8日目:ナーガ・チェス

 げほげほという自分のせきで目が覚めた。ぜ、はぁと呼吸を整えようとして失敗し、また咳き込みながらなんとか頭の先にある地面に手を伸ばして体を支えた。何で目が覚めていきなり宙づりにされてんだ僕は。白黒タイルの境目に手をつけてようやくまともな呼吸をとりもどす。

「シュウ、気がついた?」

 首をまわして明日香の姿を視界に入れる。びしょぬれだけど見た所怪我けがはしていないようだ。よかった、無事で。

「……で、いつまで他人をぶら下げてるんだ今日破きょうは

「水飲んどったで吐き出させよう思て」

 ああそうか、おぼれたんだっけ、僕。ぐったり疲れていて地面から起き上がろうにもうまく体に力が入らない。地面に横たわろうとする体を何とか立て直してあぐらをかいて座ることに成功した。

「ここは?」

「ナーガ・チェス、いう街やて。感謝せえやあ、冬人はんが〈力〉で移動させてくれたんやで」

 冬人さんが? 冬人さんの〈力〉って何なんだろう。龍の銅像が壁に埋め込まれた角の先をのぞきこんでいる冬人さんにとりあえず〈音〉でお礼を送ってみる。いや自分で歩いていって面と向かって口で言うべきだとは思うんだけどさっきまで溺れてたので体力がない。

 ……あれ。〈音〉をつかっているはずなのにつながらない。……ま、いいか。お礼を言うのはまた今度にしよう。

「何かあったか?」

「んー? 道があったよー」

 まったく役に立たない偵察を終えて冬人さんがこっちに戻ってくる。戻ってくる途中で足をとめて手招きした。昨日子きのこが無言でそっちに歩き出して、縁利えんり栄蓮えいれんもそれについて歩き出す。公正も今日破と顔を見合わせてそっちに向かう。……ものすごく不安なんだけど。一応行ってみるか。

 喜邨きむら君が立ち上がったのを確認して、冬人さんは普通にすぐそこの一軒家のインターホンを押した。当たり前のように家主が早く出てこないかなーと古いレンガ張りの建物の壁を見上げる。敷地はあんまり広くないのでそんなに裕福でも貧乏でもない人の家なんだろう。……誰の家なんだろうという疑問をいい加減無視できなくなってきて冬人さんに視線が集まった。冬人さんは首を傾げてもう一度インターホンを押してから僕らの視線に気づいて何? と言うように明日香を見て首の角度を逆側にもう少し倒した。

「……誰の家なの?」

「んー? 知らないよー? 誰かの家—」

 見ず知らずの他人の家のインターホン押してたのかよ。今日破と公正がはぁ、と同時にため息をついて目を閉じる。顔の横でぱちぱち光が散っている。呆れたついでに〈力〉で信用できる人か頼りになりそうな施設を探しているのだろう。

「はい」

 三度目のプッシュでキイと少しきしんだ音を立ててドアが開き家主が顔を出した。白髪まじりというより黒髪まじりと言った方が良さそうな初老の男性。居留守を使ったのに二度どころか三度もインターホンを押すようなうっとうしい訪問客は誰だとものすごく面倒くさそうな表情で僕らの顔をなめるようにじろじろと見回してそれからようやく押し主に視線が移って、一瞬その顔の不機嫌さが抜けじっと見つめる。

「お前……よくもど」

「こんにちはー。はじめまして。僕冬人っていいますー」

 なんか遮った。おじさんは目をしばたかせてあごを引く。

「僕たちお隣のアクア・チェスから急遽きゅうきょ移住してきたんですけどー。あんまり急だったから食べ物も寝泊まりする場所も用意できなくて、お金も持ち出せずに来ちゃったんですー。お世話していただけませんかー?」

 雰囲気はにこやかだが言ってることはめちゃくちゃだ。赤の他人の家を「そこにあったから」と訪れて大人数で「住ませてくれ」って、どこの戦国武将だよ。

 おじさんはにこにこしている冬人さんをしわをよせつつじとっとにらんでしばらく沈黙し、やがてため息をついて肩の力を抜いた。

「……入りなさい。少しの間寝る場所ぐらいなら分けよう」

 冬人さんの知り合い(たぶん)だからなのかあっさり受け入れてドアを開けたままそこを離れて冬人さんを通す。公正がお邪魔しますと礼儀正しく中へ入って行って、続いて氏縞が曹に追いかけられてどたばたと駆け込んでいった。さらに喜邨君がおじさんに一目もくれずにメシぃとどすどす入っていく。せっかく公正が作った雰囲気をぶちこわして不良集団みたいだ。他人様のお家に入る時くらい行儀よくしとけって。

「おじさん、数日の間お世話になります」

「おじさんありがとう。泊まらせてもらう代わりに何かお手伝いするから何か手伝ってほしい事があったら言ってね」

 公正と同じくお邪魔しますだけ言って中に入ろうとしたら縁利と栄蓮が一番年下のくせに一番大人なお礼を言うのが聞こえて焦って外まで引き返した。何を言ったらいいのかとっさに思いつかなかったのでとりあえず頭をしっかり下げておいた。うーん、これじゃあ僕の方が連れてきてもらったお子様みたいだ。引き返さない方が良かったかもしれない。せめて気持ちが伝わっていればいいのだけど。

 玄関を入っていきなりダイニングキッチンだった。一人暮らしには大きすぎる長テーブルの周囲に、背もたれの無い木製の丸椅子が四つ置かれていた。長テーブルにむかってカウンターがあって、その向こうがキッチン。お母さんが料理をしながら子供の様子を見張れる形だ。おじさんのご家族だろうか、カウンターの隅っこの写真立てに飾られた写真には今よりもうちょっと若くてこれなら白髪まじりと呼んでも良さそうなおじさんとおじさんとちがってすこしふっくらした口うるさくてうわさ好きそうなおばさんがならんで写っていて、二人の間に僕たちより少し年上の、たぶん高校生ぐらいの男の子が写っていた。

「男の子たちちょっと手伝ってもらえるかな。倉庫にまだ椅子があるはずだから…」

 おじさんに呼ばれて女子と縁利以外は玄関に引き返す。屋外の倉庫から喜邨君が運んで来た丸椅子を公正が受け取ってバケツリレー式に僕が受け取り冬人さんに渡す。そしてあっという間に8つ入れ終わった。よくこんなにあったな椅子。

