四章 ビール

 夫が外出している間に山本へ電話した。気が変わっては困ると思ったせいもあるが、それだけではない。電話を切って腑に落ちた。

 山本が妙に真剣なのだった。

 とりあえず一日だけ行ってみると話しただけなのに、山本は大喜びだった。よほど生徒がいなくて困っているのかと思えば、希望した曜日はすでにひとがいっぱいで、午前クラスを増やしたという。そちらなら空きがあるというが、あいにく義母のお茶の稽古時間と重なっていた。今回はご縁がなかったということで、と断り文句を入れようとしたところ、山本が慌てて遮った。ちょっと待ってください、運営のほうに掛け合いますからと強引に電話が切られ、折り返しすぐ、許可をもらいましたからご希望の日にいらしてくださいと宣言された。これではもう断れない。

 戸惑いを隠せない陽子に、山本がたたみかけるように続けた。実は、ちゃんと絵の描けるひとを募集してるところなんです、と。

 さらには恩師の名前を口にされた。名実ともに素晴らしい画家だった。恩師の名はあてずっぽうらしかったが、言い当てられた事実にはどぎまぎした。けれど、そういう人物に教わったからといって陽子に絵の才能があるかは別問題だ。そう思ったが口には出せなかった。ともかくいらしてください、詳しいはなしはそのときにと熱心に口説かれて、陽子はじぶんのベッドに力なく腰かけた。

 もしかすると、いまの電話はじぶんの暮らしを根本から変えてしまうかもしれない。その予感に身震いした。

 大学を卒業して二年ほど画廊で展覧会の真似事をした。いま思えば画廊主に騙されていた。当時はこちらが利用しているつもりでいたが、やはりあちらが一枚上手だった。

 卒業制作展で友人が名刺を渡された。いっしょに来てというのでその子とともに画廊に行くと、画廊主は陽子の絵もいっしょに見てくれた。そして、二人展をしないかと言った。陽子は褒められて舞いあがるほど愚かではなかった。じぶんは絵描きになれるほどの才能はないけれど、絵を見る力はあると自負していた。けれど友人は真に受けた。

 いっとう仲のよい子だったので無碍にもできなかった。画廊ははじめDMの郵送代だけでいいと言っていたのが、そのうち雑誌に宣伝したからとその費用も請求され、けっきょく普通に会場を借りて展覧会をするのとさほど変わらない金額になった。それでも、大勢の友達が集まってくれて楽しかったので、あまり不満には思わなかった。それに、絵はそこそこ売れた。陽子の絵は花や植物だったので、会社の上司や親戚がよろこんでお祝いとして買っていってくれた。時代も今ほど悪くなかった。みな小金をもっていた。

 翌年は場所を変えた。銀座ではなく、吉祥寺のカフェになった。正直にいうと画廊とはよべない場所で気落ちした。その子の友人の経営しているところなので室料は格安だった。けれどひとは来なかった。いや、大学の友人たちはこぞって夜になってやって来た。飲み物を頼まないといられない場所なので職場のひとは仲のいい同期数人だけの来場だった。ただの飲み会のようになってしまった会場で、陽子は気の抜けたビールを片手にじぶんの絵を眺めた。ただ真面目に花や植物が描かれているだけで、なんの面白みもない絵だった。

 翌年、友人は展覧会をしなかった。仕事が忙しくてと言い訳をしたがそもそも卒業してからはあまり絵を描いていなかった。いや、思い返してみれば、友人は在学中も課題をギリギリに提出し、遊んでばかりいる子だった。それでもとてもセンスのある色彩感覚をもっていて、少し病んでいるふうの女の子は人気があった。卒業制作では学内の賞もとった。

 ひるがえって、陽子はいつでも真面目に研究室で絵を描いていた。課題の提出に遅れたことはなかった。大きなキャンバスを置ける場所はそこしかなかったので、朝から晩までいたこともある。

 卒業制作の絵は、例の恩師も褒めてくれたものだった。それでも賞を獲れなかった。どこの画廊主からも単独では声がかからなかった。評価してくれる先生は他にもいたけれど、研究室に残れとか自分と一緒に展覧会をしようとは言われなかった。

 ふたりで展覧会をした際も、評論家を名乗るひとやコレクターといわれるひとたちに褒められて買われていったのは友人のほうだった。

 だから陽子は諦めた。最後に一度くらい個展をしてみたかったけれど、貯金を崩してまでする勇気がなかった。結婚も言い訳になった。いや、夫になる誠がふつうの奥さんになってくれるよう望んでいた。趣味として、美術に関心のあるのはいい。デパートで展覧会をする焼き物作家に入れあげてその作品を集めることに文句をつけたりしなかった。主婦としての務めをきっちりと果たしている限りにおいては。

 ふたりの馴れ初めは誠の上司の紹介だった。その上司が陽子の勤め先の建築資材会社に出入りしていた関係で付き合いはじめた。誠が会社を辞めたのは、上司の定年から一年後のことだ。

 施主のところから帰ってきた夫の煙草臭いコートを受けとってから、陽子は来週お教室に行ってみると口にした。夫は、ああ、あれか、とすっかり忘れていた顔でうなずいてから、ビール冷えてるかなと尋ねた。

 それ以上、その話題は食卓にのぼることはなかった。

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