9日目:ホーム

 ふと目が覚めて、また目を閉じかけてやめた。首をまわして隣で公正がすやすやと寝息を立てているのを確認し、寝返りをうって背をむけてもう一度寝直そうとしてバイト行かないとと思い出し、仕方なく体を起こした。静かな室内に七人分の寝息がこもって聞こえていて、僕もなるべく音を立てないようにそっと布団から足を引っこ抜いた。

 かばんから着替えを取り出してそっと引き戸を引き、隙間すきまをすり抜ける。右足は普通に通ったのだが左足がひっかかってガコンと音をたてた。幸い誰も起こさずにすみ、指一本分の隙間を残して引き戸を閉めた。廊下は既に外からの光がまぶしい。朝日だと思って窓ごしに空を見上げたつもりだったけど見えたのは青みがかって光るドームの天井だった。そうだった。太陽無いんだっけ。

 湯船のお湯はもうとっくに冷めて冷たかったので軽くシャワーを浴びて着替え、リビングに向かう。リビングにつながるドアの向こうからトントンと何かを刻む音が聞こえて来た。

「あ。おはようシュウ」

 キッチンでキャベツを千切りしていた明日香がぱっと顔を上げた。おはよう、と返そうとしてあくびに邪魔されタイミングを逃してそのまま口を閉じた。でもそのまま席に着くのもなんだったので頭をいて足を止める。

「何か手伝おうか」

「じゃあゆで卵むいて」

「了解」

 シンクに給食のスープが入っていそうな大鍋がつっこまれていて、その中で大量の卵が氷水に浸かっていた。ひとつ取り出してぺりっと剥がし、殻をザラ紙の折り紙箱に投げる。

 僕が卵を二つむく間に明日香は山のようなキャベツの千切りを終えた。

「シュウ……ゆで卵むき遅いね」

 明日香の千切りが速すぎるんだよ。

 明日香はゆで卵を二、三個つかんで小さな別の鍋に移してごろごろさせてパパッとむいてみせた。僕のみたいに身ごとむけて表面がガタガタになったりもしていない。つるつるてかてか光っている。悔しいので僕も真似して数個つかんで鍋に放り込んで転がして割れ目をつけてむいてみたが殻ではなく身が大きくむけて固ゆでの黄身が露出した。ゆで卵むき遅いって言うより下手だよね、と言われそうだったのでおとなしく一個ずつぺりぺりむくことにした。

「おはよー明日香、修徒! 何か手伝うことある?」

 寝癖を直しきれず短いツインテールの真ん中にアンテナをたてた栄蓮えいれんが入ってきてリビングを見回し、返事を聞く前にみんなのフォーク出すね! と食器棚を物色し始めた。続いて今日破きょうはが冬人さんと一緒に入ってくる。……何もしないで席に座りやがった。少し遅れて入ってきた公正……もそれにならいやがった。昨日子きのこが寝起きだからなのか普段と同じなのか微妙な不機嫌顔で入ってきて無言でゆで卵に手をのばしてぺりぺりとむき始めた。僕と同じぐらいのはやさ。よかった、別に僕が遅いわけじゃない。

「貴様らおはようだ曹様のお目覚めだ!」

「んな挨拶に返事したくねえよ一生寝てろ」

 いつもどおりに騒々しくつかさが入ってきたけど氏縞しじまと一緒ではなく縁利えんりと一緒に入ってきた。曹はそのまま入り口で仁王立ちしてふんぞり返り縁利は我関せずとばかりにその横をすりぬけてパンの袋に手を伸ばした。

「曹、氏縞はどしたんや?」

「聞いて喜べ諸君、そして我輩を褒めたたえろ。氏縞という馬鹿が今日珍しく我輩より起きるのが遅かったのでその上に部屋じゅうの布団を積んで来たのだ」

 死ぬぞ。

 喜邨きむら君が入ってきて曹は無理矢理入り口から退かされ、続いてテツロウさんが入ってきた。僕らは勝手に冷蔵庫のものを使って勝手に朝食を作っているわけだが、「おはようみんな。早いな」と嬉しそうに目を細めた。昨日も思ったけど本当に無頓着というか、おおらかな人だと思う。見知らぬ集団が突然大挙して上がり込んで「住ませて!」って図々しいどころのレベルじゃないし本当に一緒に暮らすとかありえないだろ普通。僕だったら警察呼んでお帰りいただく。

 僕はそろそろ食べ始めないと間に合わないくらいの時間になったのでゆで卵きを中断してお皿に自分のゆで卵(さっき黄身が露出したやつ)とキャベツの千切りをのせて席についた。喜邨君が伸ばしてきた手を払って塩をかけたゆで卵にかぶりつく。固ゆででちょっとぱさぱさしているけどせっかくの明日香の手料理だし文句は言わない。キャベツの千切りを食べていたら縁利がマヨネーズをかけてくれた。多いって。半分以上皿に残した。ジャムはなかったのでパンはトーストしてそのまま食べる。

「曹ああああああ!」

 どたどたと廊下を鳴らし、大音量とともに氏縞が飛び込んできた。引き戸の開くスパーンと弾けた音に縁利が驚いてトーストに新しく入れようとしていたパンを取り落とす。

「てめえ他人の上に布団タワー建設しやがって解体するのにどれだけかかったと思ってるんだ突貫工事のくせにやたら耐震性よくてぬけだせなかったぞ」

「ははははは我輩の才能のなせる技だ! 我輩は手先が器用だからな! 貴様のような不器用な男にはできない真似だろう! ふははははは」

「誰が不器用だって? 上等だ、いますぐここで勝負してやろうじゃないか。そこのゆで卵、たくさん剥いた方が勝ちだ!」

「ふん、望む所だ! この器用王者の曹様に勝てる者などいないがな!」

 きれいにむいてよ、という明日香の言葉に二人同時に親指をたてて昨日子を押しのけシンクの前に並んでスタートのかけ声も無くむきはじめる。おい。さっきの僕より遅いが気のせいか。だいたい同じぐらいのスピードでぺりっぺりっとはがしていく。それまでただ様子を傍観していた喜邨君がついに待ちきれなくなって立ち上がり、

「俺が剥き終わるまでにたくさん剥いた方が勝ち、それでいいな?」

 とさっきの明日香以上に速いスピードでゆで卵を剥き始めた。うおおおお負けてたまるか、と両サイドの二人が同時に熱をあげ、今日破や公正が応援を始めて一気に熱戦さながらの雰囲気になる。「おー! 曹選手! 滑らかに指をすべらせまして!」「氏縞選手! お? 殻を大きくカポリと外しました……! 時短テク? 素晴らしき時短テクです……!」実況も始まり会場はさらにヒートアップ。……言っとくけどゆで卵の殻むいてるだけだからな。

