14日目:逃走
なんかものすごく重たいものが上に乗っていて動けず息苦しいので目を覚まし、薄暗い中目をこらした。あー、これは重いわけだ。上に
プリンやらリンゴやらとぶつぶつ寝言を言って全然動かないのでじたじた暴れてじりじりと体をずらし、なんとか脱出に成功した。
「重い……」
おっとつい口に出た。聞こえてたら怒るだろうか。
廊下への引き戸に向かう時に
廊下の途中の脱衣所に洗濯物を投げ込んでリビングに入る。明日香が朝食を作っていた。
「おはよう。早いね明日香」
「おはよ、シュウ。……まだ六時だよ? シュウは寝てる時間じゃないの、いつもは。もうちょっと寝てきたら」
「……喜邨君に
明日香はレンジの端で卵にひびを入れて容器に放り込み、肉を入れる。ミンチにした肉だ。みじん切りにしたたまねぎも入れる。いろいろ入れた後、練り混ぜ始める。ハンバーグかな?
「……朝から肉」
「うん。私が食べたかったから。食べたいもの食べれるのは作る人の特権でしょ?」
えへん、と開き直るのがかわいいので許した。エプロン姿似合うなあ……じゃなくて、ええと。
テーブルふいて、と台
コンロにフライパンを乗せ、火をつけた。
「終わったならナイフとフォーク出して……ってちゃんと拭いてよ。拭き残しだらけじゃん」
「下手なんだよ」
「下手とかいう問題じゃない」
母さんにも言われた気がする。食器棚からナイフとフォークを探し出す。使ってないのか、ナイフは
明日香がさっき混ぜ合わせた赤い肉と野菜をフライパンでじゅーじゅーと焼いていて、時折するんとひっくり返す。やっぱり上手いな。……冬人さんとは大違いだ。
上手だなおいしそうだな僕にもできるかなと考えていたら明日香が意味ありげに笑ってこっちを向いた。
フライパンを指さして
「やってみる?」
「やる」
明日香ほど上手にできるとは思えないけど、僕だって多少は手伝いしてたんだ。へたっぴ台拭きの汚名、返上してやる。
十分後。
僕の目の前にあるフライパンには元はなんだったのか分からない真っ黒で丸い得体の知れないものが乗っていた。フライ返しでつつくとボロリと崩れた。……中まで焦げている。
さっき火を止めたばかりのガスレンジの隣に置いた皿に、これまた黒や焦げ茶の丸い物体が乗っている。だんだん焼くのが下手になっているのは気のせいではないらしい。冬人さんは実はかなり料理が上手い、と今初めて思った。
「初心者にハンバーグは難しかったかな?」
明日香が腰に手を当てて言う。
「これさあ、最新式の上手に焼けるガスレンジなんだけど、ここまで焦がす人は初めて見たよ」
焼いている最中に起きてきて見物していた栄蓮に言われて凹む。肩に乗ったハリネズミが焦げたにおいをいやがるように栄蓮の金髪に鼻を突っ込み、サラマンダーは関心なさそうにチロチロと細い火を吹いていた。
「どこをどーやったら中まで焦げるのさ」
「どこをどうやったらあんなにきれいに焦がさず焼けるんだ」
沈黙。栄蓮にも睨まれて、僕の方が分が悪い。
「まあいいわ。まだみんな起きてくるまでに時間はあるから……レタス出して」
冷蔵庫を開ける。野菜入れの深めの引き出しのわりと手前に薄黄緑のボール状の葉もの野菜。
「……シュウ。それキャベツ」
「え」
慌ててもう一度野菜入れを引っ
「そう、それ。キャベツの葉は固くて薄黄緑。レタスはしわっとしてて緑色。覚えといてね」
「うん……?」
覚えろって言われても、どこがどう違うのかよくわからん。
時計を見て、あーもうそろそろ出なくちゃなと頭をかいた。昨日は無断欠勤になってしまったから、昨日のうちに連絡しておくべきだったけど忘れていた。
「おはよーーっ!」
冬人さんが起きて来た。にこにこと楽しそうに背もたれのある
「あれー? 二人もいるー。明日香ちゃんとー喜邨君! おはよー!」
「おはよう……?」
お、ちゃんと覚えて……ん?
「あ、
「ん、お、おはよう……?」
「喜邨君今日は早いねー」
「修徒です」
どこをどう見たら喜邨君と間違えられるのかな僕は。
「おはよーさん、冬人はん。名前覚えたんか?」
「うん! たぶん完璧ー! 今日破は頭で鳥飼ってるのー?」
「
言い返しつつ気にしたのかいつも通りのボサボサ頭を申し訳程度に片手で整えながら席についた。
「おはよう……」
「おはよう縁利。お前ちゃんと寝たのか?」
「一応な。お前らよりかは長時間寝てるよ、ふあ……」
目の下に隈つくっといて何言ってるんだか。夜更かししてたなさては。
「シュウ! 他の人起こしてきて!」
「はーい……」
居間を出て廊下に出る。洗濯機の横を通り抜けて和室に入ろうしたらぐにっと何か踏んだ。
それはがばっと起き上がって隣で寝ていた曹に
「曹っ! 踏むなよ!」
曹ががばっと起きて
「貴様はクレイジーか! 朝っぱらから起こすでない!」
……氏縞を踏んでよかった。一石二鳥だ。
公正が自分で起きて和室からもぞもぞと出ていくのを見送り、残る一人に目を向ける。室内にいるのは喜邨くんだから
「ごはんだよー」
の一言。がばっと勢い良く布団が吹っ飛んだ音が聞こえた(ダジャレではない)。
外で寝ていた
「
ボゴッ。
顔を突っ込んだ途端顔を蹴られて後ろによろめく。
「痛え! 昨日子! ごはんできたって!」
「眠い。後で」
「みんなで食べるんだよ!」
「やだ。おやすみ」
「寝るなぁぁぁ――――――っ!」
「うるさい」
枕が三つ飛んできて女子部屋の向かいの廊下の窓ガラスに僕ごと衝突する。
「うあっぷ! 昨日子、聞けっ!」
「待て」
いつのまにか龐棐さんが隣に来ていて、女子部屋に入ろうとした僕の肩を掴む。そして部屋の中へ声をかける。
「昨日子。
「……眠い」
「……仕方が無いな。修徒、食っちまおう」
「残し、とけ」
ふとんが飛んできた。龐棐さんは軽くそれを右手で受け流し、
「断る」
びしりと言った。
「みんなで食おうって人の要求に応えもせずに残しとけ、はおかしいだろう? 無償で何でも与えられると思ってはいけない」
「んなこと……っ。思って、ない!」
部屋から昨日子が飛び出てきて龐棐さんに殴りかかる。突き出された右の拳を、龐棐さんが右腕で受け止める。続いて出した左の拳とまとめて片手で握り込まれ、身動きがとれなくなる。あわてて前後に揺らして手を外そうとするがびくともしない。
「眠いなどと言っていたが起きれるじゃあないか。わがままを言うんじゃない。食いに来い」
昨日子はいつもの仏頂面をさらに嫌そうに歪ませてそっぽを向いた。けれどぽつりと「わかった」と呟いて襖を閉めた。
「先、行って。髪結ぶ」
「おう」
「獅子唐とピーマンの混ぜいため! 油と胡椒と塩で炒めて簡単!」
ピーマンが山盛り持ってあるようにしか見えない皿が目の前に置かれた。ハンバーグ用に買い置いていたミンチ肉を黒こげにしてしまったので人数分に足りず、付け合わせを大幅増量することで間に合わせたらしい。間に合わせにしては美味しそうな香りが立ち上っている。
「獅子唐って何?」「唐辛子の一種」
昨日子が目を輝かせ、龐棐さんは嫌そうな顔をする。まさかの獅子唐嫌いか龐棐さん。
「いただきまーす!」
ぱしんと手を合わせて箸をとる。ひとつめに口に入れたのはピーマンだった。もしゃもしゃと青臭い味を咀嚼する。
「辛あっ! 辛い辛い辛い!」
ヒイヒイ叫んで氏縞が水を飲みに行った。曹も涙目で口の中の物を噛まずに飲み込み、げほごほとむせている。よくもまあ同じタイミングで引くよなこの二人と横目で見ながら普通に口に入れた二つ目は劇物だった。
「かっ……!」
口の中より喉を焼く辛さに僕も涙目になりながら飲み込んだ。あああ辛い。口の中に無くてもまだ辛い。何で小さめのピーマンと緑色の唐辛子を混ぜるような真似をするかな明日香。今更だけどうらむぞ明日香。
昨日子がつまんだひとつがなんとなく獅子唐の気がした。少しだけ色が違う。とくに身構えもせず口に放り込む昨日子。辛いぞ……絶対辛いぞ……!
