第21話 事故の事後報告

 その日の休み時間は女子の友達と話したり遊んだりする場面が多く、早川と言葉を交わすどころではなかった。かといって週末である今日を逃すと、直に話せるのは恐らく明けて月曜まで持ち越しになってしまう。

 ちょっと焦りを覚えつつ時間を作れたのは、何と放課後。その少し手前、六時間目の授業のあとのホームルーム、いわゆる終わりの会が始まるまでの間にもチャンスがあったのだが、須美子が保健室を利用したため、無理になってしまった。

「指、大丈夫?」

 本題に入る前に、早川が心配げに聞いてきた。今二人がいる場所は、校舎の東側。壁際に立っている。太陽の沈んでいく方角がちょうど校舎と重なっており、影が濃く伸びているが、気温はそんなに下がったようには感じられない。

「ちょっと痛いけど、平気。軽い打撲だって」

 体育の授業、今日はバスケットボールだったのだが、早いパス回しをわずかに受け損ない、突き指っぽくなってしまったのだ。最初の内は我慢していたが、六時間目の社会の授業中に腫れてきて、辛抱するのがつらくなって保健室に駆け込んだのだ。

「それならいいけど、大事にしなよ。次から水泳でしょ。その指だと難しいだろうから」

「分かってるって。泳ぐのは好きだし、無理しないで治すわ。それよりも」

 ともに壁にもたれて会話をしていたが、ここで須美子は壁から離れた。早川の方を向き、距離を適度に詰めるよう、身振り手振りで合図を送る。

 早川の口が「何?」という形に動いたが、それが声になることはなく、「あ、メモの話か」と首肯した。

「そうよ。まず確認させて。早川君、あなたはメモを書いたのが誰なのかは気になっていないの?」

「そりゃあもちろん、気にはなる。だけど、誰が書いたのかはこの際問わないでおこうと思った。改めるべきところがあるっていうのなら、直した方が前向きだろうって。ただ、何のことを言われているのかが分からないから困ってるわけで」

「なるほどね」

「柏原さんは、誰の仕業か突き止めたいの?」

「ううん。早川君と同じで、気になるけど、気にしないでおく。今の時点では、だけど」

 意見の一致を見て、まずは安堵する様子の早川。

「よかった。それで、柏原さんには分かったのかな、何のことを言われているのか」

「それが……」

 わずかに言い淀む須美子。今朝、家を出るときは決心したつもりだった。しかし、朝一番に言えなかったことで、今またブレーキが掛かりそうになっている。

 須美子は口元を拭ってから、深呼吸して思い切った。

「多分なんだけど」

「うんうん」

 興味津々といった反応の早川。言い出しにくいと感じつつも、もう止められない。

「地震が起こって、机から落っこちそうになった私を早川君が、その、支えてくれたでしょ。あのあとあなたはしばらくのびちゃってたけれど」

「う、言わないでくれ~っ。君をなるべくふんわりと受け止めようとしたら、ああなってしまったんだ」

 早川は半ばおどけつつ、後頭部を押さえる仕種をした。

 須美子の方は、これから大事なことを言うという場面で、少し気が楽になった。

「それは分かってる。感謝してる。ただ……怒らないで聞いてね。唇が」

「え? 何ビル?」

 早川にとって予想の遙か外の言葉だったのか、唇をビルの名前と勘違いしたらしい。

「ビルじゃないって、唇」

「ああ、くち……。それで?」

「く、唇が合わさったの」

 言った。やっと言えた。思わず目を瞑ってしまったので、相手の反応はまだ見えていない。体温が上がるのを感じながら、右目、左目と順に開けた。

 早川は事態を飲み込むのみ時間を要しているようだった。須美子はもっと詳しく説明した方がいいかなと思い、急いで付け足す。

「ちょんて触れた程度じゃなくて、結構長い間重なっていたから、あれを人が見たら、変に思うかもしれない……」

「――えーと」

 早川は片手で頭を掻きつつ、戸惑いが露わな語調で聞いてきた。

「念のために聞くけれども、誰と誰の唇が」

「だからっ。私と」

 皆までは言えず、早川を指差す。

 早川も、最前の須美子がやったように唇に手の甲をあてがった。そして慌てたように頭を下げる。

「ごめん! 知らなくて」

「えっ。い、いや、早川君は悪くないよ。だからって私が悪いんでもないと思うけど。よ、要するに偶然の事故なの。気にしないでおこうって思ったから、黙っていた。それだけなのよ」

 頭を下げたままの早川に、須美子はあわあわと両手を振って、早く状態を戻すように促す。

「でもその、事故だろうと何だろうと柏原さんの大事な――」

 そこまで言って、続きが出てこない。「とにかく謝りたいんだ。ごめんなさい」と言い直した。

「いい、いい。許すから。私の方こそごめん。気を遣わせたのと黙ってたのと」

「――よかった」

 許してもらえてほっとした。面を起こした早川は、そんな風に笑みを見せた。しかし程なくして表情が曇る。

「ああー、でも、仮にこのことで当たっているとしても、白状しろっていうのはどういう意味なんだろ」

「分かんないけど……目撃した人には、私達が、えっと、『抱き合ってキスしてるように見えた』んじゃないの」

 気恥ずかしいところだけ早口かつ小さな声にして須美子は言った。

「それが白状しなければいけないような悪いことなのか……。いや、そもそも、誤解だし」

「そうなのよね。みんなの前で白状って、誤解だってことを説明したら済むのかしら」

「どうだなんろう……目撃した人からすれば、『あいつら嘘ついてる』って見えるかも」

 それは困る。

(私と早川君との間には何にもありません!と言ったって、証拠は全然ない。どうしたらいいんだろ)

 早川の方を見ると、また目が合った。彼から質問があった。

「一応、確認だけど、柏原さんてそのー、付き合っている人はいない?」


 つづく

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