 結果が気になるけどもうそろそろ出発しないと遅刻するので皿を下げて鞄を手に取る。

「……ごちそうさま。行ってきます」

「あ、シュウ。いってらっしゃい。気をつけてね」

 みんな観戦に夢中で明日香しか返事してくれなかった。


「おはよう修徒君。今日はまず掃除をしてもらおうかな」

 飯堂めしどうに着いてエプロンを着るとさっそく柄の短いほうきと金属製のちりとりを渡された。とりあえず学校の教室掃除と同じ要領でテーブルと椅子を全部どけてから一気に掃こうと思ったけどそこまでスペースが無い。そして椅子はともかくテーブルがめちゃくちゃ重い。しばらく赤の十字が描かれたテーブルと格闘し何とか持ち上げて二つ動かして椅子も動かしその下を掃いた。動かしたやつをもどした時点でもう汗だくだ。明日筋肉痛かもしれないな、などと思いながら別の二つを動かす。力持ちの喜邨君だったら片手でひょいひょい持ち上げるんだろうな。僕より喜邨君の方がこの仕事向いてると思う。

 中の掃除が終わったら今度は窓辺の植物に水やり。ぼーっとしていたので松の盆栽の隣にあったパンダのぬいぐるみに水をぶっかけそうになった。テーブルを拭いてからレジカウンターを拭いた。レジ前のCasherの文字の隣にPhoneという文字があって糸電話が置いてある。Phoneといえば電話のことだったと思うが糸電話も含む単語だったっけ。白雑巾を片付けたらやることがなくなった。海瑠かいるさんも下ごしらえを済ましてヒマそうに従業員室の座敷の縁に腰掛けている。

「おお、来てるな。おはよう」

 そこへ妙に上機嫌な店長が新聞片手に従業員室奥の木の階段を下りて来た。

 今日は忙しくなるぞ、と新聞の最後の面の小さな記事を指差す。海瑠さんの後ろから僕ものぞき込んでみたけど英文だったので即刻読むのをあきらめた。何て書いてあるんですか海瑠先生。

「政府の高官がナーガ・チェスで会議するみたいだね。駅の近くに会議場があるんだ。ここも会議場に近いからみんなここに食べに来ると思うよ」

 政府の高官か。ひょっとしたらアンドロイドについて何かポロッとしゃべるかもしれない。

 店長が仕入れに出かけた後大皿拭きを命じられた。海瑠さんに従業員室の座敷の押し入れの天棚からあまりほこりのかぶっていない段ボール箱をおろしてもらい、乾いた白タオルを片手に段ボールのふたを開ける。うわ、ぎっしり……。持ち上げてみようと段ボールの底に手をひっかけてうんうんうなってみたけど段ボールと畳の間に指先を突っ込むのが精一杯で、下手をしたら指先がつぶれそうだった。海瑠さん、見た目は筋肉マンから程遠いのに力持ちなんだな……。

 普段使いの白皿と違って大皿は豪華な絵が描かれていた。皿の中心を囲むように二頭の緑の龍。ところどころ赤い色も入っている。よく見るとちょっと金箔も張られているようだ。縁には波と龍の絵。全部同じ絵かと思ったら次の皿は赤い龍だった。真ん中の絵柄はさっきの皿とほとんど同じだけど縁に鳳凰(ほうおう)が飛んでいる。

「あ、割ったらどうなるかわかってるよね?」

 厨房ちゅうぼうから海瑠さんの明るい声が聞こえて来た。どうなるのかさっぱりわからないけどとにかくお先真っ暗なことはわかった。慎重に三枚目のお皿を割る。え。

 手元でまっぷたつに別れたお皿を前に脳内真っ白思考停止。ええと右手確認、お皿の真ん中の龍の絵が首の所でちょん切れていて縁に描かれた紫の亀さんのやたら長いしっぽが絶妙な長さで途切れている。左手の方は龍一頭の後ろに龍の首が浮いている。途切れたお皿の間からまだたくさんお皿の入った段ボールが見えている。うん、どんどん拭かないとお客さん来ちゃうよな、急がないと。ところでこの二つの物体は何かな。こことここぴったり合うよな。断面を見ると茶色い土っぽい芯の外側に白い層を重ねてあるのがよくわかるよな。……。やっぱりぴったり合うな……。このままくっついたりしないかな……。

「修徒君作業止まってない?」

「うひゃあ!」

 急に背後から声がしたのでもうちょっとで取り落とす所だった。これ以上割るわけにはいかないのでぐっと握り込んで阻止。そのまま気まずい沈黙が続いて耐えられなくなりギギギと首だけで強制的に後ろを振り向いたら途中で頬に海瑠さんの人差し指が突き刺さった。

「ご……ごめんなさい……」

「……」

 いつも通りの営業スマイルで見下ろされて沈黙。睨まれているわけでもないのに、というか睨まれるより怖くて顔を元の向きにもどせない。しばらくじーっと目を見つめられて、

「ぶ」

 いきなり吹き出してくすくす笑い始めた。

「ちょっ……何で笑うんですかっ」

「何でってそりゃあ…、あはははは」

 僕の頬から人差し指を離してその場で体を折って笑いをかみ殺した後、まだ息が荒いまま「だってそれ」とまっぷたつの皿を指差した。

「オレが少し前に割ったやつだよ。自分が割ったと思って焦って割れ目合わせてみたりして……あはははは痛てっ」

 思わず〈力〉で柱から棒を伸ばして海瑠さんの頭をヒットした。海瑠さんが後頭部を押さえてうなっている間にさっさと持っていた皿を畳に置き、段ボールの中の皿に手に取る。両手がふさがってても他人をぶん殴れる〈力〉ってホント便利だな。

「ヒマなら手伝ってくださいよ」

「わかったわかった悪かった。そんな睨まないでほしいな。オレはやーいひっかかったーって言いたかっただけなんだよ」

「あ、海瑠さんそこに座っちゃ……」

「え」

 畳に腰を下ろした海瑠さんが硬直する。僕はわざとうわあ、と気持ち悪がる表情を作って

「今そこに虫がいたのに」

 慌てて腰を浮かしてお尻をぱたぱた払って畳を振り向きまたぱたぱた。“一人お尻ぺんぺん”をお皿を磨きながらのんびり眺める。

「と、取れた?」

「嘘です」

 あっさり言うと焦ったじゃないかなんて嘘をつくんだよと困った顔でどなる海瑠さん。僕をからかうからだ。仕返しだ仕返し。口をとがらせて海瑠さんの居る方向と逆方向に顔を向ける。