三回かんで、いつもの仏頂面から片目をぴくんと丸くした。両目をぱちくりさせそれでも黙ってもぐもぐする。飲み込んでからもしばらく固まっていた。おそるおそるもうひとつ、似たような色のひとつを掘り出して口に入れる。目をぱちぱちさせながら似たようなのをさらに探り始めた。気に入ったらしい。氏縞と曹は獅子唐にあたった数を競っていた。
「シュウ、八時!」
「げっ」
出る時間だ。一日無断欠勤したのに遅刻になってしまう。慌てて鞄をとって玄関から飛び出した。休み明けからセイロの雨あられは受けたくない。
キッ
「うわっ」
玄関前に車が突っ込んで来て、すんでのところで足を止めた。車の方はここが目的地だったようでパコパコとドアが開く。あぶねーな。
しかしずいぶんと個性的な車だ。丸っこい車体が白黒パンダのような塗り分けにされていてご丁寧に顔まで描いてある。ドアはPOLICEの文字が白抜きになっている。動物園の車? もしかして喜邨君を猛獣としてPOLICE ZOOへ収容しに来たとか……なわけないか。
「ナーガ・チェス治安部の者だ。テツロウは居るか」
車から降りて来た黒服男のうち一人がたずねてきた。政府の人か。知り合いだろうか。
「テツロウさん? 起きて来てたと思うけど……」
引き返してドアを開ける。見送りに出て来ていたのか明日香が廊下にいて、忘れ物? という感じで振り返る。
「テツロウさーん! お客さ……」
「失礼」
ぐいっと押しのけられて壁に頭をぶつけた。止める間もなくさっき治安部の者と名乗った黒服が家の中へ突入した。わっと驚く声が奥でいくつもして、バタバタと走り回る足音。あっけにとられて黒服の消えた廊下の先を見つめていると部屋からテツロウさんが引きずり出されて来た。手首には手錠。テツロウさんは拘束から逃れようとじたばた暴れるが二人掛かりで押さえ込まれ玄関に戻ってくる。
ようやく頭の中でPOLICEの文字とナーガ・チェス治安部がつながった。POLICE=警察だ。
「ちょっと待って! テツロウさんが何したっていうんだよ!」
「市政反乱謀略罪だ。まず、先日チェス立博物館の妖魔妖獣展に寄贈され展示されていた展示物が、全て生体で納入されていたことが判明した。規定で生体を展示物にすることは禁止されている。これだけならまだ良い。問題は妖獣にチップが埋め込まれていたことだ。貴様これで何をしようとした?」
テツロウさんは抵抗をやめたが答えない。黒服の後ろを明日香や喜邨君達が取り囲み、テツロウさんの次のセリフを待っていた。答えろ、と黒服がテツロウさんを揺さぶる。テツロウさんをつかんでいるのと反対の手につままれた小さな銀色のチップから髪の毛のように細い線がいくつも出ている。
「黙秘はきかんぞ。共謀者はすでにおさえた。博物館附設研究所で妖獣の遠隔操作研究をしていたことはわかっている。爆発物を仕込む計画もあったようだな」
黙っていたテツロウさんが不意にふっと笑った。やがてくすくす笑いは大きくなっていく。
「っはは、笑えるな。それで? それでどうした。あのお方の目的を知ればお前達の考えも変わるだろうよ。まあ変わったところでもう遅い……計画はすでに進んでいる」
「貴様、わかるように話せ」
「……リウロン?」
龐棐さんが中から出て来た。
「イーロン! 貴様こんなところで何をしている! 捕獲しておけこやつを!」
リウロンと呼ばれた黒服はテツロウさんを同行者に任せて龐棐さんに詰め寄った。
「俺の管轄じゃない」
「イーロン! 臨機応変に行動せよと本部から常日頃言われているではないか!」
「知るか。だいたい俺の部署は要人護衛とか警備にあたる部署だ。治安部の仕事は関係ない」
「貴様が作業部だろうがなんだろうが他の部署にも協力しろと言っているんだ、関係ないで済ますな」
「断る。そもそもこの件は治安部が……」
「リウロン、といったか……いいのか?」
テツロウさんがセリフを遮った。黙れ、とリウロンの部下に揺すられ楽しそうに笑う。
「博物館を焼いたのはその男だ。その直前に設備を破壊したのはそこの二人だ。なあ、彼らを捕まえるべきではないか? 彼らがいなければあの事件は起きず、対処は間に合っただろうに……」
テツロウさんを押さえ込む補助にまわっていた黒服がこっちを振り返る。僕らの方に来る……?
