第28話 君の名字は。

「そんなこと言われても、僕、知らないから君の名字」

「分かってるわ。これから教えるから、聞いたら名字にさん付けで。いいよね?」

「はいはい」

 実を言うと、本名を明かしていいものかどうか、迷っている。悪い人じゃないのは伝わってくるものの、波長が合わないというか乗りについて行けないというか、やっぱり芸能界の人なんだなと感じる。

 でもだからといって、こっちまで芸名じゃないけど、嘘の名前を教えるのは不誠実な気がしないでもない。

 結局決められずにいると、しびれを切らしたのか志嶋が腰を折るようにして顔色を窺ってきた。

「どうかしたのかな?」

「――」

 顔と顔との距離が近い気がして、二歩ほど後ろに飛び退く。すると今度は店員さんまでしびれを切らしたらしく、「あの、お客様。お迷いでしたら、メニュー表をお渡ししますので一度席にお着きになって、じっくりと吟味なさるのもよろしいかと」云々と告げてきた。

「すいませーん。じゃ、お言葉に甘えてそうしまーす」

 志嶋は調子よく言って写真付きメニューのシートを受け取ると、須美子の背を軽く押すようにして一緒にテーブルの方へ向かう。カウンターからほど近い、二人席に収まった。

「とりあえず、決めようか。僕はこのあと帰る時間を見越して、やっぱり何か食べておきたいから――」

「柏原よ」

「ん?」

 唐突な返答にさすがの志嶋も、何のことだか分からないでいる。須美子はメニューに逆方向から視線を落としながら続けて言った。

「私の名字。はい、言ってみて、さん付けで」

「カシワバラさん」

「うん、いい。じゃあ、そう呼んでね」

「カシワバラスミコかぁ。いい名前だと思うけど、どんな漢字を書くのかは教えてくれないんだね」

「そこまでは約束してないから。えっと、私はクリームソーダみたいなこれにする」

 正式な商品名は長くてややこしげなネーミングになっていたが、要するにクリームソーダなのだと理解して決めた。

「あ、じゃあ、僕は……これにしよう。Aセット」

 言うが早いか、メニューを持って席を立つ志嶋。このままではおごられてしまう可能性がまだ残っていると察した須美子は、素早くそれに続く。ほとんど競走のようにして、さっきと同じレジカウンターの前に立った。

「お伺いします」

 店員の女性は特にくすりともせず、淡々と仕事をしてくれる。

(変に反応されたらどうしようと思ったけど、助かる~)

 安堵する須美子の隣で、志嶋がメニューの上の方の一画を指差した。

「これ、Aセットにします」

「私はこれ」

 声を割り込ませて、クリームソーダらしき飲み物を指差す。そして「お会計は別でお願いします」と付け加えた。

「ええっ。本当におごらせてくれないんだ?」

「ずっと言ってたでしょ」

 店員さんは確認のためにメニュー名を繰り返し、先にお会計をと求めてきた。予め取り出して握りしめていた硬貨を小ぶりなトレイに置いて、レシートをもらう。

「あ、そうか。現金派なんだ」

 横にいる志嶋の声が、少し高い位置から聞こえて来た。彼の手元を見ていると、端末を使って支払いを済ませた。思ったほど手軽そうに見えなかったが、もしかすると志嶋自身、端末での支払いに慣れていないのかもしれなかった。

 先に須美子の頼んだ飲み物が来たので受け取って、先ほど座った席へさっさと戻る。二分あまりあと、志嶋も戻って来た。

 待っていた須美子は「いただきます」と両手を合わせて、ストローに口を付けた。

「……感動的」

 ハンバーガーの包みを開けようとガサガサやっていた志嶋はその手を止めて、須美子をじっと見た。

「え、何?」

 須美子の方は不意に変なことを言われたと感じ、またまたガードを固める。

「いや、飲まずに僕を待っていたこととか、ただジュースを飲むだけなのに、いただきますをするとか、凄く新鮮に見える」

「おかしなこと言わないでよ。こんなの当たり前じゃないですか」

「そうかなー?」

「考えてみたらお仕事をしている人は忙しくて、時間を節約しなきゃいけないんでしょうから、いただきますの省略をしちゃうんじゃない?」

「うーん、それが正しいかどうか知らねー。けど、目の前で見せられたら、真似しないわけにはいかないな」

 断りを入れた志嶋はハンバーガーの包みをできる限り元の状態に戻したかと思うと、おもむろに両手を合わせた。目を瞑り、

「いただきまーす」

 と言うや否や、改めて包みを破り取った。そしてこだわりがあるのか、ハンバーガーの前後?の向きを確かめる仕種を挟み、一気にかぶりつく。

「うん、うんまい」

 全部を咀嚼しない内からしゃべるものだから、口から何か飛んできた気がする。

「もっと落ち着いて食べた方が。まだまだ四十五分は経たないし、話なら食べながらでも聞けるでしょ」

「それもそうだ。早く聞かせてよ。その袋とバッジを大切にしている理由ってのを」

「言っておきますけど、他言無用よ」

 他言無用だなんて、ちょっと前に相手から言われたフレーズだなと、頭の片隅で意識した。

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