「おう。何をのんびりしとるんだ。仕事しろ仕事」

「誰が言ってるんですか。できる分の仕込みは済ませました。修徒君にメニュー替えの指示をお願いします」

「海瑠はこれの下ごしらえをしておけ。一号、こっち来い」

 店長は持っていたボロくてでかい布袋をドン、とレジカウンターに置いてすたすたと従業員室へ入って来る。かなり重量がありそうなそれを海瑠さんが片手で軽々と持ち上げて厨房奥まで運んで行った。従業員室に入ってきた店長はすたすたと僕の後ろを通り過ぎて棚の上の方の引き出しから上等な布の束を取り出して床に落とした。

「一号、それをそっちの白タオルぬらしてきれいにしろ」

 ………。あー、僕はいつになったら名前を呼んでもらえるんでしょうか。まさかずっとRPGのモブキャラ的存在のままじゃないだろうな。はやく『いらっしゃい、ここは飯堂だよ』以外のセリフを設定していただきたい。

 テーブルの上に置いてあった白タオルを濡らして来て白っぽくなった布の表面をこすると赤地に金糸で描かれた円に囲まれたふたつの「喜」が鮮やかに現れた。全て同じように赤地に金の文字。布の手触りがものすごく滑らかなのでひょっとしたらこれは絹かもしれない。この布はメニューのカバーのようで、さっき布を出した引き出しの隣の引き出しから店長が紙束を選んで投げてよこした。ふむふむ、……漢字ばっかり並んでて全く読めないぞ。一応ふりがなが、ってこれ平仮名じゃなくてアルファベットじゃん。わかんないよ。数字しかわからない。だいたい0が三つから四つつく品が並んでいる。いつものメニューは0二つだった気が。ぼったくりってやつか……! 大人の事情というか闇を見た気分だ。

 そういうメニューへの興味はひとまずテーブルの下にでも置いておくことにして、さっそく布の中にメニューを挟み込み始める。上質な紙は上質な布の中にとてもスムーズにするりと入って簡単に高級中華料理店らしい見た目のメニューができあがった。いつもは閑古鳥の鳴く街はずれの中華風ご飯屋さんなわけだけど。

 それから真新しいハンカチサイズのタオルを出して来てそれを氷水に投げ込み、海瑠さんと協力して無茶苦茶重いテーブルを厨房の方にひとつ分口を開けた環状に並べ替えて椅子も超特急で磨き直して並べ直した。上質な皿は店長がのんびりかつぴっかぴかに磨き上げた。茶器には上等な甘露かんろ茶葉をセットし従業員室の奥にしまい込まれていたワゴンに載せて準備万端。仕込みもさすが海瑠さん、さっさと済ませて今はお客さんが来るまでの暇つぶしにと人参やキュウリの見事な飾り切りを猛烈な速さでこなしている。店の外装云々は老舗っぽくて良いと長年全く掃除をしないままの状態で放置してるみたいだけど。

「海瑠さーん。まだ他に手伝うこと何かありますかー?」

 真剣な顔で大根とにらめっこする海瑠さんに声をかけた時、視界の端で何かがもぞっと動いてついっとそっちを見ると流しの氷水に突っ込まれた固そうな物体がもぞもぞとうごめいていた。

「わあああっ? 何これ生きてるっ?」

「ああ、それはかにだよ。生きたまま鍋に突っ込んだ方がおいしいからね。新鮮で」

 生きたまま調理……? ぞわりと鳥肌がたつ。いや調理されるのはどのみち調理されて食べられる蟹なんだけど。

 ごすごすと何かに尖った物を打ち付けているような音に流しのすぐ側に置かれていた段ボールに目を移す。ごすごす音がするたびに段ボールが揺れている。

「そっちは鶏が入ってるんだ。生まれて一ヶ月半ぐらいの若鶏だよ。めたばかりの鶏の料理の美味さ、知らないんだろ」

 し、シメルッテナンデショウカ。段ボールの蓋は閉まってますがまさか鶏の気道がどうにかなるようなことをするんじゃないですよね……? そのままその場で硬直してたら僕の首もどうにかなりそうだったのでとりあえず何か仕事しなくてはとレジのお金を確認する。少量の紙幣と金貨、大量の銀貨、そしてちょろっと銅貨。価値がわからないのでとりあえず紙幣は□、貨幣は金、銀、銅の字を○で囲って隣に枚数をアラビア数字で書いておいた。これなら海瑠さんや店長にも通じるだろう。

 正午の少し手前で目当ての金持t……お偉いさん方が来店した。店長はいつもの薄汚れた白いポロシャツに黒ズボンではなく上質な、どことなく中華っぽい控えめな色使いの服をまとってようこそいらっしゃいました、席はこちらに用意してございますとにこやかに対応する。やる気のなさマックスを全面に押し出した態度とのギャップがありすぎるが中華服は良く似合っていて本当に宮廷料理人か何かのようだった。体する金持ち軍d……お偉いさん方はものすごく高価そうなスーツをゆるっと着こなし、それぞれ芸術品のような格好いい紋様のネクタイを締め、それぞれ立派な革製の鞄を手に提げていた。昨日の店内と雰囲気が大違いだ。いつからここは繁華街随一の高級料理店になったのか。都市郊外の寂れた一般料理屋じゃなかったのか。十二人の客の年齢層には幅があり、奥の席に座ったおそらく一番偉い男はそこそこ歳がいっていて、頭頂部まで後退した髪が真っ白になっているが、一番末席の若くてスーツの着こなしがいまいちな男は今日破よりひとつふたつ上くらいに見える。冷やしておいた手ふきを配り、メニューを渡す。海瑠さんが小さな湯のみに甘露茶をれて配ると高官はすぐに飲み干し、端から淹れ直していた。

 年配の人から順番に注文をとる。メニューの漢字が読めないし書き取れない(画数が多い)ので何ページの上から何番目、とメモをとる。同期同士かお互いの歳が近そうな高官三人は仲が良く、メニュー表を前にこれがいいあれがいいと論争してなかなか決まらず両隣の人に軽く睨まれ上司にもしかられていた。

 注文を取り終わった後、海瑠さんと一緒に予備のメニュー表で注文を確認する。海瑠さんは一回目を通しただけで全部覚えて早速調理にとりかかった。手始めにさっき揺れていた段ボールを裏口に出して

「そこで鶏しめて」

 え。

 重たい段ボールの蓋をこわごわ開けると三羽の鶏が足を縛られた状態でこっちを見た。思わずパタンと閉める。暴れたのか飛び散っていた羽毛が宙を舞う。一瞬光が入ったせいで出してもらえると勘違いしたのかごすごすごすごすさっきより激しく段ボールの側面をつつく音がする。……これ、僕がやるの……?

