第31話 急な雨

 結果から言えば、十字星の男の子に関して新たに思い出せたことは何もなかった。

(志嶋君のインパクトが強すぎるのがいけないのよ)

 心の中で芸能人の卵に責任を擦り付けながら、電車に揺られて最寄り駅まで帰って来た。

 午後二時を五分ほど回ったところ。今から家に帰ったらもうお母さんもいるかな、それともまだ羽を伸ばしている最中かな、なんて考える。母親がまだ帰宅していないんだったら、どこかに寄ろうかなという考えも浮かんだが、空の遠くの方に怪しい黒雲が広がり始めているのに気付いた。ゴロゴロという雷らしき音も、小さくではあるが聞こえる。

 雷が苦手な須美子は駐輪スペースから急いで自転車を出すと、慌て気味に跨がった。もしスカート履きだったらサドルに引っ掛けて転んでいたかもしれない。

 漕ぎ出して間もなく、鼻のてっぺんに水滴を感じる。

「やだ、降り出してきちゃった」

 急ごうと立ち漕ぎの姿勢になったが、それから程なくして土砂降りに。視界が白くなって、無闇に飛ばすのは危険だ。でも、雷が近付いてくるのも分かる。怖い、早く帰りたいと願いつつも、足の方はうまく運べなくなってしまった。

「だめだっ」

 短く叫んで、雨宿りできそうな場所を探す。が、見付からない。人の家の軒先を借りるのもためらわれ、仕方がなくスローペースで慎重に進んだ。

 通行可であることを確かめて歩道に乗る。その途端、大きなトラックがそばを通過し、水を跳ね上げた。ひゃっという悲鳴が勝手に出る。今さらトラックの巻き上げた水しぶきを浴びても、すでに濡れ鼠だから関係ないという向きもあるかもしれないが、雨水と泥混じりの水ではやはり違うのだ。

 気を取り直してまた漕ぎ出すと、すぐそこにあるバス停が目に留まった。ちょうど市営バスが須美子の自転車を追い抜いていき、今、一時停車したところだ。

 待っているお客さんは見当たらないから、降りるお客さんがいるってことだわ。

 須美子はそう理解して、自転車のスピードをさらに落とした。ぶつからないようにするのはもちろんのこと、驚かすのも避けなくては。

 乗降口から出て来たのは一人で、すぐに傘を差してしまったからどんな人なのかは分からないけれども、あまり背は高くない。同じぐらいの歳の子供かもしれないと思った。

 降りた客は歩道に自転車がいることを認識していたらしく、バスが動き出すとともにすぐに後ろを向いた。

「あ、やっぱり柏原さんだった」

 顔は雨のおかげではっきりしないが、聞き覚えのある声に須美子は思わず目を見開いた。

「誰?」

「僕だよ、早川です」

 言いながら駆け寄ってきた彼は、雨傘を差し掛けてくれた。

「うわ、ひどいな。今さらだけど、傘や雨合羽はどうしたの」

「天気予報、見てなかったから……」

 何となくではあるが、ほっとした気持ちになった。こんなに濡れてしまったのに、それでも傘がありがたく思えた。

「早川君は何してるのよ。私に気付いて降りたんじゃあないでしょ?」

「うん。自転車がいることには降りる前から気付いていたけど。ていうか、すぐそこなんだ、僕の家」

「あ、そうなんだ」

 雨宿りさせて欲しい!とすぐに思ったが、クラスの男子においそれと頼めるかというとそうでもなく。その迷いが顔に出たのか、そしてそれを彼が読み取ったのかどうかは分からない。

 とにもかくにも早川は言ってきた。

「まだ家まで距離あるんじゃない? そのままだと風邪を引くかもしれない。雨宿りして行きなよ」

「……でも」

 ありがたいけれどもすぐに飛びつくのも恥ずかしい。と、このタイミングで雷が鳴った。

 ドガーンとピシャンが折り重なったような音が鳴り響き、空気を震わせ、肌に感触が伝わる。

「きゃあ!」

 須美子は自転車を放り出し、早川の胸に飛び込んでいた。

「あの、柏原さん?」

「ご、ごめん。少しだけ、こうさせて」

「――うん、了解」

 小刻みに震える須美子の二の腕に、早川は手をあてがった。

「雷、苦手なの?」

 彼からの問いに須美子は黙ったまま、こくりと頷いた。

「じゃあさ、雨と雷が収まるまで、やっぱりうちに来なよ。お母さん――母も父もいないからろくなおもてなしはできないけれどさ」

「……お願いします」

 それからもう少しして雷の気配がひとまず収まると、早川は須美子に傘を持たせ、自らは須美子の自転車を起こした。

「ああ、まずい。袋がびしょ濡れだ。中身は本? 大丈夫かな」

 前かごに入れておいた雑誌の包みはビニール製で、今は大小の水滴ができては消え、できては消えしている。

「大丈夫と思う」

「よし、じゃ、行きますか。ついて来てね」

「うん。あの、傘……」

「いいよいいよ。もう僕も濡れたし。それに――」

 先を行く早川は肩越しにちらっと振り向き、またすぐに前を見た。

「ど、どうしたのよ」

「怒らないで聞いてほしいんだけど、それ以上濡れたら危ないでしょ、その、服が」

「あっ」

 濡れたおかげで、透けそうになっていることにようやく気付いた。

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