あ……ヤバい、逃げないと。公正は既に走り出していて、後を追うように裏口へみんな走り出す。龐棐さんもついてくる。
配管の張り巡らされた建物裏を走り抜ける。今朝回収予定の大きめのゴミ袋がところどころに置かれていて邪魔になる。つまずきそうになりながら地面の段差を飛び越えて公正の後を追う。
「みんな、この辺で頼れそうな所はないのか? あったら匿ってもらおうぜ?」
縁利が走りながら言う。
「氏縞と曹の職場はどうだ?」
「無理だ。しょっちゅう警官が来ていたから」
「頼れんな。俺の職場は情報屋だったから」
「公正は?」
「無理。いつ裏切るか分からない」
「俺らは転々としとったから頼れんわ……。なんせ冬人はんミスばっかりするものやさかい……」
あちこちの角を曲がる。
ナーガ・チェスのシンボルであり守り神でもある龍が、今は警察の味方で僕らを監視しているように感じる。神社の狛犬と一緒で、何かから逃れようとする人間には恐ろしく見えるのだろうか。
「俺のとこも無理だろーな。大食いチャレンジ終わるとだいたい二度と来るなって言われてるから」
……仕事じゃなくて大食いでタダ飯巡りしてたな喜邨君。
「修徒は?」
「僕のところは頼れそう。……入る時にセイロと箸とバケツと雑巾に当たらなければ」
「なんやそれ。……ほなそこ行くで。どこや」
「飯堂」
「知らねえって。道案内」
「この角左」
みんなで左に曲がり右に曲がり飯堂へ走る。路地のバーで酒を飲んでいた人たちが何事かと振り向く。配給の列に並ぶ人が暇潰しに話のタネにする。
「龐棐はん! イーロンって呼ばれてたけどあれどういう意味なん?」
「部署の名前だ。
「ええと、『おい護衛兵!』『てめえ警察官!』って言い合ってる感じ?」
「まあそうだな。お互い付き合いは長いが名前など呼びたくもないのでな」
みんな息があがっている。ぜーはー言ってないのは龐棐さんと冬人さんくらいだ。
少し遠くでパトカーのサイレンが聞こえてびくりと心臓が凍り付く。
「近くなってる……? シュウ! 近道だよねここ?」
「そうだよ、裏道で近道! いつもここ走って行ってるんだから……」
くそ、追いつかれるわけには……。
昨日子が急に立ち止まった。
「そのまま行く……リウロン、鉢合わせ。って、サラマンダーが」
「え?」
公正が舌打ちし、角を曲がる。サラマンダーに従っていいのか、というか昨日子はどうやってサラマンダーから情報を受け取ったか知らないが一応。
「公正! 匿ってもらって、その後どうするか案はある?」
「ここにはもう居られない。アクア・チェスもこの前の洪水事件で入市も難しいだろう。スカイ・アマングは俺と縁利が入国でひっかかる」
「じゃあライトシティーしか無いじゃない……」
明日香が不安げにつぶやく。
「どんな所だ」
龐棐さんがきく。
「草木の生えない不毛の地だって。昔はさかえてて、遺跡があって、砂漠がひろがってるんだって。アクア・チェスの図書館で読んだよ」
と栄蓮。
路地に出る。後どのくらい、ときかれてもう少しと答える。道の先にはもう看板が見えている。
「あそこ!」
「よっし競争だ曹あ!」
「望むところだ氏縞あ!」
「おりゃあああああああ」
「めしぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
威勢良くスピードアップする面々を追いかけ飯堂に駆け込んで
「海瑠さ」
海瑠さんすみません匿ってくださいと早口に言いかけて止まった。
店が台風でも通り過ぎたようにさんざんに散らかっていた。ラーメン用の器が何個も割れて床に散乱し、のれんは破れて机の上に放り出され、その机は天板が大きく割れていて添えられた椅子がどれもささくれだった残骸になっていた。
海瑠さんと店長が喧嘩したのかと一瞬思ったが違うだろう。海瑠さんは店長にいろいろいたずらしていたが、こんな取り返しつかないようなことをする人ではない。なんだこれ。誰が、こんなことを。
「いないのか?」
公正が奥をのぞく。厨房の鍋もわざわざ全部取り出されてぺしゃんこにされていて、床にはその他調理器具がめちゃめちゃに散らばっていた。まさか、もう手がまわって。店長、海瑠さんはどこに居るんだろう。無事だろうか。僕のせいか、僕のせいでこうなったのか。いない、誰もいない。
「ねえ、テツロウさん置いて来ちゃったけど……いいの?」
栄蓮が明日香の服を引っ張る。
「いい、それで」
縁利が上がった息の整わないまま答える。
「ダメでしょ、長いこと泊めてもらったし色々お世話になったのに、」
「それはそう、だけど……」
「テツロウさんは俺らを警察に売ろうとしたんだ。今戻ればあいつのせいで俺らが捕まる」
「博物館って修徒たちが行ってた所だろ。もしかしたらテツロウさんが博物館の妖獣使ってお前ら襲わせようとしたのかもしれないぞ」
氏縞と曹に付け加えられて栄蓮が下を向く。
「でも、お世話になったのは本当だから……」
縁利がするっと頭を撫でた。泣き出した栄蓮の背中をぽん、ぽんとゆっくりたたいて落ち着かせる。
お世話になったのは確かだ。どうしてあんなことを。あの人の目的を知ればって言ってたけどあの人って誰だ。目的って何だよ。
ジャリッと石畳にこすれる音がした。はっと振り向くと通りの先に黒服の一人が居て、声をあげながらこちらに走り出す。
「少佐! こっちです!」
「やばっ……」
厨房に飛び込み、勝手口のスチール扉に体当たりする。かかっていた鍵をがちゃんとこじ開け、でも外で何かひっかかっているようで押しても引いてもびくともしない。
「シュウ! 何やってんの! 早く開けて!」
「開かない! 何かひっかかってる!」
「総員突入! 処理が面倒だ、流血ゼロで捕獲しろ!」
「はっ!」
「はやく!」
開け、開け、この……!
明日香たちがバケツや皿を投げて時間をかせいでいるが、わずかに隙間が開くのにそれ以上向こうへ押せず扉はいっこうに開きそうにない。ゴミ袋? それとも何か細工されてるのか?
昨日子が無事だった棚を〈力〉でくずして一旦リウロンたちを退かせる。
「シュウ、まだ?」
「開かない! 外に何かあるみたいっ!
「修徒どけ!」
表の方から大声がして、慌ててレンジ台の上に避ける。喜邨君が猛スピードで突っ込んで来てスチールとビラに激突、ボン、と爆発のような音がしてめきゃっとスチール扉がへこんで外れた。開いた!
なだれるように外へ飛び出す。反撃をやめたみんなも続く。
「追え、逃がすな!」
リウロンの声がして、たったいま僕たちが出てきた所から兵士が一人二人顔をのぞかせた。冬人さんがしゅしゅっと手を動かして店内に落ちていたものと思われる箸を相手の額ぶち当てて気絶させた。
「公正! この後何か案はあるのか?」
縁利が走りながら声を張り上げる。
「ライト、しかないよね」
「どうやって行くんだ? ナーガ・チェスは水の中なんだぜ? 出られねえよ!」
「水の中だったら息できないねー」
「冬人さん論点ずれてます」
ライトシティー。スカイ・アマングを挟んでレフトシティーの反対側にある砂漠の広がる不毛の地。……そんな所に行って何ができるんだろう。
「公正。ライトシティーに知り合いでもいるのか?」
「……」
公正は返事をしなかった。丁度何か考え事でもしていたのかあらぬ方向に目を向けて上の空になっていて、「ああ悪い。何だ」と目をしばたかせる。なんでもない、とつい答えた。
「話している場合か。追っ手が来たぞ」
最後尾の龐棐さんがスピードをあげてきた。
「どのくらい?」
冬人さんが間延びしてない声できく。
「二十人くらい、か。部下が増えたなリウロン」
「二十人ね。半分しか倒せないよ。それでもいい?」
「十分だ。ここで少し減らせれば逃げ切るにも楽になる」
冬人さんがスッと姿を消す。背後の曲がり角の向こうで次々に悲鳴があがり静かになる。
「分散しよう。リウロンはしつこいからな……まとまって動くより別れた方が撒ける可能性が高い」
公正がうなずいて、
「三人ずつにわかれる! 喜邨と氏縞と曹。一組になれっ! 今日破と冬人と明日香っ! 飛行機を取りに行けっ! 縁利、栄蓮、昨日子が一組! 俺は修徒、龐棐と組む!」
「了解。合流は?」
「第一集合場所はナーガ・チェス立図書館、第二集合場所はその近くの牢、第三集合場所は教会、最終集合場所はナーガ・チェス駅発クラウン線のプラットホーム。いいな?」
うなずく。
「みんなのグループのうち一人は場所を知ってるはずだから大丈夫だろう。集合所を順番に見て行って警官がいたり、六十秒数えても誰も来なかったり、追っかけられたりしている時は次の集合所へ行ってくれ。……冬人。飛行機はクラウン線の車両内に入るか?」
「うーん、大きさ的に無理かなー」
「軍備兼用車なら最後尾に組み立て式の小型機が常備されているはずだ」
「よし」
そこで分離、と数メートル先の交差点を指差す。
「で? どうする気だ?」
「決まってんだろ」
公正はにやりと不適な笑みを浮かべて答える。
「クラウン線をジャックする!」
直後、敵が鉄砲で一発ぶっぱなしたので、僕らはすぐ走り始めた。遠回りルートだ。公正が言った“クラウン”の部分が聞こえなかったか心配だけど。向こうに聞こえるとかそういうこと全然頭に無いのなコイツ。
「公正、駅はとりあえずわかるけどクラウン線って何?」
「ナーガ・チェスとアクア・チェスをつなぐ、唯一水中を走る連絡列車さ。この時間帯に丁度出るはずだ!」
角で別れた僕らを、追っ手の方も手分けして追ってくる。
「リウロンが来たな……」
龐棐さんが舌打ちをした時、ブロロロロロとエンジン音がして背筋が凍る。
「民間のバイクをパクる軍人があるか! くそ、どっか家に入れ!」
パン屋に駆け込みそのまま店内を突っ切る。来た、来たと焦る公正に急かされてバンジュウの山に突っ込み盛大にくずしてしまい、店員の怒号に追われて裏口から飛び出す。タイルを無数の配管が這う裏通りを走り抜ける。金属製のたるのような巨大なゴミ箱がところどころに置いてあってそこから生ゴミがあふれており、裏通りはひどいにおいがした。
配管の束を飛び越えて振り返るとちょうどリウロンがパン屋を通り抜けて出て来たところだった。こちらに広げた手をのばし、握る……?
