#009 誰が為に

 視界が黒に染まると、毎度のように、の記憶が蘇る。

 ある日、世界は一変した。

 日常から非日常へと変わる瞬間。私の世界は、赤く染まったのだ。視界を半分赤くしたのは、母の血だった。私を見下ろしていたのは動くはずのない死人だった。

 ああもう、駄目だと。

 その時、私は悟った。

 己の人生はここで幕を閉じるのだと。私はそれを冷静に受け止めることができていた。走馬灯もやって来なかった。我ながら、今になっても恐ろしい。私は空っぽだった。だからこそ、考えていることと言えば、学校の課題してなかったな、ぐらいだったと思う。

 その時、彼は現れた。

 あ、知ってる顔だ。

 そんな感覚。

 電柱に張り付いていた行方不明者の顔。何故、それほど覚えていたのか。そよ彼を、必死に探す女の人がいたからだ。美人さんだった。

 この記憶を思い出すのは、きっと私にとって、この記憶こそが始まりだからだ。だからこそ、私は今ここに在る。

 死の予兆こそが、私の始まり。

 私の、根源。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 ニナは毒の風を受ける直前。

 それは本能がそうさせていた。自分の魔法が何であるのかを理解していない。しかし、ニナの魂はそれを知っていた。

 自身を対象とした魔法の付与。

 ニナの身体は、光輝く。銀色に近い、白の光だった。それは毒の霧を防いでみせた。呼吸をしても、苦しくない。皮膚を蝕んでいた毒すらも、通さなかった。


「――!?」


 毒嶋から驚きの声。

 それもそのはず。先程まで素人同然であった小娘に、自身のアイデンティティとすら言える毒を防がれたのだから。

 但し、それはあくまてもニナだけだった。


「がハァッ――!」

「なっ、」


 シエルは口から血を吐き出す。

 何度も何度も。苦しそうに、藻掻き始める。シエルに毒に冒されたのだ。シエルはその場に崩れる。皮膚が、少しずつ紫色に変色していく。

 ニナは咄嗟に光を放つ。シエル全体を包み込むように。シエルに魔法を付与させる。シエルの身体は仄かな光に囲まれた。変色していた皮膚が止まる。


「はっ……、ひぃっ、ごほっ、はッ、」


 だが、既に毒は回っている。シエルは息も絶え絶えに吐血する。


「これで、その女は終わりだ」


 目の前にあるのは、死の予兆。


「――お前は、奇妙な魔法を使うな、小娘」


 毒嶋の言葉など、ニナには届いていなかった。鼓動が速くなる。視界が明滅する。息が、荒くなる。

 重なるのは、母の死。母は理不尽に殺された。ニナはそれを直接見てしまった。あれから、ニナの世界は決定的に変わってしまった。

 膨張していく、感情。

 嵐のように吹き荒れる。ドス黒い何か。それは何とも言い難い。ニナの知らない感情。抱いたことも無かったはずの――否。

 そんなはずはない。

 本当は、いつも思っていたはずだ。人に対して、身近なことに対して、クラスメートに対して、偉そうにふんぞり返る教師や大人に対して、魔法使いに対して。

 世界に対して。



 刹那、ニナの視界が半分、赤く染まる。



 ニナは、毒嶋に向けて、手を突き出す。その一連の動きに、毒嶋は眉をひそめた。


(なにを、するつもりだ――)

「魔法を、解いてください」

「なにを、」

「魔法を解きなさい」


 ニナが、言い放つと同時。

 毒の風すらも吹き飛ばすほどの光の刃が毒嶋の真上から振り下ろされた。速さはない。シエルのような鋭さもない。

 それなのに、毒嶋は圧倒された。毒嶋が認識したときには、それは毒嶋を確実に屠ろうとしていた。


「――!」


 咄嗟に回避しようとする。

 だが、遅れた。完全な回避は不可能だった。光の刃は、毒嶋の右腕を切断させた。


「ぐっ、があああ、ああああああッ!」


 男の悲鳴が響き渡る。


「小娘ェ……!」


 毒嶋はギラついた目を、ニナに向けようとした。だが、毒の晴れた中、ニナはシエルを担いで、逃げていた。

 戦う意志を見せず、尻尾を巻いて逃げる。それを、愚かで無様な姿とは毒嶋は思わなかった。根本的に、ニナと毒嶋は相容れない存在であると。その一線を引かれた瞬間だった。

 ニナの行動原理。

 それは、狂うほどの、生の執着。


(この借り、必ず返させてもらうぞ……! 小娘ェッ)


 毒嶋は切断させた断面を押さえつけながら、強く歯ぎしりをした。ギリッ、と軋む音がした。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 ――魔法が、戻ってきた……。


 文也はそれを実感した。何も無かった器に収まるソレは、さも自然のように振る舞っている。ソレは初めからそこに在った。自身の魔法だった。

 それは同時に、二人の少女が〈毒の魔法使い〉から奪い返したことを意味する。モノとしての譲渡ではなく、魔力間を通じての譲渡と見るに、取り返す過程がいかに荒業であったのかを理解することができる。


(……)