 いやいやいや。……無理! 絶対無理! 僕には無理です海瑠さん……って居ないし!

 迅速に料理を提供すべく既に厨房に戻っていて、鉄扉ごしに野菜を切る音が聞こえる。……早く食材を持って行かなければ。

 ごくりと息をのむ。おそるおそる蓋をあげると鶏の一羽がきょとっと首をかしげて目が合った。再び蓋を閉めかけた手を無理矢理硬直させて鶏と見つめ合い、そっと手を伸ばす。

「コケーッ!」

「痛てっ!」

 思いっきりつつかれた。こんちくしょう人間を何様だと思ってんだ。やるよ。やってやるよこんちくしょう。……こんちくしょう。今度こそ首と胴体をつかんで固定する。さて、やるか。

 ……どうやって。ナイフとか使うなら分かりやすいけど、あいにくとそういうものは一切持ち歩いていない。カッターナイフも普段使わないから持ってない。〈力〉をうまく使えば……? 使い方が思いつかない。海瑠さああん……。

「まだ済まんのか一号」

「僕は一号じゃなくて修徒です」

 バタンともし戸の裏に居たら吹っ飛んでいるだろう勢いで戸が開いて店長が顔を出した。店長を呼んだ覚えはないぞ。

 店長は逆さ吊りにされた鶏を一瞥しただけで僕が鶏の絞めかたを知らない事を察したらしく、湯気をたてる大鍋を地面におろし、「見てろ」と一言段ボールの中のうち一羽の首根っこを引っ掴んでそのままぐるぐると荷物を振り回すかのようにぶん回した。2、3周後にかすかにぼきんと嫌な音がしてまわすのをやめる。変な角度に首が折れまがった鶏の胴体を左手でつかんでどこから出したのかナイフを出して来て一息に鶏の首にぶっ刺す。たぶん折れているあたり。この状態でまだ生きているのか鶏の羽がばさばさと開こうとし足がばたばた動く。店長は両手で胴体を包むようにつかんで首を下にして絞り出すように首から血を抜いていった。出なくなるまで少し待つ。

 ……呆然と見てたけど。これやれって? これを僕にもやれって言うんだよな?

 動かなくなった頃に店長はそれをもとの段ボールに放り込み、残った一羽の首をつかんだ。

「お前もやれ」

 やっぱりかああ……!

 首振って断ろうとしたが睨むような眼に射すくめられ、手が半自動化して逆さ吊りで弱った鶏の首に伸びる。これを、まわすんだよな。顔をそらしてぶんぶんまわす。遠心力のせいか死ぬ事がわかっているのか、鶏は意外に暴れない。

「もっと速く回せ」

 羽毛のぬくもりを感じる右手に汗が滲んだ。思い切ってぐりっとまわす。ごきゅっと嫌な感覚が伝わって来てまわすのをやめる。渡されたナイフを受け取って刺そうとしたけど今になって鶏が暴れだしておさえていられない。さっきの一羽を絞め終わった店長が胴体を押さえて、何とかナイフを刺した。

「もっと深くだ!」

 また鶏と眼が合った。急いでそらしてナイフをぐっと突っ込む。ナイフを抜いたら逆さ吊りにして血を絞り出す。足下の黒タイルの端の排水溝に血が滴るにつれて鶏から力がぬけていき、やがて静かになった。僕の足からも力が抜けて来て座り込みそうになった所を店長にはたかれて背筋を伸ばす。

「熱湯に約一分」

 頭から熱湯に突っ込み60秒数え、

「次は毛をむしる」

 言いながらすでに一羽めを丸裸にしていた。僕も何かが麻痺したような感覚の中手にしていた首無し鶏の毛をむしる。思ったよりも簡単にぼろぼろ抜ける。抜けやすいんだ、鶏の羽って。

「一号。鶏を絞める時はな、思い切りが大事だ」

 残りの鶏を絞めながら店長が言う。僕よりずっと手早い。鶏がバタバタ暴れる暇もなくさくさく処理され次々に熱湯に放り込まれて行く。

「時間かかると血が飛び散るというのもある。だがそれ以上にせめて苦しむ時間の少ないようにしてやるべきだ」

 ……僕は殺すこと自体に抵抗があるんだけど。僕の渋面をどうとらえたかわからないが店長は小さくため息をついてお湯につけた鶏の毛をむしり始めた。

「絞めるのに時間がかかればかかるほどお前が与えた苦痛の時間の割合が増えてしまう。命に敬意をもて。その生に尊敬をもて。その生を穢(けが)さぬよう、せめて最後はひとおもいに終わらせてやれ」

 毛をむしり終わった鶏の表面をバーナーであぶる。抜ききれなかった産毛が焼けて表面がつるんとする。いいにおいがする。鶏肉みたいだ。……鶏肉なんだけど。さっきまで生き物だったのにもう肉にしか見えない。

 厨房に持って行くとすぐに海瑠さんの神速包丁が襲いかかり細切れにされて鍋に放り込まれた。いつもはその部分しか見ていなくて、その前処理のことなんて知らなかった。でも鶏肉は鶏肉だ。おいしそうなことに変わりないのはなぜなんだ。

「そこの前菜持って行って。あ、その前にエプロン変えて手も洗って」

 頭がまわらないまま血まみれエプロンを脱ぎ捨てて店長に渡された新しいエプロンを身につける。手を洗ってからお盆を手に取る。茹でた鶏肉をつかった料理。……何だろう?