 喜邨君とおじさんが外から帰ってくるのを待って全員テーブルの周りに着席する。必要以上に大きそうに見えた長テーブルも十二人で囲むとかなり狭く、一番場所を取る喜邨君は数歩分テーブルから離れてみんなの輪から外された。テーブルの上に広げられているのはこの家の間取り図。そこのドアからさらに奥に続く廊下があって、おじさんの部屋、風呂場と脱衣所、男子部屋、女子部屋と並んでいる。ちなみにおじさんの部屋と僕らの使う部屋と明日香たちが使う部屋は全部八畳間だ。八人で八畳間使うのにおおいに不満があるけど(喜邨君がでかいので実質十人で八畳間使うようなもんだし)だからといっておじさんの部屋に侵入する訳にもましてや女子の部屋に侵入する訳にもいかないので口には出さずに眉間みけんにしわを寄せる。男子は不便だ。

 おじさんはテツロウと名乗った(なんかすごい画数が多くて難しい漢字だった)。さすがに泊めるには条件があった。寝る場所、生活する場所は提供するが生活費は自分たちで稼ぎ、うち一部を宿代として出すこと、起床時刻や食事時間等、生活時間はテツロウさんに合わせること。幸いといっていいのか、ナーガ・チェスにアルバイト就労の年齢制限はない。ない、が……。冬人さん以外全員の白い目線が喜邨君に集まる。誰かさんのせいで必要金額が大幅に跳ね上がっている。本人は気にしたふうもなく腹減ったあとぼやいていたが。

「この辺にメシ屋ってねーの? 俺ら今朝から何も食ってねーんだよ」

「何軒かあるが……。心配するな、昨日ちょうどカレーを大量に作り置きしたんだ。人数分はあるはずだ」

 人数分と言われてえええ、と不満そうな喜邨君を無視してテツロウさんは席を立ち、キッチンの冷凍庫をがらっと開けた。取り出した茶色い氷の塊をひとつひとつパックから取り出して大きな鍋に入るだけ入れて火にかける。あ、手伝います、と明日香が立ち上がって米の場所をきいて量ってきて流しで研ぎ始めた。僕も何か手伝おうかと思ったけど三人もキッチンに居たら狭くてむしろ邪魔になる気がしたので浮かせた腰をそのまま椅子に降ろした。

「で? ここはレフトシティーのナーが・チェスちゅう所やったな? なんで冬人はんはここの事知ってんのや?」

 きかれた冬人さんはうーんと笑顔のまま上半身をちょっと傾けて

「えっとねー。前世がこの街角にある龍の像だったんだー」

 そういえば街の塀や建物の壁の端には必ず黒い翼を持った緑の龍の像が埋め込まれていたような。……じゃなくて。像が前世ってどう生きてどう死んだのかさっぱり人生が思い浮かばないんだけど。嘘つくなよ。

 僕と同様に力ない息を吐いて今日破がくしゃくしゃとその青い髪を掻(か)き回して質問を変える。

「テツロウはんと知り合いなんやろ? ここに住んどったんか?」

「違うよー。通っただけー」

 さらに意味不明な返事をもらってあっさりあきらめ、今日破は街の龍像の後ろ足の指が何本だったかと言い争っている曹と氏縞の仲裁に入った。返事をスルーされた冬人さんはにこにこしていて、お前は関係ないと馬鹿二人に拒絶される今日破を楽しそうに眺めていた。僕が見ているのに気がついて

「修徒くんー? 明日香ちゃんはあっちだよー」

「へっ? あ、いや明日香かわいいなあとか思ってた訳じゃなくていや実際に明日香はかわいいですけど、じゃなくて、ちがうそうじゃなくてだからええとつまり明日香見てたわけじゃ」

 あああ何を動揺してるんだ僕。冬人さんはただ明日香の現在位置を知らせただけじゃないか。何で顔の表面温度急上昇させてんだよ。耳の辺り火傷しそうだ。この焦げ臭いにおいはまさか僕の前髪どこか焦げてたり……。

「ぎゃーっ! テツロウさんちゃんと火を見ててよルウが焦げてますーっ!」

「あ、ああ……すまない。すぐ水を入れるよ」

 どぼどぼと水が注がれてシュウウと湯気が立つ。ほっとしたように明日香が息をついて後はやりますから休んでいてくださいとテツロウさんをキッチンから追い出す。ちょっと怒った明日香もかわいいなあ……。じゃなくて。ええと。なんでまた僕をじろじろ見てるんですか冬人さん。万年笑顔の人にじいーっと見られてると何だか怪しげな呪いをかけられてそうなんですけど。ひょっとして前髪本当に焦げてるのかな。気になって触ってみたけどいつもと変わり無し。ちょっと長くなって来たかもしれない。

 テツロウさんが椅子に戻って来てからしばらくしてカレー第一陣がやって来た。焦げたせいでちょっと色が濃い。氏縞と曹、縁利と栄蓮それと今日破がゲット。喜邨君が物欲しそうに見ていて今にも縁利のカレーに手を出しそうだ。

 またしばらくして公正、喜邨君、テツロウさん、冬人さん、昨日子に配られる。昨日子の皿にはピーマンが二つ載っていてカレーの量は少なめだった。受け取った昨日子は顔をしかめてピーマンについたカレーを手で拭いて机の上においてカレー皿は少ねえ少ねえと文句を言う喜邨君がつついている皿の横に並べた。カレー嫌いなのかな。ところで僕は明日香に存在を忘れられてるのだろうか。僕の分が無いんだけど。不安になってキッチンの奥の明日香をちらちらと横目で見る。もし本当に忘れられてたらどうしよう、ドームの外に飛び出してちょっくら溺れてこようかな。

「おまたせー」

 心配無用だったようでキッチンから出て来た明日香は自分のと一緒にちゃんと僕のも持って来ていた。妙ににこにこしているのでちょっと不安だ。毒なんか入ってないと思うけど。……うん、明日香なら大丈夫。のはず。

 目の前に置かれたカレーから漂ういい匂いに食欲をそそられていただきまーすと手を合わせる代わりにスプーンでルウとご飯を一緒にすくった。余ったのだろうかみんなのよりも全体の量が多い気がする。割と肉がいっぱい入っていた。テツロウさん料理は一応上手なんだな。

 どっちのカレーにじゃがいもがたくさん入っているかという非常にどうでもいい話で言い争っている氏縞と曹のカレー皿を喜邨君が音も無く素早く抜き取ってするすると残っているカレーを端に集めて口に流し込んだ。そして素知らぬ顔をして二人の前にもどす。冬人さんの皿はもう空になっていて、その隣の今日破にカレー消失機の熱い目線が向く。今日破はカレー皿を片手にくるりと背を向けて行儀悪く背中を丸めてがつがつと残りをかきこんだ。

 視線を感じて顔を上げると正面の明日香がじいっと僕を睨みつけていた。何か悪い事しただろうか。目があったとたん急に顔を真っ赤にして自分のカレーのルウだけをすくって口に突っ込んでものすごく辛そうな顔をして慌てて水を飲む。かわいいなあ…じゃなくて。ええと。

