#019 存在証明

 意識は沈んでいく。

 そこは沼だ。這い上がろうとしても、より沈むだけ。抗おうと掴んでも空を切る。息は苦しくなり、視界は狭まる。いつしか足掻くことを止めて、無気力になる。何かをしようとすること自体、馬鹿馬鹿しくなる。

 不意に甦るは、かつての記憶。

 ある日、私の目の前で、ネコが車に引かれた。一瞬の出来事だ。その引かれる瞬間のみ、記憶に焼き付いている。前後関係もわからない。

 ただ、必死だった。

 気づいたときには、自分の服についた血も気にすることなく、私はネコを抱いて走っていた。ここからすぐに動物病院がある。進む一歩に迷いはなかった。

 救おう、とは考えていなかった。考えるよりも先に動いていたから。むしろ、後悔していた。ネコの呼吸は弱々しく、今にでも命の灯火が消えようとしているのに。

 なぜ、自分は助けようと動いているのか。それがわからない。

 動物病院は閉まっていた。今日に限って定休日だった。シャッターは閉ざされ、私を拒絶しているかのようだった。

 私はシャッターを叩いていた。

 どうか。どうかお願い。

 この子を助けて。

 死なせないで。

 私は、叩き続けた。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「ニナ――?」


 シエルは、ぽつりと名を呟いた。

 腹部を突き刺され、明らかに重傷であったニナは、立っていた。その尋常ならざる雰囲気は、その場にいた者たちを圧倒させた。


「なんだ、コイツは……、」


 パペットの表情は引き攣っていた。嗤いは消えていた。ニナを、化け物を見るかのような、そんな視線を向けていた。


■■ΔψΕΟΑςよ――」


 ニナから発せられたのは、言葉であり、言葉ではなかった。発しているのに、シエルたちには聞き取ることが許されなかった。

 直後、ニナの前に、光が現る。それは大剣。ひし形の形を成した、脅威。ニナの手がゆっくりと、パペットに向かれる。


放てπΗςΜΖτ――」

「ッッッ――!!!」


 ニナがそれを放つと同時、パペットは本能的にヒトモドキを自分の前に移動していた。咄嗟の判断はパペットに回避行動を命じ、次の瞬間、視界は白へと染まった。

 遅れて、衝撃――。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「この魔力、まるで椚くんじゃない」


 周囲の襲撃を一蹴したせりは、震える空気に乗せられた魔力を感じ取り、そう呟く。既に、憲司チームと秤チームは合流を果たし、ただ一点に向けて、視線を向けている。

 その先に、パペット本体とニナたちがいる。憲司は思考を巡らせ、状況を再確認する。


「新崎さんとシエルさんはパペットと交戦中……? そもそもミラではなく、彼女たちに接近したワケとは――? いや、現状の証拠じゃわからない」

「もしかして、ニナは夕夜と縁のある人?」


 ミラは秤に訊いていた。この場で最もニナと行動しているのは秤だ。だが、秤が知るわけがない。


「い、いえ。そもそも、ボクはなんで新崎さんたちが椚夕夜に会いたいのかも知りませんし……」


 秤は以前、シエルから椚夕夜に会うことが目的であると言っていたのを思い出す。その荒唐無稽な、あまりにも予想外の願いに、秤は疑問を感じていた。

 ニナもまた、椚夕夜に会いたがっていた雰囲気があった。本人曰く、一度だけしか会ったことはない、と言っているが。



「――?」



 ふと、ミラが漏らした一言。

 それは本人にとっても無意識に漏れ出た言葉だったのか、言った後に驚いた表情を浮かべた。


「ねえ、秤。ニナは夕夜と会ったことがあったりする?」


 ミラは秤に再び訊く。だが、その質問には確信にも近い何かがあった。


「えっ? は、はい。確か、一度だけあると……」

「一度だけ。憲司」

「う〜ん、それだと二年前が怪しいね。特別な状況だったし、彼女の魔法使いとして目覚めたのと一致する」


 秤は、ミラと憲司の会話に付いていけなかった。


「何か、わかったんですか……?」

「多分ね」


 憲司は苦々しそうな顔をした。


「かつて、この狂った魔法使いの運命を救おうとした……それが椚君。彼はそのために魔導大戦を起こし、所在不明となった――」


 椚夕夜という人物は、そもそも運命の輪から外れた奇跡的に、偶発的に生み出された存在。

 椚夕夜が進む道こそが、真の未来として決定させる。ある意味では運命を決定づける存在。運命を、歪める存在。



「それを、特異点と、呼んでいた」



「特異点――……」


 秤はその単語を反芻する。嫌にねっとりとしたような、舌触りの悪さを覚えた。不穏で、自分のような弱者が口にするような単語ではないと。本能で悟っているように……。


「魔導大戦で、非魔法使いの被害は甚大だった。僕たちも、もちろん椚君やその仲間たちもどうにか被害を食い止めようとしたけど、様々なイレギュラーが重なって、多くの犠牲を失った」


 後半の言葉尻には、憲司の感情が見え隠れしていた。悲しみ、怒り、憎しみ――。負の感情が入り交じる。


「ここからが本題。もしかすると……、新崎ニナという人物は、本来であれば、その被害者の一人として、被害者だったのではないか――?」

「……………………は?」

「椚君が知ってか知らぬかはともかく。新崎さんの運命は、その時変わった。いや、運命の輪から外された。……それは、つまり、だ。もし、もしそうであるならば――、」


 秤は、目を見開く。

 いつの間にか、自分はとんでもない何かに巻き込まれている。――否、既に呑み込まれているのではないか。



「彼女自身もまた――特異点に近しい存在なのではないか?」



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 シュゥゥゥ――――……。

 何かが、灼ける音。地面か。空気か。魔力そのものか。……あるいは、肉が消滅する音か。


「ハァ……ハァ……ハァ……」


 パペットは息を呑んだ。最高傑作、ヒトモドキが咄嗟に盾となったことで、パペットはどうにか難を逃れることができた。だが、ヒトモドキの左腕は完全消滅していた。再生すらも起きない。


(なんだ、そのチカラは……!)