「伏せろ!」
言うが早いか龐棐さんにむんずと頭を押さえつけられ、あごを地面にぶつけた。ゴッ……とうなるような音をたてて頭上を空気の塊がすっ飛んで行き、通りのずいぶん先の家の窓を割った。
「お前……っ! こんな所で〈力〉を使うなっ!」
龐棐さんの制止もシカトしリウロンさんがのばしていた手をぐっと握る。
ゴッ……!
鋭い空気の塊がすっとんできて、逃げなきゃ、と頭のどこかで思い付いた時にはスローモーションの視界いっぱいに周囲の瓦礫を巻き込んだ「何か」が迫っていた。避けられない……!
「――っ!」
小さい気合とともに龐棐さんが炎で壁を作ってその後ろに鞘から抜いた太刀を立て、そこに空気の塊が突っ込んだ。空気の塊は炎を消しただけで太刀には当たらず、一気に時間が動き出す。双方にらみあいしばらくの沈黙。
「へえ……あまり成長してないようだな」
薄い笑いを浮かべて、太刀をタイルから抜きながら龐棐さんは立ち上がった。
対するリウロンさんはふんっと鼻を鳴らして言い返す。
「いつ後ろに太刀を立てなきゃならんへなちょこ盾を作るようになった?」
「炎も通り抜けられない空気砲の方がへなちょこと呼ぶにふさわしいと思うが」
どうやらリウロンさんは空気を操る〈力〉の持ち主で、さっき龐棐さんが作った炎の壁は『盾』、リウロンさんの技は『空気砲』というらしい。どちらも戦闘に向いていそうな〈力〉だ。
リウロンさんが連続で拳を作った。次々に見えない塊が宙に発生し、尾を引いてこっちに突っ込んでくる。
「面倒だな」
龐棐さんがドーム状の炎を出してリウロンさんを包んだ。空気砲は全て吸収されて消え、炎も相殺されるように立ち消えた。
炎が消えると、リウロンさんは一気に龐棐さんとの間を詰める。
「おっ……と」
リウロンさんが突き出した短剣を龐棐さんが太刀で受け止める。カキィンンと派手な音が路地に響く。リウロンさんの短剣がわずかに刃こぼれするのを見て
「安物だな。軍の給料はそんなに安いものなのか? 俺はけっこうもらっていたような気がするんだが」
「やかましい」
リウロンさんがさっと一旦下がる。が、距離が短い。龐棐さんが刃先を下に向けたまま刀を右に振ると見事にリウロンさんの顔の横にヒットした。その勢いで左の拳をリウロンさんのみぞおちに突きこむと、リウロンさんは息を詰まらせたような声を出して配管の山に突っ込んだ。
「よし、行こう」
太刀をぐるっと回し、刃をざっくり確認して龐棐さんはそれを鞘にしまった。無言で通りを覗きこみ、再び走り出す。僕も続いて走り出し、焦って足下をよく見ていなかったので牛乳瓶を踏みつけ盛大にすっ転んだ。すぐ後ろを走っていた公正はうまいこと避けて何やってんだお前みたいな視線を投げてよこして走り去る。っておい。
「ちょっと、待ってくださいよーっ!」
瓶を蹴飛ばしてあわてて立ち上がる。龐棐さんは速度を緩めた様子もなくすでにだいぶ先を走っていて、公正が全速力でそれを追いかけていた。
「待たんぞ」
声は届いていたらしく、でも止まるどころか振り返りもせず走り続ける。
「自分がこけたんだろが。待ってやる義理はない。自分で起きて、自分で追いつけ」
何だか深い言葉に聞こえたが反芻してみると全然格好よくない。むしろ腹立つ。追いつけるには追いつける速さだったから、多少はゆっくりめに走ってはくれていたのかもしれない。
「さっきの言葉、なんかかっこいいな。何の言葉?」
公正はさっきの言葉が気に入ったらしい。
「何がだ。お前を待っている間に追いつかれたら面倒だ」
……めっちゃ自己中。さすがの公正も沈黙して目をそらした。
「さて、第一集合場所はもうすぐだ。まだ走れるか?」
「もう無理……」
公正が歩き始める。僕もペースを落として歩き始めた。走れるかときいた張本人は素知らぬ顔をしてそのまま走っていく。
「ちょっ……龐棐さん! まだ走れるかってきいたの誰ですか!」
「俺はまだ走れる。先行くぞ」
僕の額と隣の人の額で何かがブチッと切れる音がした。
「……んのやろおおおおおおっ!」
第一集合場所である図書館周辺は閑散としていて人がいなかった。時間的に開館前だと思うが職員が出入りするのかロビーの自動ドアは開いていた。
「よかった……これなら長時間待てそうだ……」
公正は完全に息があがっていて館内に入るなりその場に座り込んでしまう。開館はまだです! と司書が走ってくる。げ、と公正が腰を浮かせたが龐棐さんは落ち着いて懐から階級章を取り出した。
「レフト・シティー軍東部イーロン二番隊の龐棐だ。特別任務で作業員と待ち合わせ場所を探している。一目につかないところで、なるべく自然に合流したいのだが……」
「ああ、軍の方ですのね。わかりました。……地理書コーナーが利用者が少ないかと思います」
ありがとう、と返して背の高い本棚の列に向かう。
「せっかくだから軽く調べ物でもしていこう」
「手伝いますよ。何調べるんですか」
「手伝えるのか? 大人しく絵本でも見てろ」
子供扱いするなよ、と口をとがらせて目についた本棚から適当に厚めの本を一冊取り出して、……すぐ戻した。表紙になんかアルファベットいっぱい並んでた。確かに絵本かマンガ読んで時間つぶした方が良さそうだ。公正は解読できるらしくハードカバーの薄めの本を開いて読んでいた。隣の絵本コーナーに移動する僕を横目で追ってにやりと笑う。……てめえ。
絵本コーナーだからといってひらがなの本があるわけではないけど、文が簡単なので学校で習った範囲の英語でなんとなく意味はわかる。えーと、「これは家、ジャックが建てた」……じゃない、「これはジャックが建てた家」。言葉遊びの本だな。うーん、タイトル読めないけどこの絵は……「いないいないばあ」……。
……僕何しに来たんだろう。
とりあえず格好だけ、「これはジャックが建てた家」を開いて角の書棚から聞こえる声に耳を傾ける。
「……龐棐。アクア・チェスとナーガ・チェス回ったけど、レフトシティーってやたらアンドロイドいるよな」
「まあな。一時期に比べればだいぶ少なくなってきたが」
「一時期?」
「七、八年前が一番多かったな。……なんだ、そんなに珍しいもんでもないだろう」