「なあなあもうカレー無えのかよ」

 喜邨君ががたがたと床を蹴りながら明日香に要求する。もう無いよと明日香が答えるとえええええとブーイングした。

「何だよ喜邨。滝波が触った料理なんか食わないんじゃなかったのか」

 今それ言うかよ。曹のカレー皿をひっくり返してやりたいのを抑えて半目で睨む。ひっくり返したところで既に皿は空になっているけれど。

 喜邨君は顔をしかめて頬をかいて曹から目をそらす。

「……滝波が作った料理はまずいわけじゃねーし。むしろうめーからそれは別」

 曹はしばらくつまらなそうに喜邨君を見つめてふうんと一音発し、スプーンを手にとった。皿の上をひっかいて口に含み、スプーンに何も載っていない事に気づき皿に視線を落とす。沈黙がおりた。

「氏縞貴様いくら足りないからって魏の始皇帝曹操の子孫であるこの我輩、曹様のカレーを全て平らげてしまうとは何事だ! 即刻返せ!」

「この俺が他人の食事を奪うとかいやしい真似をするわけがないだろうが!見下してんじゃないぞ、というかそれよりもお前俺の食いやがっただろう」

「我輩が貴様のような下賎の民がスプーンをつけた料理に手をつける訳が無かろう! 我輩の前に置かれた時点でその料理は我輩専用の特別高級美味料理なのだ! さあ奪ったカレーを返せ」

 また始まった……。あまりのうるささに真犯人を睨む。喜邨君は廊下へ続くドアを意味もなく眺めて関係ないですと言わんばかりにあくびをしてみせた。

「ああ、眠い人は寝てていい。悪いけど自分の布団は自分で出してもらえるかな」

 テツロウさんの言葉をこれ幸いと喜邨君はのろのろと立ち上がって廊下へのドアへ入っていく。……逃げやがった。


 みんな食事が一段落ついてそれぞれ男子部屋、女子部屋に向かい自分の荷物を置いた。寝ている喜邨君と、縁利、栄蓮、明日香と昨日子は休憩のために部屋に残って、それ以外はさっそく働き口を探しに出かける。玄関を出てすぐに曹と氏縞が別々の方向にクラウチングスタートでダッシュして別の角を猛スピードで曲がっていった。どっちがより割の良いバイトを見つけるか勝負するんだと思う。公正と今日破はそろって同じ方向に歩き始めた。多分〈力〉で何かしらいいバイトがありそうな所を見つけたんだと思う。冬人さんも二人について歩き出したけど僕は公正についていくのも癪(しゃく)なので全く逆の方向に向かう。これでバイトが見つからなかったら…まあ、いいか。その時はその時だ。なんとかしよう。何でもいいからいい仕事見つかりますように。公正たちの足音はすぐに聞こえなくなって、僕は最初の角を右に曲がった。


 公正についていくのが嫌だからと別の道を選んだ事を後悔するつもりは無いけど今ちょっとついていけば良かったと思いかけている。何時間歩いたんだろう。何回角曲がったっけ。あれ、この道見た気が……いや気のせいだ。そろそろ諦(あきら)めて引き返さないと。どっちだっけ? 簡潔に言おう。……帰り道がわからない。見知らぬ街どころか見知らぬ世界で迷子だ。時々街角の龍の像が案内板をぶら下げていたりするのだけどアルファベット表記なので現在地すらわからない。誰か迎えに来てくれないかなあなんて上を見上げてみるけどそこにあるのは空じゃなくてドームの天井だったので雲の形から連想ゲームして探しに来てくれる誰かさん(居たらいいなあ)を待つ間の暇つぶしすらできなかった。

 とりあえず付近の地図でも壁に貼られていないだろうかと半ばあきらめ気分でじろじろ壁を見ながら歩いていたら今まで全然見かけなかった求人広告を見つけた。さっきまでずっと求人広告を探してたのにどうしてその時に出て来てくれなかったんだよ。今はそれより地図が欲しい。そのタイミングの悪さに理不尽に腹をたてながらその壁伝いに表通りに出る。表通りと言ったけどごく普通の住宅街の一角にぽつぽつとお店が並んでいるような閑散とした通りだ。

「……メシドウ?」

 お店の入り口につるされた横長ののれんにでかでかと「飯堂」と書かれていた。最近アルファベットばかり見て来て久しぶりの漢字表記だ。何の店だろう。なんだか落ち着かなくなって来て特に何も考えずのれんをくぐった。

 お店の中は控えめな灯りが天井からつるされていて雰囲気は穏やかな感じかと思ったら並んだテーブルが黒字にでかでかと赤色の十字を書くようなデザインの天板で全然目に優しくなかった。どうしてわざわざ目が疲れるような色をチョイスするんだ。外の地面といい、ここの文化なのだろうか。

「あ。いらっしゃいませー」

 レジの向こうの従業員室のような所から背の高い男の人がひょっこり顔を出した。ベージュ色の髪の穏やかそうな人でちょっとほっとする。この人なら優しく道案内してくれそうだ。

 道をきこうと口を開いたのにさっき見た求人広告が頭をよぎって全然違うことを口走った。

「あの、アルバイトをしたいんですけど…」

「ああ、はいはい。店長、アルバイト希望者です」

 あれ、この人店長じゃないのか。レジの裏に回り込んで従業員室の入り口の前に立つ。入ってすぐにすわれるくらいの段差があってその上に畳が敷き詰められている。いちにいさんしいご……六畳間だ。タンスとかこたつ机(布団が載ってない)とか置いてあるのでもうちょっと狭く見える一見普通のリビング。茶色い円形のこたつ机の側で畳にひじをついてだらしなく寝そべった状態から多少体を起こした店長がこっちを振り向いた。黒髪短髪の小太りのおじさん。五十歳ぐらいだと思うけど髪が後退した気配が無い。こういう人もいるんだ。自分もそうだったらいいなあ。

「名前は」

「神永修徒です。えと……十四歳」

「着ろ」

 ぽいっと暗い赤色の布を投げつけられた。受け取って広げてみる。僕のサイズにぴったりなエプロンだった。ひょっとして採用? こんなに簡単でいいのかと不安になりつつひもを後ろで結んで着る。

「はい、まずはテーブルきお願い」

 白い雑巾を手渡されて手近なテーブルを家の手伝いの要領で拭き始める。身振りでもっと丁寧にと指示が出た。

「あの……お名前は」

「カイル。海瑠って、こう書くんだ」

 机に指でキュキュッと漢字を書いた。同じ机に修徒と書くと、お、という顔をされた。

「修徒君はもともとここに住んでる人じゃないんだね」

「え?」

「名前に龍の字が入ってない」

「……?」

 そういう僕もここの生まれじゃないけど、と笑う。最近よその人増えましたね、そうだな、店長もナーガ・チェス生まれではないようで俺も他人のことは言えないがとつぶやいていた。