 だが、再び魔法を出す気にはなれなかった。

 文也は自分から魔法を差し出した。

 あの魔導大戦で、思い知らされたのだ。自分がいかに無力であったのか。自分が、いかにちっぽけな存在であったことを。

 もう、戦うことなど――……

 そこで、文也の耳に足音が聞こえてくる。かなりの急ぎ足だ。足音は徐々に大きくなり、焦燥感を伝えてくる。文也は足音につられるように、玄関前に足を運ぶ。

 不意に、扉は勢いよく開かれた。


「はぁッ……はぁッ……!」


 現れたのは、ニナだ。

 ニナはシエルを背負っていた。身体はボロボロで、息を切らしている。だが、抱えていたシエルは時折血を吐いていた。虫の息とは、この事か。顔色は真っ白に染まっていて、血の気がない。

 文也はすぐに察した。ニナは文也を真っ直ぐと捉えて、口を開く。


「シエルを、治してくれませんか?」



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 頼れる人なんていなかった。

 元々、私の人脈なんてたかが知れている。今さら、そのことに後悔する気はない。ただ、今もなお私の背中から血が流れ、体温が冷たくなっていく者を思うと、足は勝手に動いていた。

 失礼勝手に、扉を開けると、目を見開く秤さんの顔。秤さんの視線は、私に向き、それからシエルに向いた。呆けていたのはほんの数秒。すぐに、何かあったのかを悟った表情をした。

 私の言葉に、秤さんは小さく頷いた。あるいは、私が頷かせたのか。

 部屋に通してもらい、シエルをソファに寝させる。


「シエルさん、話せるか?」


 秤さんがシエルに言う。

 シエルは口を開きかけ、ごほっ、と血を吐いた。それでもなお言葉を発せようとするのを、秤さんは止めた。


「わかった。なら、今から言うことをするんだ。体に回る毒を、自身の魔力で中和させていく。少しでも、毒の進行を遅くさせる」


 シエルは、小さく、か細く頷いた。

 私は見ていることしかできない。


「イメージはマーシャル・アーツと同じ。但し、マーシャル・アーツは外的に放出させるが、それを内的……体の中で行う。血脈と魔力を薄い膜のように広げさせ――」

「っ……!」


 シエルが何かをしたのだろう。それが具体的に説明はできなかったが、シエルに微かな変化が起きた。


「膜を広げると、自身の体を客観的に把握できる。そこで、毒のある場所……『違和感』を見つける。そこを魔力で抑え込む」

「ふぅ――……、っ!」


 シエルの呼吸が揺らぐ。絶え絶えになっていた呼吸にほんの少し、余裕が生まれた。

 やがて、シエルは意識を眠らせた。秤さんがようやく私を見る。


「一応、簡単な処置にすぎない。治ったワケじゃない」

「……はい」

「この毒は一般的のものではなく、魔法使いの毒だ。術者の許可、それを打ち破る魔法使いのチカラ……。僕たちは治癒の手段を持ち得ていない」

「……なら、シエルは死ぬんですか?」


 死ぬ。その言葉があっさりと出てくる自分に驚いた。私は無意識にその言葉を避けていたはずだ。。二年前から。


「……もって、三時間」

「……」


 私はまだ秤さんを見ていた。

 その先の言葉を待っていた。秤さんも気づいてるはずだ。その上で、躊躇っている。


「……一つ、毒を解除する手段があるとすれば、」

「あれば?」

「〈毒の魔法使い〉……毒嶋を倒すこと」


 それしかない。

 それは、私自身もわかっていたことだ。私は秤さんから背を向けると、歩き出そうとする。


「待ったっ、」


 直後、秤さんは呼び止めた。


「新崎さんは、なんでそこまでやるんだ?」

「……?」


 質問の意図が、よくわからなかった。


「シエルさんとは、会って間もないだろう。どうしてそこまで、必死になれる。失礼ながら、ボクには貴女に理念や目的を持っているようには、見えない」

「……まあ、そうですね」


 ため息をついた。

 確かに、私らしくない。……まあ、そもそも私らしさって何だという話だが。


「シエルは一応……知り合いです。知っているのに、知らなかったフリをして。できることがあったのに。できなかったときの言い訳を考えて。……そうやって、後々目覚めが悪く気がするので」

「……死ぬかも、しれないんだぞ」

「別にこっちも自殺しに行くワケじゃありません。やるからには頑張ります」

「それでも……、それでも、だよ……」


 秤さんは、未だに納得できないようだ。


「……しいて言うなら、多分……

「えっ?」

「理不尽に、殺されてしまうのが。あの日、二年前、母は魔法使いに殺されました。……正確には、ゾンビなんですけど。けど、あのときだって、魔法使いがいなければ、死ぬことはなかった」

「……」

「魔法使いは、理不尽なんです。母も、今まで殺された人たちも……ちゃんと死ぬ権利があった。死に方は、選べるものだって。どうせ死ぬなら、幸せになって死にたいって」


 秤さんは、僅かに目を見開いた。



「――死に方ぐらい、自由に選べる世の中にしたいじゃないですか」



 私は多分、人が理不尽に殺されるのが嫌いなんだ。

 私は再び歩き出す。言いたいことを言えてこちらはスッキリしていた。扉を開ける寸前、私は秤さんを見た。一つだけ、言っておきたいことがあった。悪戯心の、意趣返しのつもりだった。


「秤さんも、以前は、戦ってたんですよね?」

「……あ、ああ」

「どうして、戦っていたんですか――?」

「――」


 私は答えを聞かなかった。

 これから、私は戦場に征く。

 そうして、扉を、開いた。

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