「いや。……スカイ・アマングじゃ滅多に見かけない」
へえ、と不思議そうに返す声。
ページをめくる。英文が長くなって来たがまだ意味はわかる。えーとこれはジャックが建てた家に置かれた小麦を食べたねずみを殺した猫に吠えた犬……。
「レフトシティーの軍ってさ、治安維持が仕事? 何か話聞いてるとずいぶん大きい組織に思えてさ」
「知らないのか? レフトは頻繁にライトに出征している」
「ライト? あそこは砂漠しかない不毛の地だって」
「レフトは水に沈んで陸地が無いからな。多少でも自由に使える陸地はレフトに必要なものだ」
「……アンドロイドも戦争に参加してるのか?」
龐棐さんは黙り、「さあな」とはぐらかした。
待ってください! とまた入り口の方で声がした。さっき僕らを止めた司書さんが誰かと話している。喜邨君たち着いたかな。
「まずい。行くぞ」
ぬっと出した顔がリウロンと確認するや龐棐さんに引っ張られて全力疾走、貸し出しカウンターに突っ込んだ。閉架を駆け抜け書籍の搬出入口から外に出る。運搬車があったので車、とちょっと期待したが龐棐さんは僕らをそのまま引っ張り路地へ駆け込んだ。
「待〜ち〜た〜ま〜え〜っ!」
怨霊のような声を響かせながらリウロンが追ってくる。龐棐さんは走りながら何か金属片を地面に落としていき、三メートル程先の角を曲がった。僕と公正も同じ角を曲がる。路地に入ってすぐの所に待機していた龐棐さんがさっきの金属片に炎を飛ばす。
ボン、パンパンパンパンドォオン!
閃光が走り、引火に引火を重ねて鉄砲を連射したような音が路地に響いた。一拍おいてもうもうと派手に煙があがり、視界を遮る。来い、と別の路地から手招きされてまた走り出す。
「……何をしたんだ?」
さっきの爆発のショックが抜けないまま公正がたずねる。
「目くらましだ。ナトリウムを使った手製の爆弾でな。空気で発火するものなんだが、反応して水ができてさらにそれに反応して爆発する成分二段構えになっていて組成が……」
「ああうんそうか、他のメンバーと連絡とるから後な」
不満そうに口をつぐんだ龐棐さんがこっちに目を向けたので全力で視線をずらした。
第二集合場所の牢もそんなに遠くはなく、数分で着いた。
「……っていうかおい、公正」
「何」
「牢って警察の管轄だろ。リウロンの庭じゃん。すぐ捕まるんじゃ……」
頼むから黙るな公正。
「ははは、灯台もと暗しというだろう。案外大丈夫なもんだ」
龐棐さんは軽く笑いとばして東門をくぐった。コンクリート壁と錆びた鉄柵に囲われた敷地を歩き、古びた建造物の金属扉の前に立つ。重そうな閂、上下にいくつもついた鍵。頑丈そうな分厚い扉は……開いていた。
「……」「……」
「都合がいいが職務怠慢だな」
お前がいうな、と口の中でつぶやきつつ背中を追って中に入る。
施設内はひんやりと冷たく湿っていて妙に背中がぞくりとした。照明は無いわけではないが黄緑色で暗く、足下がよく見えない。あ、下り階段だ。
「ぎゃーーーーーーっ!!」
突然悲鳴がした。下の方……?
「なんだ?」
龐棐さんが手元で火をつけ、階段を駆け下りていく。僕らも後を追い、階下に降り立った。お化け屋敷並みに暗い廊下にぽちゃん、ぽちゃんと水のしたたる音が響いている。さっきの声の主はどこだ。まさか幻聴……じゃないよな……?
二、三歩そろりそろりと進んで照らした先に誰かた。
「「ぎゃーーーーーーっ!!」」
「わああっ!?」
こっちがびっくりして声をあげてしまう。っていうかこの声は。
「曹と氏縞っ?」
「何だ……お前らかよ……」
「何だじゃねえ。でかい声出すなお前らは。見つかるだろ……」
「なっ……。俺はいきなり暗くなったと思ったらまた明るくなってびっくりしただけだ! 幽霊が出たと思ったりとか、してないからな! 曹じゃあるまいし」
「何をお! 貴様さっきまで何か居そうとか言ってただろうが!」
「お前らなあ……。怪談でもしてたのか?」
びくりとそろって肩をすくめる。龐棐さんは楽しそうに二人を眺めてにやりと笑い
「そういう話をしていると本当に来るぞ。……ほら、」
視線をずらす。
「そことかな」
「「うぎゃあああああああ!!」」
悲鳴が牢に響きわたって僕は思わず耳をふさいだ。あー、声がでかい二人とも。
「冗談だ」
「馬鹿野郎、霊を寄せ付ける気か貴様」
「冗談に聞こえねえ冗談に、場所考えろマジで」
涙目の二人の横で公正が〈音〉を飛ばしている。ああ、明日香たち無事かな。
「……イーロン隊の……?」
廊下の先から声がした。かすれて少し疲れたような声。
「……誰だ?」
牢に近づく。黒いローブ、右腕には無数のコードで繋がった機械。
「アントニオ!?」
「知り合いか?」
「えっ、ええと」
知り合いと言っていいものかわからず口ごもる。何日も前に一度会っただけだし。
「アンドロイド、か? 番号は」
「H-1109」
かなり古いな、と言いつつ壁から鍵束をはがし開けてやる。ギイイ、と鉄格子の扉がきしんだ。
地上の方が騒がしくなった。お待ちください! に続き誰かが名乗る声がする。そして複数人の足音。
「来てしまったな……」
龐棐さんは舌打ちをして廊下を見回す。
「裏口は無さそうだ、正面突破だな」
「楽しそうに言うな、ピンチだぞ」
走り出す。入り口の方が明るくなっている。燭台に火を点けるのに手間取っているようだ。全力で足を動かし階段をカンカンと駆け上がり……突然開けた場所に出た。
「……へ?」
思わず足を止める。と、足下が動いて派手に尻もちをついた。僕の隣で公正もこけて背中を打ち、痛ってえ、とさすっている。どっか室内(とは言っても天井は無く壁の先は空洞になっている)、通路を中央にして両脇に座席が三列並んでいる。揺れにこけそうになりながら近くの座席に転がり込んだ。龐棐さん、氏縞、曹も近くの座席にすがりついている。今日破と明日香が後ろの方の席に座っている。
「いらっしゃいませー」
どうやら瞬間移動させられたようだ。パッと操縦席に冬人さんが現れてにこーっと間の抜けた笑顔を向けられた。ぐいーん、と操縦桿をためらいもなく思いっきりひいて、
ぶおおおおおおんっ!