「それ一番外の人」

「はい」

「これ一番奥。水晶肴肉」

 何て言ったかわからなかったけどとりあえず置いてくる。何だかやたら美味そうな盛りつけ。四角く切られたお肉が扇状に並べられていて生姜その他の細く切られた野菜が扇の束の部分を成している。扇の側に鶴と桜の飾り切りになった人参。小皿に黒酢もセットで出す。

「それ外から二番目」

 これはわかるぞ。春雨サラダだ。

「それ早く持ってって奥から二番と三番。働け店長」

「あーわかったわかった」

 肉料理を運ぶ僕。店長は透明な黄色くて太い麺のようなものが入ったサラダを運んで行った。さっきの仲良しこよしの所だ。全部運び終わった頃には最初の方に運んだ前菜はもう食べ終わっている。食べるの早いな、と思ったら結構残していた。むむう。こんなにおいしそうなのに。

「そのスープ、全員に」

「はいっ」

 ワゴンをがらがらと押していき小さめの器のスープを配る。厨房からもう次に出す皿が出て来ているのが見えているので焦っているのだけど汁物なので急げば絶対こぼすので末席の人には待っていただく。……中間ぐらいの人、食べ終わったからって皿を突き出されても僕は腕二本しか無いんですがー。このスープ置くまでちょっと待ってよ。

 スープを配ったら魚料理、その次は肉料理。それからご飯もの。手があけば香りのいいお茶を淹れ、ごま団子をお皿にわけ、杏仁豆腐の器をボンに載せ、ライチ等の果物を盛る(盛り終わった所で店長に全部盛り直された。そんなに下手だったか)。

 空いた皿を下げ、お茶とデザートを配る。どこかで美味いというつぶやきが聞こえて、僕が作った訳ではないがなんだか嬉しくなった。配り終わったら皿洗いが待っている。大量の食べ残しを一緒くたにゴミ箱へ放り込みひたすら洗う。食器をすべて洗い終わって厨房から出た時には、高官達はもう支払いを済ませてかえっていくところだった。

「ふうう、終わった……」

「まだだ。灰皿を片付けてテーブルも椅子も元通りにしろ」

 少しぐらい息をつかせてくれればいいのに即指示が飛んできて、机の灰皿をまとめて厨房に持って行く。どれだけ手際がいいのかさっき厨房を出る時には散らかりまくっていた厨房内は海瑠さんの手によってきれいに片付けられていた。僕から灰皿を受け取って手早く中身を捨てて洗う。

 店長と協力してテーブルと椅子を元に戻す。思いっきり動いた後なので結構疲れていて準備の時よりも時間がかかった。全部元にもどしたら床掃除とテーブル拭き。その間に普通のお客さんが数人来て通常メニューのラーメンやチャーハンを食べて行った。

 午後三時頃になってようやく店長から休憩を言い渡され、誰もいない店内のテーブルの一つに突っ伏して思い切りだらけてやった。あー疲れた。すっごいつかれた。そして高官達の会話盗み聞きするのすっかり忘れてた。忙しかったもんなあ……覚えてても聞く余裕なかったかも。

「はい、おつかれ!」

 黒赤の目に悪い配色のテーブルの上にドン、と湯気のたつ卵料理が置かれて思わず顔を上げた。

「蟹玉だよ。あとこっちは酢豚。餃子も焼売も肉まんもあるからたっぷり食べて」

 賄いだよ、とウインク。やった、豪華なご飯をタダでいただける! 小皿と端を受け取っていただきますもそこそこに早速蟹玉にれんげをつっこんだ。滑らかな卵の下にほかほかのご飯が包まれていて、れんげの端から一番上にかけられたあんかけのあんが零れ落ちる。口に入れてその熱さにはふはふ言いながら味わう。やわらかい卵。ご飯とからみあうあん。美味い。

 海瑠さんと店長も僕を見て苦笑しながらそれぞれ肉まんや餃子をつまむ。うむ、そっちもおいしそう。喜邨君がいたら大喜びしそうだ。

「……あの、海瑠さん。餃子か肉まんか焼売、持って帰ってもいいですか? みんなにもこのおいしいの食べてほしいし」

「いいよ? あ、でも一度はみんなでここに食べに来てほしいな。その時は通常メニューでおもてなしするから」

「もちろんです」

 お、肉まんもおいしい。こんなにおいしいのに、どうしてこの店はずっと閑古鳥なのだろう。

「肉まんとか焼売とかなら通常メニューでも全然出せるんじゃないですか。チャーハンとかラーメンとか、一品ものだけじゃなくてそういう軽食も出せばお客さん来るんじゃないですか」

「通常メニューにもあるけど注文が無いんだよ。ちなみに蟹玉は特別メニューね。通常メニューには入ってない」

「蟹玉メニューに出さないんですか? おいしいのに」

「……外食するほど金に余裕のある人間はそう多くはない。ここはな、一号、少しでも金がある人が贅沢したい時に来る場所だ。蟹玉のような原材料が高いものを出そうと思ったら売る値段も高くなる。それじゃあ本当に一握りしかいない金持ちしかそれは食べられない。うちのメニューに高いから食べられないなんてものを載せたくない。わしはな、ここを一般人が贅沢する場所にしたいのだよ」

 お昼どきになるとどこからともなく人が集まり、思い思いに食事をつついて顔見知りでもそうでなくても語らい笑いあい、やがて帰って行く。そんな場所であれば。空っぽの店内にそんな光景を思い浮かべたのか、ぼんやりと龍の壁画を眺めて店長は唇をかんだ。

 ふわふわの卵の中に混ざった蟹肉を舌が探り当てた。それはほろっとくずれて甘い味が広がり消えた。おいしいのになあ、今度はそれ以上考えずに飲み込んだ。



 大量の肉まんと餃子と焼売を詰め込んだ箱を渡されて恐縮してというよりも持ち帰れないから断ろうとしたら送るからと海瑠さんの運転する三輪トラックの荷台に荷物ごと載せられて帰路についた。白黒タイルの道をどんどん進んで行くのだけどなにしろずっと白黒なので道だけ見ていると進んでいるのか止まっているのか時々わからなくなる。だんだん目がチカチカしてきたので顔をあげたらちょうど角を勢いよく曲がって振り落とされるかと思った。

「あ、そこです!」

 テツロウさんの家を見つけて声を張り上げた直後に急ブレーキ。落ちる……! 荷台の縁をつかんで留まり、勝手に下車しようとする荷物を引き止める。

 荷台から二、三個の箱を持って降りると海瑠さんは残りの箱を全部両手と頭の上に山積みにして玄関前に立つ。ああ、開けろってこと。箱を小脇に抱え込んで走って行き一応ノックをしてからただいまー、とドアを開ける。ちなみに玄関の鍵は壊れていてかからない。

「おかえりシュウっ! ……ってどうしたのそれ? 後ろの人だれ?」

「こんにちは。修徒君のバイト先の飯堂従業員の海瑠です。みなさんに差し入れを持ってきました。配達先はそこのテーブルでいいかな?」

 返事を待たず器用にも積んだままの状態でテーブルに箱を移す。僕と明日香を見比べてにやにやしながらオレはまだ仕事あるからとささーっと帰って行った。……んー、何か深読みされたな。何か勘違いされた気もするな。明日訂正しとかなきゃ……。