 一枚目を拭き終わって隣の机に移る。……何かきき忘れた気が。するすると拭きながらぼんやり考えて、……労働条件きいてねえ。

「給料どれぐらいで、勤務時間と休みの日は……」

「ええと、日給三〇〇ルバーかな」

 ……ルバーって何だ。日本円でいくらなんだ。相場もわからん。でも他に求人広告見当たらなかったし、……いいや、後でテツロウさんにきこう。

「うちは夕食やってなくてね。バイトの時間は夕方まで。早くお店閉める時も三〇〇ルバーは出すから安心して」

 はい、返事だけはっきり答えてあいまいにうなずく。ひとまず良心的と思って良いのだろうか。この時間でお客さんが一人も居ないところからして、早く閉める日は多そうだし、もしかしたら結構割のいい仕事かもしれない。

 中華料理をメインにやっている店らしく、壁にかけられたメニュー表には全部漢字が並んでいる。ひとつひとつ知らない漢字を飛ばしてメニューを追っていくとチャーハンを見つけた。拉麺という字もどこかで見たような気がするけど何だったっけ。あ、麻婆豆腐。八宝菜もある。乾燒明蝦って何だ。読めない。

「修徒君。手、とまってるよ」

 窓の近くの植物に水をやっていた海瑠さんがふりむいて僕はあわてて四つ目のテーブルをごしごしこすった。文字が読めないのにどうして言葉はつうじるんだろう。別のテーブルに移る。あまり使い込まれていないテーブルはすぐにきれいになる。たぶん開店してから全然お客さん来てないんだろうなあ。何で移転させないんだろう店長はと従業員室の方に目をやるとちょうどその店長がそこから出てくる所だった。立派なというにはちょっとボリュームの足りない太鼓腹(というよりビール腹)をゆらして手近な椅子にどっかと腰を降ろす。そしてレジカウンターの上の筆記用具入れからペンを一本引き抜いて持っていた新しい紙に何か書き付け始めた。せっかく拭いてきれいにしたのに真っ直ぐ勢いよくひいた線が紙をはみ出してテーブルの赤色の上に黒い模様が入った。どうやら裏写りもしているようで書き上げたチラシをテーブルから取り上げるともっと複雑な模様が現れた。全部終わったと思ったのにまたやり直しだ。下手に文句を言ってクビになったらたまらないので心の中でため息をついて拭き直す。眉間にしわが寄っていた。不満を隠すのって難しいな。お客さんが来てる時には特に気をつけないと。

「あの、終わりました。次は何をすれば……」

「うーん。今日はお客さんいないからねえ……。特に何も」

「えっと、そうだ床の掃除! 食材の買い出しとか! 食器洗い残ってません?」

「……それも全部終わってるんだ」

 どうしよう。せっかく雇ってもらったんだから何かしなくちゃ。お店でアルバイトなんて初めてだから何やればいいのかさっぱりわからないけど何かできるはだ。余計なことして迷惑かけるようなことはしたくないけど、何か……。

「……くん。修徒君」

 考え込みすぎて海瑠さんの呼びかけを三回分くらい無視してしまっていた。先輩の呼びかけを無視するのはマズいことでは。思わず「はいっ!」と返事がでかくなる。

「……何をそんなに焦ってるのかな?」

「へ?」

 ぽかんと海瑠さんを見つめ返す。さっき呼ばれたのに無視してしまったことを起こっている様子は全くなくて、静かに僕をまっすぐ見ていた。どうしてそんなことをきくんだろう。何も焦っているつもりは無いのだけれど。

「そんなに急がなくても、仕事は少しずつ覚えていけばいいから。明日また新しいことを教えるよ」

「でも今日これだけしかやってないのに」

「だから明日やろうって言ってるんだよ。今日はもうお店閉めます」

「だったら、片付けてつだ……」

 はあ、とため息をつかれた。店じまい手伝おうとするのは迷惑だったろうか。

「修徒君。何があったかは訊かないけどそんなに急がなくてもちゃんと明日はある。大丈夫。明日またおいで」

 素直にうなずいたつもりで渋々うなずいてエプロンを脱いだ。うなずいたけどやっぱり机を拭いただけでお金をもらうなんてすごく申し訳ない気がする。

「お、一号。そうかもうこんな時間か。……明日朝八時に来い」

 外にチラシを貼付けにいってから戻って来た店長とすれ違った。朝八時ってすごく早いなあ起きれるかなあとちょっと考えてから一号って誰だろうと疑問符が立った。……ああ、多分僕だ。アルバイト一号。あれ、海瑠さんはアルバイトの人じゃないのか。

「わかりました。おつかれさまです」

「おう、おつかれ」

「おつかれさま」

 僕はぺこりと頭をさげて、特に理由はないがなんとなく逃げるように小走りに店を出た。



 しまった帰り道を訊くのを忘れた。適当に路地を早足で歩いて適当に角をかくかく曲がっていたら完全に迷ってしまった。いや、それ以前に迷ってたか。そもそも飯堂に入ったのはアルバイト目的じゃなくて道を訊くためじゃなかったか。たぶん今の僕の顔はピーマンのように青くなっているだろう。そして多分頭の中身もピーマンのごとく空っぽなのだろう。ピーマン好きの昨日子にかじられてしまえ。

 頭を抱えても空っぽの頭から何か出てくる訳が無いので髪を掻き回していた両手を降ろしてとりあえず一歩踏み出す。もうこうなったらがむしゃらに歩くしかない。歩いてればそのうちどこか知っている所にたどり着くさ! ……たぶん。

 何をそんなに焦ってるのかな、か。

 海瑠さんにさっき言われた言葉を自分でつぶやいてみる。そんなに焦っているように見えるだろうか。この世界に来てからよくわからないまま流刑地からスカイ・アマング、アクア・チェス、そしてナーガ・チェスと一気にあちこち回ってくることになった。色んなものを見た。ただ連れられて回っているようで、肝心のアンドロイド云々のところに関われていない気がする。向こうに戻るには必要なはずなのに、何もできていない気がする。そこがもどかしいというか、自分自身に腹がたつというか。……それを焦っているというのか。

 あー、どうすりゃいいんだよ。空をあおぐつもりで上を見上げたら遥(はる)か遠く桃色がかったドームの天井が見えた。もう夕方か。今日一日も、もう終わりだな。

 ……日が暮れる、いや暗くなるまでにテツロウさんの家にたどり着けるか心配になってきた。何かしら通信端末でも持ってれば遅くなるとか迎えに来てとか連絡できるけど、あいにくと親と学校の方針で僕もみんなも持っていない。……ん? 今何か名案を思いついた気がして立ち止まる。一瞬でどんな名案だったかわからなくなって考え込む。えーと、電波が届いていて、相手の連絡先がわかっていればいつでもどこでも連絡できる機械。似たような機能が何か……。えーと、そうだ、〈音〉だ。滅多に使わないとはいえ〈力〉とか〈音〉とか、どうも僕は忘れがちだ。一度頭を分解して記憶回路をメンテナンスした方がいいかもしれない。とりあえず一番近くに居そうな公正に連絡して……。