エンジンがうなりを上げ、機体がガタガタ震えて急発進した。そのまま雑に操作して、浮遊感……
「ちょっとま……うわああああああああっ!!」
「冬人はーん。あと1グループ忘れてへんか?」
今日破に言われて減速し、すっ飛んで見えなかった風景が見えるようになった。真下に第三集合場所の教会があり、そのまわりを猛スピードでぶんぶん回り始める。
「「うあああああ」」
目が回る……!
「冬人はん! 頼むさかい回らんでくれーや! うっ……」
酔ったらしい今日破が不意に体を折る。
「ぎゃ~っ! ここに吐くな! 外外!」
あわてて今日破を外に向かせる氏縞。
「冬人さーん! やめてーっ!」
明日香が悲鳴に近い声で叫ぶが返事は
「やだー。ゆっくり飛んだらつまんないしー」
「だからってこんなアクロバット飛行しないでください!」
僕が助勢しても速度は変わらず8の字飛行を始めた。
と、その時冬人さんの左ななめ後ろに座っていたアントニオがアクロバット飛行を続ける冬人さんの肩をむんずと掴んだ。
「やめろ。無駄をするな。地上におろせ」
「うるさいよデリート間近のアンドロイド」
普段の口調からガラリと変わってきつい口調。その上振り返った目で一睨み。
ぞくっ……と背中を下から上に寒気があがった。飛行速度は上がり続け、エンジンはうなりを上げ続けているが機内は急に静まり返った。
「デリート……?」
龐棐さんが首をかしげる。
「A型暴走時の処分方法ではないのか」
「そうだ。A型は暴走した時、システム側で機能をデリートされる。その認識はあっている」
地下牢に居たアンドロイドを思い出す。しきりにデリート、デリートと、存在が消えることを意味するはずの言葉をむしろ望んでいるように叫んでいた。
「H型もシステム側からのデリートはあるが……時限式なんだ」
「時間がたったらデリートされるっちゅうことなんか?」
「俺たち……H型の体の内部は全てと言ってもいいほど機械だ。血液中には人工の細胞を瞬時にいつでも発生させる極細の修復機械がある。脳はどんどん機械に浸食されて、そのうち全て機械となる。全て機械になったら自動的にデリートという形になる」
「……デリートされたら機械で作られた細胞の部分は……どうなるんや……?」
アントニオは答えない。悪い、と今日破が口をふさぐ。つまりは寿命ということだ。アントニオはもうすぐ寿命を迎えて、……デリートされる。
「必殺! 横揺れちょくしーん!」
全く空気を読まない操縦士が突然アクロバット飛行を始める。飛行機を上下左右に小刻みに揺らしながらふらふらと飛ばし始める。
「そないなこと……うぷっ……」
あっという間に今日破が酔ってしゃべりかけのまま外に向く。曹と氏縞も酔ったらしい。顔色が悪い。明日香と僕と冬人さんと龐棐さんと公正は酔ってない。アントニオは分からない。乗り物酔いしやすい喜邨君は、……あれ?
「曹……。喜邨君は?」
「え? あれ、いねえ……うぷっ……」
曹まで外向いちゃったよ。
「おいおい曹ぁー。酔ったのかなさけねーな……」
そういう氏縞だって真っ青な顔して口に手を当ててるじゃねーか。
仕方ないので運転手に。
「冬人さーん。喜邨君忘れてきましたー」
「りょうかーい。それは大変ーどか飢饉になっちゃうねー」
冬人さんはジグザグ飛行をやめて一気にぶうんっと一直線に飛んだ。来た方向と逆方向に。
「冬人さんあっちあっち! 逆!」
「はあい」
ぐるん、と機首を上に向けてから上下逆さになり、背面飛行を始める。
シートベルトのようなものをきちんと止めてなかった今日破が窓から落ちた。
「冬人さん変な飛び方やめてください! って今日破落ちた落ちた!」
するんっと元の向きに戻って器用に今日破をキャッチ。
旋回して僕らの来た方向へ。猛スピード。
「冬人はんっ! 俺を殺す気やったろっ!」
「うん、もちろーん」
「なんやて~っ!」
「もう一回してほしいー?」
「いやや、もういやや」
そして少し広い場所に急降下、停止。へろへろになりながら機体から降りる。もう二度と乗りたくない。
「喜邨君、どこにいるのかな……」
明日香がう~んと考える。可愛いなあ……。……っじゃなくて、ええと。
教会の入り口で昨日子と縁利、そして栄蓮と合流した。
「や〜昨日子、待たせてごめんなあ」
「待った」
「ふぐぉっ?」
昨日子のげんこつをもろに一発くらった今日破に苦笑いしつつ座り込んでいた縁利に手を貸す。と、よろめいて転んだ。ふらふらと立ち上がるが足に力が入らないのか安定せず、壁に背中を預けた。
「縁利?」
「わり、クラクラして……」
そういえば昨日も思ったが顔色が悪い。幼い目もとにがっつり隈ができていてかなりしんどそうだ。眠そうに目をしばしばさせて、頭痛もあるのか時々頭に手をあてる。
「龐棐。キャンセラー。ある?」
昨日子にマントを引っ張られて龐棐さんは片眉をあげた。
「あるが。逮捕用の手錠だぞ? かなり強い」
「それでいい」
「何に使う?」
「縁利。〈力〉、ちゃんと眠る、それ要る」
マントの中から出したのは何の変哲もない金属製の手錠だった。腕にあたる部分が黒っぽい色になっている。その部分がキャンセラーだろうか。昨日子はそれを縁利にがしゃんとつけた。
「ちょ、昨日子!?」
明日香が思わず声をあげる。手錠をはめられた縁利はびくりと反応した後壁に背中を擦りながらすとんと崩れ落ちた。昨日子が抱き上げるとだらんと力なく手足が垂れた。気を失ったようだ。
「栄蓮。縁利のキャンセラー」
言いながら、昨日子は縁利の手を指す。栄蓮は知らない、と首を振った。流刑地に行っている間に無くなっていたらしい。その間のことは栄蓮も記憶があいまいで思い出せないようだ。確か、地殻性キャンセラーだっけ、その影響で。
「……縁利の〈力〉は眠っている間に他の人の中に入って同じ経験をする〈力〉だっけな。本人に聞いてみない事には実際わからないけど、〈力〉を使っている間は起きているのと同じ状態だったってことだろうな」
公正が眠る縁利に手をのばし、そっと頭を撫でた。寝ている顔は小学生男子という感じで、いつもの生意気さはない。
「睡眠中に発動する〈力〉だからコントロールがきかなかったんだな。悪い、気づかなくて」
昨日子が「なくなってる」と縁利の左手をこっちに向ける。
「何」
「キャンセラー。ない」
どういうこと、と聞いたのは明日香だった。ちょっと意外そうに公正が振り向いてから今日破と昨日子に目を配りああそうか、と何か納得する。
「明日香は受けた覚えあると思うけど、病院の乳児検診で〈力〉の検査するだろ。それで〈力〉の制御がきかなくて生活に支障が出るって判定された場合はキャンセラーが支給されるんだ。あんまり強いやつだと記憶喪失やら精神遅滞やら副作用が出るからちょっとおさえる程度の軽いやつだけどな」