 シエルもまた、ニナの驚異的なチカラに戦慄していた。マーシャル・アーツを数分で熟知し、ほとんど魔法使いとしての訓練を受けてこなかった者が魔法を平然と扱う。極めつけ、先程のチカラだ。


(やっぱり、ニナは天才だ……)


 魔法の天才。

 そんなもの、本来であれば、目覚めることすらなかったチカラ。


「ニ――、」


 シエルが呼びかけようとした刹那。

 ニナはパペットに向けて、地面を蹴り出していた。


「――ッ!?」


 パペットはヒトモドキを操作し、ニナの攻撃を阻もうとする。


邪魔δδκθομ


 一蹴り。それだけで、ヒトモドキは力の向きに吹き飛ばされていた。そのまま、パペットの間合いまで詰め込んだ。


「くッ――!」


 ニナの手に、光が宿る。鋭くひし形をした剣。一撃を持って、パペットの首を刈り飛ばそうとしていた。



「ニナ、駄目っ――!」



 シエルはその時には、声を発していた。何も考えはない。ただ、止めねばならぬ。その想いが原動力となり、言霊と化した。

 ピタリ、と。

 ニナの動きは、パペットの寸前で止まっていた。


開けΞΓΔΘ開けΓΖΔψ開けΞρΑς開けγΒψΟ開け救けて開け開け死なせないで死なせないで死なせないで――」


 ニナの体は震えていた。

 カタカタと刃は震え、思いとどまっている。

 パペットは、その隙を見逃さない。


「還れッッッ――」


 パペットの魔法は精神干渉。

 ニナの意識は現在未知の領域に支配されていると言っていい。パペットはそれを直感的に感じ取ると、意識をかき乱す魔法を放つことで、ニナの状態をもとに戻してしまおうと考えた。

 この状態のニナはあまりにも危険すぎる。パペットですら、命の手綱を握られるような。あのと、同じ匂いがしたのだ。

 魔法を、発動。


「オレの道を、阻むなァァァァ!!!」


 直後、ニナの意識は引き戻され、一気に弾かれた。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 シャッターは開いた。

 ようやく、ようやく。

 私が見上げると、その医者は困ったような、診察外で起こされたことを、むしろ苛立っているようにも見えた。医者は何かを言っていた。指を指す。私はその方向に向けて、ゆっくりと視線を落とす。

 手に乗せる猫は、死んでいた。

 もう、駄目だった。間に合わなかった。――否、最初からだった。間に合う以前の問題だった。

 私は、目を見開いた。

 その時、初めて気づいたのだ。

 自分は、ただ死を見たくなかっただけだった。手に残る感触を、嫌悪すら覚えた。吐き気がした。いや、吐いていた。医者はうざったそうな顔をしていた。なんで、どうして。いや、これは。



 私のエゴだ。



 私が、死を見たくなかったから。

 猫は、そのために、私に巻き込まれた。なんと、愚かで、無知で、非情で、冷酷だ。自分がこんなにも気持ちの悪い人間だと思わなかった。身勝手なヤツだと、信じたくなかった。

 私は、私が嫌いだ。

 世界の誰よりも、嫌いだ。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「ニナ! ニナっっ――!」


 シエルの悲痛な叫びに、私は目を覚ました。視界が半分真っ赤に染まっている。腹部が異常に熱い。全身の筋肉がはち切れんばかりに痛みを訴えている。


「シエル……?」

「ニナっ!」


 シエルは私を抱きついてきた。何がなんだか、理解できなかった。

 惨状を見て、息を呑む。荒れ果てた闇市場。地面は抉られ、刻まれ、骸が積み重なる。自分が気絶している間に、何が起きたというのか。


「くくっ、はははっ。コイツ、憶えてねえのかよォ……、」


 背後から声はした。

 私が振り向く先には、幼女がいた。その隣には三メートル近くある巨人が立っている。


「貴女は……ミーシャ」

「アイツがパペット本体よ」


 シエルがそう言った。……そうだった。彼女こそが、パペットであった。この腹部の傷も、パペットが刺した。


「さぁて、なら、第二ラウンドと、行きますかねェ」


 パペットは嗤っていた。

 パペット自身も重傷を追っていた。巨人を操作し、私たちと対峙させる。私もシエルも既に限界を迎えようとしている。


「……戦えるかしら、ニナ?」

「戦わなきゃ死ぬでしょ」


 私は魔法を発動しようとして、違和感を覚えた。魔法を発動するまでの過程。それが緩やかに、しやすくなっていた。これも、私が気絶している間に起きていた、何かが関連しているのだろう。


「殺し合おう、魔法使いたちッ」

「シエル、行くよ」

「ええ、ニナ……!」


 直後、激突――

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