「わ」「げっ」

 建物の影からちょうど公正が現れて衝突しかけた。目をそらさず後ずさりしつつゆっくり距離をとって……って何してるんだ僕。

「「げっ」って何さ「げっ」って。俺に会ったら何か困ることでも?」

 いやいやむしろラッキーだよ。〈音〉使う前でよかったー。迷子だ迷子だとからかわれるところだった。

「っていうか、修徒は逆方向に出発したんやなかった? なんでこないな所に居るんや」

「……っ! いやあの、い、いいバイト見つからなかったから探しまわってて」

「ふーん?」

 公正の面白がるような目がこっちを向く。余計な事言うなよ今日破。迷った事バレるだろ。

「ほらよ」

 公正は僕をからかうのではなくいい加減に折り畳んだ紙をぽんとわたしてきた。受け取って広げてみると地図だった。何で今更。出発前に欲しかったよどうせなら。

「お前絶対迷うだろ。だから一応地図、もらって来といてやった」

 うるせーよ上から目線。一応ありがとうと仏頂面を作って礼を言って鞄にしまう。

「公正たちはアルバイト見つかった?」

「ああ。ここの変電所で記録係」

 あ、ここ変電所だったんだ。広い敷地に大量の電柱が立っていて大量の電線が蜘蛛の巣が絡まったように張られていて、その周りをぐるりと金属の背の高いフェンスが囲んでいる。なるほど確かに元居た世界にもあった変電所に似ている気がする。そういえば二人についていったはずの冬人さんが見当たらないなあとあたりを見回して最後に後ろを振り向いてみたらそこに居た。

「んぎゃああああ!」

「やっほー修徒くん」

「やっほーじゃないですよ人の背後にこっそり立たないでくださいそれからその手に持ってるの何なんですかそれどうするつもりで」

「修徒くん知らないのー? サラマンダーだよー!? こうやってねーべたーって首筋に貼付けるとつめたくてねー……。何で逃げるんだよー」

「逃げますよ当たり前です!」

 後ろから背後霊のつめたい手(サラマンダー)を押し付けられたくないので冬人さんの方を向いて、つまり進行方向に背中を向けて歩く。……しばらく歩いて突き当たりの壁に衝突した。ああもう、冬人さんの後ろを歩けばいいや。ねえこの子丸まると栗みたいでかわいいねーとハリネズミを見せてくる。何か見覚えがあると思ったらスカイ・アマングから連れてきたハリネズミのマーティンだった。今まで世話を公正に任せっぱなしだったことを思い出して少し申し訳なくなる。……口に出して言うつもりはさらさらないけど、ありがと、公正。

「ちょっと寄り道してもいいか?」

 そう言いながら先頭の公正が角を曲がる。いいも何も、ついていかないとまた迷子になりそうな僕に反対意見など言えるはずなどない。今日破も冬人さんも寄り道する事に不満は無いらしく公正に続いて角を曲がる。

 曲がった先は倉庫街だった。全然人が見当たらなくて、足下にビン缶生ゴミ等色んなゴミが散らかっている。白黒タイルにも古くてヒビの入った物もが多い。倉庫のシャッターは全て閉じられていたけど錆び落ちて大穴の開いた物もあった。ナーガ・チェスはずいぶんときれいな街だと思っていたけど、こんなところもあったんだ。ある程度無事な倉庫の中からの視線を感じた。誰か複数人倉庫に住み着いているようだ。その倉庫の横を通り過ぎて突き当たりを右に曲がる。そしてすぐ左へ。どこかの裏通りのようでさっきよりもゴミが多くて歩きにくい。左右の建物に遮られて街灯の光が届きにくく、倉庫街よりも暗い。

「どこに行くんだい」

「駅。リニアって知ってるか? あっちじゃあまり一般的じゃないけどこのレフトシティーでは当たり前に使われているんだってさ。それよりも進んだ技術でもっとすごい列車も使われてるんだってさ」

 きらきらと目を輝かせて答えやがった。さては公正、列車マニアか。ずっと列車に目を向けていてくれればいいのに。そうしたら明日香に話しかけたりしないだろうから僕は明日香と二人きりで話ができるげほんげほん。……ちょっと喉の調子がおかしいかな。うん。

 やがて曲がりくねった裏通りの先に古いコンクリートの建物が見えて来た。その周りだけ清掃されているようで裏通りの出口の近くにこんもりとゴミの山ができている。無人の改札口に阻まれて中に入れない。どうしようかと困っていたら公正が今日もらったという給料で入場券をおごってくれた。公正のくせに珍しいな。後で何かあるんじゃないか……?

 改札口から駅構内に入り階段を上ってホームに出る。ホーム端が妙に騒がしいので行ってみるとホームレスらしき人たちがゴザをしいて、ちょっと豪華な弁当を広げてビール瓶を片手にどんちゃん騒ぎをしていた。

「よう兄ちゃん。見ない顔だな」

 赤ら顔の男の一人が僕に気づいて声をかけてきた。

「今日は気分がいいんだ、飲んでいきなよ」

「バッカおめー、俺が買った酒だ。勝手に振る舞うんじゃねえやい」

 酒は遠慮しとく、と公正。今日はもう列車は来ないのだろうか、一人の男が線路に下りてでたらめな踊りを始める。他の男たちは箸やビール瓶を楽器代わりに口笛を合わせて踊りに曲をつけ、しまいにはだみ声で歌いだした。お世辞にもうまいとは言えない。

「ここで暮らしてるんですか」

 男達のうちの一人、彼らの中では中堅くらいの歳に見える茶髭の男に声をかける。

「ああ。もう十年になる。最初はここから、なけなしの金なり無賃乗車なりしてどこか遠くへ、別の場所へ、できれば日のある所に行こうと思っていた。列車を待っているうちにここの奴らと知り合って、」

 仲間を振り返ってはは、と照れたように笑う。

「今じゃここが居心地がよくて、どこにも行けないでいるのさ」

 時刻表を確認していた公正がはぁ、とため息をついて肩を落とした。今日の列車は全部終わっていたらしい。

「いやあ、しかしさっきの兄ちゃんと違って愛想はいいくせに気前が悪いな。観覧料払ってくれよお」

 いつのまにか別の奴が近くに来ていてたかられそうになった。きっぱり断り、階段を下りて改札を出る。しばらく待つと反対側のホームに行っていた今日破と冬人さんも戻ってきた。そっちの時刻表も確認して公正が見るからにしょんぼりする。

