第15話 原因はピーナツでもチョコレートでもなく


             *           *


 須美子から離れ、プールサイドへ上がった早川は、周囲をきょろきょろと何気ない態度で眺め渡し、近くにいた男子に聞いた。

「なあ、塩見しおみ。新倉のやつはどこ行ったか分かる?」

「さっき出て行ったぜ」

 塩見はデッキブラシ片手に、フェンスの外、校舎の建つ方角へあごを振った。

「そうなんだ。洗い場に駆け込んだように見えたけれども?」

「うん、最初はそうだったんだ。何か顔を一生懸命洗っていたみたいだった。けど、途中で『だめだこりゃ』とか言って、出て行っちまって。散々騒いでおいて、さぼりかねえ? また怒られるぞ、あいつ」

「ふうん……。ありがとう。よし、一緒に叱られる準備をしてくるか」

「へ?」

 礼を言ってきびすを返し、プールの出入り口の方へ向かおうとする早川。塩見はどんぐり眼をきょとんとさせ、「どこ行くつもりだよ」と背中に声を掛けた。

「僕も行ってみる。連れ戻せそうなら連れ戻す」

「えー? 校舎のどこにいるのか分かるのかよ?」

「だいたいの想像は付いてるつもり」

「なら、任せるけど、喧嘩にならないように気を付けろよな」

「平気だと思う」

 最後の方は割と大きめの声でやり取りしてから、早川はプールの施設を出た。

 裸足に靴を履いて、運動場の端っこを通って、校舎を目指す。グラウンドでは大勢の児童が大掃除にいそしんでいて、そこを一人だけ、上半身裸で移動するのはさすがに恥ずかしさを覚えた。

(新倉も同じ気分を味わったのかな。それとも)

 建物の中に入ってから、早川は念のために頭の中で校舎の間取りを思い描き、保健室の場所を再確認した。

(多分、保健室だろう。もし違っていたら、教室に戻ってちり紙を使っているところかな)

 小走りになってしまいそうなところを抑制し、可能な限りスピーディな早歩きで廊下を行く。そこかしこで掃除をしているので、どうしても目に付いてしまうだろうが、いちいち言い訳をしていたら進めなくなる。ここは話し掛けにくい雰囲気を出しつつ、とにかく急いだ。

(やっと着いた)

 軽く息を弾ませ、保健室のドアに手を掛ける早川。開ける前にノックした。続いて、中へ聞いてみる。

「すみません。六年一組の早川と言います。こちらに同じクラスの新倉君が来ていると思うのですが」

「うん? ああ、来ているけれど。お迎えかい? 入ってかまわないよ」

 保健室内からは張りがあって元気のいい女性の声が返って来た。それに紛れて、「げ、早川?」というつぶやきが漏れ聞こえたような。

「失礼します」

 一礼したあと、面を上げると、丸椅子に腰掛け、顔を上向きにしている新倉と目が合った。決まりが悪そうな顔の新倉に対し、早川は想像が当たっていたと確認できたこともあり、にこっと微笑んだ。

 新倉は鼻の穴に入れたちり紙を手で隠しながら、「ふん」とそっぽを向く。

「あなた達、肌寒くはないわね? 窓、開け放したままだけど」

 保健の先生が言った。早川は名札で保健の先生が遠藤えんどうという名字だとこのとき初めて知った。

「大丈夫です。それで、新倉君の具合はどうなんでしょうか」

「うん、一応ライト当てて覗いてみたけど、もう止まりかけだし、あと五分、いえ、三分も経てば出て行っていいわよ」

 遠藤先生はペンライトのような物を手に持って示しながら、ざっと説明してくれた。

「それにしてもどこに顔をぶつけたのかしら。その格好からプール掃除だって分かるけれども、プールの壁? それにしてはおでこにも鼻の頭にも傷一つないし。新倉君、さっきから言わないのよねえ」

「へえ。何隠してんのさ」

 立ったまま、新倉の肩を揉む早川。新倉はますます嫌そうな顔をした。

「鼻血の原因ぐらいちゃんと言わないと、手当てしづらいだろうに」

「――おま、見てたのか」

 ごく小さな声でぼそりと聞き返す新倉。早川は静かに首肯した。そこへ遠藤先生が尋ねてくる。

「どうやら君はいきさつを知っていそうだね。何があったのかな? もしも転倒して後頭部を激しく打ったとかだったら、洒落にならないから、念のために聞かせてもらおうかしら」

「もちろん話します」

「おい、やめろっ」

 普段の音量に戻った声で、止めようとする新倉。腰を浮かせ、その腕で早川を引っ張る。だけど早川はかまわずに続けた。

「新倉君、女子がブラシでこすっていることに気付かないで、不用意に近付いちゃって、ちょうど女子の肘が鼻っ柱にごつんてなったんです」

「ええ?」

 瞬時に怪訝さを表情一杯に広げた新倉。

 新倉が見開いた目で凝視してくるのが、早川には感じ取れたが敢えて無視。新倉は仕方なげに首を捻った。

 そんながき大将とは対照的に、遠藤先生の方は合点がいったとばかりに幾度かうなずき、何やら資料めいた用紙に一言二言書き加える。

「なるほどね。年頃の男の子にとっちゃ、女子に肘打ちを食らって鼻血が出たなんて、言いにくいものかしらね」

「そんなもんです。肘打ちって別の意味にもなるし。――なっ、新倉君」

「あ、ああ」

 依然として訝りながらも、新倉もまた首を縦に振った。


「お世話になりましたー」

 三分後、鼻血が止まったということで、新倉と早川は保健室をあとにした。

「さあ、急いで戻らないと、プール掃除さぼったと思われる」

 言葉の通り、足早に行こうとする早川だが、その肩を新倉が黙って掴まえた。

「みんなのところに行く前に、説明しろよ」

「説明も何も……今見た通りでいいんじゃないか」

「……一つだけ、はっきり聞いておきたいことがあるんだよっ」

「分かった、聞くよ。だから手は離してくれるかい」

 求めに応じ、素直に手を下ろす新倉。

「鼻血が出たの、知ってた風だったけど、何で分かった?」

「それはまあ、君の正面に立ったとき、ちらっとだけど赤い物が見えた気がしたから」

「くそ。間に合ってなかったか」

「いやはっきりは見えなかったから確信は持てなかったけど、あのあと新倉君、洗い場に飛んでいったからさ。みんなに見られないように、水で流そうとしたんだなと」

「俺、自分で自分の首を絞めたってか」

「まあ、そうかも」

「……早川。おまえのことだから、何で鼻血が出たのかも分かってるんだよな」

「想像なら」


 つづく

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