第32話 初めての訪問で

 恥ずかしさが生じたとは言え、今の濡れ鼠状態を抜け出せるという誘惑の方が勝った。

 須美子は早川家にお邪魔することになった。一軒家ではなくマンション暮らしで、三階の三号室というわかりやすさ。

「さあ、どうぞ。とりあえず上がって。床なんかが濡れるのは気にしなくていいから」

「お邪魔します……」

「だから誰もいないって」

「これは一応のご挨拶よ」

 そんなやり取りをしながら中へと通された。部屋のドアはどれも閉じられていたので中は見えないが、きれいに整ったダイニングキッチンが目に飛び込んできた。

「えっと。どうしよう」

「あの、リクエストしていいのならドライヤーを貸して欲しいな、なんて」

「あ、そうだね。それじゃお風呂場はあそこだから。シャワーを使いたかったら使って」

 シャワーを使えたら嬉しい、けど、初めてお邪魔したクラスの男子の家で、服を脱いでシャワーって。激しく迷う。こんなときの定番であろう、「覗かないでよ」と冗談交じりに言おうとしたら、先に早川が話し始めた。

「実は母さんは服のデザインを仕事にしていて、趣味でも女の子の服を作るんだ」

「うん?」

 唐突な話に聞こえて、すぐには飲み込めない。

「女の子も欲しかったらしくてさ。サイズは分からないけれども、僕ぐらいの年齢の女子を思い描いて作っているから、ひょっとしたら合うかも」

 須美子は透けかけの服を思い出して、胸の前で手を交差させた。

「ほんと? 見せてもらってもいい?」

「いいよ」

 二つ返事で応じるや、今来たばかりの廊下を戻り、一つの部屋のドアを開ける早川。程なくしてできてた彼は、紙袋一つを手に提げていた。

「一部だけど、今の季節はこれかな。適当に選んで使って。生地が肌に合わないと思ったらどんどん交換していいから」

「うわ、いっぱいある。本当に着ていいの?」

 服が何着もつまった紙袋を受け取り、滴る水で濡らさぬように気を遣いながら最終確認をする須美子。

「もちろん。むしろ、着てくれる人がいたら母さん、大喜びするよ」

「それじゃお言葉に甘えさせていただきます……で、念のために言っておくけど、これは早川君を疑っているんじゃないから気を悪くしないで。ただ、言っておかないと私の気持ちが落ち着かないというか」

「はいはい、覗きません」

 両手を軽く上げ、くるっと背を向ける早川。

「鍵は内側から掛かるし、それでも心配だったら、僕は外に出とくよ」

「ううん、しなくていい。じゃ、本当にお湯、もらうわね」

 須美子は教えてもらった浴室へ通じるドアを開けた。


 思った以上にさっぱりして、気持ちよくなった。あたたかさに触れて、気力も体力も復活した感じ。

 幸い、下着はさほど被害を受けておらず、また履いても大丈夫そう。それから数あるハンドメイドの服の中から、青と白からなるセーラールックのワンピースが気に入ったので、選んでみた。

「わ、すごい」

 あつらえたみたいにぴったりとは言わないまでも、ほんの少し大きいだけで充分に着られる。これは濡らすのは勿体ないと改めて感じ、髪を乾かす際には肩から別のタオルを羽織った。

 あらかた乾かし終え、冷風を髪に送っていると、扉をこんこんと叩く音に気が付いた。

「はい?」

「濡れた服を入れるビニール袋、きれいなのが見付かったら、外に置いておくよ」

「分かった、ありがとー!」

 すっかり元気になって、声も弾む。早川に服の感想も言おうとしたけれども、足音が遠ざかったので、後回しにした。

 さらに三分ほどして洗面所を出た須美子は、用意してくれた厚手で色つきのビニール袋を拾い上げるとすでに折り畳んだ服の上下と靴下を入れた。

「ほんとに、ありがとう。いいお湯でした。早川君も入ったら?」

「いや、僕はそこまで濡れてない。さっき頭をタオルで拭いたからいい。それに」

 キッチンのテーブルの方を指差す早川。白と茶色が混じった液体に満たされたカップが二脚あった。

「紅茶を入れてみたので、飲んでくれる? 冷たいのがよければアイスティにするけれども」

「ううん。あったかいのでいい。わあ、ありがとう。ミルクティ大好き」

「期待されると困る。それぞれの家庭の入れ方があって――」

 お茶請けのクッキーを出しながら予防線を張る早川。でも漂ってくる香りだけでも、きっと美味しいに違いないと予感した。

「飲んでいい?」

「どうぞ」

「いただきます」

 少しだけぬるめだけど、シャワーを浴びたあとにはちょうどいい。まさに適温。くすぐるような香りと、抑えめの甘みと、そして子供にとっては苦手な渋みまでもいい感じのアクセントになっている。

「何これ。すごくおいしい。好みに合う」

「そりゃどうも」

「お世辞じゃないよ」

「なら、よかった。クッキーもどうぞ」

 小さな皿に六枚載っている。三種類あって、プレーンとナッツ入り、ドライフルーツ入りのようだ。

 須美子は手前のプレーンから手に取った。そして早川の目を気にしつつ、さく、と一口。

「うわ。思ってたのとちょっと違う」

「え、まずい?」

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