「公正くんリニア乗れなくて残念だったねー」

「んなわけ……っ。いや俺はさ、乗りたかった訳じゃなくてただ見てみたかっただけで」

「嘘やろ、乗りたかったくせにぃ」

「俺は見るだけでいいんだっ、修徒が乗りたがってただけでっ」

「は?」

 何で僕に話しがとんでくるんだ。僕はリニアには全く興味ないんだけど。今日破と冬人さんが僕の反応をちらりと見て公正に視線がもどる。

「他人のせいにするなや」

「おしつけだいまおーう♪」

「おいっ! 空気読めよ修徒!」

 そう言うなら空気を文書化してみせろよ。即座に破ってゴミ箱にスローインしてやる。公正のためなんかに自ら恥をかくつもりは無い。べぇっと舌を出して前に向き直り一歩足を踏み出した所で誰かにぶつかった。

「わ、すみませ……」

 顔をあげながら声が止まる。真っ黒なフード付きマントを羽織った長身の男。その後ろからもう一人同じ服装をしたほとんど同じようにしか見えない男がやってくる。フードでよく見えないけど顔だちが違うといえば違う。この無表情仮面。、見覚えがある気が……。

「トーマス……?」

「否定する」

 即答だった。しかもご機嫌を損ねたらしく眉間にしわが寄った。

「ロブ、どうした?」

「衝突した」

 そういう時はまず相手の人間にすみませんだろ? とあきれながら無表情仮面じゃないほうの男がフードをはずす。茶色に近い黄土色の髪。フードを外すつもりも全くないロブの代わりにぺこりと頭を下げた。

「仲間のロブが悪かった。俺はジョセフ。ジョセでいい。そっちは?」

 え、と面食らいつつ「修徒」と答える。ぶつかっただけだがいきなり自己紹介とか始めるものだろうか。というかその服装、そういえばクリスやトーマスと同じだ。アンドロイド……?

 ローブの長い袖の先が不自然に膨らんでいるのを見て確信する。H型アンドロイドはそこに能力を使うための機械が埋め込まれている。チラリと公正を横目に見ると、僕以上に驚いたようで目線が二人のアンドロイドの間を行き来していた。

「僕冬人ー! ねーねーひょっとして何か僕たちにききたいことあるのー? 教えるよ教えるよー。えーとね、そこの青い人ねー」

「あー、俺は今日破……」

「穴埋めパズルが解けなくて何回もやり直して一つもあってなくて怒られて泣いてたんだよー?」

「冬人はん! 何を言うんや! あとパズルやない、仕事や」

「でもすっごい時間かかってたー」

「だ、だって紙とスイッチの数あわへんもんで」

「そーそー。合わなくてねー、先輩に聞きに行ってねー、紙の裏面に続きがあってねー」

「言わんといて」

 冬人さんが会話にいきなり飛び込んできて、ジョセが呆れともなんともつかない迷惑そうな顔をする。冬人さんはロブに訊(たず)ねるような目を向けられて、一瞬だけ違う表情をしたような気がした。いや、笑顔は笑顔なんだけどちょっと種類が違うような。

 ジョセは自己紹介に執着することなくまぁいいやと流してマントの懐に手を突っ込んだ。拳銃が出てきて銃口がこっちに向くのを唐突に想像してしまい思わず身構えたが、取り出したのは一枚の紙だった。紙に一通り目を通してからちらりと僕らの顔を順繰りに追っていってまた紙をしまい、ごまかすようにも見える大げさな仕草でいい人っぽくウインクしてみせた。いまいち薄い反応に「うっ」と困った顔になる。

「……俺たちは毎日このぐらいの時間、ここを通るから、何かききたいことがあったら来るといい。」

「? 何故。彼らは無関係ではないのか」

「袖ふれあうにも何か縁っていうだろ」

 ロブの表情に「?」マークが浮かんだ。じゃ、そういうことだからとジョセは適当に会話を終了させてその場を離れようとしたがロブはうごかない。

「理解不能。説明を求める」

「あー、ええとだな。どんな世界にも自分と無関係な奴なんかいないんだぜ、ロブ。たとえばスカイ・アマングのスラムのガキでも勉強積んでそのうち研究所勤めになったりして俺たちと知り合うこともあるだろうし、知り合わなくても俺たちの知り合いの知り合いの知り合いの知り合いかもしれない訳だし、つまりだな。生き物全部俺たちと関係あるんだよ」

「ジョセは不可解だ。しかしジョセが彼らと無関係という関係を維持したくないことは理解した」

 じゃあそういうことで、今度こそジョセたちは僕らの横を通り過ぎ、駅の方へと歩いて行った。構内に入る直前に思い出したように足を止めて振り返り、

「ききたいことがあったら来いって言ったけど。明日夜はやめとけ」

 視界端で冬人さんが勝手にうなずき、今度こそ二人は駅へと姿を消した。


「なんなんだあいつら」

 テツロウさんの家が近くなり、ようやく道が思い出せるところまで来て公正は通算十数回の同一フレーズをつぶやいた。いい加減うっとうしい。さっきまでは冬人さんがあれはうちゅーじんで体の一部に兵器がついててボタンを押すと目からびーむがばきゅーんとか意味不明な説明を返してくれていたのだけど、その冬人さんは数メートル先の角を曲がって行ってしまっていた。代わりに今日破に対応してくれ目線を送ると強引に目をそらして待ってや冬人はーんと走って行ってしまった。あーもう、僕も公正の相手誰かに任せてみんな待ってと走り去ってしまいたい。

「知らないよ……。トーマスに似てたけど。H型のアンドロイド、だっけ」

 返事してやったのに公正は全く聞いておらず、置いてくんじゃねえと冬人さんと今日破を追いかけて走り出しやがった。お前な。

 角を曲がってひと区画。テツロウさんの家の玄関を冬人さんが入って行くのが見えた。続いて今日破が入って行き、公正に続いて僕も中に入った。ちょっと遅かったのだろうか、リビングに入るとみんなもう席についていて、夕食を前に「おかえりなさい」と迎えられた。今日の夕飯は唐揚げのようだ。一人分ずつそれぞれサラダと取り皿、それからご飯が分けられていて中央の二つの皿に唐揚げが山のように積んである。おいしそうだ。

「ほら、ぼぅっとしてないで早く座ってよ。待ってたんだから」

「あ、ごめん。ありがと」

 慌てて席について手を合わせた。誰からともなく頂きますの声があがって箸を手にとった。

 欲しい分は先に取っておかないと揚げ物吸い込み器こと喜邨君に全部食べられてしまうので取り皿に盛れるだけ盛っておいてからサラダに手をつける。同じ皿から唐揚げを取ろうとした曹と氏縞が同じ唐揚げを箸でつまんでしまい一瞬固まってから二人で同じ唐揚げをつまみ上げたまま喧嘩を始める。器用だ。