 縁利が箱のひとつを開封してわお、と声を漏らす。ほかほかと湯気があがり、栄蓮も覗き込んで目を輝かせた。

「シュウが食べものもらって来たよー! ちょっと早いけど夕飯にしよー!」

 明日香が廊下によびかけ、メシイイイイ! と雄叫びが帰ってくる。あー、僕さっき昼飯食べたとこなんだけどな。

 リビングに来た一番乗りは予想通り喜邨君で、続いて曹と氏縞が到着した。そして公正とテツロウさんが何か話しながら入ってきて、昨日子もひょっこり顔をのぞかせる。そして今日破が睡眠中の冬人さんをずるずるひきずって現れた。

「おー、すげー」

「これどうしたんだよ」

「シュウがバイト先でもらって来たの。飯堂ってお店」

「いただきまーす」

「こらまず席に座って!」

 がやがやと一気に騒がしくなりみんなでテーブルを囲んで着席。みんなの前に取り皿と取り箸が並べられる。いただきます、のテツロウさんの声にあわせてみんなが手を合わせてさっそく手近な箱を開封する。僕に一番近い所の箱にはカレーチャーハンが入っていた。いつの間に作っていたんだろう海瑠さん。喜邨君はもう三箱目を空にして四箱目を手にしていた。曹と氏縞はいつものごとく同じ箱を取り合いし、妥協して同じ箱から食べ始めたものの残った最後の肉まんで言い争いをしている。

「貴様に半分譲ってやったのだ、最後のひとつぐらい我輩に譲るがいい」

「誰がお前なんかにゆずるかよ。これは俺のだ。漢が最後の一個を他人に取られるだなんて恥だ」

「この魏の始皇帝曹操様の子孫曹様に献上するのだぞ? 恥よりむしろこの上ない名誉だろう。献上しない方が恥に値する、というか侮辱罪に処するぞ貴様」

「そのわけわかんねー理由でお前に譲るのが恥だと言ってるんだ」

「我輩は筋を通しているつもりだが」

「通す所間違ってんだよこの勘違い野郎が」

「貴様こそ最後のひとつは自分の物だと思っている勘違い野郎だろうが」

「勘違い野郎はお前だ」

「貴様だ」

「お前だ」

「貴様だ」

 ……肉まん冷めるぞ。

 ふう、とため息をついて他のみんなに目を移す。栄蓮と縁利が仲良く分け合ってチャーハンを食べている横で明日香が口の端にごま団子のものだろうごま粒をくっつけたまま餃子を食べている。かわいいなあ……。しばらくじっと見ていたら視線を感じたのかこっちを振り向きかけたので慌てて目をそらした。

 どこから出して来たのかお酒をお供に今日破が冬人さん、テツロウさんと焼売をつまんでいる。大人の会話ってとこだろうか。何だか楽しそうだ。公正は春巻きが気に入ったらしくさっきから春巻き春巻きとつぶやきながら残りの箱を片っ端から開封してはずれを喜邨君に押し付けている。その喜邨君はすでに食べ過ぎで腹痛を起こしたらしく空箱に埋もれてうなっている。際限なく食うから箱を渡すのやめてあげて公正。……あれ。

 昨日子が箱に全く手をつけずにそっぽ向いて冷蔵庫から出して来たような生のピーマンをかじってる。肉まんとか餃子とか食べればいいのに。余り物とはいえせっかく海瑠さんがつくって届けてくれたんだし……。

「昨日子、肉まん一つどうだい?」

「嫌い」

「……餃子とか焼売とか他にも色々あるから、こっち来て一緒に食べよう」

「いらない。嫌い」

「何か好きなもんあるだろ、こっち来いって……」

「いらない、しつこい」

 無視してピーマンをかじろうとするので腹がたってきて取り上げようとしたら突き飛ばされた。足がすべってしりもちをつき、縁利の椅子に頭をぶつけてそこがじんわり熱くなった。

「な、何すんだよ。海瑠さんがせっかく作ってくれたんだ、味見ぐらいしろって」

「いらないって言ってる」

 昨日子がつかつかとテーブルに近寄り手を伸ばし、何をするかと思ったら取り皿が数枚顔面めがけて飛んできて僕の頭の横でばりんがちゃんと砕け散った。驚いて止めようとする明日香を振り払い昨日子はそのまますたすたとテーブルを離れ乱暴に玄関の戸を閉めて出て行った。

「ちょっと昨日子! ……っシュウ、昨日子の好き嫌いは放っておいて! 海瑠さんがせっかく作ってくれたは作ってくれたけど、無理強いすることないじゃない! ……私、追っかけてくる」

 明日香も勢いよく出て行き、リビングのドアは開けっ放しのまま残された。思いっきり理不尽に怒られた僕はただ呆然としばらく座り込んでいた。


 壁の時計の針が八時を指していた。僕も他のみんなも風呂を済まして(腹痛で寝込んでいる喜邨君をのぞく)明日香と昨日子の帰りを待っているのだけど帰ってくる気配が無い。そろそろ心配になって来たというまでもなく最初からずっと心配しているのだけどまだ帰って来ない。

「ちょっと様子見てくる」

 我慢できなくて席を立つ。

「ちょっと待て。二人とも無事やから安心せえ。座れや」

 そういえば今日破は人探しの〈力〉だっけ。今日破が無事というなら二人はきっと無事なんだろう。でも、いくらなんでも遅い。

「……迎えに行ってくる」

「……二人は変電所の近くに居るぜ。迷わず行けるか?」

 公正がにやにやしながら顔を覗き込んで来た。わざわざ情報をありがとう。横目でにらんで立ち上がる。今朝もバイト行く途中で近く通ったから、もう迷わないって。玄関を出て左に曲がる。飯堂と逆方向な気がする? ……気のせいだ、うん。

 道を真っ直ぐ進む。間隔があきすぎていて時々足下が全く見えなくなる街灯の灯りの間をだんだん早足になりながら抜けて行く。

 そういえばなぜかこの街の曲がり角には必ず龍の銅像が鎮座している。塀になっているところはわざわざ穴をあけてまで。黒い羽を持った緑色の、どちらかというと龍というよりドラゴンと呼ばれそうなそいつらに交差点を通るたびに四方を囲まれて何だか変な感じがする。監視されているというか、観察されているというか、そんな感じ。

「あ」

 突き当たりを右に曲がるべきか左に曲がるべきか考えていた所で右のほうの道の街灯の影から明日香が現れて思わず声が出た。明日香も「あ」と声を漏らしなぜかきびすを返して逃げ出した。