へえ、と相づちをうちながら自分の左手小指をいじっていた。そういえばつい先日までここにほくろだと思っていた黒いものがあったっけ。あれってもしかして。
氏縞と曹が興味深げに縁利の手をもむ。何かが入っていたような跡がやはり小指にあった。
「痛いのかな」
「痛いだろ、赤ん坊の指に石埋め込むんだぞ」
ちなみにな、と龐棐さんから声がとぶ。
「本人の生活に問題が出なくてもキャンセラーは支給されるぞ。俺は七歳頃まで付けっぱなしだった」
そっか、赤ん坊がかんしゃく起こして火の玉連発してたら危ないもんな……。
「不便だよな〈力〉って」
つぶやいて公正は縁利から手を離した。
「喜邨おったで」
壁にもたれて〈力〉の光をぱちぱちさせていた今日破がため息まじりに教会向かいのラーメン屋を指さした。店舗の外ベンチに巨体が座っていて、テーブルの上にどんぶりが積み上がっている。……こんなよく見えるところに居るんだから肉眼で見つけろよ。対象物でかいんだし。
「おい喜邨、行くぞ」
氏縞に声をかけられて喜邨君がうめき声をあげる。
「無理……。腹痛え……」
ぐったりと机に突っ伏した喜邨君の片腕を曹がつかみ、氏縞に目配せする。氏縞は心得た、とばかりにもう片方がつかんでぐいっと引っ張った。喜邨君の巨体が椅子から転がり落ちる。
「おえっ、待て、行くからちょっと待てって……うぷ……」
「どんだけ食ったんだよ……」
「ラーメン全種制覇余裕だったから炒飯全種制覇目指してたら、急に腹痛くなって……うぐぐ痛え、破裂する……」
そのまま一歩も動けずうずくまる。全種って。店のメニュー表が見れない。
待ちくたびれた冬人さんがすたすたと近づいて来て喜邨君にタッチ。ぱっと喜邨君の姿が消えた。あ、なるほど。
と思った瞬間に機内に居た。そのまま歩きだそうとしていたせいで目の前の壁に思い切りぶつかり通路に倒れ込む。頼むから何か言ってから移動させてくれ。
「はっしーん」
ぶるるん、とエンジンの吹き上がる音が響き、飛行機は急発進した。おもわず上げた叫び声は後方に吹っ飛びふわりと浮遊感、離陸した。コックピッドの冬人さんの左手がレバーに伸びる……。
一瞬の嫌な予感は的中し、さっそく上下左右に動きまくるアクロバット飛行が始まった。急上昇でGがかかったかと思うと急加速急下降、さらにくるくるっと回転し平衡感覚がとぶ。曹と氏縞は同じ窓にしがみつき、明日香は今日破の背中をさすっている。公正も龐棐さんも座席でぐったりしているし喜邨君にいたっては通路の端に転がってぴくりとも動かない。酔ってないのは僕とアントニオぐらい。
「冬人さんっ! 変な飛び方やめてください! 僕らがもたな……」
え、と目をこらす。冬人さんの横から前方が見えて、そこへ白い蒸気のようなものの塊が猛スピードで突っ込んで来ていた。ぶつかる直前にこちらの機体が巧みにそれを避け、また別の塊が近づいて冬人さんの手元で光が走る。まさか、リウロンが追って来てる……?
「……翔太。さがれ」
ぼそっと聞こえたかと思うと通路最後尾、喜邨君の上にいた。ぼよんとバウンドして床に落ちる。
「乗んな! 痛てえっつってんだろ! ただでさえ吐きそうなんだぞ!」
「ごめ、……っていうかそれは自業自得だろ!?」
また急上昇。足を滑らせてまた喜邨君に乗っかる。ぐえ、と喜邨君が変な声を出し「だっから……」と拳を振り上げる。思わず全身に力を入れて身構えたとき、飛行機の速度が急に落ち……空中停止した。ふっと体が浮く……
「「うわあああああああ!」」
落ちる……! 床から足が離れる。嫌な浮遊感に血の気がひく。窓から見える街はずいぶん下だ。
「修徒!」
足を引っ張られて抱え込まれた。喜邨君だ。
「馬鹿、こんなことしたって、ていうか喜邨君が」
「うるせえつかまってろ」
びすっと鋭い音がして壁に穴があいた。明日香に近い窓に何か当たり窓枠が歪む。栄蓮が悲鳴をあげて座席のしがみつき、昨日子が縁利とまとめて覆い被さる。またびす、びすっと音が響き今度は僕の近くの壁が崩れた。ごうっと顔面を風がかすり、背筋が凍る。喜邨君も腕に力が入り、胸を潰され「喜邨君、ちょ、苦しい」「悪い」今度はゆるめすぎて穴から転げ落ちそうになった。
迫る地面を見つめる。ぶるぶると体が震える。……そういえば僕にはできることがある……。
……駄目だ。速すぎる。この速度で、飛行機なんて大きな物受け止めるような柱は無理だ。そんなもの作ったら飛行機も僕らも衝撃で粉々になってしまう。
足の先を建物の屋根が通過し、窓が通過し、目をつぶる……!
視界を白い閃光が走った後、一瞬浮いて落下し、その衝撃で二、三秒意識がとんだ。
目を開けるとそこは地上で、起き上がるとぱらぱらと細かい破片が落ちた。喜邨君はまだ気を失ったままだ。座席を支えにしていた昨日子が顔をあげ、その下から栄蓮がこわごわ顔を出す。龐棐さんが公正、明日香、今日破に「無事か」と声をかけそれぞれ返事が聞こえた。
機内はどうにか原型を保っていた。見えない狙撃を受けた部分だけ崩れたり穴があいたりしていたが、他に目に見える破損はない。落下の衝撃は最後一瞬の浮遊でかなり吸収されたようだ。助かった。息をつく。
喜邨君は、と声をかけると「もう食べられねー……。替え玉ひとつ……」と寝言が返って来たので蹴っておいた。
冬人さんは機体から転がり落ちたのか外に居た。機体の前面は大きくひしゃげていたから、何とか墜落前に脱出したというところだろうか。地面のタイルを跳ね上げたのだろう瓦礫に半身が埋まっていてうつぶせのまま動かない。乗っかっている瓦礫は細かいものばかりだったので僕の力でも簡単にどかすことができた。あれ、肩……。これ、血かな。
「う……」
冬人さんがうめいて薄目をあけた。呼ぶとぼんやりとこちらに焦点があってにっこり笑い
「誰ー?」
一瞬頭が真っ白になった。いつも通りの返答なのに何か急に腹がたってきてわけがわからなくなり思わず手を振り上げ、
バシン。
怪我をしているらしい右肩を思いっきりたたいた。
直後に我に返ってごめ、と条件反射のように言葉を出しかけたがつばと一緒に飲み込んでしまい声が出なかった。冬人さんも冬人さんで痛がるわけでもなく数秒黙って僕を見つめ、するりと立ち上がって近くに落ちていた明日香の荷物から包帯を抜き取り機内に戻っていった。後を追って入るともういない。ちょうど出ようとしていた公正と鉢合わせしてぶつかりそうになった。
「何だ危ねえなっ」
「ごめん……。どこ行くの?」
「歩きで駅。ここからならそんなにかからない」
わかった、といいつつキョロキョロしてしまう。
「何だよ」
「冬人さん見なかった?」
「ここだよー?」
龐棐さんのマントの脇の下からにゅっと顔が突き出て、「うわっ」と珍しく龐棐さんが声をあげる。楽しそうにけたけた笑い、怒る龐棐さんの拳を避けて喜邨君に隠れる。喜邨君は俺に隠れんな、と怒ってくるくる回り、目が回って派手にこけて冬人さんを腕の下敷きにした。動けなくなった冬人さんの頬を龐棐さんがつかんでひっぱり変顔させる。