「シュウ、レモン使う? さっき私がほとんどしぼっちゃったんだけど……」

「ありがと」

 ほとんど果汁の残っていないレモンを受け取って唐揚げのひとつにかける。このレモンはもうしぼれないな。搾りかすはどうしたらいいんだろうとテーブルの上に視線を走らせたら昨日子の取り皿に五つぐらい盛られていた。とりあえずそこに投げてうまく載せておいたらしばらくして昨日子がそのまま皮ごともぐもぐ食べていた。お、おいしいのかそれ……? 栄蓮がレモンの種に興味を示して昨日子の皿に残った物を自分の皿に輸入していた。

「だーかーら! お前が俺のつまんだ唐揚げをつまんだんだ!」

「違う! 貴様が! 我輩の美しい箸さばきでつまみ上げた唐揚げを卑しくも横取りしようとしているのだ!」

「……半分こしたらいいんじゃねぇか?」

 まだ言い争っている曹と氏縞に縁利がつぶやいたが、案の定これは俺のだ我輩のだと互いに譲らなかった。

 冬人さんはテツロウさんと何やら楽しそうに話していた。にこにこ話す冬人さんに、テツロウさんがにこやかに相づちをうつ。かと思えばテツロウさんが冗談まじりに愚痴を言って、冬人さんが独特すぎる解釈で斬新すぎるアドバイスを返したりしていた。

「シュウ、おいしい?」

 眺めていたら手が止まっていて、明日香が不安げにこっちを見ていた。

「うん。唐揚げ、ちょうど食べたかったんだ」

「えへへ、よかった。揚げ物なんて初めてだから上手くできるか不安だったんだよ」

 初めて? これで初めてなのか。びっくりして口に入れようとした唐揚げを見直す。ちょっと揚げ過ぎな気もするけど普通の唐揚げだ。明日香の手料理だと思ったからかじった瞬間に口に広がる香ばしさがさらに深みを増した。変わるわけがないだろと鼻で笑った奴が居たら即刻出てこい。すぐに僕の料理スキルで小麦粉まぶして油で揚げてやる。ちなみに僕の得意料理はレタスのグリーンサラダだ。

「滝波」

 次から次へと唐揚げを口に放り込んでいた喜邨君がじろっとこっちを振り向いた。名前を呼ばれて明日香がちょっと身を固くする。向けた目つきが悪かったことに何となく自分で気づいたのか気まずそうに一瞬目をそらして、でもさっきと何一つ変わらない表情で明日香を睨みつけた。

「この前は滝波の料理はうめぇから別とか言ったけど。こんなにおめーの料理、上手いんじゃなくて本当に美味い。こんなの作れるって、素直に、その……す……、すげえ、って思う」

 そこまで言ってから今度は完全に顔を別の方向に向けた。皿の上の唐揚げを一個わしづかみにしてかじり、焦げた部分をかみつぶすぼりぼりという音をたてる。

 喜邨君が顔を向けた先で曹と氏縞がまだ喧嘩していた。箸で取り合いっこしていた唐揚げはすでに今日破あたりに取り上げられたらしくどっちがよりおいしそうな音をたてて食べられるかを競っていた。お互い自分の音しか聞こえないらしくもっと大きい音を立ててみろと言いあっている。本当にな。唐揚げ一個を取り合うほどに美味いよな。

 明日香がほっとしたように息を吐いて肩の力を抜いた。僕はもうひとつ唐揚げの山からとってかじる。おいしい。明日香の料理の味付けは調味料だけじゃないんだろうな、多分。明日香がうれしそうに唐揚げをかじるのを見て、僕もほっと息をついた。


「なあ風呂まだなのかよ」

 喜邨君が口をへの字に曲げて寝返りをうったので縁利はあわてて轢かれないように壁際に移動した。おお悪い悪いと喜邨君は起きあがって平謝りしたがその拍子に近くに体育座りしていた氏縞の足を踏んづけている。

 食事も終わって風呂のお湯が入ったらしいのでレディーファーストで女子から入浴タイムとなっている。その間男子は部屋で雑談タイム。とはいえ特に話も弾まずゴロゴロダラダラしている。

「こういう時こそあれだろ、ほら、恋バナ」

 柄にも無く公正がそんな事を言い出したので僕は読んでいた科学おどろき辞典を取り落とした。急にどうした公正。同じくその手の話題に興味がなさそうな氏縞と曹まで目を丸くして振り向いている。

「で? 公正は誰が好きなん?」

「俺からかよ。話題提供したんだからさ、後にまわせよな。むしろ当ててみろよ。そういう今日破は誰がいいんだよ」

「ええ、俺? 俺は特に……。スカイ・アマングの賭博場時々居ったあねさんやら同じアパートの下の階に住んどった子やら色々ええ子は思いつくけど、そないに好きってわけでもあらへんし」

 首の後ろをぽりぽり掻きながら照れ笑いする。誰か好きな人居そうだ。

「氏縞、貴様はどうせ誰かさんに片思いのまま貴様のその心の弱さから何も言えずにいるのだろう?さあ我輩に話してみせろ」

 曹がものすごく偉そうにふんぞり返って氏縞に向き合った。氏縞は曹のセリフをふんっと鼻で笑い

「曹なんか精神的にお子様だから片思いすらしたこと無いだろ。恋愛とか恥ずかしいと思ってるお子様だろ」

「何を言うか万年片思い。我輩は心の強い男児であるから恋などふわふわしたものに夢をみたりせずこの人と決めたひとりのみに愛を注ごうと決意しているのだ」

 ……愛とかいうなよ曹。こっちが照れる。

「喜邨は?」

 氏縞に話をふられて喜邨君が「好きなもん?」と聞き返す。

「好きな、というか気になってる、レベルでも」

「あ? んー、満漢全席? っての気になってるんだよな。一度食ってみてえ」

 だいたい予想していたが恋バナのかけらもない回答だった。ちなみに満漢全席とは完食に二、三日かかる中華料理のことだ。科学おどろき辞典に書いてあった。

「もてる秘訣ひけつってさ、あると思うか?」

 本当どうしたんだ公正。何、もてたいのかいと半笑いできくとジロリと睨まれた。

「顔だろ」

 即答した縁利は年相応にチビなだけで結構イケメンに含まれる顔立ちをしている。嫌みか。顔かあ、とあごを指でさする公正も割と整っている。顔であってたまるか、思いやりとか優しさとか。そういうのだろ。

「スタイルやろ。余分な肉が無うて、わりかし筋肉ついとる人……ええ体しとる人がもてる」

 喜邨君がものすごく傷ついた表情をした。冬人さんは「お金たくさん持ってる人ー」と回答した。

「ふははははははははは……貴様らわかっていないな……。女子はそんなとこたいして見ていないのだ! 女子は自分の味方にいつでもついてくれて誰からも守ってくれる、そんな安心できる男を大いに好むのだ! 女子を信じる心! 守れる力! 両方を持ち合わせてこそもてる男なのだ! この曹様のようにな!」