「ちょっと待って明日香! 何で逃げるんだよ」

「来ないで!」

 来ないでじゃない、こちとら心配して探しに来たんだぞ。腹をたてつつまた走り出した明日香を追いかける。近くに昨日子は見当たらない。

「何で追ってくるのよ」

「だって、逃げるから」

 明日香が足を止める。僕も足を止める。開口一番、「ここどこ」と聞かれて「……倉庫街」と答えた。見たまんまだが僕だってここがどこだかさっぱりわからない。

 今まで歩いて来た道よりもさらに照明の暗い道に入っていた。ところどころ街灯の電球が切れているらしく真っ暗でそのあたりの建物の輪郭がはっきりしない所がある。数少ない電灯に照らされているのはもう使われなくなってどのくらいたったのかと思うような古くて閉じたシャッターがベコベコにひしゃげた数多くの倉庫の列だった。それぞれのシャッターにかすれてかすかにしか読めない白文字で数字やアルファベットが書かれている。僕たちのすぐ横にあるこの倉庫は253番。明日香に一歩近づくと二歩遠ざかる。

「帰ろう」

「嫌」

「昨日子は帰って今日破たちと一緒に探した方がいいよ。夜だから僕等だけだと逆に危険だし」

「違う」

 僕を睨んでまた一歩下がる。ちかちかしていた電灯がまたひとつ、すうっと消えるのが視界の端に見えた。

「……無理強いする人だなんて思ってなかった」

「……ごめん」

 何で明日香に謝っているのだろう、僕は。

 一方的に睨みつけられ、数秒じっと観察された後視線がそれて背中がこちらをむいた。そのまままた走り出すかと思ったけど明日香はゆっくり歩き始めた。

 このあたりは街灯が消えていたり折れていたり無かったりして足下もまともに見えないぐらい暗い。靴の裏に伝わる感触で地面に敷かれているだろうタイルがめちゃめちゃに割れているらしいことはわかる。大きめの石を蹴っ飛ばしてしまいジン、とつま先が一瞬しびれる。しかも転がって明日香にぶつかったらしく前方で「痛っ」と声があがった。何すんのよ、と振り向いてちょっと困ったように笑った。

「……私の方こそごめん。今回のは昨日子も悪いよね。いらなくても、一口ぐらいって気持ちはわかるし……」

「いや、明日香はいいよ。僕が昨日子に謝らなきゃ」

「……」

 どうして明日香が怒ったようにぷいと背をむけてしまうのですか。もしもし明日香さん。……女子って本当わからない。

 何か騒がしいな、まだ遠いが聴覚に何かひっかかって周囲を警戒する。何だろう、怒鳴り声? 足音? 銃声……?

  明日の夜はやめとけ。

 ふっと脳裏にジョセのローブが思い浮かび、無我夢中で明日香の腕をひっつかんで一番近くのシャッターの壊れた倉庫にシャッターと壁の隙間からひきずりこんだ。ぎゃあぎゃあとわめくので力づくで口を覆う。手で外そうとするので両手をそろえて後ろにまわして右手でまとめてつかんで固定。ばたばた暴れるのをなんとか押さえてシャッターの隙間から外を見る。

 数秒後、それはやって来た。

 十字路に唯一ひとつ残った街灯に照らされて軽装の兵士が十数名、後ろを気にしながら次々に走り抜け、その直後に怒鳴り声と足音とそれぞれ身に付けた防具の音と共にすざましい砂埃を巻き起こしながらアンドロイドの大軍がばっと現れた。右腕に装着されたリモコンが長銃にぶつかる音、走りながら撃っているのか発砲音も混ざる。振動でぎしぎしとボロい倉庫が揺れていた。

 気づかれませんように、見つかりませんように。見つかったら、僕に明日香を守ることは多分無理だから、見つかりませんように。

 武器を満載した三輪トラックを最後尾に、アンドロイドの大群は通過しきりシャッターの隙間からは何も見えなくなった。やがて振動がおさまり静かになる。行ったか……。

「むー!」

 明日香が暴れて邪魔だ。大人しくしててってば……。

 はっと自分のしていることに気がついた。……女子の口をふさいで両手を後ろで拘束して暗がりに連れ込んでいる。

「わ、うわ、ご、ごごごめんっ!」

 焦って放して飛び退いた。突き飛ばす形になってしまい、勢いで明日香が床にしかれた古い藁に投げ出される。

「ご、ごめん……」

「……」

 暗くて見えないがこれ絶対睨まれてる。嫌われた、絶対嫌われた。もうちょっと他に方法無かったのか僕。明日香は何も言わずにスカートの埃を払い、さっさと倉庫を出て行った。僕は残った。

 ……。だって怖いんだもん。

「……さっさと出てきなさいよ、シュウ。帰ろう」

 怒った声ながら明日香がいうのでおずおずとシャッターの隙間から顔を出す。やっぱり睨んでくる……。怖いって。イライラと足を踏みならしたので慌てて道に出る。これ以上怒らせてたまるか。

「……あっちは駅、だよね」

 アンドロイドの軍団が通り過ぎて行った方向に目を向ける。何があったんだろう、つぶやいてそっちに歩き出す。危ないよ、引き止めようと手をのばして引っ込めた。


 時々街灯が欠けていて極端に暗くなる白黒ぼろぼろタイルの道を割れ目を選んで踏むように歩く。変色して褐色がかった白タイルの端がさらにくずれて粉々になる。ヒビの入った黒タイルの破片につまずいてバランスを崩し、若干早足になりつつ体勢を立て直す。ここのタイルはきれいに白黒わかれたあのタイルよりもまだ好感が持てる気がした。ただ古くなってひび割れたまま放置されているだけなのだけど、まるで白黒以外のものの存在を地面に認めているような、なんかそんな感じで。

 しゃべろうにも話しかけづらくてそんなくだらないことを考えていたらもう駅舎が見えてきていた。この前来たときはホームレスが酒盛りをしていてちょっと騒がしかったが今日は静かだ。ホームレスの人たちも今晩はどこかに隠れて過ごしているのだろうか。

 すん、と鼻から息を吸って違和感を感じ、鼻の頭をこする。ちょっと静けさが不気味で心臓の音がいつもより大きく聞こえて空気がざわざわするぐらいで別にこの前ここに来た時と変わるものは無いと思うけど。何に違和感を感じたのかわからないまま構内に入り無人改札に近づいた時、ホームの方から吹いて来た風の鼻をつくにおいに思わず顔を上げた。すでに明日香は改札をすり抜けてホームへの階段をタンタンと足音をたててかけあがっていて、僕は追いかけるように改札を乗り越えて走った。待って明日香、その先は。

