことは、そうじゃない。心の奥でそう叫ぶ俺を、意気地なしの俺が握りつぶす。

 そんな葛藤など知る由もなく、穂積は少し考えた後、

「ボクは風紀委員だからな。日下先輩だけを特別扱いすることはできない。少なくともボクの目の届く範囲で渡されるお返しに関しては、風紀委員として中身を改めるのが、ボクの務めだ」

いたって真面目に答えた。だが、

「ただ――」

と少し自信なさげに付け加える。

「ボクは、いつもキミを視界に捉えてしまう。だから、キミを取り締まることが多くなっているかもしれない。それは、申し訳なく思う」


 それは。

 その言葉は。

 俺をいつも見てくれていたのだと受け取っていいのだろうか。


「ほづ――」

「おぉ、ホワイトチョコレートではないか」

真意を確かめようとした俺を遮るように、包装を解き終えた穂積が声を上げる。そのわずかにはしゃいだ声音に、口にしかけた問いを飲み込んだ。

 代わりにというわけではないが、ぽつりと呟くように告げる。

「お前には、キャンディーを返してもいいかと思ったんだがな」

穂積は解き終えた包装を丁寧に紙袋に片づけながら、

「問題ない。キャンディーもチョコも好きだ」

「……!?」

何気なく発せられたその答えに絶句した。


 チョコレートにも、お返しに贈る時の意味みたいなものがあったのか?

 それが、キャンディー同様「好き」で、それを穂積は「問題ない」と言ったのか?

 だが、栗花落の口ぶりではそんなものはないはずだ。仮にあったとしても、それを穂積が知っているとは考えにくい。

 落ち着け、早とちりするな。


「まあ、甘いお菓子はどれも好きだが」

……やっぱりそっちか。単純に、穂積の好みの話だったようだ。

 それはそうだよな。世の中、お菓子と違ってそんなに甘くない。

「あまりお菓子ばかり食べすぎるなよ?」

言いながら、彼女の頭を撫でる。

 小さな頭。さらさらの銀髪。

「うむ。ゆっくりと大事にいただく」

彼女は一年前と同じように、俺からのお返しを大事そうに抱えて、微かに笑む。

 だが、俺の気持ちは、一年前と同じではない。

 この感情を伝えたら、彼女はどんな顔をするだろう。

 だけど――……いざ言おうと思うと、心臓が痛いほどに早く脈打つ。

 体が熱い。喉はカラカラだ。

「日下先輩。顔が赤いようだが熱でもあるのか?」

不意に穂積が俺の額に手を伸ばしてきた。反射的に俺は半歩下がり、空振りした穂積が俺の胸にぽすん、と納まる。


 ……固まること、数秒。


「心拍も速いようだ。やはり保健室に――」

冷静な穂積の声に、はっと我に返る。

「いや! 大丈夫だ!」

穂積の両肩を掴み、ぐっと引き離す。

 これ以上くっつかれると、やばい。俺の心臓がもたない。

「キミがそう言うのであれば無理強いはしないが、体調が悪い時は休むべきだぞ」

「お、おぅ。そうだな」

うわの空で返しながら、ぎくしゃくと彼女から離れる。

「問題ないからな。気にするなよ」

そのまま距離を取り、

「じゃあ、また明日な」

逃げるように階段を下りた。


 彼女を愛おしく思う。守りたいと思う。

 それを、庇護欲だと思っていた。

 だけど、他の誰でもなく、俺の手で守りたいと思うこの気持ちは、庇護欲と言うよりむしろ独占欲だ。

 いつの間にか芽生えていた感情は、気づいた時には大きく膨れ上がっていた。

 こんなになるまで気づかなかったなんて、俺は大馬鹿者だ。


 本当に。

 本当にどうしようもない、大馬鹿者だ。

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