「お前が持ってるのは女子を信じる心じゃなくて女子に頼る心だろうがお子様め」

「貴様この魏の皇帝曹操の子孫、曹様を子供扱いするとは無礼千万! 万死に値する! 貴様なんぞ女子と話す会話力すら持っていないくせによく言うものだ!」

「なに言いやがる! 俺は十分に力があるぞ! なんなら腕相撲するかここで!」

「望む所ださあ来い!」

 せっかく敷いた布団をはねのけて二人分寝そべるスペースを確保。そこに向かい合ってうつぶせになり肘を立てる曹と氏縞。よーい、スタートの係は僕だ。曹と氏縞がそれぞれ片手をあげてひじをつく。よーい……

「おい貴様右手を出せ右手を」

「うるさいお前が左手を出せ」

「我輩は右手が利き手なのだ右手を出せ」

「俺は左利きなんだよお前が左手を出せ」

「……あーもう、めんどくせぇなお前ら。両手でやればいいんじゃねぇの」

 ということで両肘ついてがっちり指を組み合わせて

「レディー、ファイッ!」

 僕のかけ声とともに両腕相撲なる戦いが始まった。氏縞の右手と曹の左手、氏縞の左手と曹の右手がそれぞれ指を組む形で正面にがっちり握りあってお互い無理矢理に外側か内側に倒そうとしているので見た目には畳に伏せた格好で両手を握りあって壮絶なにらめっこをしているようにみえる。もういっそ普通に相撲しろよ二人とも。

 五分ほどにらめっこして結局勝負がつかず今度はもっと平和的に(というか腕が疲れたんだと思う)体のやわらかさ対決。足をのばして並んで座り、全力で体を前に倒す。

「ほら見ろ氏縞!我輩の指先はなんとかつま先に届くぞ! ……って貴様膝が曲がっているではないか! 固いな氏縞はっはっは」

「曹は足が短くて胴が長いから手が届くんだ。この手長ダックスフンド」

「なにをっ! 将来世界を股にかけることが約束されているこの魏の始皇帝曹操様の子孫曹様の御足は誰よりも長くあるに決まっているではないか! ふふふ貴様この曹様のすらりと長い体に嫉妬(しっと)したか」

「長いとか言うけど俺よりも身長低いだろ」

スタンダップ立て氏縞! 背比べだ!」

 ちょいちょいと手招きされて縁利が身長を比べるために二人の頭に手を伸ばした……けど二人よりも背の低い縁利は頭のてっぺんに手が届かない。人選誤ったな曹。氏縞が今日破を連れて来て曹と比べっこする。今日破は曹のつんつんの髪を押さえつけて氏縞と見比べてしばらく考えこみ

「んー……。やっぱどっちも同じぐらいやわ」

「少しでも高い方はどっちだ?」

「だから同じやって」

 しばらく沈黙。やがて氏縞がぐりんと首をまわして曹に顔を向け

「お前髪逆立てて身長ごまかしてるだろ!」

「身長ごまかしているのは貴様だろう! 足の裏肉厚のくせに!」

「やかましい」

 ついに部屋の隅の眠れる獅子(喜邨君)が騒々しさに切れて二人の頭にげんこつを振り下ろした。どごん、と鈍い音がする。

「痛っ……てええ……」「痛ってえ何すんだ喜邨」

「貴様ら風呂の順番回って来たってぇのに身長がどうのこうのとぐじゃぐじゃぐじゃぐじゃうぜえんだよ。あん? 自分の方が高いとか何とか抜かすなら今すぐここで縮めてやるからい言ってみろ」

「……」「……」

 二人とも押し黙る。それを見届けて喜邨君は自分の荷物からパジャマ代わりの服を取り出してさっさと風呂に行ってしまった。……怖え。

 ようやく静かになってほっとため息をついて壁によりかかって座ろうかなと後ろを振り向いたら目と鼻の先に冬人さんが立っていた。

「うぎゃあああ!」

「わー。修徒くん夜中に大声出したら近所迷惑だよー」

「だっ、から、他人の背後に気配消して立たないでくださいって言ってるじゃないですかっ!」

 総毛立った鳥肌をおさえようと腕をさする。何が楽しくて他人の後ろに無意味に無言でスタンパイしてるんだよ。いや、本当なに。何もしないで座り直してるけど何だったんだよ。

「次に入りに行く人決めようぜ。あ、曹と氏縞は最後な。うるさかったから」

 縁利の言葉に二人を排除した円ができる。じゃーんけーんほいっと出して一回目はあいこになって、二回目は冬人さんと縁利が勝ち抜き、三回目は僕と公正で今日破が独り最後に残った。戻って来た喜邨君とすれ違うように縁利と冬人さんが部屋を出て行く。喜邨君はタオルで短い髪をガシガシ掻きながらくしゃくしゃになった布団を直してタオルを丁寧に畳んでさっそく布団にもぐり込んだ。すぐに寝息が聞こえ始める。

 いつも思うけど喜邨君って寝るの早いよな。寝る子は育つって言葉に納得だ。育ちすぎて横に育ってるけど。

「……なあ、修徒」

 今日破がトランプを箱から出しながら話しかけてきた。待ち時間の暇つぶしだろうか、「僕もやりたい」と言いたいところだが風呂の順番が次だ。あきらめて今日破、氏縞、曹の前に積まれるのを眺める。

「そないに冬人はんを警戒せんでもええやろ。冬人はんは悪い人ちゃうで」

「わ、わかってるけど」

 急に後ろに立たれたらびっくりするだろ、そりゃ。驚きすぎな気は……しないでもないけど。口端を曲げてうつむく。

「修徒がそんなに警戒しとったら、冬人はん、ちゃんと笑えへんやろ」

「え、冬人さんいっつも笑ってる気がするんだけど。むしろ笑顔以外見た気がしないけど」

 今日破が少し乾いた笑い声をたててわかってるくせにと僕の頭を小突く。いやわからないんだけど。公正に視線を流すと無感情にするっと目をそらした。何なんだよ。

「俺には楽しそうにすら見えへんけどな」

 ポーカーが始まる。公正は各自の手札を興味深げにのぞきに行ったが僕は何だか居心地が悪く、手近な布団に潜り込んだ。頭から布団をかぶって視界を真っ暗にすると話し声もくぐもって静かになる。

 見つかりませんように。

 ふと思いついた言葉が脳内をぐるぐるし始める。見つかりませんように。冬人さんが何考えてるのか、察しがつかない僕が見つかりませんように。ちょっと、怖いだけだから。このまま息をひそめていれば誰にも見つからずにすむだろうか。

 そうやってじっとしていたら、急に力ががくっと抜け、視界が真っ暗になった。

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