 わずか数段の階段を二段飛ばしで駆け上がり、最後の一段を踏む前に足が止まった。

 ……明日香の立ち尽くした先に、真っ赤な水たまりがいくつも散らかっていた。

「あ……」

 血だまりのほとりにはぼろぼろになった衣服だとか目をむいて死んでいるおじさんだとか、色々転がっていた。昨日酔っぱらって絡んで来た気のいいホームレスだと気づいた時、一気に吐き気がこみ上げてうえっとその場で吐いてしまった。吐いてもすっきりするものではなくて一緒に出た涙を先にぬぐって口元をぬぐって後は我慢する。震えてなかなか動かない足を叱咤して血だまりに近づき、そのホームレスの手からビール瓶を抜き取り、側に立てる。その手は瓶を奪い返そうともせずぼとりと床に落ちた。中身は血だまりへ流れ出して混じり、ほぼ空になっていた。瓶の口端から泡が垂れていた。しゃがんだその体勢のまま立ち上がれなくなって血だまりにひざをつく。しぶきがピチンと跳ねた。

 何だ。これは、何なんだ。

 ……きっとこれは嫌な夢なんだ。僕はたぶんまだあの倉庫で眠っていて、だから目がさめてからここにくればホームレスたちは相変わらず酒盛りをしているはずなんだ。そう、もっと前から夢なんだ。僕はこの世界に来ていなくて、今は合宿初日の夜のバンガローの中に居るんだ。長い長い夢を見ているんだ。早く起きないとみんなに迷惑だ。早く起きて明日香におはようって言いに行くんだ。早く、起きなくちゃ。

 だけど手をついた血だまりの温度は、静かに首筋を撫でる風はあまりにリアルで目を覚まそうと感覚を研ぎすませるほどに目の前の光景が焼き付いて全然効果がない。さっき吐いたせいで喉の奥がひりひりする。這うように壁に近づき支えにして立ち上がる。明日香がふらふらとホームの端に立ち線路を見下ろし、ふっとしゃがみこんだ。

 最初はここから、どこか遠くへ、別の場所へ行こうと思っていた。そう言ったのはどの男だったか。居心地がよくて、とここを選んだ彼は本当にどこへも行けないままその生涯を閉じた。線路は、すぐそこにあったのに。

 明日香の手の中で光が弾けた。ぽぽぽん、と小気味よいリズムで絆創膏やガーゼや包帯が出現する。絆創膏の一枚を、裏紙をはがして最寄りの死体に貼付ける。穴の開いた肩にガーゼを当て、包帯を捲く。血で腕をドロドロに汚しながら胴体を持ち上げ、背中の下に包帯を通そうとする。

「……明日香。何してるんだい」

「手当て。怪我は早く手当て、してあげないと……」

「遅いよ、もう。死んでるし……」

「遅くない!」

 ばっとこっちを振り返ったので思わずのけぞってしまった。そう言えばさっきからまともに見ていなかった明日香の顔は涙やら鼻水やらでぐちゃぐちゃになっていてかなりみっともない事になっていた。

「遅くない……。遅く、ないもん……」

 目をそらし、声が小さくなる。両目からぼろぼろと涙がこぼれ乱暴にそれをぬぐう。くぐもった声で何か言うが聞き取れなかった。僕は頭を撫でようとして挙げた自分の手を見てためらい、服で血をふいてから「帰ろう」と明日香の腕を引き上げた。



 ぐずる明日香をほとんどひきずるようにしてテツロウさんの家に着くと玄関をノックする前にドアが相手いつも以上に仏頂面の昨日子がぬっと顔を出した。

「あ、昨日子ただいま…」

 挨拶をするまもなく引っ張り込まれた。すぐに険悪な顔のみんなに囲まれる。なんで僕まで睨まれてるんだ。

 他のみんなを押しのけて昨日子が僕の前に正座もどきした(どちらかというと膝立ちだ。そっちのほうが辛くないか?)。そしてうつむいて目を逸らし逸らし

「さっき。わがまま。ごめんなさい」

 謝られた。とうにそもそもこの状況になった原因を忘れかけていたのでなんで謝られたのかとっさにわからなかった。

「あー……。いや、僕も無理強いして悪かった。ごめん」

 沈黙。明日香はまだ泣いているしみんなはそろって真面目な顔をしているし(冬人さんが見当たらないと思ったら部屋の隅で寝ていた)目の前の昨日子は目もあわせてくれないしいい加減居心地が悪くなって来たところで沈黙をぶち破るように突然今日破がだっはっはと笑い出した。

「よっし! 昨日子もちゃあんと謝るやないか。えらいぞ」

 昨日子をなでなでして直後昨日子にぶん殴られて今日破が吹っ飛ぶ。さっきのしおらしさはどこへ行ったのか「褒める、嫌い、言った……」と単語三つと仏頂面で怒りのオーラを全身から噴出して今日破ににじり寄る。

「褒めるくらいさせてえや!」

 廊下に逃げ込みながら今日破が叫んで

「嫌い」

 直後に昨日子が廊下に突っ込んでドアが閉まり、ぎゃああああああと見事に近所迷惑な悲鳴が響き渡った。

 しばらく呆然と眺めてからぶふっと吹き出した。気がついたらみんなも笑い出していて曹と氏縞に至ってはどちらが先に笑い出したかで既に喧嘩を始めている。

「なにがあったのかな」

 テツロウさんにきかれて振り返る。視線は僕と明日香の血まみれの服。心配させたかもしれないが説明するのが面倒だったので「殺人現場を通りかかりました」と色々省略して答えた。というかテツロウさんの肩ごしにいつの間に起きたのか冬人さんがぬっといつも通りの笑顔を突き出してテツロウさんの頭に指で角を生やしたりしていて、笑いをこらえたまま長々と話をするのが無理だった。冬人さんは即いたずらを見つかりテツロウさんに叱られていた。

 その後洗濯機に衣服を放り込むように風呂に放り込まれて準備も何も手伝わないうちに男子部屋に僕の布団だけ先に敷かれて抵抗もむなしく喜邨君に力づくで布団の間にサンドイッチにして食べられて……はないけど押し込まれて、電気を消されて閉じ込められた。疲れていたのだろうか、脱出の機会を伺おうと布団の中で息を潜めているうちにいつの間にか眠ってしまっていた。



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