「お前は! ふざけすぎだ!!」
「ひひゃいひひゃい」
明日香が耐えられなくなって笑いだす。つられて今日破も笑い出し、氏縞も公正も曹も笑い始めて何だかよくわからないまま僕も笑い出してしまった。冬人さんはしばらく頬を引っ張られたままひゃうひゃうしゃべっていた。
駅についたころにはもう夕方になっていた。今日の最終便は幸いまだ間に合いそうだ。
「クラウン線の操縦は龐棐、できるか?」
「まあ軍務で使うからな」
「了解。座席わけ、決めるから聞いてろ」
公正の言葉にみんなうなずく。
「龐棐と今日破、操縦部頼んだ。氏縞と曹は二両目、昨日子は縁利と三両目。栄蓮は明日香、頼む。喜邨は悪いけど一人で五両目な。冬人と修徒は六両目、アントニオ、俺と最後尾」
OK、と大半が答えたが約二名から異議があがる。
「なぜ我輩がこやつと同じ車両なのだ!」
「俺とこいつが同列だってかふざけんな!」
うるさいやつらだな、とアントニオがため息をつき「「重大事項だ!」」と声を揃えて言い返される。
「じゃあどっちか喜邨の車両に入れよ」
「貴様だ、貴様が行け」
「お前が行けよ! 俺狭いの嫌だし」
「……おい」
さっそく押し付け合いが始まって喜邨君が止めた。あ、と言葉を詰めて二人が喜邨君を見上げる。しばらく沈黙した後、「俺は一人で一両つかうから。曹と氏縞は大人しく二人で使えよ、俺も狭くなるの嫌だからな」と軽く二人の肩を突き飛ばした。
「悪い」「ごめんって」
同時に追いすがるが「いーわもう」と取り合わず、「明日香」と声をかける。ぽかんと振り向いた明日香に喜邨君は何か迷ってから一言、
「……悪かった」
「へ?」
今度は明日香がぽかんとした。
何か通じないもやもやした気分のまま駅への階段を上る。クラウン線のホームはこの前見たのと同じ、ただし今日は駅員も一般客もいる。とはいえそもそも駅の利用客は少ないようで数人がホームに立つのみだった。駅員は、改札に一人とホームに一人……かな。
もう一人、とホームの柱で見えなかった一人を今日破が見つける。
ホームに立つ駅員のうち一人の背後に龐棐さんがそっと近寄り、改札から見えないように立つ。もう一人の後ろには昨日子。列車を待ちベンチに座っている客には公正とアントニオが何やら話しかけている。やがて音楽とともに案内放送が入り、ホームに列車が滑り込んでくる。え、列車……?
それは見慣れた四角くて銀色の電車とはかけ離れた形をしていた。芋虫のような緑色の丸っこいパーツが繋がって並んでいて、パーツひとつが一両で、一両あたり定員二名となっていた。窓は小さく丸い。列車はスムーズに速度を落として停止した。ぼこっと四角く壁面がへこんで上にスライドし、中から乗客が降りてくる。ここを終点とするようで数秒で全ての乗客が降り、駅員が動き出す……
昨日子と龐棐さんが同時に動いた。
駅員は一撃で昏倒し、そのすきに今日破が操縦席に乗り込んで力づくで中に居た運転士を引きずり出す。すぐさま龐棐さんがその運転士を気絶させて離れた場所に放りなげ、
「乗れ!」
公正の号令で中に乗り込んだ。入ってすぐにドアが閉まり、ガタタ、と振動があって列車は動き出す。ホームを出て行く列車に驚いてベンチの客が立ち上がるがアントニオのプロテクターに阻まれてその場を離れられない。改札の駅員が走って来ていたが、たどり着く前に列車はホームを離れていた。
車窓の風景はしばらく街をうつしていたが、やがて暗くなり何も見えなくなった。地下に入ったのか時折電灯が横切っていく。
「修徒君?」
話しかけられてやっと冬人さんが同乗していたことを思い出した。そういえば乗ってからずっと窓際を占拠していた。景色見えなかったよな。悪かったな……。
「泣いてるー」
「え」
そんなわけ、とぬぐった頬は冷たかった。あれ、何で泣いてるんだろう。
他人の涙を指摘した張本人はもう興味を失ったらしく僕のリュックを漁っている。……っておい。
「ちょっと! 冬人さん何やってんですか」
「拝見ー」
「不許可! 懐中電灯出さない!」
「んー? あ、開いたー」
「解体しないで! 電池戻してください!」
逆に入れようとするのでひったくって直してリュックに放り込む。そのすきに軍手を広げて頭にかぶろうとするのでそれもひったくってリュックに放り込む。虫除けスプレーを取り出して、僕にノズルを向けたので慌ててリュックでガードしそれもひったくってリュックに放り込んだ。今度は開いた鞄の口から落ちた『科学おどろき辞典』のページをめくっている。ちなみに上下逆さまだ。
「読めないー」
「でしょうね(怒)」
ひったくってリュックに放り込む。
「他人のもの勝手に触らないでくださいよっ」
「えー」
「えーじゃないです、口とがらせてもダメです!」
おどけて変顔をしていた冬人さんが急にふっと表情を消した。赤茶色の髪色に合わない目の色が何だかぞっとするほど怖くて思わず息をのんだ。
……かと思ったら急にいつものにっこり顔で振り返り、「ねねね外ー。そとすごいよ、きれー」とのたまった。
指差す先を見て、思わず「わ、」と声を漏らした。外は別世界だった。列車はいつの間にか地下を出て水中に出ていたらしい。
ぽわり、と窓の近くで泡が膨らむ。泡は淡く青色に光ってゆらゆらと漂い上っていく。窓の外を赤、白、金、茶、他様々な色の魚の群れが横切り、また細かい泡を残していった。何の光か……たぶん飯堂でのアルバイト中にもあった、ライトシティーの日照装置の操作ミスの光だろう、水中は青く輝き明るい。下方を覗き込むと海底に何か見えた。ドームに覆われた街……ナーガ・チェスだ。街に敷き詰められた白黒のタイルが、それこそチェス盤のように見えていた。そういえば、と街角のあちこちに立っていた龍の像を思い出す。まるで駒みたいだな。どっち側が自陣かわからないけど、対戦相手から守るように盤の上に立つ……。
「……きれいだね」
うん、とうなずく。ここからはもう見えないけど、海の底の盤の上から、龍が見送ってくれているような気がした。その円いチェス盤もだんだん遠ざかり、見えなくなっていく。
ず、と鼻をすするような音が聞こえて、振り向きかけて窓に目を戻した。冬人さんの肩が震えていた。
そっか、冬人さんはこれで故郷を離れることになるんだ。今までどう生活してきたかは知らないけど、残してきた思い出も関わってきた人も多いだろう。まるでさよならを言うように水は青く輝く。やがてその光も暗くなり、また外は真っ暗になる。
色んな人に出会ったな。あの国で。
もう何も見えなくなった窓を、僕はいつまでもいつまでも覗き込んでいた。
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